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第十七話 神様お断り(前編)


 朝起きて、自分の家が「神棚」になっていたらどうする?

 俺はただ、雨風が凌げて、安酒の不味さがちょうどいい塩梅に感じられる、あの湿気た空間が欲しかっただけなんだ。

 ところがどっこい、昨夜の破壊神あかり様は、親切ごかしに「最高級の静寂」を俺の店にぶち込みやがった 


 「……嘘だろ」


 丈一郎は、昨夜の戦闘で粉々に砕け散ったはずの引き戸の前に立ち、力なく膝をついた。

 そこには、長年の湿気で建付けが悪くなり、開けるたびに「ガタッ」と不機嫌な音を立てていた、あの愛すべき木製の戸はなかった。


 代わりに鎮座していたのは、一点の曇りもない「屋久杉」の無垢材を用いた、重厚にして神々しい大扉だ。

 表面には、あかりの数珠と同じ銀の意匠が細工され、中心には数門の紋章が神々しく刻まれている。


 触れるだけで指先の「穢れ」を吸い取られそうなほどの清浄さを放っており、とてもじゃないが、昨日まで一円単位の損害賠償を叫んでいた男が手をかけていいシロモノには見えない。

 おそるおそる扉を引くと、滑るような無音で空間が開けた。


 「……なんだよ、これ。俺は『環古書店』を開けたはずだ。……なんで、異世界に繋がってやがるんだ」


 店内に一歩足を踏み入れた瞬間、丈一郎の鼻腔を突いたのは、カビの匂いでも、古い紙の脂が酸化したあの独特の重みでもなかった。

 刺すように冷たく、肺の奥まで強制的に消毒されるような、完璧に管理された「白檀とオゾンの香り」。


 かつて、雨漏りのシミが複雑な地図のように広がっていた天井は、漆喰の白が目に眩しい、幾何学的な曼荼羅模様に貼り替えられている。

 

 バラバラだった書棚は、すべてがミリ単位の誤差もなく整列し、あかりが文字通り呪力を込めて組み上げたであろう、樹齢数百年の霊木へと変貌を遂げていた。

 その棚の一つ一つから、微かに「キィィィン」という高周波の音が漏れている。

 それは、不浄な存在が近づくことを拒絶する結界の音だ。


 床を見れば、昨夜の戦いで散乱していた木片や、領収書の残骸など欠片もない。

 鏡のように磨き上げられた黒檀の床が、丈一郎のボロボロの半纏と、寝癖のついた情けない顔を冷酷なまでに鮮明に映し出している。


 壁の穴? そんなものは最初からなかったかのように、純白の漆喰で埋め戻されていた。

 お向かいのクリーニング屋の看板が見えていたあの「世俗的な風景」は、今や厚い壁によって遮断されている。


 「あら、おはよう環さん。……ずいぶんな顔をしているわね」


 カウンターの奥。


 本来なら、丈一郎が古い電卓を叩きながら溜息をついているはずのその場所に、あかりが静かに座っていた。

 彼女の纏う漆黒の僧衣が、純白にリフォームされた店内で、そこだけ空間が切り取られたような異常な存在感を放っている。


 彼女の前には、昨夜飲み残した「ぬるいビール」の代わりに、銀のトレイに乗せられた翡翠色の茶碗があった。立ち上る湯気さえもが、一定のリズムで揺れるように調律されている。


 「……お前。……これ、なんだ?」


 丈一郎の声は震えていた。


 感謝ではない。


 恐怖だ。


 この男の人生において、これほど「分不相応な美」に囲まれたことは一度もない。

 

 「あら、これは昨夜の無礼へのお詫びよ。数門の最高の技術を注ぎ込んで、あなたの『音』が最も美しく響くように、空間を再構築してあげたの。……見て、あそこの『宗教・哲学』コーナーを。本の背表紙たちが、歓喜に震えているわ」


 あかりが長い指先で示した先。


 かつては埃を被って今にも崩れそうだった全集たちが、棚自体から発せられる微弱な浄化の光に包まれ、まるで新品のような輝きを取り戻していた。

 それだけではない。背表紙のタイトル文字が、あかりの放つ魔力に同調するように、ゆっくりと脈動している。


 それはもはや「本」ではなかった。


 知識の泥を洗い落とされ、誰にも読まれることを拒む「聖遺物」に成り果てていた。


 「……モモ。おい、モモ! どこだ!」


 丈一郎が縋るような思いで相棒の名を呼ぶと、棚の最上段から「ミャーン」と、いつになくお上品な、それでいてどこか他人行儀な鳴き声が降ってきた。

 現れたモモは、埃だらけの毛並みが嘘のようにツヤツヤになり、その首には、あかりの数珠と同じ銀の鈴がついた首輪が巻かれている。

 あかりの前に飛び降りたモモは、主人の元へ寄るどころか、あかりが差し出した「金箔入り」の最高級精進出汁を、恍惚とした表情で、一滴もこぼさぬよう優雅に啜り始めた。


 「……モモ。お前、その鈴……。魂まで売り渡しやがったな。お前、昨夜まで俺の膝でヨダレ垂らしてただろ……」


 「ふふ。モモさんは、本質的な価値がわかるようね。……さあ、環さん。あなたのその汚れた半纏を脱いで、こちらへ。……この店は今、一塵の穢れも許さない『聖域』へと昇華されたの。ここにいれば、あなたは二度と、低俗な悩みに惑わされることはない。……私と一緒に、永遠に澄み渡る音の一部になりましょう?」


 あかりが立ち上がり、滑らかな動作で丈一郎へと歩み寄る。

 彼女が一歩歩くたび、黒檀の床からは小さな蓮の花の幻影が咲き、一瞬で消える。


 丈一郎は思わず後ずさった。


 背中が、新調されたばかりの「霊木の棚」に当たる。その瞬間「ギギッ」と、棚が不快な振動を起こした。

 まるで、丈一郎という「生活の垢が染み付いた不純物」が触れることを、空間そのものが拒絶しているかのような、物理的な圧力。


 視界が、真っ白に染まっていく。


 耳の奥で、あかりが奏でる「正しい音」だけが、暴力的なまでの美しさで反響し、丈一郎の思考を白濁させていく。


 (……ああ、そうか。……ここで膝をつけば、楽になれるんだな。金のこと、怪異のこと、明日のパンのこと……全部忘れて、この真っ白な世界に溶ければ……)


 あかりの手が、丈一郎の頬に触れようとした、その時だ。丈一郎の左腕で、黄金のバングルが、今までにない激しさで咆哮を上げた。

 それはあかりの調律を受けたものではない。


 丈一郎の心臓が、恐怖と、それ以上に込み上げてきた「猛烈な不快感」に呼応して打ち鳴らした、最高に泥臭い警告音だった。


 「……ふざけんな」


 丈一郎の喉から、声が漏れた。


 「……俺の腰が痛むのはな、昨日までこの店で泥臭く生きてきた証拠なんだよ。……モモの毛が汚れてんのは、俺が適当に撫で回して、一緒に安物の鰹節を分け合った跡なんだ。……この店に埃が溜まってんのは、俺の、面倒くさがりな歴史が積み重なってたからなんだよ!」


 丈一郎は、あかりの白い手を強引に振り払った。

 彼の内側に宿る「古本屋店主」の魂が、目の前の美しすぎる楽園を、最大の「異物」として認識していた。


 「……悪いがその『聖域』とやらは、俺には窮屈すぎて死んじまう」


 丈一郎は、半纏のポケットをまさぐった。


 そこには、賞味期限も怪しい、安タバコの吸い殻が詰まった携帯灰皿が入っている。


 「……これは俺の店だ。神様なんざ、一歩も通さねぇよ!」


 あかりの端正な眉が、わずかにピクリと動いた。


 彼女にとって、この清浄な空間は至高の善であり、丈一郎への「救済」そのものだった。

 混沌とした現世のノイズを排し、完璧な静寂の中に彼を閉じ込める。


 それが彼女なりの愛の形であり、慈悲だった。


 しかし、目の前の男はその「救い」を、ゴミ同然の生活遺物で汚そうとしている。

 その感性は、数門の次期門主候補たる彼女の理解の範疇を完全に超えていた。


 「……本気なの、環さん? 私と同じ高みへと昇れるというのに」


 「高みだぁ? あんたの言う『高み』ってのは、空気が薄すぎて俺みたいな小市民は窒息しちまうんだ!」


 丈一郎は叫ぶと同時に、ヨレヨレの半纏のポケットから、使い古された携帯灰皿を取り出した。

 蓋を弾き飛ばすと、中には昨夜のやけ酒の最中に押し潰された、安タバコの吸い殻と、真っ黒な灰がぎっしりと詰まっていた。


 丈一郎はそれを、鏡のように磨き上げられた黒檀の床へと、躊躇なくぶちまけた。

 パラパラと、乾いた灰と茶色い吸い殻が、一点の曇りもない漆黒の床に散らばる。

 その瞬間、店内の空気が物理的な悲鳴を上げた。


 「ギィィィィィィン!!」


 純白の漆喰壁が、まるで熱湯をかけられた氷のように激しく波打ち、天井の幾何学的な曼荼羅模様からバチバチと火花が散る。

 あかりが施した「聖域の結界」が、丈一郎が持ち込んだ『生活の毒』という異物に、過剰なまでの拒絶反応を起こしたのだ。


 「あら……不快だわ。せっかく私が整えた和音を、そんな物で掻き乱すなんて」


 あかりが冷たく呟き、首にかけた銀の数珠を一度だけ、鋭く指先で弾いた。

 すると、床に散らばった灰の周りに青白い炎が立ち上がり、それを「無」へと還そうと焼き尽くし始める。


 聖域に組み込まれた、自動洗浄機能オートクリーニングとも呼ぶべき浄化の術式だ。

 だが、丈一郎の反撃はこれだけでは終わらない。

 彼はカウンターの陰、古本の山の下に隠していた「最終兵器」を引っ張り出した。


 それは、昨夜の惨劇の際、食べる暇さえなく放置されていた、半分中身の残ったカップ麺の容器だ。

 汁は冷めきり、油が不気味に白く固まっている。具のナルトが虚しく側面に張り付き、化学調味料の匂いと、微かな腐敗臭が混じり合った、まさに「不摂生と世俗」の象徴。


 「……これでも食らえ! これが俺の血であり、肉なんだよ!」


 丈一郎は、そのドロリとした茶色の液体を、屋久杉で作られた重厚な大扉に向けて思い切りぶちまけた。

 高級な無垢材の表面を、ギトギトした醤油スープの油が汚らしく伝い落ちる。

 聖域の結界が「バチッ」と音を立てて火花を散らすが、あまりに俗っぽすぎる汚れに、術式自体が混乱をきたしたように明滅を始めた。


 「ナッ! (せっかくの『最高級・鰹出汁(金粉入り)』が台無しよ!)」


 俺に懐いていたはずのモモが、毛を逆立てて喉を鳴らした。首に巻かれた銀の鈴をチリンと鳴らしながら、丈一郎に爪を立てようとする。

 だが、丈一郎はモモの首根っこをひっ掴むと、その鼻先に吸い殻とカップ麺の混じり合った悪臭を突きつけた。


 「目を覚ませ、モモ! お前が本当に好きなのは、そんな透き通った精進出汁じゃねぇだろ! 俺が食い残した、塩分過多で身体に悪そうなこの汁を、俺の目を盗んで舐めるのがお前の至福だったはずだ。思い出せ、お前の魂は、俺と同じドブ川の色をしてるんだよ!」


 「……フニャッ!? (……あ、あぁ……この、本能を揺さぶる感じ)」


 モモの首の銀の鈴が、不協和音を立てて激しく震えだした。あかりの洗練された呪縛が、丈一郎が撒き散らす「日常の汚れ」という猛毒によって、目に見えて綻び始める。


 丈一郎はさらに攻勢を強めた。


 彼はわざと足を引きずり、新調されたばかりの霊木の棚に、脂ぎった指先をこすりつけた。 

 バングルから放たれる黄金の光が、今度はあかりの魔力を増幅させるためではなく、その「正しすぎる法則」を内側から食い破るためのノイズとして機能し始める。


 「……あかり、あんたの作る世界は、確かに綺麗だ。拝みたくなるほどにな。……でもな、綺麗すぎて『死』の匂いがするんだよ。本ってのはな、誰かの手脂がついて、ページが折れて、読み返されるたびに汚れていくもんなんだ。埃も被らねぇ、誰にも触らせねぇ本棚なんて、ただの墓場だ。俺は死人を並べて商売してるんじゃねぇ!」


 丈一郎の周囲で、バングルの環が猛烈な勢いで逆回転を始めた。周囲の「浄化の光」を強引に吸い込んだバングルは、輝きを失い、黒く、淀んだ色に変色していく。

 それは丈一郎がこの四十年、そしてこの古書店が数十年かけて蓄積してきた、人々の「未練」や「執着」の色だ。

 彼はその重々しく淀んだ力を拳に集め、店の中心にある、あかりが座るカウンターを激しく叩きつけた。


 ドォォォォォォン!!


 衝撃波が店内の「聖域」を真っ二つに裂いた。


 純白の漆喰壁に、まるで亀裂のような「生活のヒビ」が走り、そこから元のボロい壁紙が顔を覗かせ、あかりが持っていた翡翠色の茶碗が粉々に砕け散り、中の上品な茶が、丈一郎の撒いた灰と混ざり合って、汚らしい泥水へと変わって床を汚した。


 「……あなたは、本気で……このゴミ溜めを愛しているのね」


 あかりの瞳に、初めて「戸惑い」に似た色が浮かんだ。彼女には、目の前の光景が狂気にしか見えなかった。


 宝の山をわざわざゴミの山に戻そうとする男。


 だが、その男の音色は、かつてないほど力強く、そして「生きて」いた。


 「……当たり前だ。俺は掃除屋だがな、この店の『汚れ』だけは、誰にも掃除させねぇんだよ!」


 丈一郎は、唾を床に吐き捨てた。


 黒檀の床が、その不浄な飛沫を受けて激しく明滅し、バチバチと火花を上げながら、元の「使い込まれた安っぽい合板」へと先祖返りを始めていた。

 店内に充満していた白檀の香りは、丈一郎の汗と、安タバコの煙と、カップ麺の腐敗臭によって、無残に塗りつぶされていく。

 

 丈一郎にとっての、世界でたった一つの、帰るべき場所だった。


 「……さあ、あかり。お前の『お上品なリフォーム』は終わりだ」


 丈一郎の背後で、モモが首の銀の鈴を自らの爪で強引に引き千切った。

 

 「……ナァ!」


 三毛猫が牙を剥き、主人と共に、完璧すぎる美の化身へと、真っ向から反旗を翻した。

【作者より】

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

いかがでしたでしょうか。

ここからさらに密度を増し、物語は熱く広がっていきます。


皆様から届く感想やブックマーク、評価のひとつひとつが、彼らをより遠くへ走らせるための何よりの「ガソリン」になります。

「早く続きが読みたい!」と思っていただけるよう、全開で執筆していきますので、ぜひ物語の同行者としてこれからも応援よろしくお願いいたします!

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