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第十六話 安ビールの泡は消える(後編)

【作者より】

本日も数ある作品の中から本作を開いていただき、ありがとうございます。

丈一郎とモモの旅路はさらに加速し、物語は熱を帯びて広がっています。


読者の皆様からいただく感想やブックマークこそが、僕がペンを走らせるための最高の「ガソリン」です。

「この先の展開も気になる!」と思っていただけるよう全力で執筆していきますので、ぜひ二人の旅の同行者として、末永く応援していただけると嬉しいです!


 吹き飛んだ外壁の向こう、夜の帳が下り始めた商店街の路地裏から、地響きのような唸りが上がった。


 「……よもや、これほどまでに汚濁に塗れた拳に、我が『五雷』の法が押し負けるとはな」


 土煙の中から、煉がゆっくりと立ち上がる。


 数門の僧衣は無惨に裂け、剥き出しになった胸元には、丈一郎のリングが刻んだ「黄金の火傷」が、いまだにパチパチと音を立てて空間を灼いていた。


 だが、その瞳に宿る光は消えていない。


 それどころか、エリートとしての矜持を粉砕された屈辱を燃料にした黒い殺気が、彼の周囲の空気を物理的な重圧へと変質させていく。


 「環丈一郎。貴様の技には、数門のような洗練も、経典のような高潔さも欠片ほどもない。あるのはただ、生き汚い獣の足掻きと、金を惜しむ浅ましさのみ」


 煉が錫杖を頭上で旋回させると、砕けたコンクリートの破片や、店から溢れ出した古本の残骸が、磁石に吸い寄せられるように彼の周囲で渦を巻いた。


 「『五雷・冥動めいどう』。……あかり様、下がってください。ここからは試験ではない。教団の不利益となる『異端』の駆除です」


 「あら。煉、あなたにそんな許可を出した覚えはないわよ?」


 あかりは、丈一郎の背後で、壊れたカウンターの残骸に腰を下ろしたまま、退屈そうに数珠を弄んだ。

 だが、その声には抗いようのない冷徹な支配力が宿っている。


 「環さんの奏でるこの音は、私だけのもの。……あなたがそれを壊すというのなら、先に私が、あなたの『音』を永久に奪ってあげましょうか? その無音の静寂の中で、永遠に懺悔しなさい」


 「……ッ!」


 煉の身体が、一瞬で凍りついたように硬直した。


 あかりの数珠が放つ「静寂」が、彼の殺気を、あるいは心臓の拍動すらも、一瞬だけ物理的に静止させたのだ。数門の序列という名の絶対的な枷が、煉の肉体を縛り付ける。

 丈一郎はその隙に、震える脚を強引に叩いて立ち上がった。だが、その瞳は煉を見てはいなかった。


 「……おい、内輪揉めは他所でやってくれ。……それより、あかり。さっきから気になってたんだが、外の影……」


 丈一郎の視線の先、煉が突き破った壁の穴から、夜の街の光をすべて飲み込むような「深すぎる闇」が、音もなく店内に侵入し始めていた。


 それは情報の泥などという生易しいものではなかった。


 長年、この古書店の床下に、あるいは壁の隙間に、歴代の主たちが「掃除」しきれずに押し込めてきた、数十年分の『未練』と『忘却』。

 あかりの過剰な浄化の光と、煉の暴力的な重低音が、この建物の底に眠っていた、古書店の精霊というにはあまりに歪な、巨大な怨念を呼び覚ましてしまったのだ。


 「ギチ……ギチギチ……」


 建物の構造材が、悲鳴を上げるような音を立てる。

 闇は実体を持ち、無数の「古い活字」を鱗のように纏いながら、巨大な、顔のない巨人のような形を成していく。

 その身体からは、捨てられた日記の怨嗟や、売られた専門書の未練が、ノイズとなって溢れ出していた。


 「……はは、笑えねぇ。……湿気と一緒に、得体の知れないもんまで溜め込んでやがった」


 丈一郎の腕のバングルが、今までにない激しさで咆哮を上げた。


 「店が、店が丸ごと呑まれる! 在庫が全部ただの紙屑になっちまう!」


 「……ダメよ、環さん」


 あかりの声が、ふいに耳元で響いた。


 いつの間にか、彼女は丈一郎の背後に密着していた。白檀の香りと、彼女の凍てつくような体温が、丈一郎の皮膚を麻痺させる。


 「今のあなたには、この闇は払えない。……なぜなら、これはあなたの『未練』そのものだから。この店を愛し、捨てられず、守り続けようとした、あなたの不自由な心が育てた影。……これを払えば、あなたの古書店の歴史も、すべて消えてしまうわ。あなたは、ただの無職な男になってしまう」


 「……っ、そんな理屈、知ったことか! 俺にはこれしかねぇんだよ!」


 「いいえ、知るべきよ。……ねえ、環さん。すべて捨ててしまいなさい。このボロい店も、重いローンも、猫のモモさんも、全部。……そうすれば、あなたは真の意味で、私の最高の『楽器』になれる。数門の頂で、私と共に、この世のすべてを調律する音になるのよ。それは、この湿気た店でカップ麺を啜る生活より、ずっと価値のあることだと思わない?」


 あかりの細い指が、丈一郎の首筋を優しく、だが逃げ場を奪うように這う。

 その指先が触れる場所から、丈一郎の「生活の重み」が吸い取られ、心地よい虚無に誘われていく。


 その瞬間、店内の時間が止まったかのような錯覚に陥った。


 外では煉が怪異を屠ろうと無理やり身体を動かし、目の前では店の影がすべてを飲み込もうと顎を開き、背後ではあかりが、救済という名の破滅を囁いている。

 

 (……冗談じゃねぇ。……捨てられるわけねぇだろ。本のローンも、思い出も、このカビ臭い空気も……。全部俺が、俺だけが背負ってきた『重り』なんだよ! これがなきゃ、俺は俺じゃねぇんだ!)


 丈一郎の心臓が、あかりの洗練された調律を拒絶するように、激しく、不揃いなリズムで打ち鳴らされた。


 「……どけ。……俺は、あんたに奏でられるためにあるんじゃない」


 丈一郎はあかりの白い手を強引に振り払い、闇の巨人の懐へと、無謀にも飛び込んだ。

 黄金のリングが、絶望的な暗闇の中で、消え入りそうな、だが決して消えない「ロウソクの火」のような、必死で泥臭い輝きを放ち始めた。


 それは高潔な宗教音楽でも、洗練された術理でもなく、泥にまみれ、喘ぎながらも明日の一円を掴もうとする、最高に耳障りで、最高に人間らしい「不協和音」だった。


 あかりの瞳が、その予想外の輝きに、歓喜とも驚愕ともつかぬ色で大きく見開かれた。


 「……るせぇんだよ!」


 丈一郎の喉から、咆哮が突き出た。


 あかりが提示した「救済」それは、すべての重荷を下ろして彼女の愛という名の虚無に身を委ね、洗練された「楽器」へと堕すること。

 だが、丈一郎にとって、このカビ臭い古書店も、終わらないローンの督促状も、膝の上で喉を鳴らす生意気な三毛猫も、すべては彼という人間をこの過酷な現世に繋ぎ止めるための「重り」であり、彼が彼であるための絶対的な証明だった。


 丈一郎は闇の巨人の中心、もっとも色濃い『忘却』の核心へと、黄金の光を纏った右拳を叩き込んだ。


 「……奥義『日銭稼ぎ』!!」

 

 それはもはや、数門が尊ぶような気高い術理ではない。今日を泥を啜ってでも生き延び、明日の一円を泥棒からでも毟り取ろうとする、生存本能そのものが形を成した、剥き出しの衝撃波だ。


 バングルのリングが、あかりの魔術的な増幅アンプを完全に拒絶し、丈一郎自身の激昂した拍動、不規則で、卑屈で、だが力強いリズムに呼応して、黄金の光を狂ったように撒き散らす。

 その音色は、美しく整えられた宗教音楽などではなく、錆びた鉄が軋み、濁った水が奔流となってすべてを押し流すような、最高に耳障りな「人間の音」だった。


 ドォォォォォォン!!


 闇の巨人が内側から物理的な破裂を起こした。数十年分の未練と忘却が、丈一郎の「今の怒り」によって強引に上書きされ、ただの古い紙の匂いとなって霧散していく。

 同時に、その破壊的な余波が、外壁の向こうで再起を狙っていた煉を直撃した。


 「な……何だ!? これほどまでに不快で、これほどまでに……重苦しく、力強い……っ!」


 煉は錫杖を杖代わりにして衝撃を逃がそうとしたが、丈一郎が放った「生活の重圧」そのものを込めた衝撃波に抗う術はなかった。

 五雷の僧兵は、骨を軋ませながら、商店街の闇の彼方へと、無様に転がり飛ばされていった。


 静寂が戻る。


 いや、それは本当の静寂ではなかった。


 崩れた壁の隙間から吹き込む冷たい夜風の音、遠くの大通りを走る深夜トラックのエンジン音、そして。


 「ミャー(腹減った。鰹節の続きだ)」


 瓦礫の山となった棚の上で、何食わぬ顔で毛繕いを再開したモモの、傲慢な鳴き声。


 「……はは、全損だ。……笑えねぇぞ、これ」


 丈一郎は膝から崩れ落ち、瓦礫の山となった店内を見渡した。

 『宗教書売り出しキャンペーン』の赤いPOPは無残に引き裂かれ、昨日まで一冊ずつ丁寧に埃を払った全集の半分は、修復不能なまでにページが四散している。


 彼の一ヶ月の労働、数万円の利益、そして安息の晩酌が、文字通り塵へと変わっていた。

 

 背後で、あかりがゆっくりと立ち上がった。


 その白い僧衣には、塵一つ、煤一点すら付いていない。彼女だけが、この凄惨な破壊現場において、依然として高解像度の宗教画のように浮き上がっていた。


 「……素晴らしいわ、環さん。私の調律を力技で振り払い、あんなにも汚れた、泥のような不協和音で闇を払うなんて。……ますます、あなたを壊したくなったわ。その不自由な肉体を引き裂いて、私の数珠の音色に一珠、加えてあげたい」


 あかりの瞳には、以前よりも深く、昏く、そして正気とは思えないほどの歪んだ情熱が宿っていた。

 彼女にとって、丈一郎の拒絶すらも、極上の音楽を楽しむための「転調」に過ぎないのだ。

 彼女はゆっくりと丈一郎の元へ歩み寄り、その頬に、氷のように冷たく、だが羽毛のように優しい指先で触れた。


 「今日のところは、この辺にしておくわ。煉の負け惜しみを聞くのも退屈だし……。でも、忘れないで。あなたのすべてを奪うのは、他の誰でもない、私よ。……おやすみなさい、私の愛しい楽器さん」


 あかりはそう言い残すと、白檀の香りを夜風に溶かすようにして、音もなく闇の中へと消えていった。

 嵐が去った後の店内には、ボロボロになった中年男と、現金な三毛猫、そして吹きさらしの夜だけが残された。


 丈一郎は震える手で、カウンターの端、辛うじて生き残っていたビールの缶を掴んだ。


 「……あー、ぬるい。……最悪だ。……明日からどうやって営業しろってんだよ」


 一口煽ったビールは、驚くほど苦く、そして砂と鉄の味がした。


 「……あかりの奴に、しっかり実費で請求書送るか?慰謝料と、壁の修繕費と、ビールの買い直し代もだ」


 「ミャー(利子もつけろ。あと高級缶詰もだ)」


 丈一郎は、月明かりが差し込む、寒々しい壊れた店内で、力なく笑った。

 明日もまた、生きるために「掃除」をし、汚れた手を洗って金を稼がなくてはならない。


 その世知辛く、愛おしい日常が続く限り、彼の黄金のバングルが止まることはないのだ。



 あー……。結局、ビールは一滴も喉を通りませんでした。砂埃が混じったぬるい液体なんて、神様だって飲みゃしません。

 

 それにしても「日銭稼ぎ」が奥義になっちまうんだから、俺の人生もたかが知れています。 


 とりあえず、明日。


 あかりの組事務所……じゃなかった、「数門」の総本山に、特注の「全面大理石(時価)」で算出した修繕費の請求書を速達で叩きつけてやります。


 もちろん、迷惑料とビールの実費も込みで。

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