表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/38

第十五話 安ビールの泡は消える(前編)

 カビと埃。それに安タバコの煙。

 俺の肺に馴染んだこの「貧乏な匂い」こそが、唯一の安息だったはずなんだ。

 店の修繕もようやく終わりが見え、昨日なんて珍しく全集が二セットも売れた。

 夕飯に発泡酒じゃなく、本物のビールを一本つけるくらいの贅沢は、神様だって許してくれるだろう。

 だが、……嫌な予感しかしない。


 このビールの泡が消える前に、俺の平穏も泡となって消えそうな気がしてならないんだ。


 「……帰れ」


 丈一郎は、手に持ったビールの缶をカウンターに置くことさえ忘れ、喉の奥から絞り出すような低い声で言った。

 

 引き戸は開いていない。


 三つある防犯用の鍵も、指先に残る金属の冷たさを思い返せるほど、確実に閉めたはずだった。

 だというのに、古本の迷宮と化した「環古書店」の最奥、最も日当たりの悪い『宗教・哲学・精神世界』コーナーの、天井まで積み上げられたカビ臭い全集の影から、それは音もなく滲み出してきた。

 

 漆黒の僧衣。


 一点の曇りもない白磁のような肌。


 そして、肺の深部まで凍てつかせるような、冷たく鋭い白檀の香り。

 国内最大規模の宗教組織「数門すうもん」の次期門主候補、四方あかりが、そこに立っていた。


 彼女が立つ場所だけ、埃の舞うことさえ許されないほど空間の解像度が異常に高い。

 古い紙の脂やカビに汚れた現実の中で、そこだけが異常なほど清浄に切り取られ、高精細な宗教画をはめ込んだような違和感を放っている。


 彼女の存在そのものが、この湿気た店内にあってはならない「不純物」だった。


 「あら。ずいぶんと湿気た再会ね、環さん。……でも、その動揺した拍動リズム、以前よりも深みが増していて、とても心地よいわ」


 あかりはそう言うと、首にかけた数珠の、銀のビーズを、長い指先で慈しむように撫でた。

 彼女がゆっくりと歩を進めるたび、店内の重苦しいカビの匂いは「浄化」という名の暴力によって強制的に剥ぎ取られ、冬の早朝の針葉樹林に放り込まれたような、刺すような冷気が空間を支配していく。


 一歩ごとに、丈一郎が築き上げてきた「世俗の安らぎ」が、白檀の香りに塗りつぶされていく。


 丈一郎は投げやりに鼻を鳴らし、節くれだった指で腰の痛みを誤魔化すようにカウンターに寄りかかった。だが、背中を伝う嫌な冷や汗までは隠しきれない。


 黄金のバングルが、彼女の纏う「音」に過剰に共鳴し、服の袖の下でピクリ、ピクリと不気味に脈打っている。


 「……あいにく、うちは今『宗教書売り出しキャンペーン』の真っ最中だ。怪しい救いのチラシを置くスペースもねぇ。言っておくが、あの金塊はまだ一円にもなっちゃいねぇんだぞ」


 「ナッ(!)」


 それまで丈一郎の膝の上で、主人の貧乏臭い体温を享受しながら惰眠を貪っていた三毛猫のモモが、飼い主の動揺などどこ吹く風で飛び降りた。

 しなやかな動作であかりの元へと駆け寄ると、彼女の僧衣の裾に、聞いたこともないような媚びた鳴き声を上げて顔を擦り付け始めた。


 「あら、いい子ね、モモさん。……最高級の鰹の血合いを、じっくり低温乾燥させたものよ。あなたの鳴き声は、いつ聴いても素直で純粋な音だわ」


 あかりが懐から取り出した銀色の小袋を差し出すと、モモは恍惚とした表情でそれを横取りし、バリバリと下品な音を立てて食べ始めた。 


 三毛猫としてのプライドも、長年連れ添った飼い主への義理も、最高級の削り節の前には一銭の価値もなかったらしい。

 丈一郎は、自分の相棒が安易に買収される姿を見て、胃の底が重くなるのを感じた。


 「……おい、モモ。お前、その魂の安さは誰に似たんだ。一週間、一番安い特売の、石ころみたいなカリカリにするからな」


 丈一郎の虚しい抗議を無視し、あかりはゆっくりと距離を詰め、カウンター越しに彼の顔を覗き込んだ。

  白檀と、落雷の後に残るようなオゾンの香りが、丈一郎の聖地を物理的な質量を持って蹂躙する。


 「……あなたの奏でる音を、ずっと聴いていたのよ、環さん。最近、少し 私の耳には、縮こまっているように聴こえるわ。その抑圧された「音」が、私の数珠を疼かせるの。……もっと、私にあなたの軋みを聴かせて?」


 「……この間の純金の延べ棒な。あれ、試しに質屋に持っていったら『出所不明の高額な金は扱えん、お引取りを』って、犯罪者を見るような目で追い返されたぞ。ただの重い漬物石だ、ありゃ。……あんたの持ってくる『価値』ってやつは、俺みたいな日銭を稼ぐ人間には毒でしかねぇんだ」


 丈一郎が忌々しげに吐き捨てると、あかりは「フフッ」と、感情の温度を欠いた、だがどこか艶のある声を漏らした。彼女の瞳には、熱い、だがどこか歪んだ光が宿る。

 それは「恋」と呼ぶにはあまりに鋭く、信仰と呼ぶにはあまりに偏執的で、狂気に満ちていた。


 「あら、それは残念。……でも、大丈夫。今日は、もっと『実質的な価値のある話』を持ってきたわ」


 あかりが数珠をジャラリと鳴らす。


 その瞬間、店内の空気がひび割れるような音を立てて歪んだ。

 入り口の引き戸の隙間から、ドロリとした「黒い影」が、生き物のような意志を持って這い入ってくる。


 影の中から現れたのは、あかりと同じ漆黒の僧衣を纏いながらも、その袖口を荒々しく捲り上げた、鋼のように引き締まった肉体を持つ男だった。


 男の首筋には、数門の戦闘部隊「五雷ごらい」の紋章が刻まれている。

 その眼光は鋭く、丈一郎を「人間」としてではなく、排除すべき「障害物」として定めている。


 「門主候補・四方あかり様。……この『環家』の男が、我ら数門が求めている人物だと言うのですか? 見たところ、ただの腰の抜けた中年売文家に見えますが。……この程度の男に、我ら五雷の席を用意するなど、冗談が過ぎる」


 男、れんが放つ殺気が、店内の埃を物理的に押し退ける。あかりは満足げに目を細めた。


 「ええ……環さん、これは私の個人的な情熱だけではないの。数門は正式にあなたを『特別一級掃除屋』として招待したい。……これはそのための、通過儀礼よ。あなたが組織に相応しい『音』を奏でられるか、この煉が直々に確かめるわ」


 丈一郎の左腕で、黄金のバングルが猛烈な勢いで回転を始めた。


 「キィィィィン」という高音が、店の窓ガラスを内側から震わせ、店内に充満するカビの胞子さえも一瞬で弾き飛ばす。


 「……スカウトだかテストだか知らねぇが、俺は個人事業主だ。組織の犬になるつもりはねぇ」


 丈一郎は観念したように、ぬるくなり始めたビール缶をカウンターの端に置き、ヨレヨレの半纏を脱ぎ捨てた。世知辛い平穏な晩酌は、白檀の香りと共に、再び暴力的な「セッション」へと塗り替えられていく。

 脱ぎ捨てた半纏の下、丈一郎の瞳からは世俗の濁りが消え、深淵を覗き込むような「掃除屋」の冷徹な光が宿り始めていた。


 黄金のリングが、獲物を屠るための鋭利な牙として、闇の中で不気味に回転を速めていく。


 「……チッ、帰れよ」


 丈一郎がぼやいた瞬間、煉の姿が網膜から掻き消えた。

 

 物理的な移動速度ではない。


 数門の僧兵が秘術として用いる「縮地」周囲の空間の震動を自身の歩法と同調させ、他者の認知から一時的に『位相をずらす』高度な歩法だ。

 直後、丈一郎の背後、宗教書コーナーの死角から、鋼が空気を切り裂く鋭い音が響いた。


 「遅い」


 煉の声は、まるで至近距離で寺の鐘を叩かれたような、重く痺れる響きを伴っていた。

 彼の手には、錫杖しゃくじょうの先端に黒い鎖が連結された、古武術の「鎖鎌」を数門流にカスタマイズした多節棍が握られている。 


 その黒い環の一つ一つが、あかりの数珠とは対極にある、どろりと重い『低周波の濁流』を撒き散らしていた。


 「おっとぉ!」


 丈一郎は脊髄反射で腰の痛みをねじ伏せ、カウンターを飛び越えるように前方へ転がった。

 直後、彼が先ほどまでいた場所を、重力の塊のような黒い鎖が薙ぎ払う。

 厚さ三センチの堅牢な木製カウンターが、まるで乾いたウエハースのように無惨に粉砕され、昨日まで夜なべして整理した未精算の伝票が、破片と共に雪のように舞い散った。


 「あああ! 俺の、俺の確定申告用の領収書が! あかり、今の見ただろ! 全損だぞ、過失割合十対ゼロだかんな!」


 「ふふ、いいわ環さん。その絶望が混じった叫び、心拍数が跳ね上がって、黄金の環に最高の『熱』が伝わっているわ」


 あかりは戦火の真っ只中に立ちながら、恍惚とした表情で首の数珠を弄んでいる。

 彼女の周囲だけは、飛び散る木片一つ届かない絶対的な静域。


 その「格差」が、丈一郎の不条理への怒りに油を注いだ。丈一郎の左腕で、黄金のバングルが六つの環に分裂し、磁気浮上するように空中を自在に泳ぎ始める。


 「人の家をなんだと思ってんだ!」


 丈一郎は空中に固定された二つのリングを、目にも止まらぬ速さで「踏み台」にして垂直に跳ね上がった。重力に逆らうその動きは、古武術に伝わる独自の重心制御。

 彼は空中でさらに三つのリングを煉の頭上へと射出する。リングは煉の周囲で急速回転を始め、彼の四肢を拘束しようとする。


 だが、煉は鼻で笑うと、錫杖を地面に垂直に突き立てた。


 「……貴様の音は、世俗に塗れて濁りすぎている。浄化されるべきは、その卑屈な魂だ」


 黒い錫杖から放たれた物理的な重低音が、店の床板を生き物のように波打たせた。

 丈一郎が足場にしていたリングが、その「濁った音」の干渉を受け、ガラスが割れるような音を立てて弾け飛ぶ。


 「ぐ、あ……っ!」


 足場を失った丈一郎の身体が、一瞬、無重力状態のように宙に浮く。

 そこへ、煉の錫杖がしなるような速度で喉元を狙って迫る。


 「終わりだ。数門の理に屈せよ」


 だが、杖が丈一郎を貫く直前、あかりが銀の数珠の一珠を、親指で弾くように強く叩いた。


 ジャラッ!


 「『黄金共鳴バングル・アンプリファイ』。……まだよ、煉。彼の音は、まだ『鳴り始めた』ばかりなんだから。私の心臓リズムに、もっと寄り添って?」


 あかりの声が響いた瞬間、丈一郎の腕に残っていた最後のリングが、青白く、太陽のように発光した。

 バングルから溢れ出した、あかりの魔術的な増幅による膨大なエネルギーが、丈一郎の全神経に「過剰なスペック」を強引に叩き込む。


 視界が、不自然なほど静謐なスローモーションに変わった。


 煉の錫杖が描く不可視の軌道、その先端にある黒い鎖が放つ音の「淀み」、さらには背後でモモが最高級の鰹節を咀嚼する「サリサリ」という音までもが、異常な解像度で脳に流れ込んでくる。


 (バカ女、血管が、筋肉が千切れる!)


 丈一郎は全身の毛穴から血が滲み出るような過負荷に耐えながら、空中で身体を無理やり反転させた。

 彼は煉の錫杖を左手で強引に掴み取ると文字通り、皮膚が焼ける音を立てながら、あかりの増幅によって極限まで研ぎ澄まされた右拳を、煉の胸元へと突き出した。


 拳の先に、分裂していたすべてのリングが収束し、真空を削り取るような「ドリルのような渦」を形成する。


 「……これは、店の修繕費! これは、飲みそびれたビール代! そしてこれは、お前らの勝手な理屈への……慰謝料だ、ボケェ!!」


 「なっ……数門の理を、力技で上書きしたというのか……!?」


 煉の無機質な瞳に初めて、剥き出しの驚愕が浮かぶ。


 ドォォォォォォン!!


 音速を超えた衝撃波が古書店内を吹き抜けた。


 情報の泥と、煉の重低音によって歪められていた空間の磁場が、丈一郎の一撃によって無理やり「正常な音」へと叩き直される。

 煉の巨体が、背後の『歴史・民俗学』コーナーの頑丈な書棚を十数メートルにわたって薙ぎ倒しながら、店の外壁を突き破って屋外へと吹き飛んでいった。


 土煙が舞い、静寂が戻る。


 店の中心には、肩で息をする、血にまみれた丈一郎が立っていた。


 「……あー、あー……。壁、貫通しちゃったよ。お向かいのクリーニング屋まで見えやがる。……これ、あかり、お前の組織の保険、対物でちゃんと下りるんだろうな?」


 「素晴らしいわ、環さん。……その、今にも死にそうなのに、金と世間体を優先させる卑屈で美しい音色……。まさに、私が求めていた『高潔なる不協和音』だわ」


 あかりは、壁の向こうへ消えた煉の安否など微塵も気にする様子もなく、満足げに、そして獲物を見つけた狩人のような瞳で丈一郎に歩み寄った。


 丈一郎は膝をつき、壊れたカウンターと、ぬるくなったビールの缶を見つめて、ただただ虚空を仰いだ。

 勝利の余韻など一円にもならないことを、彼は痛いほど知っていた。

【作者より】

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

いかがでしたでしょうか。

ここからさらに密度を増し、物語は熱く広がっていきます。


皆様から届く感想やブックマーク、評価のひとつひとつが、彼らをより遠くへ走らせるための何よりの「ガソリン」になります。

「早く続きが読みたい!」と思っていただけるよう、全開で執筆していきますので、ぜひ物語の同行者としてこれからも応援よろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ