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第七章 憧れの重さ

第七章は、手術室が舞台です。

大動脈弁置換術の人工心肺管理中、アラームも鳴らず正常範囲内の数値の中に、アキだけが「傾き」を見つけます。根拠は数字ではなく、推移です。この判断がアキの仕事の核心を示す場面になっています。

そして一ノ瀬先生の海外赴任、ユウからの言葉——アキの二月が、静かに動く章です。

 年が明けて一月、手術室は一年で最も緊張感が高い場所のひとつになる。

 年末年始の急患対応が落ち着き、待機していた予定手術が一斉に動き出す。心臓血管外科の手術件数も、この時期に集中する傾向があった。体外循環を要する手術では、CEが人工心肺装置の操作と管理を担う。アキにとって、この季節は一年の中で最も体が動く時期でもあった。技士長補佐になってからも、手術室への入室だけは譲らなかった。管理職の仕事がどれだけ積み重なっても、人工心肺装置の前に立つことは、アキの仕事の根っこだった。

 その日の手術は、大動脈弁狭窄症(大動脈弁の開きが悪くなり、心臓から全身への血液の流れが妨げられる疾患)に対する弁置換術だった。執刀は一ノ瀬凌。アキが人工心肺装置を担当した。

 手術開始から四時間。

 人工心肺装置の送血流量を維持しながら、アキは一定のリズムで装置を監視していた。灌流圧(体内を循環する血液の圧力――適切な範囲に保つことで全身の臓器への酸素供給を維持する)、SvO₂(全身で酸素がどれだけ消費されているかを示す)、ACT。数値を読み、手を動かし、記録する。その繰り返しだ。

 一ノ瀬が低い声で言った。「送血圧、少し上げろ」

 「はい」

 アキはローラーポンプの回転数を微調整した。送血圧の上昇に伴い、灌流圧が目標値に戻る。一ノ瀬の手が止まらない。縫合の手技が続く。執刀医の要求に、装置の数値がぴたりと応える。そのやり取りに、無駄がない。

 手術中盤、アキの指が一瞬だけ止まった。

 ACTの値が、下限に近づいていた。ヘパリン(血液凝固を抑制する薬剤)の追加投与を判断するタイミングだ。しかし体温が想定より早く下がっていた。低体温状態では薬効が延長されるため、追加投与が遅れても問題ないという判断もある。追加すべきか、待つべきか。声をかけようとして、一瞬止まった。手術野は縫合の最中だ。でも、麻酔科医の村上が隣にいる。

 アキは小声で言った。「ACT、下限近いです。体温が低いのでもう少し待ちます。よろしいですか」村上がちらりと画面を見て、うなずいた。

 一ノ瀬の手が止まらない。メスが動いている。縫合の糸が走る。手術野には一ノ瀬の集中だけがある。声をかけるべきか。いや、今は判断する時間だ。アキは数値を見た。体温、三十二度。ACT、百八十二秒。下限まであと十秒分の余裕がある計算だ。待てる。

 アキは追加投与を少し遅らせた。ACTは下限ぎりぎりで持ちこたえ、その後緩やかに回復した。一ノ瀬の手が止まることはなかった。縫合が終わった。

 その瞬間、アキの目が止まった。

 膜型人工肺(血液に酸素を供給し二酸化炭素を除去する装置内の部品)の前後圧力差を示す数値が、ほんのわずかに、上昇していた。変化幅は五mmHg(水銀柱ミリメートル――圧力の単位)に満たない。アラームの閾値には遠く届かない。正常範囲の内側だ。画面上は、何も異常を示していない。

 だが、アキには見えた。

 三時間前の値と比べると、じわじわと、確実に上がってきている。単独の数値では気にならない。しかし推移として見ると、傾きがある。血栓が膜に付着し始めているとすれば、この先、急激な圧力上昇に転じる可能性がある。離脱の途中でそれが起きれば、体外循環を再開できない最悪の状況になりかねない。

 声をかけるべきか。

 アラームは鳴っていない。数値は正常範囲内だ。この段階で「異常の可能性があります」と言えば、根拠を問われる。答えは「傾きです」になる。それで動いてもらえるか。

 アキは一秒だけ迷った。一秒で、判断した。

 「一ノ瀬先生」

 手術室が静止した。離脱前のこの時間に、CEから声がかかることは、まずない。

 「膜型人工肺の前後差圧、過去三時間の推移を確認していただけますか。アラームレベルではありませんが、傾きがあります。離脱前に確認しておきたい」

 一ノ瀬が振り向いた。目だけが動いて、アキのいる装置の方を見る。

 「数値を出せ」

 アキはパネルを操作して、過去三時間の圧力差のトレンドグラフをモニターに映した。緩やかだが、右肩上がりの曲線が並んでいる。

 手術室が、ひと呼吸分、静かになった。

 麻酔科医が口を開いた。「アラームは出てないが」

 「出ていません」アキは言った。「ただこの傾きが続けば、離脱中に閾値を超える可能性があります。今なら回路のフラッシュで対応できます。離脱の途中では——」

 「できない」一ノ瀬が静かに言った。「わかった。フラッシュしろ」

 「はい」

 アキは回路内に生理食塩水(体液に近い成分の液体で、回路内の洗浄などに使用する)を流して膜面を洗浄した。圧力差の数値が、数秒後に落ち着いた。傾きが、消えた。

 「完了しました。前後差圧、安定しています」

 一ノ瀬が短くうなずいた。それだけだった。

 「離脱、始めろ」

 アキは手を動かした。

 体外循環の離脱とは、機械が代わりにやっていた心臓と肺の仕事を、少しずつ本人に返していく作業だ。流量を段階的に落とす。心臓が自分で動き始めるのを待つ。動き始めたら、さらに流量を落とす。その繰り返しで、機械の助けをゆっくりと引いていく。

 モニターの波形を見た。心電図が、細かく震えている。まだ機械が補っている。灌流圧を確認する。流量を一段階落とす。

 心電図の波形が、少しずつ整ってきた。

 心臓が、動こうとしている。

 アキはさらに流量を落とした。波形が乱れないか、一秒ごとに見る。乱れない。また落とす。また見る。手術室に、誰も余分な声を出さない時間があった。一ノ瀬の目がモニターを見ている。麻酔科医の指が、別のパネルの上で静止している。全員が、同じものを待っていた。

 流量がゼロになった。

 機械が止まった。

 心電図の波形が、規則正しく、自分の力で打ち続けていた。

「離脱、完了です」

 アキは言った。声が、思いのほか平静だった。でも胸の中では、毎回同じことが起きる。止まっていた心臓が、また動き始めた。この瞬間だけは、何年経っても慣れない。慣れてはいけないと、アキは思っている。

 手術は予定どおり終了した。


 術後、記録をまとめていると、麻酔科医の村上が隣に来た。四十代で、普段は寡黙な人間だ。

 「さっきの、よく気づいたな」

 アキは顔を上げた。

 「三時間のトレンドを頭に入れてなきゃ、見えない変化だ」村上が言った。「アラームが鳴ってから動くのとは、わけが違う」

 アキは少し間を置いた。「気づかなかったら、どうなっていましたか」

 「離脱の途中で膜が詰まっていたかもしれない。そうなれば体外循環を再開するか、最悪の場合は——」村上が言葉を切った。「まあ、気づいたからよかった」

 アキは記録に視線を戻した。

 画面の中に、さっきまでの圧力差のグラフが残っている。緩やかな上昇と、フラッシュ後の急落。アラームは、最後まで鳴らなかった。

 機械は正直だ。でも、機械が言葉にする前に聞き取ることが、自分の仕事だ。アキはそう思いながら、記録の最後の行を書き加えた。

アキが体外循環の記録をまとめ終えると、一ノ瀬が手術着のまま近づいてきた。

 「記録、後でくれ」

 「はい。今日のACT管理について、少し教えていただけますか。中盤で一時的に下限に近づいた区間があって」

 一ノ瀬が少し間を置いた。「気づいていたか」

 「はい。追加投与のタイミングを迷って、少し遅れました」

 「判断の根拠は」

 「体温が想定より早く下がったので、代謝が低下して薬効が延長されると考えました。ただその判断が正しかったのか、確認したくて」

 一ノ瀬が手術記録に目を落とした。「判断は正しかった。だが次は迷う前に声をかけろ。俺は手を止めないが、耳は開いている」

 「わかりました」

 「以上だ」

 一ノ瀬が歩き出した。アキはその背中に向かって、もう一度小さく頭を下げた。

 判断は正しかった。その言葉が、胸の中でゆっくりと広がった。迷ったことも、遅れたことも、正直に伝えた。それに対して、正しかったと言われた。間違いを隠さなかったから、返ってきた言葉だ。

 手術室を出ながら、アキはその言葉を手帳の隅に書き留めた。「迷う前に声をかけろ。耳は開いている」。一ノ瀬の言葉はいつも短く、密度が高い。書き留めておかないと、薄れてしまいそうで怖かった。


二月の第一週、ナツキから一ノ瀬の海外研修の話を聞いた。

 更衣室でナツキがロッカーを開けながら言った。「ねえアキ、一ノ瀬先生って海外行くらしいよ」

 アキは着替えの手を止めた。「海外?」

 「ジュネーブだって。心臓外科の専門研修。期間は一年以上って聞いた」

 「……いつから」

 「来月からって話。だから今、挨拶回りしてるみたい」ナツキが少し声を落とした。「アキ、顔色悪いよ」

 「そんなことない」

 「そんなことあるよ」

 アキはロッカーを閉めた。返事をしなかった。

 廊下に出てから、アキは少し立ち止まった。

 来月。あと数週間で、一ノ瀬凌がこの病院からいなくなる。

 その事実が、思いのほか重くアキの中に落ちた。なぜこれほど動揺しているのか、自分でもうまく説明できなかった。一ノ瀬は上司でも同僚でもない。心臓血管外科の医師と、CEという関係だ。でも、この五年間、アキの仕事の背骨には一ノ瀬の存在があった。「完璧だった」と言われた朝の点検。カンファレンスでの「正しい」という一言。「怖いままでいい。それが命を大事にしている証拠だ」という言葉。「南條、だな。覚えた」という最初の言葉。それらがすべて、アキの仕事への姿勢を形作ってきた。

 その人がいなくなる。

 アキは廊下を歩き出した。足が、いつもより少し重かった。

 その週の木曜日の午後、術後の廊下で一ノ瀬に呼び止められた。

 「南條、少しいいか」

 「はい」

 二人で窓際に移動した。外は二月の光が薄く、病院の庭の樹々が枯れ枝を晒している。一ノ瀬が窓の外を見ながら言った。

 「来月、ジュネーブへ行く」

 「聞きました」

 「言っておきたいことがあった」

 アキは一ノ瀬を見た。横顔は相変わらず表情が読みにくい。でも、いつもより少しだけ言葉を選んでいるように見えた。一ノ瀬が「言っておきたいことがある」と言うのは、珍しかった。この人は余分なことを言わない。言うとすれば、それは必要なことだ。

 「俺はお前の仕事を信頼していた。人工心肺の記録、カンファレンスでの発言、朝の確認。どれも、CEがやるべきことの水準を超えていた」

 「ありがとうございます」

 「礼はいらない。事実を言っている」一ノ瀬が少し間を置いた。「ひとつ聞いていいか」

 「はい」

 「お前は『メリーちゃん』と呼ばれているのを、何度か聞いた。お前はその呼ばれ方をどう思っている」

 アキは少し驚いた。一ノ瀬がその愛称のことを知っていて、しかもそれを問いとして向けてくるとは思っていなかった。

 「……最初は嫌でした。自分の名前じゃないから」

 「今は」

 「今は、少し違います」アキは言葉を選んだ。「安心してもらえている証拠かもしれないと、思えるようになって」

 一ノ瀬がやっと、アキのほうを向いた。

 「それが答えだ」

 「え」

 「正確さだけでは届かない。お前はそれを、もう知っている」一ノ瀬の声は低く、抑揚が少ない。でも、その言葉の密度が、廊下の冷えた空気の中でアキの胸に真っすぐ届いた。「メリーちゃんという呼び名を受け取れるようになったとき、お前はCEとして次の段階に入った。患者に正確さを届けるだけでなく、安心を届けられるようになった」

 アキは何も言えなかった。

 一ノ瀬が歩き出す前に、もう一言だけ言った。

 「DXプロジェクト、やれ。CEが主体になれる場所を、お前が作れ」

 それだけ言って、一ノ瀬は廊下を歩いていった。

 アキはその背中が角を曲がって見えなくなるまで、動けなかった。

 廊下に立ったまま、アキは一ノ瀬が消えた角を見ていた。

 CEが主体になれる場所を、お前が作れ。

 その言葉が、命令ではなく、託すような響きを持っていた。行く人間が、残る人間に渡す言葉だ。受け取った、とアキは思った。受け取らなければいけない言葉だ。

 でも同時に、胸の奥に静かな寂しさがあった。

 この寂しさが何なのか、アキは少し考えた。好きな人がいなくなる寂しさとは、少し違う気がした。もっと静かで、もっと深いところにある。憧れた背中が遠くなる、という感覚に近かった。一ノ瀬凌という人間の仕事への姿勢、言葉の使い方、命に向き合う姿勢。それらすべてに、アキは憧れていた。なりたいと思っていた。そばで見ていたかった。

 それが、憧れと好きの違いだとアキはぼんやりと思った。


その夜、アキはナツキと病院近くの定食屋に入った。

 カウンターに二人で並んで、それぞれ定食を頼んだ。しばらく食べながら、どちらも話さなかった。ナツキは急かさない。アキが話したいときに話す、ということを、長い付き合いの中でわかっていた。

 「一ノ瀬先生のこと、好きだったかもしれない」

 アキが唐突に言った。ナツキが味噌汁のお椀を持ったまま、少し間を置いた。

 「だったかも、なんだ」

 「うん」

 「現在形じゃないんだ」

 「……整理できた」

 ナツキがお椀を置いた。「どう整理したの」

 アキは少し考えた。定食屋のカウンターに、二人分の食器が並んでいる。外は二月の夜で、引き戸の隙間から冷えた空気が入ってくる。

 「好きだったかもしれないけど、たぶん憧れと好きが混ざってた」

 「どう違うの」

 「なりたいと思う気持ちと、そばにいたいと思う気持ち、かな」アキは箸を置いた。「先生に対して私が持っていたのは、たぶん前者だった。あの仕事への姿勢になりたかった。言葉の使い方を学びたかった。命に向き合うあの真剣さに、近づきたかった。それが憧れ」

 「好きじゃなかったの」

 「好きだったかもしれない。でも今日、先生に『CEが主体になれる場所を作れ』って言われて、気づいた。先生は私に仕事を渡した。師匠が弟子に渡すみたいに。そのとき感じたのは、寂しさじゃなくて、重さだった。受け取ったものの重さ。それって、好きな人への気持ちとは違う」

 ナツキがしばらく黙った。それから言った。「大人だね」

 「大人じゃなくて、ようやく整理できただけ」

 「整理できたのは、他に気になる人ができたから?」

 アキは答えなかった。でも、耳が少し熱くなった。ナツキがそれを見て、また笑った。

 「ユウくんでしょ」

 「……うるさい」

 「図星じゃん」ナツキが嬉しそうに言った。「いつから?」

 「いつから、って」

 「気になり始めたのいつ」

 アキは少し考えた。いつから、と言われると難しい。ずっと隣にいた人間だから、どこかに境界線があったとは思えない。ただ、気づいたときには、ユウがいないと何かが足りない、という感覚があった。

 「わからない。気づいたらそうなってた」

 「それが一番本物だよ」ナツキが笑った。「劇的なきっかけがある恋より、気づいたらそうなってた、のほうが深いから」

 「恋、とは言ってない」

 「言わなくてもわかるよ」

 アキは味噌汁を飲んだ。温かかった。しばらく考えてから、静かに言った。

 「先生がいなくなるのは、寂しいよ」

 ナツキの表情が少し柔らかくなった。「そうだね。でも先生はもっと先に行くために行くんでしょ。アキもそうじゃないの、技士長補佐になって」

 アキは窓の外を見た。二月の夜は冷えていて、ガラスに自分の顔が薄く映っていた。

 「先生が帰ってきたとき、私がちゃんとやってたら、それでいいかな」

 「それでいいんじゃない」ナツキがお茶を飲んだ。「というか、それが一番いいよ」

 アキは少し笑った。久しぶりに、力の抜けた笑い方だった。一ノ瀬が去ることへの寂しさと、受け取ったものの重さと、ナツキのあたたかさが、胸の中で混ざり合って、少しだけ楽になった。

 「ユウには、言わないで」

 「どっちのこと? 先生のこと、ユウくんのこと?」

 「両方」

 ナツキが笑った。「わかった。でも、ユウくんのことはいつかちゃんと言ったほうがいいよ。向こうも気づいてると思うけど」

 「うるさい」

 「言い方が照れてる」

 アキは箸を取り直して、黙って夕飯を食べた。ナツキが「可愛い」と言ったが、聞こえなかったふりをした。

 翌週、一ノ瀬の送別会が外科チームで開かれた。

 小さな居酒屋の個室で、外科医や看護師が十数人集まった。心臓外科手術を共にしてきたCEにも声がかかり、アキとユウが参加した。個室の奥に一ノ瀬が座っていて、相変わらず表情が少なく、周囲のざわめきの中でも少し離れたところにいるような空気をまとっていた。

 乾杯のとき、一ノ瀬が短く言った。

 「世話になった」

 それだけだった。でも、その四文字が、個室の空気をひとつに集めた。世話になった、という言葉は誰でも言う。でも一ノ瀬が言うと、その言葉の中に、一人ひとりへの記憶が確かに入っている気がした。余分なことを言わない人間の言葉は、密度が違う。ユウが以前そう言っていた。本当にそうだ、とアキは思った。

 会が進む中で、一ノ瀬はほとんど話さなかった。でも、話しかけてくる人間には丁寧に応じていた。アキとも、一度だけ目が合った。一ノ瀬が小さくうなずいた。アキもうなずいた。それだけだった。でも、その小さなうなずきの中に、廊下での会話の続きがあるような気がした。

 受け取った。やる。そういう意味のうなずきだった。


 会が終わりかけたころ、一ノ瀬がアキのそばに来た。周囲の話し声と笑い声の中で、二人だけに届く声で言った。

 「南條、一つだけ言っておく」

 「はい」

 「俺がいなくても、お前の仕事は続けろ。見ている人間がいなくても、続けろ」

 アキは一ノ瀬を見た。その横顔は、いつもと変わらない。表情が読みにくい、あの顔だ。でも、この言葉は命令ではなかった。行く人間が、残る人間に渡す言葉だった。

 「続けます」

 一ノ瀬がうなずいた。それだけだった。

 でも、アキの胸の中で何かが決定的に固まった。廊下での「CEが主体になれる場所を作れ」という言葉と、今夜のこの一言が重なった。どちらも短い。でも、短い言葉ほど、深いところまで届く。

 一ノ瀬が席に戻った。アキはしばらく、その背中を見ていた。

二次会には行かず、アキとユウは病院の駐車場に戻った。

 二月の夜風が冷たかった。アキはコートの前を合わせながら歩いた。駐車場の灯りが、二人の足元に白い影を作っている。送別会の居酒屋から病院まで、歩いて十分ほどの道だ。二人はいつもこの道を並んで歩く。残業の帰り道も、研修の帰り道も。

 「一ノ瀬先生、かっこよかったな」ユウが言った。

 「うん」

 「世話になった、の一言だけで場が締まるって、なかなかないよ」

 「あの人はそういう人だから」

 「お前、ずっと先生のこと見てたな」

 アキは少し歩調を緩めた。「見てないよ」

 「見てたよ」ユウが笑った。「目の向き、わかるから」

 アキは答えなかった。否定しても、ユウには通じないとわかっていた。

 「……見てたかもしれない。でも、整理した」

 「整理って」

 「憧れと、好きは違うって」アキは前を向いたまま言った。「先生に対して私が持ってたのは、憧れだった。なりたいと思う気持ち。そばで学びたいと思う気持ち。それが好きに見えてたこともあったけど、今日はっきりわかった」

 ユウが少し黙った。街灯の光が二人の白い息を照らした。冬の夜に吐く息が、光の中で白く広がってすぐに消える。

 「整理できたのは、よかった」

「なんで」

ユウが少し間を置いた。前を向いたまま、でも歩調を少しだけ緩めながら言った。

「ずっと言えなかったことがあって」

「何を」

「俺が言いたいことを言うタイミングが、来たってことだから」

 アキはユウを見た。ユウは前を向いていた。横顔に、いつもの軽やかさとは少し違う色がある。真剣な色だ。でも、深刻ではない。何かを決めた人間の顔だ。

 「……今?」

 「今じゃなくていい」ユウがゆっくりと言った。「でも近いうちに、ちゃんと言う」

 アキは返事をしなかった。でも、足が止まらなかった。ユウの隣で、同じ速度で歩き続けた。胸の中に、何か温かいものが灯った。それが何なのか、アキにはわかっていた。でも今夜は、言葉にしなかった。言葉にしなくても、ここにある。それで十分だった。

 二月の夜風が、また吹いた。

 アキのコートの裾が、ユウの白衣の袖に、ほんの少し触れた。

 どちらも、何も言わなかった。

 でも、どちらも気づいていた。


 一ノ瀬が出国した日、アキはいつもどおり朝の点検に来た。

 六時半、病院の更衣室で白衣に着替える。CE室に寄って点検リストを確認してから、集中治療室へ向かう。この日課は、変わらない。一ノ瀬がいてもいなくても、変わらない。朝の冷えた廊下を歩きながら、アキはそのことを静かに確認した。

 ICUの自動ドアが開くと、消毒液と空調の混ざった空気が頬をかすめた。夜勤の看護師が振り返る。

 「あ、メリーちゃん。早いね」

 「おはようございます。夜間は問題なかったですか」

 「落ち着いてましたよ。南條さんが昨日確認してくれてた三号床、今朝から自発呼吸が出てきて」

 「それはよかった。確認してきます」

 ベッドサイドに立つ。人工呼吸器の波形を読む。回路を指先でたどる。加温加湿器の水位を確認する。いつもどおりの動作だ。でも今朝は、その一つひとつが、少し違う重さを持っているように感じた。

 一ノ瀬が出国した。

 この病院の廊下から、あの背中が消えた。でもその背中から受け取ったものは、アキの中にある。怖いままでいい。正確さだけでは届かない。CEが主体になれる場所を、お前が作れ。それらの言葉は、一ノ瀬がいなくなっても消えない。アキの仕事の中に、骨のように入り込んでいる。

 チェックリストに丸をつけながら、アキは患者の顔を見た。七十代の女性。昨夜より、眉間の皺が少し薄くなっている。自発呼吸が出てきた、と看護師が言っていた。この人の肺が、また動こうとしている。機械に助けられながら、自分の力を取り戻そうとしている。

 ――機械の先に、患者がいる。

 一ノ瀬の言葉が、静かに響いた。

 アキはチェックリストの最後の項目に丸をつけた。記録をファイルに戻して、ICUを出た。

 廊下に出ると、冬の朝の光が窓から差し込んでいた。まだ低い角度の光だ。床に長い影ができる。アキはその光の中を歩いた。

 CEが主体になれる場所を、お前が作れ。

 できるかどうかは、まだわからない。でも、やると決めた人間がここにいる。技士長補佐という重さを背負って、チェックリストを手に、朝の廊下を歩いている人間がいる。

 それだけで、今朝は十分だった。

 ピッ、ピッ、ピッ。

 モニター音が廊下を満たしている。

 アキはチェックリストを開いた。今日も、誰かの命を数えるところから始める。

 一ノ瀬凌がいなくなった病院で、南條アキはまだここにいる。


読んでくださってありがとうございます。

「アラームは鳴っていない。ただこの傾きが続けば——」というアキの言葉は、この作品全体を貫く「数値の先に何があるか」というテーマの、一つの到達点だと思っています。

一ノ瀬先生から受け取った言葉は、アキの仕事の骨になりました。受け取ったものは消えない。渡していく立場になっても、消えない。

残り5章。アキの物語は、まだ続きます。第八章へ続きます。

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