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第六章 技士長補佐の重さ

第六章では、CE室にまた新しい春が来ます。

カナが初めて後輩・佐々木翔の指導担当になります。一年前、自分が教わった側だったカナが、今度は渡す側に立つ章です。

そしてアキは、技士長補佐という肩書きの重さと向き合います。管理職の重さは、現場を離れるための重さではない——その答えが、意外なところから届きます。

 翌年の四月、CE室にまた春が来た。

 カナが入職して一年が経っていた。呼吸療法認定士の受験に向けた勉強を続けながら、ECMOの管理にも一人で入れるようになっていた。ハルくんのノートは、引き出しの中にある。

 ユウは相変わらず、白衣がふわりと見えた。アキは相変わらず、始業前にICUへ向かった。CE室の空気は、一年前とよく似ていた。ただ、そこにカナがいた。

 そのカナが、初めて後輩を迎えた。

 佐々木翔。二十二歳。四年制医療系大学の新卒。真面目そうな顔立ちで、第一印象は「固い」だった。挨拶は丁寧で、返事はきちんとしている。でも、どこか全身に力が入りすぎている。肩が上がっていて、歩き方が硬い。緊張が体の外まで出ている。

 「佐々木翔です。よろしくお願いします」

 CE室に並んだ全員に、深く頭を下げた。

 「緊張しなくていいよ」とユウが言った。

 「はい、緊張しています」と翔が正直に言った。

 ユウが笑った。アキは小さく息をついた。カナはそのやり取りを見ながら、一年前の自分を思い出していた。あのとき自分は、もう少し元気よく入ってきたはずだ。声も大きかった。でも怖かった。何もわからないまま病院の中に放り込まれたような、あの怖さを、翔も今感じているのだろう。形は違っても、中身は同じだとカナは思った。

 「最初の指導はカナさん、お願いしていいか」

 アキが言った。カナは少し驚いて、それからうなずいた。

 「はい」

 初めて「先輩」になった朝だった。

 自己紹介を終えて、二人で廊下に出た。翔はカナの半歩後ろをついて歩いた。メモ帳をすでに手に持っている。カナはそれを横目で見て、少し可笑しくなった。自分も最初はそうだった。でも自分はもう少しおしゃべりだったかもしれない。

 「宮永先輩って、おいくつですか」

 翔が小声で聞いた。

 「二十二」

 翔が少し驚いた顔をした。「同い年だ」

 「でも私が先輩」

 「……はい」

 カナが笑った。「冗談です。でも本当のことでもあります」

 翔がまた「はい」と言った。その生真面目な返し方が、カナにはどこか可笑しかった。この子は、ユウ先輩みたいにはならない。アキ先輩みたいにもならない。この子はこの子の固さで、この仕事に入ってくるのだろう。それでいい、とカナは思った。固さは、丁寧さに変わることがある。

 カナの指導は、アキのやり方を真似るところから始まった。

 基本的な機器の取り扱い、点検手順、記録の書き方。カナ自身が一年かけて身につけてきたことを、順番に教えていく。翔は飲み込みが早かった。教えたことはきちんと吸収する。手順を間違えたときは自分でどこが違ったかを言語化できる。メモの取り方も丁寧で、帰宅前に必ずその日学んだことをノートに整理しているらしかった。

 ただ、一点だけ、カナには気になることがあった。

 翔は、ミスをするたびに表情が暗くなった。

 三日目の午後、輸液ポンプのチェック中だった。翔が流量の読み取りを一度間違えた。設定値の小数点の位置を一桁ずらして読んだ。翔はすぐに気づいて訂正したが、「申し訳ありませんでした」と必要以上に繰り返した。

 「訂正できたんだから、次に活かせばいい」

 「でも、間違えてしまって」

 「間違えない人間はいないよ」

 翔が少し間を置いた。「宮永先輩は間違えなそうです」

 カナは苦笑した。「間違えるよ。私も間違えたことある」

 「そうなんですか」

 「うん。でも」カナは少し考えた。「先輩の話は、先輩から直接聞いたほうがいいと思う。南條先輩に、機会を見て聞いてみて」

 翔がメモ帳を取り出した。「南條先輩に、ですか」

 「うん。怖いままでいい、って言葉を、先輩から聞いてみて。私が言うより、あの人が言う言葉のほうが、重さが違うから」

 翔が「怖いままでいい」とメモ帳に書いた。カナには見えた。でも、その言葉の意味が翔に本当に届くのは、アキから直接聞いたときだろう、とカナは思った。言葉は、誰が言うかで重さが変わる。それをカナはこの一年で知っていた。

 翔はその日の夕方、CE室でアキに声をかけた。

 「南條先輩、少し聞いてもいいですか」

 アキが記録から顔を上げた。「どうぞ」

 「宮永先輩から、先輩に直接聞けって言われてて」

 「何を」

 「間違えることについてです。宮永先輩も間違えたことがあるって言ってたんですけど、南條先輩も、あるんですか」

 アキは少し止まった。完璧に見えた、という言葉が、かつての自分のチェックリストと重なった。完璧に見えるものは疑われない。疑われないから、穴があっても誰も見つけられない。技士長がそう言っていた。

 「ある。インシデントレポートを書いたこともある。シリンジポンプの設定値と指示書の照合を怠って、今井主任に指摘された」

 翔が驚いた顔をした。「南條先輩が?」

 「そうだよ。だから怖い。怖いから確認する。間違えた経験があるから、より丁寧にやるようになった。あなたの間違いも、同じように使えばいい」

 翔がメモ帳を取り出して、何かを書き込んだ。アキにはその内容が見えなかったが、翔は「完璧に見えるものには穴がある」と書いていた。それをアキが知るのは、ずっと後のことだ。

 翔がメモ帳をポケットにしまいながら言った。「先輩がそういう話をしてくれると、少し楽になります」

 「どうして」

 「完璧な人がいると思ってたら、自分だけが間違えてるみたいで怖くなるから」

 アキは少しの間、翔を見た。

 自分が新人のころ、同じことを思っていた。先輩たちが完璧に見えた。だから自分の間違いが、ことさら大きく見えた。正しさという鎧を着込んで、その重さに押しつぶされそうになっていた。翔は今、あのころのアキと同じ場所にいる。

 受け取った言葉は、誰かに渡せる。

 一ノ瀬から受け取った言葉が、アキの中を通って、今翔に向かっている。カナがその橋渡しをした。その連鎖が、今日は翔の顔という形で見えた。

翔がポケットからメモ帳を取り出しかけて、思い直したように止めた。

「怖いままでいいよ」アキは翔に言った。「怖いから確認する。それが命を守ることにつながってる」

 翔がまたメモ帳を取り出した。今度こそアキには見えた。「怖いままでいい」と書かれた。その文字が、翔の手帳の一ページ目になることを、アキはまだ知らない。

 こうして新年度の半年が過ぎた。


 九月の第一週、アキは石渡部長に呼ばれた。

 石渡部長は外科部長であり、病院の医療安全推進委員会の委員長も兼ねていた。六十代前半、白髪交じりの頭と、いつも少し眠そうな目をしている。しかしその目が実は何も見逃さないことを、院内のスタッフはよく知っていた。アキも、カンファレンスで何度か顔を合わせたことがある。自分のことを見ているような気がして、少し緊張する相手だった。

 「南條くん、座って」

 部長室は窓が広く、午後の光が斜めに差し込んでいた。アキは背筋を伸ばして椅子に座った。

 「単刀直入に言う。来年度から、院内で新しいプロジェクトを立ち上げたい。名前はまだ仮称だが、『医療安全とDX融合プロジェクト』と呼んでいる」

 「DX、というのは」

 「医療のデジタルトランスフォーメーションだ。具体的には、AI搭載の診断支援システムや遠隔モニタリングの院内導入が本格化する。国の方針でも、二〇二六年度までに電子カルテの普及率八十パーセントを目標に掲げている。うちの病院もその流れに乗る必要がある」

 アキは少し考えた。「CEがそのプロジェクトに関わる、ということですか」

 「中心を担ってほしい。AI診断支援システムや遠隔モニタリング機器は、医療機器そのものだ。導入評価、安全管理、スタッフへの運用教育――そのすべてにCEの専門性が必要になる。医師にも看護師にも、機器の中身までは見えない。見えるのはCEだけだ」

 「古賀技士長は何と?」

 「古賀技士長は推薦者だ。南條くん以外の名前は出なかった。インシデントレポートの誠実さ、カンファレンスでのデータの精度、後輩の育成、チームの統率。CE室の外からも、南條くんの仕事は見えていた。機械を守る人間が、人も守れると判断した」

 アキは窓の外を見た。九月の空に、積乱雲の名残りが白く流れていた。夏がまだ、完全には終わっていない空だ。この空を、これからどれくらい仰ぐことができるだろうか、とアキはぼんやりと思った。

 「役職は、技士長補佐になる。管理側の立場として動いてもらわなければいけないから」

 「……少し、考えさせていただいていいですか」

 石渡部長が穏やかにうなずいた。「もちろん。ただ、南條くんのことを買っているから声をかけた。それだけは伝えておきたかった」

 部長室を出て、アキは廊下を歩いた。

 技士長補佐。管理職。プロジェクトの会議、予算の折衝、導入機器の評価報告書、スタッフへの教育資料の作成――そういうことが増えていく。現場に出る時間が削られる。

 自分は現場にいたい、とアキは思った。

 患者のそばで、機械を触っていたい。チェックリストに丸をつけて、アラームに即座に対応して、回路を指先でたどる。あの仕事をしていたい。りおちゃんに「あなたが生きている音」と伝えた場所に、いたい。

 でも。

 ――南條くん以外の名前は出なかった。

 石渡部長の言葉が耳に残っていた。


その夜、アキは一人でCE室に残っていた。

 点検記録のファイルを眺めていたが、中身は頭に入ってこなかった。窓の外は九月の夜で、病院の庭の木々が暗い中に揺れている。

 技士長補佐になれば、CEという職種が院内でどう扱われるかが変わるかもしれない。AIシステムが入ってきたとき、CEが評価と管理の主体になれるかどうかは、発言できる立場を持てるかどうかにかかっている。それはアキがずっと感じていたことだった。メリーちゃんと呼ばれ、機械担当と呼ばれ、医師でも看護師でもない職種として、見えないところで動いてきた。その見えなさを、少し変えられるかもしれない。

 でも現場を離れることへの怖さが、その気持ちを押し返す。

 管理職になったら、透析患者の石田さんのそばに毎回立てなくなる。あの廊下の子どもたちに声をかけに行けなくなるかもしれない。チェックリストに丸をつける時間が減っていく。それが怖かった。現場にいることが、自分の仕事の根っこだという感覚は、五年かけて育ててきたものだ。それを削ることへの抵抗が、胃の奥に重く座っていた。

 「まだいたのか」

 ユウが戻ってきた。外回りの帰りらしく、点検バッグを肩にかけていた。

 「石渡部長に呼ばれた」

 「聞いた。古賀技士長から」ユウが向かいの席に座った。「どうするの」

 「迷ってる」

 「珍しい。お前が迷うの、あんまり見たことない」

 「迷うよ、こういうことは」

 ユウがしばらく黙っていた。CE室の時計が、静かに秒を刻んでいる。ユウはすぐに答えを出そうとしない。こういうときのユウは、言葉を探しているのではなく、アキが次に何を言うかを待っている。そのことをアキは知っていた。

 「現場が好きで」アキは静かに言った。「患者のそばにいたい。機械を触っていたい。それが私の仕事だと思ってきたから」

 「うん」

 「管理職になったら、その時間が削られる」

 「そうだろうな」

 「でも」アキは窓の外を見た。「管理職にならないと変えられないことも、あるんじゃないかと思って」

 ユウが少し身を乗り出した。「続けて」

 「AIシステムが院内に入ってきたとき、CEが評価と管理の主体になれるかどうかは、発言できる立場を持てるかどうかにかかってる。CE室の中だけでやれることには限界がある。私がずっと思ってたことでもある。CEがもっとちゃんと見えるようにしたい、って」

 ユウがうなずいた。「それがあるなら、答えは出てるんじゃないか」

 「出てない。現場への未練がある」

 「未練があっていい」ユウが言った。「未練があるから、管理職になっても現場に出続けようとする。その未練が、お前を現場から完全に切り離さない。それがたぶん、お前が補佐になる意味だよ」

 アキはユウを見た。

 「どっちを選んでも、俺はお前についていくから」

 ついていく、という言葉の重さを、アキはしばらく受け取れなかった。同期として、隣で五年間仕事をしてきた人間が、どっちを選んでも、と言った。条件をつけずに。

 「……それ、どういう意味」

 「そのままの意味だよ」ユウが少し笑った。「難しく取るな」

 アキは窓の外を見た。九月の夜は、夏より少しだけ空気が澄んでいる。遠くに街の灯りが見えた。

 ユウがデスクに缶コーヒーをひとつ置いた。「答えは明日でいい。今日はそれ飲んで帰れ」

 アキは缶を手に取った。温かかった。ユウはいつもホットを選んでくる。九月になったからだ。季節の変わり目に、ちゃんと気づいている。そういう細かいところに、このひとは気が利く。

 「ありがとう」

 「どういたしまして」

 二人でしばらく、それぞれ黙っていた。CE室の時計が、また秒を刻む。廊下の奥からモニター音が届いてくる。ピッ、ピッ、ピッ。今夜も誰かが生きている。

 翌朝、アキは古賀技士長に「受けます」と告げた。

 技士長がうなずいた。「わかった。石渡部長に伝える」それだけだった。余分なことを言わない技士長らしい返事だった。でもその短さが、信頼の表れだとアキは受け取った。

 十月、技士長補佐の辞令が出た。

 変わったことと、変わらないことがあった。

 変わったこと――CE室での席が古賀技士長の隣になった。プロジェクト関連の会議が週に二度入るようになった。AI診断支援システムの導入候補機器の評価レポート作成が業務に加わった。院内の遠隔モニタリング整備計画の策定にも、CEの代表として名前が入った。決裁書類が増えた。会議の資料を作る時間が増えた。

 変わらないこと――朝の点検ラウンドは続けた。ICUの朝確認も、できる限り自分で行った。チェックリストは相変わらず自分で更新した。

 問題は、時間だった。

 会議が入れば点検の時間が削られる。評価レポートの作成が長引けば、夕方のラウンドに間に合わない。ユウやカナに任せる場面が増えた。任せること自体は正しい。でも、アキの中に小さな焦りが積み重なっていく。自分がやるべきことをやれていない、という感覚が、朝起きたときからついてくるようになった。


「先輩、顔色悪いですよ」

 カナが言った。十一月の第二週、朝のCE室だった。

 「大丈夫」

 「本当に?」

 「大丈夫」

 カナが少し心配そうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。アキはその遠慮が少し申し訳なかった。カナは気を使っている。新人が先輩に「無理しないでください」と言い続けるのは、難しい。それをわかっていながら、アキは「大丈夫」と繰り返した。大丈夫ではなかった。でも、大丈夫ではないと認めることが、今は怖かった。


十二月に入ると、アキの一日はさらに細かく刻まれるようになった。

 朝八時にICUの確認。八時半から古賀技士長との申し送り。九時からDXプロジェクトの準備会議。十一時からラウンド。午後はAI診断支援システムの導入評価レポートの作成と、翔の指導記録の整理。夕方にもう一度ラウンド。どこかで必ず、時間が足りなくなる。


 ある日の午後、透析室の定期点検に向かおうとしていたとき、プロジェクトの会議が延長になった。終わった時点で、点検の予定時刻を四十分過ぎていた。

 カナに連絡を入れた。「透析室、代わりに入ってもらえる?」

 「もう入ってますよ。先輩が来なかったから」

 アキは少し止まった。「ごめん、助かった」

 「大丈夫です。でも先輩、最近ずっとこんな感じですよね」

 「そうかな」

 「そうです」カナの声が少しだけ真剣になった。「何でもかんでも自分でやろうとして、それで時間が足りなくなってる」

 「任せてるじゃない、今も」

 「頼み方が、謝りながらなんですよ、最近。頼んでいいんです、私に。謝らなくていいです」

 アキは廊下で立ち止まって、電話口に言った。「……ありがとう」

 「お礼もいりません。早く来てください、石田さんが先輩に話があるって言ってるので」

 通話が切れた。アキは透析室へ足を速めた。

 その一番端、窓際のベッドに、石田さんがいた。

 六十代の男性で、アキが入職したころからずっと、週三回の血液透析(腎臓の機能が低下した患者の血液を機械で浄化する治療)に通っている。無口で、スタッフへの要求も少ない。でも機械の状態に敏感で、少しの異常も見逃さない患者だった。アキはこの患者のことが、どこか頼もしかった。自分より機械のことをよく見ている、と思うことさえあった。

 「南條さん」石田さんが言った。「遅かったな」

 「申し訳ありません、会議が延びて」

 「忙しそうだな、最近」

 「そうですね、少し」

 石田さんが透析装置の画面を顎で示した。「さっき、流量が一瞬だけ落ちた。宮永さんが対応してくれたけど、記録に残しておいたほうがいいと思って」

 アキはカナを見た。「対応は」

 「回路のねじれが原因でした」カナが装置の脇を指した。「ここです。チューブが体位変換のときに少し引っ張られて、内径が狭くなっていました。血液が通りにくくなって、流量が落ちた」

 アキは確認した。修正跡が見える。丁寧に、無理なく直してある。

 「アラームが出る前に気づいたの?」

 「アラームと同時です。でも原因はすぐわかりました。数値の落ち方が、閉塞のときのパターンだったので」

 数値の落ち方に、パターンがある。それを読めるようになるまで、どれだけの時間がかかるか。アキは何も言わなかったが、カナが一年でそこまで来ていることを、静かに受け取った。

 「記録してあります」カナが付け加えた。「時刻、原因、対応内容、修正後の数値確認まで」

 「わかった」アキは石田さんに言った。「教えてくれてありがとうございます」

 「別に」石田さんが窓の外を見た。「宮永さんがちゃんとやってたから言えた。逃げなかったから」

 カナが少し驚いた顔をした。

 石田さんが続けた。「機械のことをちゃんとわかってる人間が、逃げずにいてくれると安心する。それだけだ」

 アキはその言葉を聞きながら、記録を確認した。

 逃げずにいてくれると安心する。

 アキは記録を確認しながら、その言葉をもう一度頭の中で繰り返した。

 技士長補佐という肩書きは、現場から自分を切り離すためにあるのではない。現場と管理をつなぐためにある。その橋の上に、自分は立っている。重い橋だ。でも、その重さには意味がある。

 透析室を出て、アキは少しだけ足を止めた。

 廊下の窓から、十二月の夕空が見えた。低く、灰色の空だ。でも、その灰色の中に、わずかに橙色が滲んでいる。日が沈む直前の色だ。

 石田さんの言葉が、まだ胸の中に残っていた。逃げずにいてくれると安心する。その言葉を、アキは手帳に書き留めた。プロジェクトの資料には書けない言葉だ。でも、自分が何のためにここにいるかを思い出すための言葉として、手帳の端に書いておきたかった。


その夜、アキは高梨先輩からメッセージを受け取った。

 高梨先輩はアキが新人のころの先輩CEで、三年前に別の病院へ移っていた。たまに連絡をくれる、数少ない先輩の一人だ。

 「技士長補佐になったって聞きました。会えませんか」

 週末に近くの喫茶店で会った。高梨先輩は変わっていなかった。少し白髪が増えたかもしれないが、話し方も笑い方も、アキが新人だったころのままだった。

 「どう、しんどい?」

 開口一番そう言われて、アキは少し笑った。「少し」

 「そうだよね。管理職って、最初は必ずしんどい」

 「高梨先輩も経験したんですか」

 「したした。私も補佐になったとき、現場離れたくなくて毎日ラウンド入り続けて、会議も全部出て、倒れそうになった」高梨先輩がコーヒーカップを両手で包んだ。「南條さん、今どんな状態?」

 「時間が足りなくて、誰かに頼むたびに謝ってる気がして」

 「それ、私のときとそっくり」高梨先輩が苦笑した。「頼むことが申し訳ないと思ってるんでしょ」

 「……そうかもしれません」

 「なんで申し訳ないの」

 アキは少し考えた。「自分がやるべきことを、誰かに肩代わりさせてる気がするから」

 「それ、違うよ」

 高梨先輩が、はっきりと言った。アキは顔を上げた。

 「任せることは、放棄じゃない。信頼することなんだよ。カナさんに透析室を頼んだとき、あなたはカナさんを信頼したんでしょ。それは謝ることじゃなくて、任せるに足ると認めたってことだよ」

 アキは黙った。

 「南條さん、あなたが育てた後輩、ちゃんとやってるんでしょ」

 「やってます」

 「だったら、それはあなたの仕事の成果だよ。あなたが現場に出ることだけが仕事じゃない。あなたが育てた人間が現場を守ることも、あなたの仕事だ」

 アキは窓の外を見た。十二月の夕方、街にイルミネーションが灯り始めていた。クリスマスまで二週間ほどだ。病院の帰り道にある商店街も、今頃は光で満ちているだろう。

 「私、現場が好きで」

 「知ってる。だから補佐になっても現場に出てるんでしょ」高梨先輩が笑った。「好きなままでいい。でも好きだからこそ、次の人に渡せるものを渡していく立場になったんだよ、あなたは」

 渡していく立場。

 りおちゃんへの言葉が、橋本を経由してカナに届いた。一ノ瀬から受け取った言葉が、アキを経由して翔に届いた。受け取った言葉は、誰かに渡せる。渡していく立場になった、ということは、より多くのものを渡せる場所に立った、ということだ。

 「高梨先輩は、今も現場に出てますか」

 「出てるよ。週に三日はラウンドに入る。あとは会議と書類と後輩の指導」高梨先輩が笑った。「最初より全然楽になった。任せることを覚えたから」

 「任せることを、どうやって覚えたんですか」

 「信頼できる後輩ができたから」高梨先輩がアキを見た。「南條さんにも、いるんじゃないの。もう」

 アキはカナの顔を思った。石田さんの前で逃げずにいたカナ。翔の顔を思った。メモ帳に「怖いままでいい」と書き留めた翔。ユウの顔を思った。「俺はお前についていく」と言ったユウ。

 「います」

 「だったら、大丈夫だよ」高梨先輩がコーヒーを飲み干した。「渡していく立場になることを、怖がらなくていい。渡すたびに、あなたの仕事は増えるんじゃなくて、広がるんだから」

 アキはコーヒーを飲んだ。温かかった。

 技士長補佐という肩書きが、少しだけ違う重さで感じられた。重いことは変わらない。でもその重さの意味が、さっきまでとは少し違った。管理職の重さは、現場を離れるための重さではない。現場を広げるための重さだ。自分一人では届かなかった場所に、後輩たちを通して届けるための重さだ。

 喫茶店を出ると、十二月の夜風が冷たかった。アキはコートの前を合わせながら、病院への道を歩いた。街のイルミネーションが、夜の空気の中で白く光っていた。

 翌朝、アキはいつもどおり六時半に病院に来た。

 更衣室で白衣に着替えて、CE室に寄ってから集中治療室に向かおうとすると、廊下で光が漏れているのが見えた。CE室の電気がついている。

 ドアを開けると、翔が早出で来ていた。チェックリストを広げて、真剣な顔で確認している。アキに気づいて、慌てて立ち上がった。

 「おはようございます。早かったですね、先輩」

 「翔くんこそ。始業まであと一時間以上あるよ」

 翔が少し照れたように言った。「先輩が朝来るから、自分も来たほうがいいかなと思って」

 アキは少し考えた。「来たいから来るならいい。義務で来なくていい」

 「来たいです」翔がリストから顔を上げた。「先輩みたいに、朝一番に確認できる人間になりたいので」

 アキはその言葉を受け取った。

 自分がやってきたことが、また誰かに届いている。高梨先輩が「渡していく立場になった」と言った言葉が、アキの中を通って、今カナや翔に向かっている。渡すたびに広がる。高梨先輩の言葉の意味が、今朝、翔の顔を通して、初めてはっきりとわかった。

 「じゃあ一緒に来い。教えながらやる」

 「はい」

 二人でICUに向かった。年末の病院の廊下は、どこか静かだ。面会者が減り、予定手術が落ち着いて、一年の仕事を締めくくるような空気がある。アキはその廊下を、翔と並んで歩いた。

 技士長補佐、一年目の年末。重さはまだある。現場への未練も、時間の足りなさも、全部解決したわけではない。でも今朝は、その重さを一人で持っていなかった。翔が隣にいた。カナが透析室にいた。ユウが情報を集めてくれている。高梨先輩の言葉が、背中にある。

 廊下の窓から見える空は、冬の青さだった。

 ピッ、ピッ、ピッ。

 ICUのドアの向こうから、モニター音が届いてくる。今日も誰かが生きている音だ。

 アキはチェックリストを開いた。今日も、誰かの命を数えるところから始める。



読んでくださってありがとうございます。

「渡すたびに、あなたの仕事は増えるんじゃなくて、広がるんだから」——高梨先輩のこの言葉は、この作品全体の構造そのものです。

りおちゃんへの言葉がカナに届き、一ノ瀬先生の言葉がアキを経由して翔に届く。言葉は人を渡って、遠くまで届く。翔が早朝にCE室でチェックリストを広げていた場面——アキが受け取ったあの朝を、ぜひ覚えていてください。

第七章へ続きます。

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