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第五章 声の人が来てる

第五章では、アキとカナがECMO(体外式膜型人工肺)を装着した二十歳の患者・羽田陽くんと出会います。

深夜の緊急呼び出し、アラームの原因究明、そして退院の日にハルくんが残したもの——CEという仕事の中に、数値では測れないものが確かにある、ということを書いた章です。

少し長い章ですが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。

 五月の連休が明けると、ICUに新しい患者が入った。

 交通事故による多発外傷。搬送時、意識レベルの低下と呼吸状態の悪化が確認され、緊急処置の後にICUへ移送。胸部外傷による肺挫傷(肺組織が強い衝撃で損傷を受けた状態)と診断され、重篤な呼吸不全に対してECMO(体外式膜型人工肺――肺や心臓の機能が著しく低下した際に、体外で血液に酸素を取り込み二酸化炭素を除去する装置)の装着が決定した。年齢、二十歳。大学二年生。

 名前は、羽田陽ハネダ ハル

 アキがICUに入ったのは、ECMOの初期設定確認のためだった。

 装置の回路を確認する。送血側と脱血側のカニューラ(血液を体外に取り出し、また戻すための管)の接続状態。遠心ポンプ(血液を一定の流量で循環させる装置の中心部品)の回転数。膜型人工肺(血液に酸素を供給し二酸化炭素を除去する部品)前後の圧力差。酸素流量と濃度の設定値。これらすべてが適切な範囲に収まっているかを、一つひとつ確かめる。

 肺挫傷のECMO管理は、通常の人工呼吸器管理より設定の幅が狭い。肺への圧負荷を最小限に保ちながら、ECMOで全身への酸素供給を維持する。二つのバランスを常に意識しなければならない。数値のわずかな変化が、患者の状態に直結する。

 アキは記録をつけながら、モニターの波形を読んだ。心拍数、動脈圧、中心静脈圧(心臓へ戻る血液の圧力――体液量や心臓への負荷の目安となる値)、SpO₂。どれも管理範囲内だ。ECMOの流量は毎分三・五リットル。設定は妥当だと判断した。

 「南條先輩」

 カナが入ってきた。今日からここも担当になりましたよね、という確認の目だった。

 「そう。ただ、このケースはECMO管理中だから、設定変更があったときは必ず私かユウさんに報告して。一人で判断しない」

 「はい」カナは返事をしながら、自然にECMOの回路へ目をやった。

 脱血側のチューブは暗い赤だった。心臓から取り出された、酸素の少ない血の色だ。それが膜型人工肺を通ると、送血側では鮮やかな赤に変わっている。機械の中で、血液に酸素が補われた。その色の変化が、今この瞬間も、チューブの中で静かに続いていた。

 肺が動いていない。でも、血は巡っている。

 この装置が止まれば、その事実が逆転する。アキはそれをわかった上で、数値を読んでいる。カナはその横顔を一秒だけ見て、それからベッドの患者に目をやった。「……若いんですね」

 「二十歳」

 カナがしばらく無言で見ていた。鎮静剤(患者の苦痛や不安を和らげ、安静を保つために使用する薬剤)が入っているから意識はない。でも、その顔は穏やかだった。短い髪、日焼けした肌。健康そうな体が、管だらけのベッドに横たわっている。その対比が、ICUの冷えた空気の中で、ひどく切なく見えた。

 「助かりますか」

 カナが小さく聞いた。アキは少し間を置いた。

 「それは医師が判断すること」

 「そうですね」カナが機器のほうに向き直った。「でも、助かってほしいな」

 アキは何も言わなかった。その気持ちはわかる。でも、医療者がその感情を持ちすぎると、判断が揺れることがある。わかっていても、完全に切り離すことはできない。それもまた、わかっていた。


カナはその日から、ICUの朝の点検に同行するようになった。

 アキが手順を教えながら、カナがメモを取る。ECMOの回路確認、膜型人工肺の圧力差の読み方、送血流量の記録の仕方。覚えることは多かったが、カナは毎回ノートを読み返してきていて、翌日には前日教えたことをきちんと体に入れていた。

 ただ、カナはやはり、機器より先に患者の顔を見た。

 アキはもうそれを注意しなかった。


 入院から四日目の深夜、アキのスマートフォンが鳴った。

 画面を見る。ICU当直看護師からだ。

 「南條さん、すみません。羽田さんのECMO、送血流量が急に落ちてきていて。アラームは出てるんですが、原因がわからなくて」

 「今から行きます」

 アキは電話を切りながら、すでにコートを手に取っていた。

 病院に着いたのは、呼び出しから十八分後だった。ICUに入ると、カナがナースステーションの前に立っていた。顔色が白い。

 「カナさん、なぜここに」

 「アラームの通知が転送されてきて。私も——来てしまいました」

 判断としては余計だ。しかしアキはそれを言わなかった。来てしまった人間を今叱っても意味がない。

 「ついてきて。手を動かしてもらうかもしれない」

 ベッドサイドに立って、アキはまず装置全体を見た。見る、という動作が、アキの場合は他の人間とすこし違う。パネルの数値だけでなく、回路の色、チューブの張り、ポンプの音、接続部の状態——全部を一秒以内に読む。

 送血流量が落ちている。毎分三・五リットルが、二・八まで下がっていた。

 脱血側のチューブを見た。色が、わずかに変わっている。暗い赤が、さらに暗くなりかけている。脱血不良だ。心臓への戻り血流が減れば、ECMOが引ける血液量が落ちる。このまま下がり続ければ、全身への酸素供給が急速に悪化する。

 「カナさん、脱血カニューラの挿入部を見て。皮膚の緊張と、チューブの角度」

 カナがベッドサイドに回った。一秒もかからずに報告が来た。「チューブ、少し引っ張られています。患者さんの体位が変わったときに、角度がずれたかもしれません」

 「そう見える?」

 「はい。挿入部の皮膚が、わずかに引きつれています」

 正しい観察だ。アキはすでに同じ結論に達していたが、カナが自分で言語化できたことを、一瞬だけ確かめた。

 「当直医を呼んできて。それから体位を微調整する。私が回路を持つ間、あなたは患者の体を支えて。指示どおりに動いて。それだけでいい」

 「はい」

 当直医の堤が駆けつけた。状況を三十秒で伝える。堤がうなずいた。「お願いします」

 アキは脱血側のチューブを両手で持った。ECMOの回路は、血液が体外を流れている。この管を持ったまま体位を調整するのは、綱渡りの作業だ。チューブに余計な力がかかれば、カニューラが抜けかける。接続部が外れれば、即座に大量出血になる。力を抜きすぎても、折れが入って流量がさらに落ちる。

 「動かします」アキが言った。「ゆっくり。私の手を見て、チューブが緩む方向に体を傾けて」

 カナが陽の肩と腰に手を当てた。患者に触れる手つきが、恐る恐るではなく、しっかりしている。

 「いきます」

 アキがチューブの張りを保ちながら、カナが体を数センチ傾ける。脱血カニューラの角度が、わずかに変わった。

 装置のアラームが、止まった。

 送血流量の数値が、ゆっくりと戻り始めた。二・八。三・〇。三・二。三・五。

 「止めて」アキが言った。「そこでいい」

 カナが静止した。アキがチューブの状態を最終確認する。折れなし。張りの均等。接続部の緩みなし。脱血側の色が、元の暗い赤に戻っている。

 「安定しました」アキは堤に言った。「体位固定をお願いします。この角度を保てるようにクッションで支えてください」

 「わかった」堤が看護師に指示を出した。

 アキは記録をつけながら、カナを見た。カナは陽の顔を見ていた。鎮静中で意識はない。でも、呼吸が、さっきより穏やかに見えた。気のせいかもしれない。でもカナには、そう見えていた。

 「南條先輩」カナが小さく言った。「もし、もっと遅かったら」

 「流量がゼロに近づいていた。心臓への負荷が限界を超えれば、そのまま止まっていた可能性がある」

 カナが息をのんだ。

 「でも、止まらなかった」アキは言った。「それでいい」

 帰り際、堤が廊下でアキを呼び止めた。

 「南條さん。さっきの、あの暗さの変化、俺には見えなかった。チューブの色で脱血不良を判断したんですか」

 「はい。数値が落ちる前に色が変わります。〇・一秒の差ですが」

 堤がしばらく黙った。「……CEって、そういうことをやってるんですね」

 アキは特に何も言わなかった。そういうことをやっている、という言葉を、胸の中でもう一度繰り返した。

 そういうことを、やっている。

 ICUの廊下は、深夜でも温度が変わらない。二十二度。アキはその温度の中を、CE室へ向けて歩いた。


 羽田陽の鎮静から離脱し、意識が戻ったのは入院から五日後のことだった。

 カナがちょうど朝の点検に来ていた。ECMOの回路を確認していると、ベッドの陽のまぶたがゆっくりと動く気配があった。カナが気づいたのは、アキより先だった。

 「羽田さん」

 担当看護師が声をかける。陽がゆっくりと目を動かした。天井を見て、装置を見て、それからカナを見た。

 目が合った。

 カナは一瞬、息を止めた。二十歳の青年の目が、混濁しながらも確かに自分を見ている。怖い、というより、どこにいるのかわからない、という目だった。管に繋がれた体で、知らない場所で目を覚ました人間の目だ。

 カナは小さく会釈した。それから、落ち着いた声で言った。

 「おはようございます。機械の担当です。気管チューブが入ってるから話せないけど、わかったらまばたきしてください」

 陽がまばたきをした。

 ゆっくりとした、確かなまばたきだった。

 カナは息を吐いた。「意識が戻っています」カナは担当看護師に短く言った。

それから陽に向き直った。「よかった。機械はちゃんと動いてますよ。安心してください」

 陽がまた、カナを見た。何かを言おうとするように口元が動いたが、気管チューブがあるから声は出ない。それでも、その目には力があった。さっきまでの混濁が、少しだけ晴れている。

 「今は話さなくていいです。まず休んでください」

 陽が目を閉じた。

 カナはしばらくその顔を見ていた。それからアキを振り返った。アキはECMOの記録をつけながら、その一部始終を見ていた。

 「大丈夫でした」カナが小さく言った。報告なのか、自分自身への確認なのか、どちらともとれる言い方だった。

 「うん」アキは答えた。「よくやった」

 カナが少し驚いた顔をした。アキが現場でそういう言葉を言うのは珍しかったから、かもしれない。でもアキは本心を言っていた。意識が戻ったばかりの患者に、動揺を見せずに声をかけること。まばたきという確認手段を瞬時に使うこと。それは教えたことではなかった。カナが自分で判断してやったことだった。

 気管チューブが抜管されたのは、入院から十二日後だった。

 肺の状態が改善し、自発呼吸が安定してきたため、一ノ瀬の判断で抜管が決定された。抜管後は酸素マスクによる管理に移行し、リハビリテーションが始まった。

 カナが点検に来ると、陽はベッドの上に起き上がっていた。

 「あ、機械の人だ」

 声が出た。少しかすれていたが、ちゃんとした声だった。

 「おはようございます。CEの宮永です」

 「宮永さん」陽が繰り返した。「名前、覚えてくれてたんだ」

 「当たり前ですよ。担当ですから」

 陽が窓の外を見た。五月の空が青かった。「俺、何日入院してる?」

 「今日で十四日です」

 「そんなに」陽がゆっくりと息をついた。その呼吸を、カナは自然に観察していた。胸の動き、呼吸の深さ、表情。SpO₂モニターの数値も確認する。九十五。良好だ。

 「大学、どうなってるんだろ」陽が独り言のように言った。「連休明けからの授業、全部出てない」

 「それは後で考えましょう。今は治すことが先です」

 「わかってるけどさ」陽が少し笑った。「機械、もう外れたのに、まだ来るの?」

 「酸素の管理はまだありますし、他の機器のチェックもあります」

 「そっか」陽がカナを見た。「ねえ、チューブついてたとき、毎朝来てたよね」

 「来てましたよ」

 「俺、薄目で見てた」

 カナは少し驚いた。鎮静から離脱した直後は意識が混濁していることも多い。それでも陽には見えていた。

 「気づいてたんですか」

 「うん。声かけてくれてたのも聞こえてた。話せなかったけど」陽が少し照れたように続けた。「機械はちゃんと動いてますよ、安心してください、って。あれ、毎回言ってくれてたよね」

 カナはうなずいた。

 「正直、最初は意味わかんなかった。でもさ、毎朝同じ声が来るから、なんか安心した。声の人が来てる、今日も来た、みたいな」

 カナは何も言えなかった。

 声の人が来てる、今日も来た。

 その言葉が、胸の中にひとつ、静かに落ちた。


陽は回復が早かった。

 リハビリの進みも順調で、担当の理学療法士からも積極的だと評判だった。病室でも動けるようになると、陽はノートを広げて何かを書くようになった。カナが点検に来るたびに、陽は必ず顔を上げて話しかけてきた。

 「宮永さん、CEって何年やってるの」

 「まだ一ヶ月ちょっとです」

 「そんなに最近なんだ。全然わかんなかった」

 「そうですか? 嬉しいです」

 「でも最初から落ち着いてたよね。俺が目覚めたとき、一番落ち着いてた」

 カナは内心で苦笑した。落ち着いていたのではなく、緊張を表に出さないようにしていただけだ。アキに言われていた。患者の前では、自分の感情を管理しろ、と。それを守っていただけだった。でも、陽にはそれが「落ち着いている」に見えた。それはそれで、正しい結果なのかもしれない。

 「宮永さんって、なんでCEになったの」

 「あこがれた先輩がいて」

 「どんな先輩?」

 カナはアキのことを思った。几帳面で、言葉が少なくて、なかなか褒めない。でも機械を触る手が丁寧で、患者に正直で、廊下を歩く背中がどこか真剣だった。入職してまだ二ヶ月しか経っていないのに、カナにはすでにその背中が目標になっている。

 「機械を触る人なのに、患者さんのことをちゃんと見てる人で」

 「それ、宮永さんも同じじゃん」

 カナは少し驚いてから、照れた。「まだまだです」

 陽がノートに何か書きながら言った。「俺、将来何しようか全然決まってなくてさ。事故の前もずっと考えてて」

 「今も考えてますか」

 「うん。ここにいる間、いろいろ見てるから。医者でも看護師でもない人たちが、いっぱいいるんだなって」

 「そうですよ。CEだけじゃなくて、理学療法士さん、薬剤師さん、臨床検査技師さん、いっぱいいます」

 「みんな、患者のことを見てるんだよね」

 「見てますよ」

 陽がノートを閉じた。窓の外の五月の空を、少し遠い目で見た。それから、独り言のように言った。

 「俺も、誰かのことを見られる仕事がしたいな」

 カナは答えなかった。でも、その言葉は大事なものとして、胸の中にそっと受け取った。

 事故の前から考えていたこと。ここで見ていたこと。それが今、陽の中で少しずつ形を持ち始めている。カナはその変化を、毎朝の点検のたびに観察していた。数値ではなく、顔の表情で。眉間の緊張が解けていく様子で。ノートを開く手が、日ごとに迷いなくなっていく様子で。


 六月の第二週、陽の退院が決まった。

 肺機能の回復は完全ではないが、日常生活には支障ない水準まで改善した。外来でのフォローアップを続けながら、大学への復帰も可能という判断だった。

 退院前日、カナが最後の酸素関連機器の確認に来ると、陽はベッドの上でノートを書いていた。カナが入ってきたことに気づいて、ペンを置いた。

 「明日退院ですね」

 「うん」陽がカナを見た。少し改まった顔をしている。「宮永さんに言っておきたかったことがあって」

 「なんですか」

 「チューブが入ってて、何もできなかったとき、毎朝来てくれたじゃないですか。機械の確認だって、わかってる。でもそれって、毎朝俺のことを確かめに来てくれてたってことだよね」

 カナはゆっくりと息を吸った。「そうです。機械の確認は、患者さんの確認でもあるので」

 「それがさ、すごく嬉しかった」陽が少し下を向いた。照れているのか、言葉を選んでいるのか、どちらともとれる様子だった。「機械の向こうに宮永さんがいて、ちゃんと俺を見てくれてるって思って。なんか、ありがとうって言いたかった」

 カナは何か言おうとして、言葉が見つからなかった。

 「大学、頑張ってください」と言うのが精一杯だった。

 陽が笑った。「うん。宮永さんも頑張って」

 カナは廊下に出てから、少しの間動けなかった。

 機械の向こうに宮永さんがいて、ちゃんと俺を見てくれてるって思って。

 その言葉が、体の芯のどこかに温かく刺さった。機械を確認しに来ていた。ただそれだけのことが、陽には「見てくれていた」と届いていた。機械と患者のあいだにいる人間、とカナが言った言葉が、今日初めて自分のこととして感じられた。

 廊下の窓から、六月の曇り空が見えた。雨になりそうな、白い空だった。


退院から三週間後、陽の母親から病院に封書が届いた。

 宛名は「宮永カナ様」。

 カナは昼休みにCE室で封書を受け取った。差出人の名前を見て、最初は誰からか思い当たらなかった。羽田、という苗字を見て、陽の顔が浮かんだ。でも陽が手紙を送ってくる理由がわからなくて、封を開けた。

 中に手紙と、小さなノートが入っていた。

 手紙を先に読んだ。

 息子が六月の末に急逝したこと。医師からは退院後も経過観察が必要と言われていたが、退院後に体調が急変し、肺挫傷後の線維化による呼吸不全が予想を超える速さで進んだこと。自宅での発症で、救急搬送が間に合わなかったこと。本人が入院中に書いていたノートを、退院前に「宮永さんに渡してほしい」と言っていたこと。在りし日の息子がお世話になったことへの感謝。

 カナは手紙を持ったまま、動けなかった。

 陽が死んだ。

 退院して、三週間で。

 あの笑顔で「宮永さんも頑張って」と言った陽が、もういない。大学に戻ると言っていた。誰かのことを見られる仕事がしたいと言っていた。その言葉がまだ耳に残っているのに、もういない。

 カナはノートを手に取った。表紙に「入院中のこと」と書いてある。陽の字だ。丸くて、少し不格好な字。それがかえって、陽らしかった。

 ノートを開く手が震えた。

 最初のページ。

 「五月十二日。目が覚めた。機械がついてた。怖かった。でも機械の担当の人が来てくれた。声が落ち着いてた」

 めくる。

 「五月十四日。今日もカナさんが来た。毎日来る。機械の音が少し好きになった」

 めくる。

 「五月十九日。チューブが外れた。ようやく話せた。カナさんに聞きたいことがいっぱいある」

 めくる。

 「五月二十七日。宮永さんはなんでCEになったのか聞いた。あこがれた先輩がいると言ってた。どんな先輩なんだろう。会ってみたい」

 めくる。

 「六月三日。機械って冷たいと思ってた。でも機械の向こうにカナさんがいて、あったかかった。俺、誰かのことをちゃんと見られる人間になりたいと思った。カナさんみたいに」

 めくる。

 「六月十二日。明日退院。ありがとう」

 カナはノートを閉じた。

 CE室に誰もいなかった。アキもユウも外回りの時間だった。カナは一人で、ロッカーのドアを開けて中に入った。床にしゃがんで、膝を抱えた。

 声が出なかった。

 泣いているのか、泣けていないのか、自分でもわからなかった。ただ、胸の中に大きな穴が開いたような感覚があって、そこから何かが抜けていくような気がした。

 もっとできることがあったかもしれない。退院後のことを、もっと話せばよかった。外来でまた会えると思っていた。次に来たとき、ノートに何を書いたか聞こうと思っていた。

 でも陽はもういない。

 「六月十二日。明日退院。ありがとう」という最後の文字だけが、カナの目の裏に残っていた。ありがとう。その二文字が、これほど重いとは思っていなかった。

 どれくらいそうしていたか、わからない。

 CE室のドアが開く音がした。足音。それがアキのものだと、カナにはわかった。歩幅と靴音で、誰が入ってきたかがわかるくらいには、この二ヶ月で聞き慣れていた。

 アキがロッカーの前に来た。

 床に座っているカナを見た。

 声はかけなかった。アキはカナの隣に静かに座った。床は硬い。白衣のまま座るには少し窮屈だったが、立ったまま話す気にはなれなかった。

 しばらく、二人とも黙っていた。

 カナがノートと手紙をアキに見せた。アキは受け取って、手紙を読み、ノートを最初のページから最後のページまで読んだ。「六月十二日。明日退院。ありがとう」という文字のところで、アキの手が少しだけ止まった。

 読み終えてノートを返しながら、アキは言った。

 「あなたはできることを全部やった」

 カナが顔を上げた。目が赤い。

 「でも私、もっとできることあったかもしれなくて」

 「それでも、できることを全部やった。それでも届かないものがある。それが医療だよ」

 「……悔しいです」

 「うん」アキは少しの間を置いた。「私も今、悔しい」

 カナが小さく息をついた。「先輩も?」

 「あなたが悔しいなら、私も悔しい」

 カナがまた泣いた。今度は声が出た。小さく、でも確かに。ロッカーの中で、床に座ったまま、膝を抱えて泣いた。

 アキは何もしなかった。隣に座って、ただいた。

 それが今、自分にできることだとわかっていたから。カナの悲しみを言葉で整理しようとしなかった。泣き止ませようともしなかった。ただ、隣にいた。機械と患者のあいだにいる人間、とカナは言った。今この瞬間、アキはカナのそばにいる人間でありたかった。

 カナがひとしきり泣いて、少し落ち着いた頃、アキは静かに言った。

 「陽くんのノート、読んだ」

 「はい」

 「機械の向こうにカナさんがいて、あったかかった、って書いてた」

 カナがうなずいた。

 「届いてたんだよ。全部ではないかもしれない。でも確かに、届いてた」

 「……届いてたのに、もういないんです」

 「そうだよ」アキは否定しなかった。「届いたのに、いなくなる。そういうことが、医療の中にはある。悔しくて、理不尽で、どうにもならない。それでも、届けようとすることをやめない人間が、ここにいなければいけない」

 カナがアキを見た。

 「先輩は、そういう場面に何度も会ってきたんですか」

 「何度も、ではない。でも、ある」アキは少し間を置いた。「そのたびに、悔しい。でも、だから続けてる」

 カナがノートを胸に抱えた。「ハルくん、最後にありがとうって書いてくれて」

 「うん」

 「私、ちゃんと受け取れてたかな」

 「受け取れてたよ」アキが言った。「あなたが毎朝来たから、陽くんは安心できた。それが全部だよ」

 カナが小さくうなずいた。涙が一筋、頬を伝った。カナはそれを手の甲で拭って、静かに息を吸った。


翌週、カナが古賀技士長に申し出た。

 「呼吸療法認定士の資格を取りたいです」

 月曜日の朝、始業前のCE室だった。技士長がコーヒーカップを持ったまま、少し驚いた顔をした。

 「どうして」

 「ハルくんに、もっとちゃんと向き合えるようになりたかったと思って」カナが続けた。「今更ですけど、次の患者さんには。もっと深く、呼吸のことを知っていたかった。だから勉強したいです」

 技士長がアキを見た。アキはうなずいた。

 技士長が少し考えてから言った。「受験資格が得られるまで二年はかかるけど、頑張ってみたらいい」

 カナが深く頭を下げた。「はい。頑張ります」

 廊下に出てから、カナがアキに言った。「二年、長いですね」

 「長い」アキは正直に言った。「でも、その二年で積み上げるものが、後で全部使える」

 「先輩は取ってないんですか、呼吸療法認定士」

 「取ってない。あなたが取ったら、教えてもらおうかな」

 カナが少し笑った。ノートを受け取ってからのカナが笑ったのは、それが久しぶりだった。ハルくんのノートを受け取ってから、カナの顔は少しずつ、重いものを抱えた表情になっていた。それが今、小さくほどけた。

 「先輩に教えるなんて、おこがましいです」

 「おこがましくない。あなたが呼吸のことを一番深く知る人間になればいい。私は管理の話をするから、あなたは呼吸の話をして。そういうチームにしよう」

 カナがまたうなずいた。今度は頭を下げるのではなく、ただうなずいた。それがかえって、本当に受け取った、という感じがした。

 その日の夕方、カナはCE室に戻った。

 引き出しを開けて、ハルくんのノートを取り出した。表紙の「入院中のこと」という文字を、もう一度見た。丸くて、少し不格好な字。何度見ても、陽らしいと思う。

 カナはノートをゆっくりと引き出しに戻した。

 家に持って帰ることも考えた。でも、それは違う気がした。このノートは自分の部屋にあるべきものではない。ここにあるべきだ。仕事をしている場所に。患者のことを考える場所に。読みたくなったら読む。忘れそうになったら開く。ハルくんの言葉が根っこになる、とカナは思った。根っこは、土の中にあるほうがいい。引き出しという小さな土の中に、このノートはあればいい。

 引き出しを閉めた。

 カナはしばらく、その引き出しを見ていた。

 「六月十二日。明日退院。ありがとう」

 その文字が、目を閉じても浮かんだ。ありがとう、という言葉を、カナはこれからも受け取り続けるだろう。患者から、家族から、時には言葉にならない形で。そのたびに、この引き出しの中のノートのことを思い出すだろう。自分がなぜここにいるのかを、思い出すだろう。

 ハルくんが教えてくれたことがある。

 機械の向こうに人間がいること。声が届いていること。毎朝来るということが、誰かの安心になること。それは数値では測れないけれど、確かにある。CEという仕事の中に、数値では測れないものが確かにある。

 カナは立ち上がった。

 窓の外に、六月の雨が見えた。梅雨の雨は静かで、音もなく地面を濡らす。病院の庭の木々が、雨に濡れて少し濃い緑になっていた。

 アキが戻ってきた。点検バッグを肩にかけたまま、カナを見た。

 「大丈夫?」

 「はい」カナは答えた。「大丈夫じゃないかもしれないけど、大丈夫にしていきます」

 アキが少し考えてから言った。「それでいい」

 「先輩」

 「なに」

 「ハルくんのノート、CE室に置いておいていいですか。引き出しの中に」

 「いいよ」

 「ありがとうございます」カナが少し微笑んだ。「仕事してる場所に置きたくて。ここが、私の根っこになってる場所だから」

 アキは何も言わなかった。でも、引き出しのほうを一度だけ見てから、自分の席に座った。その横顔が、いつもより少しだけ柔らかかった。

 CE室に夕方の光が差し込んでいた。雨の日の光は白く、影が薄い。でも確かに、ここを照らしている。

 カナは自分の席に座って、ノートを開いた。ハルくんのノートではなく、自分の仕事用のノート。今日学んだことを書き留める、いつものノートだ。

 ページの上に、一行書いた。

 「機械の向こうに、人がいる」

 ハルくんの言葉でもあり、アキの言葉でもあり、今日カナが自分のものにした言葉だった。二年後、呼吸療法認定士の試験を受けるとき、この言葉を持って行こうと思った。その先も、ずっと。

 雨が、窓を静かに叩いていた。

 廊下の奥から、モニター音が届いてくる。

 ピッ、ピッ、ピッ。

 今日も、誰かが生きている。その音が、雨音の中に混ざって、CE室に満ちていた。



読んでくださってありがとうございます。

「機械の向こうに、人がいる」——カナが自分のノートに書いたこの一行は、この作品全体を貫くテーマです。アキがプロローグから抱えていた問いに、カナが別の角度から答えを出した章でもあります。

ハルくんのノートは、CE室の引き出しの中にあります。これから先も、ずっと。

第六章へ続きます。

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