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第四章 朝ドラみたいな後輩

第四章は、三月の終わり、春の匂いが漂う病棟から始まります。


アキの前に現れたのは、眩しいほどの笑顔と声量を持つ新人・宮永カナ。

正確な手順と数値を何より重んじてきたアキに対し、カナはまず「患者の顔」を見ることから始めます。


「機械と患者の間に立つ人間」——カナが放つこの言葉が、アキが五年かけて守り続けてきた景色を、少しずつ変えていきます。


どうぞお付き合いください。

 三月の終わりは、病院の中でも春の匂いがした。

 外来棟のロビーに飾られた桜の枝もの、新しい白衣の糊の匂い、どこかそわそわした空気。四月の人事異動と新人配属を前にして、ベテランスタッフたちが少しだけ落ち着かない顔をする、この季節が、アキは毎年少し苦手だった。自分が新人だったころの記憶が、意図せず蘇るからだ。

 何もわからなかった。

 チェックリストの意味すら理解できないまま先輩の後ろを歩き、アラームが鳴るたびに心臓が跳ね上がり、自分がここにいていいのかわからなくて、更衣室で一人息をついていた、あの春。今のアキには、あの頃の自分に何を言ってやれるだろうか。怖いままでいい、と一ノ瀬が言った。怖いから確認する。怖さが命を守る。あのころの自分に、その言葉を届けてやれたら、少しは楽だっただろうか。

 今年の四月から、CE室に新人が一人配属される。

 古賀技士長から名前だけは聞いていた。宮永カナ。二十一歳。三年制の医療専門学校卒。実習先での評判は良好、と技士長は言っていた。

 「どんな子かな」とユウが言った。

 「来てみればわかる」とアキは答えた。

 四月一日、朝八時の十分前。

 CE室のドアが、勢いよく開いた。

 「おはようございます! 本日よりお世話になります、宮永カナです! よろしくお願いします!!」

 声が、廊下まで響いた。

 アキは思わず顔を上げた。ユウも顔を上げた。古賀技士長がコーヒーカップを持ったまま固まった。

 ドアの前に立っていたのは、小柄な女性だった。肩までの黒髪、真新しい白衣、ぴんと伸びた背筋。そして、病院という場所の持つ独特の緊張感をものともしない、真正面からの笑顔。病棟中が振り返るような声量だった。

 古賀技士長が最初に口を開いた。「……元気だな」

 「はい!」

 「座っていいぞ」

 「ありがとうございます!」

 ユウがアキの耳元で小声で言った。「朝ドラみたいな子だな」

 アキは返事をしなかった。ただ、宮永カナという新人を、少し距離を置いて観察していた。

 眩しい、とアキは思った。眩しすぎて、少し目が痛い。

 あの笑顔は、どこから来るのだろう。初日の、何もわからないはずの朝に、あれだけ真っすぐ笑える人間が、どういう準備をしてここに来たのだろう。アキは自分の初日を思い出そうとした。確か、更衣室で三回深呼吸をして、チェックリストを二度確認してから、CE室のドアを開けた。笑顔だったかどうか、記憶がない。

 ――私には、ああいう顔ができなかった。

 それが羨ましいのか、それとも別の何かなのか、アキには判断がつかなかった。


カナの指導は、アキが担当することになった。

 基本的な機器の取り扱い、点検手順、記録の書き方。アキが五年かけて積み上げてきたことを、順番に教えていく。カナは飲み込みが早かった。教えたことはきちんと吸収する。手順を間違えたときは自分でどこが違ったかを言語化できる。メモの取り方も丁寧で、帰宅前に必ずその日学んだことをノートに整理しているらしかった。

 ただ、一点だけ、アキには気になることがあった。

 カナは、数値よりも先に患者の顔を見る。それに気づいたのは、三日目の点検のことだった。

 輸液ポンプの点検に入ったとき、アキならまず機器のパネルに目が行く。流量、残量、アラーム設定。それから患者の状態を確認する。でもカナは部屋に入った瞬間、まず患者の顔を見る。表情、顔色、体の向き。それから機器に向かう。

 順番が、逆だ。

 アキはカナに声をかけた。

 「カナさん、点検は機器から始める。患者の観察は看護師の仕事と重複する部分もあるから、まず自分の担当範囲を確実に」

 カナが少し考える顔をした。「でも先輩、患者さんの顔色が悪いときって、機器の数値に出る前に顔に出ることありませんか」

 アキは止まった。

 「……それは、そうかもしれない」

 「だから顔を見てから機器を見るほうが、全体がつかめる気がして」

 理屈は、間違っていない。アキにはそれがわかった。でも新人がまずやるべきことは、手順を身につけることだ。応用は基礎の後でいい。

 「順番の話をしてる。基礎手順を体に入れてから、応用を加えていって」

 「はい。わかりました」

 カナが素直にうなずいた。反論ではなく、受け取った、という顔だった。

 アキはそのやり取りの後、一人でCE室に戻りながら、少し考えた。

 自分が新人のころ、患者の顔を見ていただろうか。数値と手順で頭がいっぱいで、患者の表情まで見る余裕があっただろうか。

 答えは、なかった。

 カナに注意しながら、アキは自分が何かを注意されているような奇妙な感覚を覚えた。この子は入職してまだ三日だ。それなのに、自分が五年かけてぼんやりと感じてきた何かを、すでに体でやっている。悔しい、とは違う。ただ、この子の持っているものを、ちゃんと育てなければならない、という気持ちが、静かに湧いてきた。


カナが配属されて二週間が経ったころ、小児病棟で輸液ポンプの点検があった。

 アキとカナの二人で入った。病室に小学五年生の男の子がいた。名前は戸田楓。骨折の術後で入院中で、点滴ポンプが腕に繋がっている。

 カナが機器に向かおうとして、まず楓の顔を見た。アキの注意を受けた後も、やはりそこから始まる。アキは何も言わずに見ていた。

 「こんにちは。機械の確認に来ました」カナが楓に声をかけた。楓の目が、カナの胸元の名札に一瞬止まった。「CE 宮永カナ」と書いてある。

楓が少し警戒した目でカナを見た。「また機械屋さん?」

 「そう、機械屋さん。名前はカナっていいます」

 「ふうん」楓がポンプを見た。「これ、いつ外れる?」

 「お医者さんが決めることだから、私にはわからないけど、でも外れる日は絶対来るよ」

 「絶対?」

 「絶対。だってこれ、ずっとつけてるための機械じゃないから」

 楓が少し考えた。「機械屋さんって、機械の名前みたいだな」

 「え?」

 「機械屋さん、メカちゃんって感じ」

 カナが笑った。「メカちゃん! いいな、それ」

 「ほんとに?」

 「うん。次から呼んでいいよ、メカちゃんって」

 楓が初めて笑った。「じゃあメカちゃん、早く治してよ、機械」

 「それも私じゃなくてお医者さんだけど、機械はちゃんと見ておくね」

 アキはその会話を聞きながら、点検記録をつけていた。

 メカちゃん。

 自分は「メリーちゃん」で、後輩は「メカちゃん」か。アキは少し可笑しくなったが、笑わなかった。ただ、カナが自然に患者の中に入っていく様子を、静かに見ていた。教えていないことを、この子はすでに持っている。技術は教えられる。手順は覚えられる。でも、あの楓くんとの間合いの取り方、警戒した子どもの目を解かせる声のトーン、それはマニュアルに書けるものではない。

 廊下に出てから、アキはカナに言った。

 「楓くん、笑ってたね」

 「はい。最初ちょっと怖い顔してたから、どうしようかと思いましたけど」

 「どうして機械屋さんって呼びかけたの」

 カナが少し考えた。「楓くんが『また機械屋さん?』って言ったから、そのまま使ってみました。否定しないほうがいいかなって」

 アキはその答えを聞いて、黙って歩いた。否定しないほうがいい。相手が使った言葉を、そのまま受け取る。自分だったら、「臨床工学技士です」と正確に答えていたかもしれない。正しいけれど、楓くんの心には届かない答えを。

 ――正確さだけでは届かないものがある。

 おばあさんの言葉が、また頭をよぎった。アキはその言葉を、まだ完全には消化しきれていなかった。でも、カナを見ているとその言葉が少しずつ、具体的な形を持ち始めた。


 四月の第三週、アキはカナを透析室の定期点検に連れて行った。

 カナは実習でも透析室に入ったことがある。知識として知っていた。腎臓が機能しなくなった患者の血液を体外に取り出し、機械で浄化して戻す。一回四時間。週に三回。それが血液透析だ。

 でも今日、ドアを開けて中に入った瞬間、カナは少し立ち止まった。

 六台の装置が並んでいる。それぞれのベッドで、患者が静かに横たわっている。腕から伸びるチューブの中を、暗い赤色の血液が機械へ向かって流れていた。機械を通って戻ってくる血は、少し色が違う。浄化されて、鮮やかになっている。その往復が、音もなく、止まらずに続いていた。

 知っていたのに、知っていたのとは違った。

 アキが最初のポンプの前に立って、チェックリストを開いた。流量、回路内圧、除水量(血液から取り除く余分な水分の量――腎臓が働かない患者の体に溜まった水を、透析によって調整する)。数値を読みながら、チューブを指先でたどる。継ぎ目に緩みがないか。回路に折れがないか。ごく静かな、でも確実な確認だ。

 「このチューブが折れたら」カナが小声で言った。問いではなく、確認するように。

 「アラームが鳴る。でも、アラームが鳴る前に気づくのが仕事だ」

 カナはアキの指先を見た。丁寧に、急がずに、チューブをたどっていく手を。実習のときも、CEの先輩がこうしていた。でも、あのときはまだわからなかった。なぜそこまで丁寧にやるのか。今はわかる気がした。このチューブの向こうに、今この瞬間、誰かの血が流れている。


 四月の最終週、CE室に橋本看護師から連絡が入った。

 「南條さん、小児病棟の橋本です。有村あかりちゃんのことなんですけど、呼吸器の導入が決まって。本人がすごく怖がってて。りおちゃんのときみたいに、話しかけていただけますか」

 アキは自分が行こうとしかけて、少し迷った。カナが楓くんの部屋に入ったときの顔が、頭をよぎった。そして言った。

 「カナさんと一緒に行っていいですか」

 「もちろんです。むしろ助かります」

 カナを連れて小児病棟に向かった。四号室に入ると、ベッドに小学四年生の女の子が座っていた。有村あかり。呼吸器疾患で入院中で、来週から非侵襲的陽圧換気療法(マスクを使って肺に圧をかける呼吸補助の治療法)を開始する予定になっていた。

 あかりはベッドの上で膝を抱えていた。枕を胸に抱きしめて、部屋の隅に置かれた呼吸補助装置を遠い目で見ている。

 「こんにちは」カナが声をかけた。「機械の担当で来ました。あかりちゃん?」

 あかりがうなずいた。でも顔は機械のほうを見たままだ。

 「怖い?」

 小さくうなずく。

 「そうだよね」カナがあかりの視線の先、機械を見た。「知らない機械って怖いよね。私も最初は怖かった」

 あかりが少しだけカナを見た。「お姉さんも?」

 「うん。でもね、この機械もね、実は緊張してると思う」

 「機械が?」

 「そう。あかりちゃんのこと、ちゃんと助けられるかなって。初めて会う子だから、うまくできるかなって」

 あかりが機械を見た。首をかしげる。「機械が緊張するの?」

 「きっとしてると思う。だってあかりちゃんのために一生懸命動こうとしてるから」

 あかりがしばらく考えた。それから、ゆっくりと枕を離した。

 「じゃあ、名前つけてあげる」

 「名前?」

 「緊張してるなら、名前あったほうが安心するかなって」あかりが機械をじっと見た。しばらく考えるように首をかしげて、それから小さくうなずいた。「フーフーちゃん」

 カナが隣で小さく笑った。アキも廊下側の壁に寄りかかったまま、その言葉を聞いていた。

 「フーフーちゃん、か。いい名前だね」

 「うん。息を助けてくれるから、フーフーちゃんがぴったりかなって」あかりが機械を見た。表情が、さっきより少しだけ柔らかくなっている。「私も緊張してるから、一緒に頑張ろうって思って」

 カナがあかりの隣に座った。「一緒に頑張ろう。私も毎日見に来るから」

 あかりが初めて、小さく笑った。

 カナは白衣のポケットから水色の付箋を取り出して、青いペンで一言書いた。あかりに渡す。「怖くなったら、これ見て」あかりが付箋を受け取った。「味方は、ちゃんとそばにいる」と書いてある。あかりがその文字を読んで、もう一度だけ笑った。

 廊下に出てから、アキはカナに言った。

 「よかった」

 カナが少し驚いた顔をした。アキが自分から「よかった」と言うとは思っていなかったのかもしれない。

 「先輩も最初、りおちゃんにそうやって教えてくれたんですよね」

 アキは少し驚いた。「橋本さんから聞いたの?」

 「はい。機械に意味を与えることを、先輩が教えてくれたって」

 アキは答えなかった。ただ、廊下の窓から見える春の空を少しの間、見ていた。

 自分がやってきたことが、見えないところで誰かに届いていた。それが今、カナという形を取って目の前にいる。橋本がアキのやり方をカナに話して、カナがそれを自分なりに解釈して、あかりちゃんの前に立った。りおちゃんへの言葉が、カナを経由して、あかりちゃんに届いた。

 そういうことか、とアキは思った。

 渡していく、ということは、こういうことか。


その夜、CE室でユウとアキが残業をしていると、カナが記録をつけながら言った。

 「先輩、質問していいですか」

 「どうぞ」

 「CEって、患者さんに何を届ける仕事だと思いますか」

 アキはペンを止めた。

 予想していない問いだった。入職して一ヶ月にもならない新人が、仕事の本質を問うてくる。アキは少し考えてから答えた。

 「機械の安全」

 「それだけですか」

 「……安心、も」

 カナがうなずきながらノートに書き込んだ。「私、今日あかりちゃんに会って思ったんですけど、機械って、患者さんにとっては怖いものじゃないですか。冷たくて、硬くて、よくわからないもの。でもその機械を怖くなくするのって、機械そのものじゃなくて、機械のそばにいる人間だと思って」

 アキはカナを見た。

 「だからCEって、機械と患者さんのあいだにいる人間なんじゃないかな、って」

 ユウが「それいい言葉だな」と言った。カナが透析室で見た光景が、その言葉の背骨にあることを、アキは知っていた。

 アキは何も言わなかった。でも、カナの言葉が胸の中にゆっくりと落ちていくのがわかった。

 ――機械と患者のあいだにいる人間。

 五年かけて自分がぼんやりと感じていたことを、この子は入職一ヶ月で言葉にした。悔しいとは思わなかった。ただ、この子の言葉を、ちゃんと育てたいと思った。そして同時に、自分がまだその言葉を持てていなかったことを、静かに恥じた。りおちゃんのそばで感じていたこと、一ノ瀬の「機械の先に患者がいる」という言葉、おばあさんの「やさしい手」という言葉。それらが指し示していたものを、カナはあっさりと一文で言い切った。

 ――機械と患者のあいだにいる人間。

 CE室の外を、誰かが足早に歩いていった。廊下の音が、少しだけ遠くなった。

アキはその言葉を、頭の中で繰り返した。繰り返すたびに、自分の仕事の輪郭が、はっきりしていった。機械を管理することと、患者のそばにいることは、別のことではない。機械を通して、患者のそばにいる。その橋渡しをするのが、CEだ。

 「カナさん」

 「はい」

 「そのノート、大事にして」

 カナが少し嬉しそうな顔をした。「はい。先輩に言ってもらえると思ってなかったから、嬉しいです」

 「言ってほしかったの?」

 「はい。先輩、褒めない人かなって思ってたので」

 ユウが吹き出した。アキは少し眉を上げた。

 「……そんなに褒めない?」

 「あんまり」カナが笑った。「でも今日初めて言ってもらえたから、百倍嬉しいです」

 アキはユウを見た。ユウが「そういうもんだよ」という顔をしていた。

 アキは小さく息をついて、記録に向き直った。褒めない人、か。自分ではそのつもりはなかった。ただ、正確に評価しようとすると、言葉が慎重になる。褒めるべき根拠が揃ってから言おうとする。その間に、相手は褒められないまま不安になる。そういうことを、アキはこれまで考えたことがなかった。

 カナがいると、自分のことが見えてくる気がする。

 鏡を突然置かれたような感覚だ。自分では気づいていなかった癖や習慣が、カナという存在を通して浮かび上がってくる。それが居心地悪いかといえば、そうでもない。ただ、少し、これまでと違う目で自分を見始めている。

 「先輩」カナがまた口を開いた。

 「なに」

 「あかりちゃんが『フーフーちゃん』って名前つけてくれたじゃないですか」

 「うん」

 「楓くんは私に『メカちゃん』って名前をつけてくれて」カナが少し照れたように続けた。「患者さんが名前をつけてくれるって、すごいことだと思って。怖かったものに名前をつけるって、受け入れたってことですよね」

 アキはカナを見た。

 「そうだよ」

 「先輩は、メリーちゃんって呼ばれてますよね」

 「うん」

 「それも、誰かが受け入れたってことですね。先輩のことを」

 アキは少しの間、黙った。

 メリーちゃん。最初は納得できなかった愛称。でも今は、その呼び名に込められた親しみを、受け取れるようになっている。カナの言い方で聞くと、それが「受け入れられた証拠」に見えてくる。患者が機械に名前をつけるように、患者やスタッフがアキに「メリーちゃん」という名前をつけた。怖くて遠ざけていたものが、隣にある存在になった、ということ。

 「……そうかもしれない」

 アキは静かに言った。

 カナがノートに何かを書き込んだ。アキには見えなかったが、「名前は、受け入れた証拠」と書かれたらしかった。それをアキが知るのは、ずっと後のことだ。

 ユウが伸びをしながら立ち上がった。「そろそろ上がろうか。明日も早い」

 「はい」カナがノートを閉じた。「先輩、今日はありがとうございました。あかりちゃんに会えてよかったです」

 「あなたがいたからよかったんだよ」

 カナが少し目を丸くした。アキが続けて言うとは思っていなかったらしい。

 「……ありがとうございます」

 「明日もよろしく」

 「もちろんです!」

 その声が、またCE室に響いた。ユウが笑い、アキは苦笑した。朝ドラみたいな声量は、夜になっても変わらないらしい。

 カナが帰っていった後、アキとユウは並んで片付けをした。

 「どうだった、一ヶ月」ユウが言った。

 「早かった」

 「カナさんのこと、どう思う」

 アキは少し考えた。「眩しい」

 「最初からそう言ってたな」

 「最初は目が痛かった。今は……少し違う」

 「どう違う」

 「眩しいけど、目が慣れてきた」アキは窓の外を見た。四月の夜は、まだ少し肌寒い。でも空気の中に、確かに春の気配がある。「あの子が持っているものを、私は持っていなかった。でもあの子が持っていないものを、私は持っている。お互いに、足りないものを補える気がする」

 ユウがうなずいた。「それが指導担当ってことだろ」

 「そうかもしれない」

 「でもアキ、今日カナさんを褒めてたな。あれ、初めて見た」

 アキは少し黙った。「褒めない人、って言われたから」

 「それだけ?」

 「……褒める根拠が揃ってたから」

 ユウが笑った。「正直だな」

 「うるさい」

 二人でCE室の電気を消した。廊下に出ると、春の夜の病院は静かだった。モニター音が遠くから届いてくる。ピッ、ピッ、ピッ。誰かが今夜も生きている。

 アキは白衣のポケットに手を当てた。りおちゃんのクレヨンの絵は、まだそこにある。くたびれてきたその紙が、今夜は少し違う温もりを持っていた。

 機械と患者のあいだにいる人間。

 カナの言葉が、胸の中でまだ響いていた。自分はずっとそこにいた。でも今日初めて、その場所に名前がついた。名前がつくと、立っている場所がはっきりする。揺れない。

 廊下の窓から、夜の空が見えた。四月の夜空に、春の星がかすかに光っていた。

 CE室の電気が消えて、廊下だけが白く伸びている。

 春が、ここにも来ていた。



読んでくださってありがとうございます。


「機械と患者の間に立つ人間」。

カナが口にしたこの言葉は、アキが現場で悩み、一ノ瀬先生や患者さんたちから受け取ってきた想いが、一つの形になったものでした。


技術を教えるだけでなく、かつて誰かから受け取った「想い」を後輩へと手渡していく。そうして言葉が誰かを経由して、また別の誰かへと届いていく「継承」の姿を描きたかった章です。


アキは二十七歳。次は、命の鼓動をダイレクトに感じる過酷な現場、第五章へ続きます。

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