第三章 正しさという鎧
第三章では、アキが「見落とし」をします。
完璧なチェックリストを持ち、正確さを誰より大切にしてきたアキが、なぜ見落としたのか。そしてその後、どう向き合うのか。
「完璧を目指すのと、完璧じゃないと怖いのは、似てるようで違う」——ユウの言葉が、この章を貫いています。
十二月に入ると、病院の空気が少し変わる。
廊下の温度設定は変わらないのに、外から持ち込まれる冷気が上着の袖口やドアの隙間から滲み込んでくる。患者の面会者がコートを着て来るようになり、ナースステーション前の手指消毒液の減りが早くなる。インフルエンザと感染性胃腸炎の季節が始まるのだ。
CE室でも、冬は点検頻度が上がる時期だった。
加温加湿器の設定見直し、透析装置の配管の保温確認、人工呼吸器フィルターの交換周期の短縮。アキはチェックリストを十一月版から十二月版に更新しながら、いつもより少し細かい項目を書き加えた。
「また増えてる」
隣でユウが自分のリストと見比べながら言った。
「冬は感染リスクが上がるから」
「わかってるけど、項目が毎年増えていくんだよな、お前のリスト」
「抜けるよりいい」
「そうだけど」ユウが苦笑した。「完璧を目指すのと、完璧じゃないと怖いのは、似てるようで違うぞ」
アキはペンを止めた。「どう違うの」
「前者は楽しそうで、後者は鎧みたいだ。重くなるばかりで、脱げなくなる」
答えが出なかった。アキはリストに視線を戻して、ペンを動かした。
その日の午後、アキは三西病棟の点検ラウンドに入った。
担当機器は輸液ポンプ三台と、シリンジポンプ(注射器を使って微量の薬剤を精密に投与する装置)二台。どれも稼働中で、患者に薬剤を投与している。アキはひとつひとつ、流量の設定値と実測値を確認し、アラーム設定を確かめ、バッテリー残量をチェックした。
問題はなかった。
全台に点検済みのシールを貼り、チェックリストに丸をつける。所要時間、二十三分。いつもどおりだ。
アキは記録を抱えてナースステーションに戻り、担当看護師に声をかけた。
「三西病棟の輸液ポンプとシリンジポンプ、点検完了です。全台異常なしでした」
「ありがとうございます」
それだけで、業務は終わる。廊下に出て、次の病棟へ向かおうとしたとき、後ろから声がした。
「南條さん、ちょっといいですか」
振り返ると、三西病棟の主任看護師・今井だった。先月、フィルター交換の件で言い合いになったあの今井だ。表情が、いつもより硬い。今井が手元の指示書と見比べるように、ポンプの画面に目をやっていた。
「さっき薬剤投与の記録を確認していて気になったんですけど、三号室のシリンジポンプなんですが」
「確認しました。異常はありませんでした」
「流量の設定なんですけどね」今井が手元のメモを見た。「先生の指示が〇・五ミリリットル毎時なんですけど、今ポンプに入ってる設定、〇・〇五になってるんです」
アキの動きが止まった。
「……確認してきます」
早足で三号室に戻った。シリンジポンプの設定画面を確認した。
〇・〇五ミリリットル毎時。
医師の指示は〇・五。
一桁、違う。
アキはすぐに設定変更の履歴を確認した。最後の設定変更は昨日の夜勤帯。入力したのは夜勤の看護師だ。誤入力があったらしかった。そして今日、アキが点検に来たとき、数値は確認した。〇・〇五という数値を見た。見た、はずだ。
でも、指示書と照合しなかった。
アキは自分の点検記録を開いた。流量確認の欄に、丸がついている。自分でつけた丸だ。確認した、という証だ。でもそれは「機器が設定どおりに動いているか」の確認であって、「設定値そのものが医師の指示と合っているか」の確認ではなかった。
点検の範囲と、照合の範囲が、ずれていた。
「患者さんへの影響は」アキは努めて平静な声で今井に聞いた。
「今のところバイタル(脈拍・血圧・体温・呼吸数などの生命徴候)は安定してます。薬剤師に連絡して、投与量の影響を計算してもらってます」
「当直の先生に状況を報告してください」アキはそう頼んで、自分は再度指示書を確認した。
数分後、口頭指示を受けた今井が「先生から確認取れました、〇・五で修正してください」と言った。アキは手袋をつけて、ポンプを操作した。
「修正完了しました。記録に残します」
今井が何か言いかけて、止まった。そしてただ、「わかりました」とだけ言った。
CE室に戻ったアキは、インシデントレポート(医療現場での問題事案を記録・共有するための報告書)の用紙を取り出した。
手が動かなかった。
レポートを書く理由はわかっている。再発防止のために記録する。組織として学ぶために残す。それがルールだ。でも今、アキの頭の中で繰り返されているのはルールではなかった。
自分が確認した。丸をつけた。見落とした。
その三つの事実が、ぐるぐると回っていた。間違えた。マニュアルどおりにやっていたつもりで、間違えた。〇・〇五という数値を見て、何も疑わなかった。指示書との照合という一手間を省いた。省いたのではなく、そもそもその手順が自分の点検リストに含まれていなかった。
完璧だと思っていたリストに、穴があった。
アキはペンを持った。書き始めた。事案の概要、発見の経緯、対応内容。文字を書くたびに、自分の見落としが形になっていく。紙の上に残っていく。消えない。
「南條」
古賀技士長が、CE室のドアから顔を出した。
アキは顔を上げた。「報告に伺おうと思っていました」
「今いいか」
「はい」
古賀技士長は自分の席に座らず、アキの向かいの椅子を引いてそこに座った。小柄で、白髪交じりの頭を持つ五十代の男性だ。いつも穏やかな目をしているが、今は少しだけ違う色がある。
「話を聞いた。今井主任から」
「申し訳ありませんでした」
「謝罪より先に聞かせてくれ。何があったか、自分の言葉で」
アキは話した。点検の手順、見落とした箇所、照合の欠如。整理して、正確に。感情を排して報告する。それがアキの話し方だった。
技士長は黙って聞いた。
アキが話し終えると、技士長はしばらく何も言わなかった。
「南條、ひとつ聞いていいか」
「はい」
「お前は今、何を一番怖いと思ってる」
アキは答えに詰まった。患者への影響を怖いと思った。自分のミスを怖いと思った。でも今、この瞬間に一番怖いのは――
「……また間違えることです」
技士長が小さくうなずいた。
「そうか。じゃあもうひとつ。このリストの穴を、なぜ今まで誰も指摘しなかったと思う」
「私が気づかなかったからです」
「それだけか」
アキは黙った。
技士長が続けた。「お前のリストは完璧に見えた。だからチームの誰も疑わなかった。完璧に見えるものは、疑われない。疑われないから、穴があっても誰も見つけられない」
「……私の管理の問題です」
「南條だけの問題じゃない」技士長の声は穏やかだが、はっきりしていた。「チームで確認し合う仕組みが足りなかった。それはお前一人のせいじゃない」
「でも、私が――」
「お願いだから、自分を壊すな」
その言葉が、アキの喉を塞いだ。
技士長が静かに言った。「お前が自分を責めるのはわかる。責任感が強いからだ。でもな、南條、自分を壊してしまったら、次の患者を守れなくなる。それが一番困る」
アキは下を向いた。
「リストを見直せ。ユウにも確認させろ。二人で作り直せ。それがお前にできる、一番まともな再発防止だ」
「……はい」
「それから」技士長が立ち上がりながら言った。「インシデントレポート、正直に書いてくれ。お前が悪く見えるように書く必要はない。起きたことを、そのまま書けばいい」
技士長が部屋を出ていった。
アキはしばらく動けなかった。
自分を壊すな、という言葉が、胸の中でゆっくりと広がっていた。壊してどうするつもりだったのか、自分でもわからない。ただ、責めれば責めるほど正しくなれると、どこかで思っていた。でもそれは、違うのかもしれない。
アキはもう一度、インシデントレポートに向かった。今度は、手が動いた。起きたことを、そのまま書く。自分を守るためでも、責めるためでもなく、ただ事実として残す。それだけのことだ。書き終えたとき、外はもう暗くなっていた。
その夜遅く、CE室に残ってリストを見直していると、ユウが戻ってきた。
「まだいたのか」
「リストを作り直してる」
ユウがアキの手元をのぞいた。「俺も手伝う」
「いい。私のミスだから」
「技士長に言われただろ、二人でやれって」
アキは顔を上げた。「聞いてたの」
「ドアが少し開いてた」ユウが椅子を引いて座った。「怒らないから、見せてくれ」
アキはリストをユウのほうに向けた。ユウが一項目ずつ、指でたどりながら見ていく。
「ここ、指示書との照合が抜けてるな」
「そこが今回の穴」
「あとここも。バッテリー残量の確認はあるけど、バッテリー交換推奨時期との照合がない」
「……気づいてなかった」
「俺も今まで気づかなかった。お前のリストを信用してたから」
アキはその言葉の重さをゆっくりと受け取った。信用していたから疑わなかった。それは技士長の言葉と同じことだ。完璧に見えるものは疑われない。
「ごめん」
「謝罪はいらない。直せばいい」
二人でリストに書き込んでいった。照合項目を加え、確認の順番を整理し、二人がそれぞれ確認する欄を設ける。声を出して確認するダブルチェック(二人以上で独立して同じ項目を確認する手順)の手順も書き加えた。
「重くなったな」ユウが言った。
「でも、穴は減った」
「うん」ユウがペンを置いた。「なあ、アキ」
「何」
「完璧を目指すのと、完璧じゃないと怖いのは違うって、今日の朝言っただろ」
「覚えてる」
「今のお前は、どっちだ」
アキは三ページになったリストを見た。怖かったから作り直した。でも、作り直しながら、少しだけ楽になった。一人でやっていたときより、ユウと並んでやっているほうが、手が動いた。
「……さっきまでは後者だった」
「今は?」
アキは少し考えた。「わからない。でも、さっきよりはましかもしれない」
ユウが小さく笑った。「そっか」
それ以上は言わなかった。二人で新しいリストに最後の確認を入れて、印刷した。CE室の時計が、深夜零時を回っていた。
翌週、アキは一ノ瀬に廊下で呼び止められた。
インシデントレポートは院内の関係部署に共有される。一ノ瀬もそれを読んだのだろう、とアキは思った。カンファレンス以来、一ノ瀬はアキが提出する体外循環記録に毎回目を通すようになっていた。コメントが記録の余白に書き込まれて戻ってくることもある。短い言葉だが、どれも的確だった。
「南條、少しいいか」
「はい」
一ノ瀬が歩きながら話した。アキはその隣に並ぶ。
「先日の輸液ポンプの件、聞いた」
アキは少し緊張した。「ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ではない」一ノ瀬が真っすぐ前を見たまま言った。「お前はどう受け取った」
「自分のリストに穴があったと理解しました。現在は改訂済みです」
「それだけか」
アキは少し間を置いた。
「……怖かったです」
「何が」
「見ていたのに、見えていなかったことが。確認したつもりで、していなかったことが」
一ノ瀬が少しだけ歩調を緩めた。
「怖いままでいい」
アキは思わず一ノ瀬を見た。
「怖くなくなったら終わりだ。怖いから確認する。怖いから手順を疑う。怖さを捨てた技術者に、俺は命を預けたくない」
「……先生は、怖くないんですか」
廊下の向こうから、ナースステーションの電話が鳴る音がした。誰かが出た。それだけの音だった。
一ノ瀬が少しだけ間を置いた。
「怖い。毎回だ。それが命を大事にしている証拠だと、俺は思っている」
アキは前を向いた。廊下の先に、外の光が見えた。冬の午後の、薄い白い光。
怖いままでいい。
その言葉が、責めるための言葉ではなく、進むための言葉として、アキの中に落ちた。
一ノ瀬が少し歩いてから、また口を開いた。
「南條、ひとつ聞いていいか」
「はい」
「お前は今、何のために仕事をしている」
アキは少し驚いた。予想していない問いだった。廊下を歩きながら、足が一瞬だけ迷った。
「……患者さんを守るために」
「それだけか」
「命を預かる機械を、正確に管理するために」
「それだけか」
アキは黙った。同じ問いを二度繰り返す一ノ瀬の言い方が、「もっと先がある」と言っているように聞こえた。でも、その先が何なのか、すぐには言葉にできなかった。
一ノ瀬が続けた。「お前は今回、何を見落とした」
「指示書との照合です」
「なぜ照合しなかった」
「リストに項目がなかったから」
「なぜリストに項目がなかった」
「……私が、そこまで想定していなかったから」
一ノ瀬が少し間を置いた。「機械が正しく動いているかどうかを確認することと、機械が正しい目的のために動いているかどうかを確認することは、別のことだ。お前はこれまで前者をやってきた。今回の件は、後者が抜けていたということだ」
アキはその言葉を頭の中で繰り返した。機械が正しく動いているか。機械が正しい目的のために動いているか。
「……それが、私に足りなかったことですか」
「足りなかったというより、次に加えることだ」一ノ瀬の声は相変わらず抑揚が少ないが、責めている色がない。ただ、事実を並べている。「機械の先に患者がいる。患者に何が必要かを知った上で、機械を管理する。それがCEの仕事の本質だと、俺は思っている」
アキは廊下の先を見た。冬の光が、白く薄く伸びている。
機械の先に患者がいる。
その言葉は、りおちゃんのクレヨンの絵と重なった。機械を真ん中に描いた絵。機械は怖いものではなく、患者と自分をつなぐものとして描かれていた。あの絵が言っていたことと、一ノ瀬が今言ったことは、同じことだ。五歳の子どもと、孤高の外科医が、同じことを言っている。
「ありがとうございます」
一ノ瀬はうなずいて、外科病棟のほうへ歩いていった。
アキはその背中を見送ってから、白衣のポケットに手を入れた。りおちゃんのクレヨンの絵は、まだそこにある。一ノ瀬が言った「機械の先に患者がいる」が、あの絵にはすでに描かれていた。五歳の子どもが、一枚の紙に描いていたことを、外科医が言葉にした。そして今、自分もやっとそれを言葉にできた。
正しさという鎧を着込んで、その重さに押しつぶされそうになっていた。でも鎧は捨てなくていい。ただ、怖さを抱えたまま歩けばいい。機械の先に患者がいることを、忘れなければいい。
アキは歩き出した。次の点検へ向かう足が、少しだけ軽くなった。
その夜、アキはもう一度ICUに寄った。
消灯後の廊下は静かで、モニターの光だけが点滅している。入院から一ヶ月が経つ七十代の男性患者が、今夜も眠っていた。人工呼吸器の波形が、規則正しく上下している。
アキはベッドサイドに立って、機器を確認した。回路の接続状態。加温加湿器の水位。呼気弁の動作。それからチェックリストを開いて、新しく加えた項目に目をやった。投与中の薬剤名と指示書との照合。バッテリー交換推奨時期の確認。ダブルチェックが必要な項目には、赤いマークが入っている。
一つひとつ、確認した。
怖いから確認する。怖さを捨てた技術者に、命は預けられない。一ノ瀬の言葉が、手を動かすたびに聞こえた。
患者の顔を見た。眉間の皺が、先週より少し薄くなった気がする。気のせいかもしれない。でも、この人の肺は今夜も動いている。呼吸器が助けて、アキが管理して、看護師が見守って、医師が判断して。誰か一人が欠けても、成り立たない。
――機械の先に、患者がいる。
アキは小さく息を吐いた。チェックリストに最後の丸をつけて、ファイルを閉じた。
ピッ、ピッ、ピッ。
モニター音が廊下を満たしている。誰かが今夜も生きている音だ。
アキは白衣のポケットに手を入れた。クレヨンの絵の感触が、指先に伝わってくる。くたびれた紙の温もり。りおちゃんが描いた「ぴっぴっぴっ」という文字が、暗い廊下の中でも目に浮かぶようだった。
怖いままでいい。
怖いから、ここに来る。怖いから、確認する。怖いから、丁寧に触れる。その怖さが、この人の命を守ることにつながっている。それがわかれば、怖さは敵ではない。怖さは、仕事の道具だ。
アキはICUを出た。廊下の蛍光灯が、白く冷たく伸びている。
正しさという鎧は、まだ背中にある。重い。でも今夜は、その重さの意味が少しだけ違って感じられた。鎧は自分を守るためだけにあるのではない。その重さを引き受けることで、患者を守れる。そういう重さだ。
アキは歩き出した。
怖さを抱えたまま、白衣の裾を翻して、夜の廊下を進んだ。次の点検へ。次の朝へ。その先にある、まだ見えない何かへ向かって。
廊下の奥で、モニター音が鳴り続けていた。
ピッ、ピッ、ピッ。
今夜も、誰かが生きている。
夜遅く、CE室でユウに新しいリストを渡したとき、アキは言った。
「昨日の問いの答え、出た」
「どっちだった」
「まだわからない。でも、怖さを道具にしようとは思えた」
ユウが少し笑った。「上等だろ」
CE室の時計が、深夜零時を回っていた。
窓の外で、年が変わった。
アキは気づいていたが、何も言わなかった。ユウも気づいていたのかどうか、わからない。ただ、新しいリストの一番上に「南條アキ 担当」と書いたとき、この名前はまた一つ、年を重ねたのだと思った。二十七歳。怖さを道具にしようとした、その夜が誕生日だった。悪くない、とアキは思った。
読んでくださってありがとうございます。
「怖いから確認する。怖さを捨てた技術者に、命は預けられない」——一ノ瀬先生のこの言葉は、臨床工学技士という仕事の核心だと思っています。
正しさは鎧になる。でも鎧は捨てなくていい。その重さの意味を知ることが、次の一歩になる。アキはまだ二十七歳です。
第四章へ続きます。




