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第二章 数値の先に人がいる

第二章では、アキが小児病棟に足を踏み入れます。

子どもが相手だと、正確な説明が届かない。数値を見せても意味がわからない。アキが最も苦手とする場面です。でも、そこで出会ったりおちゃんが、アキの中の何かを変えていきます。

「ぴっぴっぴっ」という言葉を、ぜひ覚えていてください。この作品を通じて、ずっと響き続ける音です。

 十一月の第二週、アキは小児病棟への定期ラウンドを一人で担当することになった。

 小児病棟は、CE室から見て病院の北棟の四階にある。エレベーターを降りると、廊下の壁に手書きのイラストが貼られていた。クレヨンで描いたひまわり、丸い太陽、名前もわからない生き物たち。子どもたちが描いたものだろう。医療機器の金属的な光沢と、クレヨンの素朴な色が、同じ廊下に並んでいる。

 アキはその廊下がどこか苦手だった。

 技術的な問題ではない。子どもが相手だと、正確な説明をしても届かないことが多い。数値を見せても、意味がわからない。マニュアルどおりの言葉が、まるで違う言語のように空を切る。アキには、その空白の埋め方がわからなかった。

 「南條さん、来てくれた」

 ナースステーションから顔を出したのは、小児病棟担当の看護師・橋本だった。三十代前半で、いつも髪をひとつに束ねている。子どもたちからは「はしもとせんせい」と呼ばれているらしい。

 「輸液ポンプの確認と、五号室の人工呼吸器の定期点検です」

 「ありがとうございます。あ、五号室なんですけど、りおちゃん、今日ちょっと気難しくて」

 「りおちゃん?」

 「五歳の女の子。先週から呼吸器つけてるんですけど、機械がこわいって言って、ずっと泣いてたんです。昨日ようやく落ち着いたんですが、また今朝から」

 アキは少し間を置いた。「点検中は、なるべく手早くやります」

 「それが……」橋本が少し言いにくそうに続けた。「手早くやっても、やっぱり怖いものは怖いみたいで。南條さん、子どもと話すの得意ですか?」

 「……あまり」

 橋本が苦笑した。「正直ですね」

 五号室の前でアキは一度立ち止まった。

 ドアの小窓から中を確認する。ベッドに小さな体が横たわっている。白いシーツの上に、細い腕。鼻のあたりにマスク型の人工呼吸器インターフェース(呼吸器と患者をつなぐ接続部品)が装着されていて、その横でお母さんらしき女性が椅子に座って手を握っていた。子どもは起きていた。天井を見ている。

 アキは静かにドアを開けた。

 「こんにちは。機械の確認に来ました、南條です」

 母親が会釈する。子どもがアキを見た。丸い目が、すぐに呼吸器のほうへ向いた。眉が下がる。

 アキは機器に近づきながら、子どもをちらりと観察した。泣いてはいない。でも、肩が固まっている。機械が怖い。その気持ちが、小さな体ににじみ出ていた。

 チェックリストを開く。回路の接続状態、呼吸回数の設定値と実測値、吸気圧・呼気圧のバランス、加温加湿器の水位――

 「それ、なに」

 声がした。

 アキは手を止めた。子どもが、アキの持っているチェックリストを指差していた。

 「点検の記録表です」

 「きろく?」

 「この機械がちゃんと動いてるか、確かめた記録」

 子どもが少し考えた。「なんで確かめるの」

 「ちゃんと動いてないと、困るから」

 「だれが」

 アキはまた少し止まった。「……りおちゃんが」

 子どもの目が、わずかに変わった。

 「わたしの名前、しってるの」

 「橋本さんに教えてもらいました」

 りおが呼吸器のほうをまた見た。「これ、こわい」

 「そうか」

 アキは答えてから、自分の言葉の薄さに気づいた。「そうか」では何も届かない。でも、「怖くないよ」と言うのも違う気がした。りおが怖いと感じているのは本当のことだから。

 アキはしゃがんだ。ベッドのりおと、目の高さを合わせる。

 「この機械ね、りおちゃんの呼吸を手伝いたいんだって」

 言葉が出てきたのは、自分でも驚くほど自然だった。マニュアルにない言葉だ。でも、嘘でもない。

 りおが首をかしげた。「てつだいたい?」

 「うん。りおちゃんの呼吸するところが少し疲れてるから、代わりに空気を送ってくれてる。一生懸命、りおちゃんのために動いてる」

 「……でも、おとがこわい」

 ピッ、ピッ、という一定のリズム音――SpO₂モニターの音のことだろう。アキは少し考えた。

 「その音はね、りおちゃんがちゃんと息できてるよ、って教えてくれてる音なの。ちゃんと生きてるよ、って」

 りおが音に耳を傾けた。ピッ、ピッ、ピッ。

 「……わたしが、いきてる音?」

 「そう」

 りおはしばらく、その音を聞いていた。眉間の緊張が、少しだけほどける。

 「じゃあ、わたしの音だ」

 「そうだよ」

 りおが初めて、かすかに笑った。


アキは立ち上がり、点検を再開した。手が動きながら、胸の中に何かが静かに広がっていくのを感じた。正しいことを伝えるだけでは足りないことがある。りおに必要だったのは数値ではなく、この音が「自分のもの」だという感覚だったのかもしれない。

 点検を終えてチェックリストに丸をつけながら、アキはりおにもう一度声をかけた。

 「また来ます。機械が元気かどうか、確かめに」

 「また来る?」

 「うん」

 「……じゃあ、また音、きかせて」

 アキはうなずいた。「もちろん」

 廊下に出ると、橋本が待っていた。

 「どうでした?」

 「なんとか」

 「りおちゃん、笑ってましたよ」橋本が少し驚いたように言った。「あの子が笑ったの、入院してから初めてかもしれない」

 アキは答えなかった。ただ、チェックリストを胸に抱えながら、北棟の廊下をゆっくりと歩いた。クレヨンのひまわりが、窓から差し込む光の中で少し輝いて見えた。

 りおの病室を訪れるようになって、一週間が経った。

 毎日来るわけではない。人工呼吸器の点検スケジュールは、状態が安定していれば二日に一度だ。それでもアキは、点検以外の日にも北棟の前を通るとき、少し歩調を緩めるようになっていた。

 りおはアキが来るたびに、決まって「音きかせて」と言った。

 アキが呼吸器のモニターを操作して波形を見せると、りおは真剣な顔で画面をのぞいた。「これがわたしのいき?」「そうだよ」「おおきいの?ちいさいの?」「ちょうどいい」「ちょうどいいってなに」「りおちゃんにぴったり、ってこと」。

 そういう会話が積み重なっていった。

 ある日、りおが「ロボットおねえちゃん」と言い始めた。

 「ロボット?」

 「だってね、いつもきかいのそばにいるから。ロボットおねえちゃんみたい」

 アキは少し考えた。「私はロボットじゃないけど」

 「でもきかいのこと、なんでもしってる」

 「それは……まあ、そうかも」

 橋本がそれを聞いて、「可愛い。メリーちゃんってロボットみたいよね、確かに」と笑った。「りおちゃんの言う通りかも」。

 アキはその時初めて、「メリーちゃん」という言葉が、からかいでも認知度の低さの表れでもなく、ただ純粋に自分に向けられた親しみだと感じた。小さなことだ。でも、何かが変わった。


 その翌週の金曜日、術後のカンファレンス(症例検討会議)がある、とユウから聞いた。

 「一ノ瀬先生が主催の、体外循環(人工心肺装置を用いて心臓と肺の機能を一時的に代替する手術中の処置)の振り返りミーティングだって。CEも出席OKって古賀技士長が言ってたけど、アキ行く?」

 アキは少し迷った。「内容は?」

 「先週の大動脈弁置換術(心臓の弁を人工弁に交換する手術)の振り返り。体外循環中の圧変動のこととか」

 「行く」

 即答だったので、ユウが笑った。「そう来ると思った」

 カンファレンス室には、外科医三名、麻酔科医一名、看護師二名、そしてアキとユウが集まった。一ノ瀬が前に立ち、手術記録のグラフをスクリーンに映している。

 アキは後方の席に座ったが、資料はしっかり手元に持っていた。聞いた翌日には電子カルテから出力しておいた、手術当日の体外循環記録だ。

 「体外循環中、送血圧が一時的に上昇した区間がある」

 一ノ瀬の言葉に、外科医たちがモニターを見る。アキも自分の記録と照合した。術中の送血圧(人工心肺装置から体に血液を送り出す圧力)の変動グラフ。確かに、手術開始から四十分前後に、短時間の上昇がある。

 「送血カニューラ(血液を体に戻すための管)の位置の問題か、血流量設定の問題か」

 麻酔科医が何か言いかけたとき、アキは手を挙げた。

 場が、一瞬静止した。

 「南條です。その区間、ローラーポンプ(血液を一定速度で送るための装置)の回転数を記録していますが、設定変更のタイミングと圧上昇が一致しています。カニューラ位置よりも、その直前の流量変更が影響した可能性があります」

 一ノ瀬がアキを見た。「根拠は」

 「手術記録と体外循環記録を並べると、圧上昇の直前十秒以内に流量を二・二から二・五リットル毎分に変更しています。変更幅は通常範囲ですが、このケースでは血管抵抗が高めだったため、反応が出た可能性があります。またACT(活性化凝固時間――体外循環中に血液が固まるのを防ぐため適切な範囲に保つ必要がある値)の推移を見ると、その区間の直前に下限に近づいており、追加投与のタイミングとも重なっています」

 沈黙。

 一ノ瀬がスクリーンのグラフを操作して、アキの言う区間を拡大した。数秒間、データを見た。

 「正しい」

 それだけ言った。カンファレンス室に、小さなざわめきが起きた。アキは顔が熱くなるのを感じながら、手元の記録に視線を落とした。

 「体外循環記録の持参者はCEか」

 「はい」

 「次回から全症例分を事前に提出しろ。カンファレンスで使う」

 命令口調だったが、アキにはそれが褒め言葉に聞こえた。次回から、と言った。自分のデータを、これからも使う、と言った。

 ユウが隣で、小さく口笛を吹くような顔をしていた。


カンファレンスの帰り道、ユウが廊下でアキの横に並んだ。

 「やるじゃん」

 「データを出しただけ」

 「でも一ノ瀬先生に『正しい』って言わせた人、俺、初めて見た。ああいうカンファ、あの先生いつも外科医としか話さないから」

 アキは少し俯いて歩いた。「緊張した」

 「顔に出てなかったぞ」

 「出てたら困る」

 「それがまたすごいよな」ユウが笑った。「で、どうだった。一ノ瀬先生に認められた気分は」

 アキは少し考えた。認められた、という感覚は確かにある。でもそれより大きかったのは、別のことだ。

 「怖かった」

 「は?」

 「あそこで発言して、もし間違えてたら、と思ったら怖かった。でも間違えてなかった。間違えてないとわかって、ようやく喋れた」

 ユウが少し真顔になった。「……それ、かなり正直だな」

 「聞いたから言ってる」

 「怖いままでいいと思うよ、お前は」ユウが続けた。「怖いからちゃんとやる人間だろ」

 アキはユウを見た。いつもふわりとした雰囲気で、軽口ばかり言っているように見えるのに、このひとはときどきこういうことを言う。

 「……ユウって、たまにいいこと言うよね」

 「たまに、は余計だろ」

 「たまに、だから価値がある」

 ユウが笑った。廊下の蛍光灯が、二人の白衣を均等に照らしていた。

 その週の終わり、りおが退院した。

 アキは点検ラウンドの途中で、廊下でそれに居合わせた。りおが母親と手をつないで、エレベーターに向かっている。小さなリュックを背負って、足取りは軽かった。

 りおがアキを見つけて、駆け寄ってきた。

 「ロボットおねえちゃん!」

 「退院するんだね」

 「うん!」りおが誇らしそうに胸を張った。「もうじぶんでいきできるから」

 アキは膝をついてりおと目を合わせた。「よかった」

 「ねえ、あの機械、もうつかわなくていいの?」

 「今は使わなくていいよ。りおちゃんの肺がよくなったから」

 りおが少し考えた。「あの音、すきになってたのに」

 「そう?」

 「うん。わたしがいきてる音だって、おねえちゃんが教えてくれたから」

 アキは答えられなかった。

 りおの母親が「本当にお世話になりました」と深く頭を下げた。「最初は機械が怖くて泣いてばかりで。南條さんが来てくださってから、別人みたいに落ち着いて」

 「いえ、りおちゃんが自分で慣れていったんです」

 「でも、きっかけをくださったのは南條さんです」

 りおが思い出したように、リュックをごそごそと開けた。折りたたんだ紙を取り出して、アキに渡す。

 「かいた」

 開くと、クレヨンの絵だった。白衣を着た細長い人と、ベッドに寝た丸い人。二人のあいだに、機械らしき四角い物体。そこから波線が出ていて、その横に「ぴっぴっぴっ」と書いてある。

 「ロボットおねえちゃんと、わたしと、きかい」

 アキは絵を見たまま、少し動けなかった。

 三つの存在が、一枚の絵の中に並んでいる。機械は怖いものではなく、自分と患者のあいだにある「なにか」として描かれていた。橋渡しをするもの。怖くて遠ざけていたものが、今は隣にある。

 「ありがとう」

 声が、少しかすれた。

 りおが手を振りながらエレベーターに乗った。扉が閉まる直前に「またね!」と言った。アキは手を振り返した。扉が閉まった。

 廊下に残ったアキは、折りたたんだ絵を白衣の胸ポケットにしまった。

 それから、北棟の廊下をゆっくりと歩いた。突き当たりの角を曲がったところで、アキは立ち止まった。

 人のいない廊下だった。窓から十一月の光が差し込んでいる。欅の枝が風に揺れているのが見えた。

 アキはその窓に背を向けて、壁にもたれた。

 目の奥が、じわりと熱くなった。

 泣くつもりはなかった。でも、止まらなかった。声は出なかった。ただ、涙が一筋、頬を伝った。

 アキは白衣の袖で目元を拭った。

 誰にも見せない顔だ。でも、ここには誰もいない。窓の外の欅だけが、黙って揺れている。

 ピッ、ピッ、ピッ。

 遠くのモニター音が、廊下の奥から届いてくる。誰かが今も生きている音だ。アキはその音を聞きながら、もう一度だけ深く息を吸った。それから、白衣の胸ポケットに手を当てた。クレヨンの絵が、体温でほんのりと温かかった。


CE室に戻ったのは、昼過ぎだった。

 ユウがデスクで記録を打ち込んでいた。アキが席に座るのを横目で見て、何も言わなかった。アキの目が少し赤いことに、気づいているかもしれなかった。でも、ユウは何も聞かなかった。それがありがたかった。

 二人でしばらく、それぞれの仕事をした。

 キーボードの音と、廊下のモニター音だけが部屋に満ちている。アキは点検記録を整理しながら、白衣の胸ポケットに何度か手を当てた。絵は、まだそこにある。

 「りおちゃん、退院したんだろ」

 ユウが、画面を見たまま言った。

 「うん」

 「よかったな」

 「うん」

 それだけだった。でも、その短いやり取りが、アキには十分だった。説明しなくてもわかってくれる人間が隣にいることの、静かな安心感。入職してから五年、このひとはずっとそういう場所にいた。

 午後の点検ラウンドを終えて戻ってくると、窓の外はもう夕暮れになっていた。十一月の日暮れは早い。オレンジ色の光が廊下を斜めに切って、CE室の床にも伸びていた。

 ユウが缶コーヒーを二本持って戻ってきた。一本をアキの前に置く。

 「今日、お疲れ」

 「今日だけじゃないでしょ、毎日」

 「今日は特別お疲れだろ」

 アキは缶を手に取った。温かかった。ユウはいつもホットを選んでくる。寒い季節になってからは特に。そういう細かいところに、このひとは気が利く。本人は気が利いているつもりがないのかもしれないけれど。

 「ユウ」

 「ん」

 「りおちゃんに絵をもらった」

 「見せて」

 アキは胸ポケットから折りたたんだ紙を取り出して、ユウに渡した。ユウが広げて見た。クレヨンの細長い人と、丸い人と、四角い機械。「ぴっぴっぴっ」という文字。

 ユウがしばらく黙って見ていた。

 「……すごいな」

 「何が」

 「りおちゃん、機械を真ん中に描いてる。怖いものじゃなくて、二人のあいだにいるものとして」

 アキは缶コーヒーを両手で包んだ。「そう見えた?」

 「見えるよ。怖いものだったら、隅っこに描くか、描かないかどっちかだろ。真ん中に描くのは、大事なものだと思ってるからだ」

 アキはもう一度、ユウの手の中の絵を見た。

 確かに、機械は真ん中にある。細長い人――アキ――と、ベッドに寝た丸い人――りお――のあいだに、ちょうど置かれている。橋のように。

 「私、最初はここが苦手だったんだよね」アキはゆっくりと言った。「小児病棟」

 「知ってる」

 「子どもに説明しても届かないから。数値を見せても意味がわからないから」

 「でも届いたじゃないか」

 「届いた」アキは少し間を置いた。「マニュアルじゃない言葉で、届いた」

 ユウが絵をアキに返した。「それがお前の言葉だったんだろ。あなたが生きている音、って」

 アキは絵を受け取って、また胸ポケットにしまった。

 「ユウ」

 「ん」

 「メリーちゃんって呼ばれること、前は納得できなかったって言ったじゃない」

 「言ってた」

 「最近、少しだけ変わってきた気がする」

 ユウが缶コーヒーを飲みながら、アキを見た。何も言わずに、続きを待っている。

 「おばあちゃんがやさしい顔してるって言ってくれて、りおちゃんがロボットおねえちゃんって呼んでくれて、橋本さんがメリーちゃんみたいって笑って。そういうのが積み重なって……メリーちゃんでもいいかな、って思い始めた」

 「どういう意味でいいかな、なの」

 アキは少し考えた。「南條アキという名前は、ちゃんとある。でも、メリーちゃんって呼ばれるとき、その人たちは私のことをちゃんと見てくれてる。機械担当の誰か、じゃなくて、この人、として呼んでくれてる。そういう意味での呼び名なら……悪くないと思えるようになった」

 ユウがゆっくりとうなずいた。

 「それ、すごく大事なことを言ってると思う」

 「そう?」

 「名前って、呼ぶ側の気持ちが乗るんだよ。メリーちゃんって呼ぶ人たちは、お前のことを大事に思ってるから、そう呼んでる。それをお前が受け取れるようになったってことだろ」

 アキは窓の外を見た。夕暮れの空が、オレンジから紫に変わりかけている。病院の庭の欅は、もうほとんど葉を落としていた。枝だけになった樹が、暮れていく空に細く伸びている。

 「一ノ瀬先生は南條って呼ぶけどね」

 「あの先生はそういう人だから」ユウが笑った。「南條アキという人間を認識してるから、南條って呼ぶ。メリーちゃんって呼ぶ人たちと、意味は同じだよ。形が違うだけで」

 アキはその言葉を、ゆっくりと受け取った。

 形が違うだけで、意味は同じ。

 メリーちゃんでも、南條でも、ロボットおねえちゃんでも。その呼び名に、その人なりの見方が乗っている。大事に思われているから、呼ばれる。それがわかれば、どう呼ばれても揺らがない。

 「ユウって」アキが言った。

 「なに」

 「私のことを何て呼んでる?」

 ユウが少し驚いた顔をして、それから笑った。「アキ、だろ。ずっと」

 「そうだね」

 「不満?」

 「ない」アキは小さく笑った。「一番普通で、一番ありがたい」

 ユウが「そうかよ」と言って、缶コーヒーを飲み干した。

 CE室に夕暮れの光が差し込んで、二人の白衣をオレンジ色に染めた。廊下の奥から、モニター音が静かに届いてくる。

 ピッ、ピッ、ピッ。

 誰かが今夜も生きている。その音が、暮れていく病院の中で、変わらずに鳴り続けていた。

 アキは胸ポケットに手を当てた。クレヨンの絵の温もりが、まだそこにあった。

 りおちゃんが描いた「ぴっぴっぴっ」という文字が、なぜかずっと頭から離れなかった。誰かが生きている音は、文字にするとこんな形をしているのか。そしてその音のそばに、自分はいる。それでいい。それが、今の答えだった。

 窓の外で最後の光が消えて、病院の夜が始まった。


読んでくださってありがとうございます。

りおちゃんが描いたクレヨンの絵——「白衣の人と、ベッドの人と、機械と、ぴっぴっぴっ」——この場面は、この作品を書いた理由のひとつです。機械と人間のあいだに立つ人間の仕事を、子どもの目を通して描きたかった。

アキのポケットに入ったあの絵は、エピローグまで残ります。

第三章へ続きます。

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