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第八章 崩れた壁

第八章は、この作品の感情的な山場です。

DXプロジェクトの院内発表、ユウからの告白、そして廊下でカナが翔に何かを教えている場面——入職から五年間の全てが、この章で一つの線につながります。

「渡すたびに、あなたの仕事は広がる」という言葉の意味が、この章で最も鮮明になります。

 三月の夜、CE室のデスクにアキは一人でいた。

 DXプロジェクトの第一回院内発表が、二週間後に迫っていた。資料はほぼできている。AI診断支援システムの導入評価レポート、遠隔モニタリング機器の安全管理指針、CEが主体となる運用体制の提案。どれも、アキが一から作った。

 会議で意見を出すたびに、医師側から「それはCEの領域か」という顔をされることがあった。はっきりとは言わない。でも空気でわかる。アキはそのたびに、データで返した。数値と根拠で、言葉の代わりにした。感情で押すのではなく、事実で積み上げる。それがアキのやり方だった。

 それでも、資料を見直すたびに不安が戻ってくる。

 ――これで伝わるだろうか。

 スライドの一枚を開いては閉じ、また開く。言葉の選び方が正しいか。データの見せ方が適切か。医師が聞きたいことと、アキが言いたいことのずれはないか。考え始めると、きりがなかった。

 ピッ、という音がして、アキのスマートフォンが光った。ユウからのメッセージだった。「まだいる?」。アキは「いる」と返した。数分後、CE室のドアが開いた。

 「やっぱりいた」

 ユウが缶コーヒーを二本持っていた。一本をアキの前に置いて、向かいの席に座った。外回りの帰りらしく、点検バッグをデスクの脇に置く。三月の夜はまだ冷える。ユウの白衣の袖口が、外気で少し冷たそうだった。

 アキは缶を手に取った。温かかった。ユウはいつもホットを選んでくる。こういう細かいところに、このひとは気が利く。

 「発表の資料、できてる?」

 「ほぼ」

 「見せてくれないの」

 「……見る?」

 「見たい」

 アキはノートパソコンをユウのほうに向けた。ユウがスクロールしながら読んでいく。アキは缶コーヒーを一口飲んだ。温かさが、胃のあたりまで降りていく。CE室のエアコンが低く唸っている。廊下の奥からモニター音が届いてくる。ピッ、ピッ、ピッ。夜の病院は静かで、その音だけが規則正しく続いていた。

 しばらくして、ユウが口を開いた。

 「これ、すごくいいよ」

 「そう?」

 「データの裏付けがあって、CEがなぜ主体になるべきかの論拠がちゃんとある。医師側が何を気にするかも、先に潰してある」ユウがパソコンを返しながら言った。「お前、こういうの得意だよな」

 「得意というより、怖いから全部やる」

 「それがお前の強みだろ」

 アキは缶コーヒーを両手で包んだ。「ユウは怖くないの。こういう、院内で新しいことをやるとき」

 「怖いよ」ユウが少し笑った。「ただ、お前がやるなら大丈夫だと思ってる」

 「それは根拠がない」

 「ある。入職してからずっと、お前のことを見てきたから」

 アキは何も言えなかった。同期として、隣にいた五年間。アキがリストを作るたびに確認し合って、失敗したときに隣に座って、缶コーヒーを差し出してきた五年間。

 「ユウ」

 「ん?」

 「さっき言ってた、言いたいことって」

 ユウが少し止まった。「覚えてたのか」

 「覚えてる。駐車場で、近いうちにちゃんと言うって」

 「……発表、終わってからにしようと思ってた」

 「今でもいい」

 ユウがアキを見た。CE室の蛍光灯が、静かに二人を照らしていた。デスクの上に点検記録が積まれている。壁には今月のラウンド表が貼ってある。いつもと変わらない、仕事の場所だ。でも今夜は、その場所が少しだけ違う空気を持っていた。

 ユウが缶コーヒーを両手で包んだまま、少しの間、黙っていた。CE室の時計が秒を刻む。廊下のモニター音が続く。いつもと同じ夜の音だ。でも今夜は、ユウが何かを決めているのがわかった。

 ユウが息を吸った。

 「俺さ、アキがいないとダメだ」

 アキは缶コーヒーを持ったまま、動かなかった。

 「仕事のこととかじゃなくて。好きだからだよ」

 沈黙が落ちた。

 廊下のどこかで、モニター音が鳴っている。ピッ、ピッ、ピッ。病院は今日もいつもどおりに動いている。CE室のエアコンが低く唸っている。デスクの上の点検記録が、風もないのに少し揺れた気がした。 アキの胸の中で、何かが静かに、でも確かに動いた。

 アキはゆっくりと息を吸った。

 「……タイミング、最悪だよ」

 「知ってる」

 「発表前の夜に」

 「わかってる。でも言わないと、ずっと言えない気がして」

 アキは缶コーヒーをデスクに置いた。手が少し震えていた。気づかれないように、そっと膝の上に移した。

 「私も」

 「え?」

 「私も、ユウがいないとダメだと思う。ずっと前から」

 ユウが少しだけ目を見開いた。それからゆっくりと、息を吐いた。その息が、CE室の空気に混ざって消えた。

 「……遅いよ」

 「うるさい」

 ユウが笑った。アキも笑った。CE室に二人の笑い声が広がって、すぐに静かになった。蛍光灯の白い光が、変わらずに二人を照らしている。廊下のモニター音が、変わらずに鳴り続けている。ピッ、ピッ、ピッ。世界は何も変わっていないのに、この部屋の中だけ、何かが決定的に変わった。

 「発表、終わったらちゃんと話そう」とユウが言った。

 「うん」とアキが言った。

 それだけで、今夜は十分だった。

 ユウが立ち上がって、点検バッグを肩にかけた。ドアのほうへ歩きながら、振り返らずに言った。

 「資料、絶対うまくいくよ。お前が怖いから全部やったんだろ」

 「そうだよ」

 「だったら大丈夫だ」

 ドアが閉まった。CE室に一人残ったアキは、しばらく動けなかった。

デスクの上に、缶コーヒーがある。窓の外に、三月の夜が広がっている。春が来る前の夜だ。どこかに、花の気配がある。

 ――ずっと前から。

 自分でそう言ってから、アキは少し驚いていた。本当にそうだった。いつから、とは言えない。でも、気づいたときにはそうなっていた。怖いときに隣にいてほしい人間。間違えたときに隣に座ってほしい人間。缶コーヒーを差し出してほしい人間。その全部が、ずっと前からユウだった。

 アキはもう一口、缶コーヒーを飲んだ。温かさが、また胃のあたりまで降りていった。


 翌朝、CE室でユウと顔を合わせた。

 いつもと同じように「おはよう」と言った。

 ユウも「おはよう」と言った。

 それだけだった。でも、その二文字の重さが昨夜とは違った。アキはそれに気づいて、少し俯いた。顔が熱くなるのがわかった。

 ユウが缶コーヒーをアキの前に置いた。温かかった。

 「発表、頑張れよ」

 「うん」

 それだけで、十分だった。廊下のモニター音が、いつもどおりに鳴っている。ピッ、ピッ、ピッ。でも今朝は、その音が少しだけ違う色を持っていた。


 発表前日の夜、ユウとの短いやり取りを終えたあと、アキはICUの夜間確認に入った。発表があっても、点検は変わらない。変えてはいけない。それがアキの、ずっと変わらない決め事だった。

 いつもどおりの手順で機器を確認していた。人工呼吸器、シリンジポンプ、輸液ポンプ、心電図モニター。一台ずつ、丁寧に。三号床の輸液ポンプを確認したとき、アキの手が止まった。

 バッテリー残量の表示が、通常より早く減っている。充電ケーブルは接続されているが、ランプの色がおかしい。充電中を示す橙色ではなく、エラーを示す赤の点滅になっている。

 アキはすぐにポンプの背面を確認した。充電端子に微細なゴミが詰まっていた。接触不良だ。アキは清拭用のクロスで端子を丁寧に拭き取り、再接続した。ランプが橙色に戻った。バッテリー残量の減少も止まった。

 問題は、これがいつから起きていたかだ。

 アキは前回の点検記録を引っ張った。二日前の記録には、バッテリーの項目に「正常」と書いてある。記録をつけたのは翔だった。翔がこの異常を見落とした可能性がある。いや、見落としではないかもしれない。二日前の時点ではまだ表示上は正常だった可能性もある。だがチェックリストに、バッテリーランプの色確認という項目が明示されていなかった。

 自分のリストに、また穴があった。

 アキはその場で記録に追記し、チェックリストの修正案をメモに書き留めた。患者への直接的な影響はない。だが、もし夜間にバッテリーが切れていたら、薬剤の投与が止まっていた。その事実が、胃の奥に重く沈んだ。


 発表当日の朝、アキは翔を呼んだ。

 「昨日の夜、三号床の輸液ポンプのバッテリーランプがエラーになっていた」

 翔の顔が、みるみる青くなった。「僕の確認が……」

 「リストの問題だ。ランプの色まで確認する項目が、明示されていなかった。あなたの確認ミスとは言い切れない」

 「でも、気づくべきでした」

 「そうかもしれない。だから一緒に考えよう。なぜ気づけなかったか」

 翔が少し驚いた顔をした。責められると思っていたのだろう。アキは続けた。

 「ランプの色は、知らなければ何色が正常かわからない。私がそれをリストに書いていなかった。教育の問題でもある」

 「……先輩のせいじゃないです」

 「どちらのせいかを決める必要はない。どうすれば次から防げるかを考える」

 翔が静かにうなずいた。

 二人でリストを広げた。バッテリーランプの色確認、端子の目視確認、充電状態の数値確認。項目を加え、発表後に写真付きの補足資料として整備することも決めた。翔が黙々とメモを取った。アキが端子の清拭手順を実演しながら説明すると、翔は一つひとつ手を動かして確かめた。知識として覚えるのではなく、体に入れようとしている。その姿勢がアキには頼もしかった。

 「翔くん」

 「はい」

 「怖かったろ、今朝呼ばれて」

 翔が少し間を置いた。「……はい。また何かやってしまったかと思って」

 「怖いのは正しい。怖いから確認する。でも怖さで体が止まったら困る。怖いまま、手を動かせるようになってほしい」

 翔がメモに何かを書き込んだ。アキには見えなかったが、翔の手帳に「怖いまま、手を動かす」と書かれたことは、後になって知った。一ノ瀬から受け取った言葉が、アキを経由して翔に届いた。渡していく、ということは、こういうことだ。

 「今日の発表、うまくいくといいですね」翔が言った。

 「うまくいかせる」

 「……先輩らしいです」翔が少しだけ笑った。「頑張ってください」

 アキはうなずいた。


 午後、アキは朝から続いていた緊張を抱えたまま、カンファレンス室へ向かった。

 古賀技士長が「緊張してるか」と声をかけてきた。

 「少し」

 「お願いだから、いつもどおりにやってくれ。お前がいつもやってることを、言葉にするだけだ」

 「いつもやってること、ですか」

 「機械の向こうに患者がいる。それを誰よりもわかってるのがCEだ。それだけ言えばいい」

 アキは技士長の言葉を胸の中に置いた。機械の向こうに患者がいる。カナが入職一ヶ月で言葉にしたこと。一ノ瀬が「機械の先に患者がいる」と言ったこと。りおちゃんがクレヨンで描いたこと。それらが全部、今日の発表の根っこにある。

 カンファレンス室には、外科、内科、麻酔科、看護部、医療情報部門から総勢二十名近くが集まった。石渡部長が前列に座っている。アキはスライドを手に、壇上に立った。

 二十人の視線が、一斉に集まった。

 怖い、とアキは思った。怖いから、昨夜バッテリーの件を確認しに行った。怖いから、資料を何度も見直した。怖いから、今ここに立っている。怖さは敵ではない。怖さが、この発表を作った。

 「AI診断支援システムや遠隔モニタリングの導入が進む現在、医療機器の管理はより複雑になります」アキは話し始めた。「システムは正確です。数値は正しい。でも、機器の状態を人間の目と手で確かめることが、今まさに必要とされています」

 室内が静まった。

 「昨夜、発表前日の夜間確認でも、遠隔モニタリングには映らない充電端子の接触不良を、現場の確認で発見しました。バッテリーランプの色の変化を、足で確認しに行ったCEが気づいた。システムは数値が正常であれば異常を知らせません。でも、機器は数値だけで動いているわけではない。端子のゴミ一つが、患者への薬剤投与を止める可能性がある」

 前列で石渡部長が少し身を乗り出した。

 アキはスライドを次に進めた。「私たちCEは、機械の向こう側に患者がいることを知っています。AIが判断を支援しても、最後に機械を信頼できる状態に保つのは人間です。そしてその人間が、CEです。CEは医師の指示のもと、提案・調整・安全管理を担います。今回のプロジェクトは、その役割をより明確に、より広く、院内に根づかせるための体制作りです」

アキはスライドを一枚めくった。

「生命維持管理装置にAIが組み込まれる時代においても、変わらない原則があります。AIはあくまで提案をする。決定するのは、必ず人間です。医療の世界ではこれを『ヒューマン・イン・ザ・ループ』と呼びます。ループの中に、常に人間がいる。AIが何を示しても、最後の判断は人間が下す。この原則は、患者の命が関わる限り、決して外してはならないものです」

「わかりやすく言えば、CDSSは医療のカーナビのようなものです。ルートは提案してくれる。でも、ハンドルを握るのは運転手です。事故の責任を負うのも、運転手です。どれだけ精度の高いカーナビでも、最終的にアクセルを踏むかブレーキを踏むかを決めるのは、人間でなければならない」

 室内のあちこちで、小さくうなずく気配があった。

「CEはそのループの中で、医療機器とAIの両方を専門として理解し、管理責任を担える職種です。AIが何を根拠にその数値を示したか。機器がその数値を正しく出せる状態にあるか。その二つを同時に判断できる人間が、ループの中にいなければ、AIは道具ではなく、ただの機械になってしまいます」


 前列で石渡部長が、手元のメモに何かを書いた。

 発表は二十分で終わった。

 質疑応答が始まると、内科の中堅医師が手を挙げた。五十代、白衣の胸元に内科のバッジがある。

 「南條さん、一点確認したいんですが」その医師がやや慎重な口調で言った。「CEにそこまでの権限を持たせる必要があるんでしょうか。システムの管理は情報部門、機器の操作は各診療科、という役割分担で今まで問題なかったと思うんですが」

 室内の空気が、少しだけ張った。

 アキは一拍置いた。怖い。でも怖いから、ちゃんと答える。

 「権限ではなく、責任の話をしています。今まで問題がなかったのは、CEが現場で補い続けてきたからでもあります。その補いを、見えない形でやり続けるより、体制として明示したほうが患者の安全につながると考えています」

 アキは医師を見た。

 「機械が止まったとき、患者に何が起きるかを一番知っているのはCEです。その責任に見合った体制を作りたいというのが、このプロジェクトの出発点です。CEが主体になることは、他の職種の役割を奪うことではありません。CEにしか見えないものを、CEが責任を持って管理する。それが患者の安全につながると、私は考えています」

 沈黙があった。

 石渡部長が言った。「続けましょう」

 それだけで、場が動いた。内科医がうなずいて手帳に何かを書いた。他の参加者たちが、それぞれスライドに視線を戻した。アキは次の質問を待った。その後、二つの質問が来た。どちらもデータで答えられた。

 カンファレンス室がざわりとした。先ほど質問した内科の中堅医師が、隣の外科医に小声で言うのが聞こえた。

 「端子のゴミ一つ、か。そんなことまで見てるのか、CEは」

 外科医が小さくうなずいた。「だから朝、足で確認しに行くんだろう」

 二人は発表者のアキには聞こえていないつもりだった。でも静まり返った室内では、その声は届いた。アキは聞こえていないふりをした。


 発表が終わったとき、石渡部長が言った。「南條くん、このプロジェクトを進めてください。次回は各部署への説明会を設けましょう」

 「ありがとうございます」

 「ありがとうは私が言う話だ」部長が少し笑った。「昨夜の話、具体的でよかった。現場の話は、どんなデータよりも伝わる」

 古賀技士長がアキを見て、小さくうなずいた。

 アキはカンファレンス室を出た。廊下の窓から、三月の光が差し込んでいた。

廊下に出ると、ユウが壁に寄りかかって待っていた。

 発表が始まる前から、ここで待っていたのかもしれない。アキを見つけると、ユウが壁から背を離した。

 「よかったよ」

 「ありがとう」

 「昨夜のバッテリーの話、入れるとは思わなかった」

 「リアルな話のほうが伝わると思って」

 ユウが笑った。「一ノ瀬先生が聞いたら、喜びそうだな」

 アキは少し空を見た。三月の空は高く、どこかに春の気配がある。一ノ瀬はもうジュネーブにいる。遠い場所で、今日も手術をしているかもしれない。

 「先生に、いつか報告できるといいな」

 「できるよ、絶対」

 二人で並んで廊下を歩いた。カンファレンス室から離れるにつれて、院内の普段の音が戻ってくる。モニター音、ナースコールの電子音、遠くで誰かが話す声。病院はいつもどおりに動いている。発表が終わっても、現場は止まらない。

 「ユウ」

 「ん?」

 「昨夜のこと、覚えてる?」

 ユウが少し笑った。「覚えてる。一生忘れない」

 アキは少し俯いて、また歩き出した。一生忘れない、という言葉が、胸の中で温かく響いた。大げさな言い方ではなく、ユウがそう言うときは本当にそういう意味だとわかる。余分なことを言わない人間の言葉は、密度が違う。

 「発表終わったから、ちゃんと話そう」

 「うん、そうしよう」ユウが言った。「今夜、時間ある?」

 「ある」

 「じゃあ屋上、行こう」ユウが少し笑った。「ずっと行きたかったから」

 廊下を歩きながら、アキは少し前のことを考えていた。

 入職してから今日まで、ユウはずっとそこにいた。アキがリストを作るたびに隣で確認して、間違えたときにロッカーの前に座って、缶コーヒーを差し出して、「俺はお前についていく」と言った。その全部が今、一つの線になってつながっていた。CE室で「好きだからだよ」と言われた夜も、発表前夜のバッテリーの件も、今日の「一生忘れない」も。どれも同じ線の上にある。

 ――ずっと前から。

 自分でそう言った言葉が、また胸に戻ってきた。いつから、とは言えない。でも確かに、ずっとそうだった。それがわかっていれば、これからのことも、少しずつわかっていく。

 廊下の先でカナが翔に何かを教えながら歩いていた。

 翔が真剣な顔でメモを取っている。カナが身振りを交えながら説明している。何の話をしているのかは聞こえないが、翔が一度大きくうなずいた。カナがそれを見て笑った。

 二人の白衣が、三月の光の中で並んでいた。

 春の光は柔らかく、廊下の床に長い影を作っている。カナの黒髪が、その光の中で少し輝いて見えた。翔の白衣が、ぴんと背筋が伸びたまま揺れている。

 アキはその二人を見た。

 カナが入職してきた四月の朝、CE室のドアを勢いよく開けて「よろしくお願いします!!」と叫んだ声が、まだ耳に残っている。翔が最初に輸液ポンプのチェックで間違えて、必要以上に謝っていた場面も。それが今、カナが翔に何かを教えている。教わる側だったカナが、教える側に変わりつつある。

 高梨先輩が言っていた通りだ。渡すたびに、あなたの仕事は広がる。アキが一ノ瀬から受け取ったものを、翔に渡した。アキがりおちゃんのそばでやったことを、カナが受け取って、あかりちゃんのそばでやった。カナがハルくんから受け取ったものを、いつか誰かに渡すだろう。そうやって、仕事は広がっていく。

 ピッ、ピッ、ピッ。

 廊下の奥からモニター音が流れてきた。

 アキは少しだけ速く歩いた。

 今夜、ユウと屋上に行く。ちゃんと話す。それが今夜のことだ。でも今はまず、次の点検へ向かう。機械の向こうに患者がいる。その事実を、今日もここから守っていく。

 カナと翔の白衣が、春の光の中で遠ざかっていく。アキはその二つの背中を見ながら、少しだけ速く歩いた。

 廊下の先で、モニター音が鳴り続けていた。今日も、誰かが生きている。


読んでくださってありがとうございます。

「俺さ、アキがいないとダメだ」——ユウがこの言葉を言うまでに、五年間かかりました。アキがそれを受け取るまでにも、五年間かかりました。二人の時間の密度が、この一言に全部入っています。

カナと翔の白衣が春の光の中で並ぶ最後の場面——アキが一ノ瀬先生から受け取ったものが、確かに次へ渡されていく瞬間です。

残り4章。第九章へ続きます。

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