第十二章 次の春へ
最終章です。
技士長補佐として現場を続けるアキ、それぞれの道を歩むカナ・翔・ユウ——CE室の日常は変わらずに続いています。
りおちゃんのクレヨンの絵は、今もCE室にあります。
次回、エピローグで完結です。
春が来て、夏が過ぎた。
仕事は変わらなかった。朝の点検があり、ラウンドがあり、会議があり、記録があった。カナが呼吸療法認定士の勉強を続け、翔が後輩の指導を覚え、ユウが情報を集約した。CE室の日常は、いつもどおりに動いていた。
ただ、いくつかのことが変わっていた。
残業が続いた夜、CE室に二人で残っていると、ユウが「そろそろ上がろう」と言った。以前と同じ言葉だ。でも今は、その言葉の後に自然に二人で電気を消して、自然に並んで廊下を歩いた。どこかへ行くわけでもなく、ただ同じ方向に歩いた。それが当たり前になっていた。
週末、病院の近くの定食屋に二人で入るようになった。特別な理由はない。ただ、帰る方向が同じだった。それだけのことが、いつの間にか習慣になっていた。カウンターに並んで座って、それぞれ定食を頼んで、仕事の話をした。仕事以外の話もした。どちらが多かったか、覚えていない。
ユウが風邪をひいた日があった。CE室に来なかった。その日、アキは点検を一人でこなしながら、何度かユウの席を見た。空いている席が、いつもより広く見えた。夕方、短いメッセージを送った。「大丈夫?」ユウから「大丈夫」と返ってきた。それだけだった。
そんな秋の終わりのある日の夕方、ユウがアキに声をかけた。
「今、時間ある?」
「ある」
「屋上、行こう」
夕方の屋上は、風が冷たかった。西の空が橙色に染まっていて、その上に薄い紫が広がっていた。病院の周囲の街が、夕暮れの中で灯り始めている。
二人でフェンス際に立った。ユウがしばらく街の灯りを見ていた。
「アキ」
「うん」
「この一年さ」ユウが少し笑った。「大したこと、何もなかったよな」
アキも笑った。「うん。でも、それが一番大変なんだよ」
ユウがうなずいた。それからアキを見た。
「アキと一緒だと、ちゃんとやっていける気がする。仕事も、その先も」
「……うん」
「これからも、一緒にいたい」
風が吹いた。
「結婚しよう」
アキは少し驚いて、それからユウを見た。ユウが真っすぐにアキを見ている。いつもの軽やかさとは違う顔だ。でも、深刻でもない。何かを決めた人間の、静かな顔だ。
「指輪がないけど」ユウが続けた。「一緒に選びたかった。アキの好みがわからないから」
アキは少し笑った。「それは正直だね」
「正直に言った」
「うん、結婚する」
ユウが長く息をついた。「よかった」
「よかった、って」
「よかった、だよ」ユウがまた息をついた。「緊張してたから」
「ユウが緊張するの、珍しい」
「する。こういうことは、する」
西の空の橙色が、少しずつ紫に変わっていった。街の灯りが増えていく。病院の窓にも、一つひとつ光が灯っていく。どこかで患者が眠っていて、どこかで看護師が動いていて、どこかでモニター音が鳴っている。その全部の上に、今夜の夕空がある。
ユウがアキの手を握った。
冷たかった。十一月の屋上の風が、二人の手を冷やしていた。でも、握られた手の温もりが、少しずつ伝わってくる。アキはその温もりを、静かに受け取った。
「一緒に選ぼう、指輪」アキが言った。
「そうする」
「いつ?」
「今週末」
「早い」
「早いほうがいい」ユウが笑った。「お前、迷い始めると長いから」
アキは笑った。そうかもしれない。でも今日は、迷わなかった。答えは最初からわかっていた。ずっと前から、ここにある答えだった。
空が完全に暗くなるまで、二人は屋上に立っていた。手をつないだまま。街の灯りが、夜の中に広がっていた。
十二月の下旬、カナから連絡が来た。
「受かりました」
それだけだった。アキはその二文字を見て、少しの間スマートフォンを持ったまま動けなかった。
呼吸療法認定士。
カナは入職三年目の春に受験を強く意識し、本格的に準備を始めた。四年目の夏に認定講習会を受講し、十二月の試験に臨んだ。参考書を何冊も読み、過去問を解き続けた一年半。ハルくんのノートを引き出しに入れて、読みたくなったら読みながら続けてきた勉強。その結果が、二文字になって届いた。
受かりました。
アキはすぐに返信した。「おめでとう」
数秒後に返ってきた。「ありがとうございます。泣いてます」
呼吸療法認定士。人工呼吸器や酸素療法など、呼吸に関わる医療機器と治療の専門知識を持つと認定された証だ。CEとして機器を管理するだけでなく、患者の呼吸状態そのものを深く読み、医師や看護師と対等に議論できる専門家になった、ということでもある。ハルくんが運ばれてきた夜、カナが「もっと深く呼吸のことを知っていたかった」と言った。あの言葉が、この二文字になった。
アキは少し笑った。泣いているカナの顔が、目に浮かんだ。CE室の引き出しの前で、ハルくんのノートを手に取っているかもしれない。最後のページを開いているかもしれない。「六月十二日。明日退院。ありがとう」という文字を、今日もう一度読んでいるかもしれない。
その日の夕方、CE室に全員が揃った。
古賀技士長がカナに向かって言った。「よろしくな、これからも頑張ってくれ」
技士長らしい言い方だった。おめでとう、ではなく、よろしく。信頼しているから、次を頼む、という意味の言葉だ。カナが深く頭を下げた。顔を上げたとき、目が赤かった。
翔が「おめでとうございます」と言った。声が少し上ずっていた。
ユウが「お祝いしよう」と言って、帰りに近くの居酒屋に四人で入った。
年末の居酒屋は混んでいた。サラリーマンの忘年会らしい声が隣のテーブルから聞こえてくる。四人は小さなテーブルに肩を寄せて座った。カナがビールを一口飲んで「おいしい」と言った。翔が「僕はまだ……あ、いえ、ビールで」と言った。アキとユウが顔を見合わせた。
「翔、成長したな」ユウが言った。
「そういうことじゃないと思います」翔が言った。
カナが笑った。アキも笑った。
四人で乾杯した。グラスが触れる音が、年末の喧騒の中で小さく響いた。
カナがグラスを置いて、少し真剣な顔になった。
「ハルくんに報告できた気がします」
誰も何も言わなかった。でも、その言葉はテーブルの上に静かに置かれて、四人全員が受け取った。
ユウが少し間を置いてから言った。「ハルくん、喜んでると思うよ」
カナがうなずいた。もう一度グラスを持った。目が、またわずかに潤んでいた。
窓の外に、冬の夜が広がっていた。街のイルミネーションが、居酒屋の窓ガラスに映っている。年末の光だ。一年が終わる前の、賑やかで温かい光。
年が明けた一月、一ノ瀬からアキにメッセージが届いた。
「三月に帰国する。院内発表の資料を送ってくれ。向こうで読む」
アキはDXプロジェクトの資料と、システム障害対応マニュアル、CDSSの分析レポートをまとめてデータで送った。プロジェクト発表のスライド、システム障害の夜の対応記録、エラーの連鎖の分析と再発防止策。一年以上かけて積み上げてきたものが、ファイルになって届いた。
翌日、一ノ瀬から返信が来た。
「読んだ。CEが主体になれる場所を、ちゃんと作っていた」
それだけだった。でも、アキには十分だった。
ユウに見せると、「先生らしい返信だな」と言って笑った。「褒め言葉がぎゅっと圧縮されてる」
「そういう人だから」
「お前、嬉しそうだぞ」
「嬉しいよ」
アキは素直に言った。ユウが少し驚いた顔をした。
憧れた人に、ちゃんと届いた。それだけのことだ。でも、それだけのことが、思いのほか大きかった。
入職したばかりのころ、ICUの廊下で一ノ瀬と初めて話した朝のことを、アキはふと思い出した。「完璧だった」「覚えた」。その二言が、あのころのアキにどれほどの火種を灯したか。火種はずっと消えずに、今日まで燃え続けてきた。一ノ瀬がジュネーブから帰ってきたとき、その火が絶えていなかったことを、届けられる。
それで十分だ、とアキは思った。
翌春、四月の第一週、アキとユウは入籍した。
特別な式は後日にして、まず書類だけ出した。役所の窓口で、婚姻届を提出する。受付の担当者が書類を確認して、受理のスタンプを押した。それだけだった。
受け取った婚姻届を手に持ちながら、アキは少し不思議な気持ちになった。
こんなに静かなものなのか。
「なんか、あっさりしてるね」アキが言った。
「そういうもんだろ」ユウが言った。「大事なことはだいたい、あっさりしてる」
「名言みたいに言わないで」
「名言だよ」
二人で役所の外に出た。四月の空が広く、風が柔らかかった。桜が満開だった。役所の前の桜並木が、白とピンクの花で埋まっている。入職したころ、毎年この季節に病院の庭の欅を見ていた。桜を見ながら春を感じることは、あまりなかった。いつも点検リストを持って、早足で廊下を歩いていたから。でも今日は、ちゃんと桜を見ている。
「式は秋にしよう」ユウが言った。「皆に来てもらえるように」
「皆って」
「技士長、カナ、翔、ナツキさん。高梨先輩も。あと石渡部長も。一ノ瀬先生も帰ってきてるから」
アキは少し考えた。「小さい式でいい」
「俺もそれがいい」
「メリーちゃんとユウくんの式、って言われそうだけど」
ユウが笑った。「最高じゃないか」
アキも笑った。メリーちゃん。入職してから続いてきた愛称が、今日この日にも続いている。変わらないものが、ここにある。変わったものも、ここにある。その両方が、今日の春の中にある。
桜の花びらが一枚、アキの白衣の肩に落ちた。
アキはそれを手で取ろうとして、やめた。しばらくそのままにしておこうと思った。白衣の肩に乗った花びらが、四月の風に揺れている。
ピッ、ピッ、ピッ。
遠くから、病院のモニター音が届いてきた。今日も、誰かが生きている。その音が、桜並木の下まで届いてくる。アキはその音を聞きながら、ユウの隣で桜を見上げた。
秋の結婚式は、アキが望んだ通りの式場で行われた。
参列者は十五人ほどだった。両家の家族とごく親しい友人、そして職場の仲間たち。アキが声をかけたいと思った人たちが、全員ここにいた。古賀技士長、カナ、翔、ナツキ、石渡部長、高梨先輩。そして一ノ瀬凌。三月に帰国した一ノ瀬は、相変わらず表情が少なく、スーツ姿でも手術室にいるときと同じ空気をまとっていた。
式が始まる前、廊下でアキと一ノ瀬が向き合った。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
一ノ瀬が少し間を置いた。「CEが主体になれる場所、ちゃんとあったか」
アキはうなずいた。「ありました」
「そうか。ならいい」
それだけだった。でもその六文字が、アキには廊下で一番重い言葉だった。ジュネーブから送った資料への返信よりも、今日この場で直接聞けたことのほうが、重かった。ちゃんとあったか。あった、と答えられた。それで十分だ。
式場に入ると、参列者の顔が並んでいた。古賀技士長が目を細めている。カナが早くもハンカチを持っている。翔が緊張した顔で正面を向いている。ナツキがアキに向かって小さく手を振った。高梨先輩が、穏やかな笑顔で座っている。一ノ瀬は一番後ろの席で、腕を組んでいた。
式が始まった。
誓いの言葉を読みながら、アキは少し前のことを考えていた。
入職したばかりのころ、ICUの廊下で「私はここにいていいのだろうか」と思いながら点検をしていた。メリーちゃんという呼び名に戸惑って、今井主任に言い返せなくて、夜の廊下で一人で持て余していた問いがあった。
あのころのアキが今日のここを見たら、どう思うだろう。
きっと信じられないと思う。
でも、ここに来るまでの道は全部、あのころから続いている。りおちゃんのクレヨンの絵も、一ノ瀬の「怖いままでいい」も、ハルくんのノートも、カナの「機械と患者のあいだにいる人間」という言葉も、翔が手帳に書いた「怖いまま、手を動かす」も、あかりの「味方は、ちゃんとそばにいる」という付箋も。全部、つながっている。一本の線でつながって、今日ここに続いている。
ユウが隣に立っている。入職してからずっと、隣にいた人が、今日も隣にいる。缶コーヒーを差し出してくれた人が、リストの穴を一緒に見つけてくれた人が、「俺はお前についていく」と言った人が、今日も同じ場所に立っている。
「誓います」
アキは、はっきりとした声で言った。
迷いのない声だった。怖さのない声ではない。でも、怖さを抱えたまま出した、確かな声だった。怖いままでいい、と一ノ瀬が言った。怖いから誠実に向き合う。怖いから手を動かす。怖いから、ここにいる。
式の後、カナが泣いていた。
「なんで泣いてるの」ナツキが言った。
「嬉しくて」カナが鼻をすすった。「先輩が幸せそうで」
翔が「僕も少しもらい泣きしました」と言った。
一ノ瀬が静かに、しかし確かに笑いながら言った。「CEは感情的だな」
誰かが笑った。笑ったのが一ノ瀬だとわかって、また笑い声が広がった。式場の小さな空間が、その笑い声で満ちた。アキはその笑い声の中で、ユウの隣に立っていた。
高梨先輩がアキのそばに来て、静かに言った。「よかった。渡していく立場になったあなたが、こんなに幸せそうで」
アキは少し考えてから言った。「渡していく立場になれたのは、先輩に教えてもらったからです」
「そうやって続いていくんだよ」高梨先輩が笑った。「私も、私の先輩から受け取ったものを渡しただけだから」
受け取って、渡して、また誰かが受け取る。その連鎖が、どこまでも続いていく。アキが入職したとき、高梨先輩がいた。高梨先輩にも、先輩がいた。アキが育てたカナが、今日ここで泣いている。翔が、背筋を伸ばして立っている。その先に、まだ見ぬ誰かがいる。
古賀技士長がアキのところに来た。「南條、お願いだから、これからも頑張ってくれ」
「はい、お願いします」
技士長がうなずいた。それだけだった。でも、その短さが技士長らしかった。信頼しているから、多くを言わない。
一ノ瀬が帰り際、アキに一言だけ言った。「いい式だった」
「ありがとうございます」
「CEらしい式だ」
「どういう意味ですか」
「余分なものがない」一ノ瀬が少しだけ目を細めた。「必要なものだけがある」
アキはその言葉を受け取った。余分なものがない。必要なものだけがある。それがCEらしい、と言われた。チェックリストのように、機器の点検のように。必要なことを、正確に、丁寧に。それが今日の式にもあった、ということだろう。
一ノ瀬が式場を出ていった。その背中は、廊下で何度も見た背中だ。白衣ではなくスーツを着ていても、あの背中だとわかる。アキはその背中が扉の向こうに消えるまで、見ていた。
入職してから今日まで、この背中を追いかけてきた。なりたいと思った背中だ。でも今は、追いかけるのではなく、並んで歩いている気がした。同じ方向を向いて、それぞれの場所で、同じものを守っている。それがいい、とアキは思った。
式場に笑い声と話し声が満ちていた。カナとナツキが何かを話していて、翔が石渡部長に挨拶していて、高梨先輩とユウが笑いながら話している。古賀技士長がコーヒーを飲んでいる。
アキはその景色を、少しの間、眺めていた。入職したころのアキを知っているユウが、今日も隣にいる。それだけで、春は十分だった。
お読みいただきありがとうございました。
「大事なことはだいたい、あっさりしてる」——ユウがそう言いますが、この章を書きながら、長い道のりがこういう形で着地するのだな、と自分でも思っていました。
次回エピローグで完結です。「——完——」の文字まで、もう少しだけお付き合いください。




