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第十一章 渡していくもの

第十一章は、全員が「渡す側」になっていく章です。

公園のベンチでユウがアキに告白します。カナが呼吸療法認定士の受験を技士長に報告します。アキが翔にチェックリストの意味を教えます——一ノ瀬先生からアキへ、アキからカナへ、カナから翔へ。言葉が人を渡って、遠くまで届いていく。

「緊張してる人が教えると、ちゃんと伝わる」という一文が、この章の核心です。

 翌日の午後のことだった。

アキとユウは二人で近くの公園に行った。

 病院から歩いて十分ほどの小さな公園で、ベンチが数脚あるだけの地味な場所だ。遊具もなく、噴水もなく、ただ欅が数本と、名前のわからない低木が植えられている。人が少なくて静かだった。昼間でも、ここに来る人はあまりいない。

 ベンチに並んで座った。ユウが缶コーヒーを二本持ってきていた。アキに一本渡す。プルタブを開けると、シュ、という小さな音がした。一口飲む。温かかった。自動販売機から出したばかりの温度だ。昨夜からずっと動いていた体に、その温かさが染み込んでいく。

 公園の欅が、九月の風に揺れている。葉がまだ緑のまま残っている。あと一ヶ月もすれば、黄色く変わり始めるだろう。でも今はまだ、夏の名残りを抱えたままの緑だ。

 しばらく、どちらも話さなかった。

 それでよかった。急がなくていい、とユウが朝に言っていた。二人でその空気の中にいるだけで、何かが静かに落ち着いていく感じがした。

 「昨夜のシステム障害のこと、ずっと考えてた」ユウが言った。

 「仕事の話?」

 「違う」ユウが缶コーヒーを両手で包んだ。「あの夜、俺がCE室でホワイトボードに書きながら、アキのことを考えてた。アキが今どこにいて、何をしてて、大丈夫かって」

 アキは缶コーヒーを開けずに持ったまま聞いていた。

 「仕事のことが心配だったんじゃなくて、お前自身のことが心配だった。それってたぶん、仕事の話じゃないんだよな」

 「……うん」

 「だから改めて言う」ユウがアキを見た。「付き合ってほしい。ちゃんとした言い方で」

 アキは缶コーヒーを見た。プルタブに指をかけて、開けた。シュ、という小さな音がした。一口飲んでから、言った。

 「うん」

 ユウが少し拍子抜けしたような顔をした。「短くない?」

 「何て言えばいいの」

 「もう少し何か」

 「私も、ユウのことが心配だった。あの夜、ずっと」アキが続けた。「CE室で情報を集約してくれてたユウが、ちゃんとやれてるかって。それも仕事の話じゃなかった」

 ユウが笑った。静かな笑い方だった。

 「じゃあ、お互い様だな」

 「お互い様」

 公園の欅がまた揺れた。葉が一枚、ベンチの前に落ちた。まだ緑のままの葉だった。どこかに秋の気配があるのに、葉はまだ緑のままだ。季節の変わり目は、いつも少しずつ変わっていく。

 二人はしばらく、並んで座っていた。特別なことは何も起きなかった。ただ、宙吊りになっていたものが、静かに地に着いた。



 付き合い始めてから、二ヶ月が経った。

ある朝、ユウがいつものように缶コーヒーをアキの前に置いた。温かかった。いつもと同じ温度だ。でも今朝は、受け取るときに少しだけ手が触れた。ユウは何も言わなかった。アキも何も言わなかった。ただ、缶コーヒーが、いつもより少し温かく感じた。

仕事は変わらない。廊下での目の合い方が、少しだけ変わった。それだけで、今は十分だった。


 十一月に入ると、カナが古賀技士長に報告した。

 「来年、呼吸療法認定士の受験をしようと思っています」

 技士長が手元の書類から顔を上げた。「実務経験、満たせるか」

 「来年の春で、ちょうど三年になります」

 「そうか」技士長が少し考えた。「勉強の進み具合は」

 「参考書は一周しました。過去問も始めています」

 「試験は十二月だったな」

 「はい。夏に認定講習を受けて、その後の筆記試験に臨みます」

 技士長がうなずいた。「いよいよだな。しっかり準備して、臨んでくれ」

 カナが深く頭を下げた。「はい。頑張ります」

 廊下に出てから、カナはCE室に戻った。

 自分の席に座って、引き出しを開けた。ハルくんのノートが、いつもの場所にある。茶色い表紙、丸くて少し不格好な字で「入院中のこと」と書いてある。カナはそのノートをそっと取り出した。

 最後のページを開く。

 「六月十二日。明日退院。ありがとう」

 その文字を、カナはしばらく見ていた。入院中のことをノートに書き続けた陽が、最後に書いた言葉。ありがとう。その二文字が、今も変わらずにそこにある。色褪せていない。

 受験資格が得られるまで二年。その二年を、ハルくんが背中を押してくれている。試験に向かうとき、このノートのことを思い出すだろう。合格したとき、まずハルくんに報告したいと思っている。

 カナはノートを閉じた。

 それからそっと、引き出しに戻した。パタン、と小さな音がした。引き出しを閉める。ここが、このノートの場所だ。仕事をしている場所に、根っこがある。


 十一月の終わり、三西病棟の点検ラウンドを終えて廊下に出たとき、今井主任に呼び止められた。

 「南條さん、少しいいですか」

 振り返ると、今井が少し改まった顔で立っていた。いつもの物言いがはっきりした今井とは、どこか違う。

 「DXプロジェクトのマニュアル、読みました」今井が続けた。「現場のことをよくわかってる人が書いたと思って」

 アキは少し驚いた。「ありがとうございます」

 「あのころ、失礼なことを言いました」今井が静かに言った。「ガイドラインに基づいた交換周期を、私は邪魔に思っていた。でも、あなたが正しかった。あの積み重ねが今のマニュアルになってる」

 アキは何も言えなかった。

 「続けてくれてよかったです」今井がそれだけ言って、ナースステーションに戻っていった。

 アキはしばらく、その背中を見ていた。

 入職してすぐのころ、この廊下で今井主任の言葉に足が止まった。悔しいのか傷ついたのかわからないまま、窓の外を見ていた。あのときの西日が、今も記憶の中にある。あれから何年が経って、同じ廊下に立っている。壁だと思っていたものが、今日、言葉をくれた。


 十二月に入ると、翔が変わり始めた。

 変わった、というより、固まっていたものが少しずつほぐれてきた、という感じだ。アラームへの対応が速くなった。患者への声かけが自然になった。記録の文字が、以前より落ち着いた。

 ある日の午後、アキが点検ラウンドから戻ると、翔が六号室の前で立ち止まっていた。ドアの前で少し考えている様子だった。

 「どうした」

 「今から輸液ポンプの交換なんですけど」翔が言った。「七十代の患者さんで、昨日から少し表情が暗くて」

 「機器に問題は?」

 「ないです。でも、入るときに何か声かけできないかなと思って」

 アキは翔を見た。機器に問題がないのに、患者の表情のために立ち止まっている。入職したころ、翔は機器の確認で頭がいっぱいだった。患者の顔色まで見る余裕はなかった。それが今、機器の問題がないにもかかわらず、患者のことで足を止めている。

 「入ってみれば」

 「何て言えばいいかわからなくて」

 「わからなくても入れる。言葉は後からついてくる」

 翔が少し考えてから、ドアをノックした。

 アキは廊下で待った。五分ほどして、翔が出てきた。

 「どうだった」

 「交換しながら、外が寒くなりましたねって話したら、少し笑ってくれました」

 「それでいい」

 「それだけでいいんですか」

 「それだけで十分なことがある」

 翔がうなずいた。手帳を取り出して何かを書いた。アキには見えなかったが、翔は「言葉は後からついてくる」と書いた。一ノ瀬から受け取った言葉が、アキを経由して、今翔に届いた。渡していく連鎖が、また一つ続いた。


 年が明けて一月、山本なぎさが職業体験に来た。

 准看護師課程の高校生で、十七歳。小柄で、目が大きく、白衣を着るのが初めてらしく、袖を何度も引っ張っていた。担当はカナだった。

 「今日一日、CE室と一緒に回ります。臨床工学技士って知ってる?」

 「名前は聞いたことあります。でも、何をする人かはよくわからなくて」

 「よくわからないで来てくれたんだ」カナが笑った。「それがちょうどいいよ。先入観なく見てほしいから」

 なぎさはカナの後ろについて、病棟を回った。人工呼吸器の点検、輸液ポンプの確認、透析室での業務。カナが一つひとつ、丁寧に説明した。専門用語が出るたびに、なぎさが「それって何ですか」と聞いた。カナは毎回、嫌な顔をせずに答えた。

 「宮永さん、質問ばかりしてすみません」

 「全然。聞いてくれるほうが、私も整理できるから」

 なぎさがノートに書き込んだ。カナが話した言葉を、一つひとつ丁寧にメモしている。その姿が、入職したばかりのころのカナ自身に似ていた。カナは気づいていなかったが、アキはCE室の入り口から、その様子を少しの間見ていた。

 昼休み、CE室でなぎさがカナに言った。

 「機械の仕事なのに、患者さんにいっぱい声かけするんですね」

 「そう見えた?」

 「はい。機械を触りながら、患者さんの顔をちゃんと見てて」

 カナが少し考えてから言った。「機械は患者さんのためにある。だから、機械を触るのと患者さんを見るのは、同じことなんだよ」

 なぎさがその言葉をノートに書いた。ゆっくりと、大事なものを書き留めるように。

 カナが入職したとき、アキが言っていた言葉があった。「数値より先に患者の顔を見るのは間違いじゃない。でも基礎手順を体に入れてから応用を加えていって」。あのころカナが感じていたことを、今カナ自身がなぎさに伝えている。受け取った言葉が、形を変えて次の人へ渡っていく。

 午後、透析室でアキがなぎさに声をかけた。

 「今日、どうだった」

 「思ってたのと、全然違いました」なぎさが言った。「機械ばかり触ってる人たちだと思ってたんですけど」

 少し間を置いてから、続けた。

 「さっき、カナさんが輸液ポンプを確認してるとき、患者さんが『痛い』って言ったんです。でもカナさん、機械から目を離さないまま『どこが痛いですか』って聞いて、答えを聞きながら手は機械を確認し続けてて」

 「うん」

 「二つのことを同時にやってた。機械を見ながら、人を見てた。あれって、ずっと練習してきた人じゃないとできないですよね」

 「そう見えた?」

 「はい」なぎさが少し考えてから続けた。

「CEって、医療の芯みたいだと思いました」

 アキは少し驚いた。芯、という言葉が、思いのほか正確だった。

 「どうしてそう思った?」

 「機械がないと医療が成り立たなくて、機械を支えてるのがCEで。でもそれだけじゃなくて、患者さんの安心も支えてて」なぎさが言葉を選びながら続けた。「芯がなかったら、全部崩れる気がして。建物でいうと、柱みたいな」

 アキはなぎさを見た。十七歳が、今日一日で見抜いたことがある。

 「臨床工学技士、考えてみる?」

 なぎさが少し驚いた顔をして、それから真剣な表情になった。「……考えてみます」

 「いい仕事だよ。大変だけど」

 なぎさが笑った。「大変なのはわかりました。でも、かっこよかったです、皆さん」

 アキは微笑んで、点検記録に向き直った。

 かっこよかった。

 そんな言葉をもらえる日が来るとは、入職したころは思っていなかった。メリーちゃんと呼ばれて、機械の人と言われて、医師でも看護師でもないと言われて、それでも続けてきた先に、こういう言葉がある。

 なぎさが帰ってから、アキはしばらく窓の外を見ていた。一月の空は低く、灰色だった。でも、その灰色の中に確かな光がある。

 自分が入職したころ、誰かに「かっこよかった」と言われたことはあっただろうか。記憶にない。ただ、必死だった。チェックリストを握りしめて、アラームに怯えて、メリーちゃんという呼び名に戸惑いながら、夜の点検を続けていた。

 あのころの自分に、今のなぎさの言葉を届けてやれたら、少しは楽だっただろうか。でも、あの怯えや戸惑いがなければ、今のアキもなかった。怖いままでいい、と一ノ瀬が言った。怖かったから続けた。続けてきた先に、今がある。


 二月の終わり、アキは高梨先輩にメッセージを送った。

 「DXプロジェクト、院内標準のマニュアルになりました」

 すぐに返信が来た。「おめでとう。やっぱりね」

 「やっぱり、って何ですか」

 「南條さんがやると思ってたから。あなた、諦めない人だから」

 アキはスマートフォンを置いて、窓の外を見た。二月の空は低く、灰色だった。でも、どこかに春の気配がある。梅の香りが、廊下の窓から薄く届く季節だ。

 諦めない人。

 自分でそう思ったことはなかった。怖いから続けてきただけだ。間違えたくないから確認し続けてきただけだ。でも、それが外から見ると諦めないに見えるのかもしれない。

 怖いままでいい。それが命を大事にしている証拠だ。

 一ノ瀬の言葉が、またよみがえった。あの廊下での会話は、もう一年以上前のことだ。でもその言葉は、アキの仕事の骨の中に入っている。日常の点検をしながら、会議で発言しながら、後輩に言葉を渡しながら、その言葉がいつも背骨のどこかにある。

 ジュネーブで、先生は今日も手術をしているだろう。怖いままで、手を動かしながら。自分が渡した言葉を、アキが今も使っていることを、先生は知らない。でも、渡した言葉は渡した先で生きていく。受け取った側がそれを使い続ける限り、その言葉は消えない。

 アキはスマートフォンをポケットにしまった。

 高梨先輩へのメッセージを、もう一度頭の中で繰り返した。DXプロジェクト、院内標準のマニュアルになりました。あの九月の夜、石渡部長に「このレポートを院内全体に共有したい」と言われてから、半年かかった。会議を重ねて、各部署に説明して、修正して、また説明して。その時間が、一文のメッセージになった。

 小さな一歩だ。でも、確かな一歩だ。

 三月の第一週、有村あかりから手紙が届いた。

 宛名は「宮永カナ先生へ」。差出人を見たカナは、少し首をかしげた。有村あかり。小四だったあかりちゃんが、今は中学生になっている。入院中に「フーフーちゃん」と呼吸器に名前をつけた女の子だ。

 封を開けると、便箋が二枚入っていた。小学生のころより少し整った字で、びっしりと書いてある。

 「カナ先生、元気ですか。私は今、中学生になりました」

 カナは読み進めた。あかりが中学に入って、理科の授業で呼吸のしくみを習ったこと。そのとき、入院中にカナが教えてくれたことを思い出したこと。肺がどうやって動いているか、機械がどうやって助けてくれるか。カナが病室で話してくれた言葉が、理科の授業で全部つながった、とあかりは書いていた。

 「フーフーちゃんのことも覚えています。あのとき名前をつけたら、怖くなくなったんです。カナ先生が教えてくれたこと、今も覚えています」

 手紙の最後に、一枚の付箋が貼ってあった。

 水色の付箋に、青いペンで書いてある。

 「味方は、ちゃんとそばにいる」

 カナは付箋を見た。

 この言葉は、カナがあかりに渡した言葉だった。呼吸器が怖くて泣いていたあかりに、カナが付箋に書いて渡した言葉。怖くても大丈夫、味方がいるから、という意味で渡した言葉。

 それが今、あかりからカナに戻ってきた。

 カナはしばらく付箋を見ていた。言葉は渡した後も消えない。渡した相手の中で生きていて、こうして戻ってくることがある。あかりが中学生になるまで、この言葉を持っていてくれた。そして今、カナに返してくれた。

 ありがとう、とカナは思った。声には出さなかった。でも、胸の中で確かにそう思った。

 カナはゆっくりと立ち上がって、引き出しを開けた。ハルくんのノートを取り出す。茶色い表紙。丸くて不格好な字。カナはその表紙に、そっと付箋を貼った。水色の付箋が、茶色い表紙の上で静かに光った。

 「味方は、ちゃんとそばにいる」

 ハルくんにも、届いていたといいな、とカナは思った。機械の向こうにカナがいてあったかかった、とハルくんは書いていた。味方がそばにいると感じてくれていたなら、それでよかった。

 カナはノートを閉じた。付箋が貼られた表紙が、引き出しの中に静かに収まった。


 三月の終わり、CE室に春の光が差し込んでいた。

 窓から伸びる光が、デスクの上の点検記録を斜めに照らしている。四月が近い。病院の庭の欅に、小さな膨らみが見え始めていた。去年も同じ景色を見た。来年も見るだろう。春はいつも、同じように来る。

 アキはチェックリストを更新していた。新年度の版だ。毎年更新する。でも今年は、一人でやっていない。翔が隣で自分の担当分を作り、カナが透析室のリストを見直している。ユウは来週の院内研修の資料を作っている。

 四人が同じ室内で、それぞれの仕事をしている。

 アキはリストの一番上に「南條アキ 担当」と書いた。入職してからずっとそうしてきた。名前は、ちゃんとある。ここにも、あそこにも。

 「先輩」翔が言った。「このリスト、去年より項目が増えてますね」

 「経験が増えれば増える」

 「ということは、また増えるんですか、来年も」

 「そうだよ」

 翔が少し考えてから言った。「それって、間違えてきた証拠でもあるんですよね」

 アキは手を止めた。

 「そうだよ」

 「でも、それがリストを強くするんですね」

 アキはうなずいた。間違えて、気づいて、直して、また間違えて。その繰り返しが、今のリストを作っている。完璧なリストはない。でも、昨日より少しだけ穴の少ないリストは、作れる。シリンジポンプの照合漏れから始まって、バッテリーランプの接触不良、システム障害の夜の経験。そのたびにリストは厚くなった。

 「翔くん」

 「はい」

 「来年、後輩が来たら教えてあげて。このリストの意味を」

 翔が少し驚いた顔をして、それからうなずいた。「はい。やってみます」

 「緊張するかもしれないけど」

 「緊張します、絶対」

 アキが少し笑った。「緊張してる人が教えると、ちゃんと伝わる」

 翔が「それ、どこかで聞いた言葉の感じがします」と言った。

 「一ノ瀬先生なら、そう言うと思って」

 カナが顔を上げた。「私も教えてもらった側だから、教える側になるの、まだ緊張しますよ」

 「緊張していい」アキが言った。「緊張してる人が教えると、ちゃんと伝わる。それは本当のことだから」

 カナが笑った。翔も笑った。

 ユウが「先生、元気かな」と言った。

 「元気だと思う」アキが言った。「あの人は怖いままでいる人だから」

 「怖いままでいる人」ユウが繰り返した。「それ、お前もそうじゃないか」

 「そうかもしれない」

 「俺もだな」

 カナが「私も怖いですよ、毎日」と言った。翔が「僕もです」と言った。

 四人がそれぞれの仕事に戻った。CE室に春の光が伸びていた。

 アキはリストの最後の項目に丸をつけた。今年度のリストが完成した。去年より三項目増えている。間違えてきた三項目分だ。でも、その三項目が、来年の誰かを守るかもしれない。

 窓の外で、桜の枝に小さな膨らみが見えた。まだ咲いていない。でも、もうすぐ咲く。それがわかる膨らみだ。

 三月の屋上で、ユウと話した夜があった。その翌週にDXプロジェクトの発表があった。九月の夜、システムが止まった。その全部が、この春へと続いている。アキがここまで来るのに、たくさんの人の言葉があった。一ノ瀬の「怖いままでいい」。技士長の「自分を壊すな」。高梨先輩の「渡していく立場になった」。カナの「機械と患者のあいだにいる人間」。翔の「怖いまま、手を動かす」。ユウの「入職してからずっと、お前のことを見てきたから」。そして、りおちゃんの「ぴっぴっぴっ」というクレヨンの文字。

 どれも、今もアキの中にある。

 ピッ、ピッ、ピッ。

 廊下の奥でモニター音が鳴っている。今日も誰かが生きている。その音が、春の光の中で静かに続いていた。

 アキは窓の外の桜の膨らみをもう一度見た。

 来週には、咲いているだろう。


読んでくださってありがとうございます。

「どれも、今もアキの中にある」——一ノ瀬の「怖いままでいい」、りおちゃんの「ぴっぴっぴっ」、ユウの言葉、カナの言葉、翔の言葉。入職から十年間、アキが受け取ってきたものの全てが、この春に集まりました。

次回は最終章です。そしてエピローグへ。アキの物語の終わりを、どうぞ最後まで見届けてください。

第十二章へ続きます。

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