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第十章 夜が止まった

第十章は、全館システム障害という緊急事態から始まります。

深夜十一時十四分、院内の情報システムが全て沈黙しました。遠隔モニタリングが落ち、電子カルテが消え、CDSSのアラートが途絶えた病院で、当直のユウが一人で動き始めます。

人工呼吸器七名、透析三名、IABP一台。優先順位をつけて、走って、確認して、判断して、記録する——ユウの十九分間が、この章の核心です。

 技士長補佐になって、まもなく一年になる九月、第三週、木曜日の深夜だった。

 午後十一時十四分。

 院内のシステムが、止まった。

 最初に気づいたのはナースステーションの当直看護師だった。電子カルテの画面が突然フリーズし、遠隔モニタリングの大型モニターが真っ暗になった。CDSSのアラート音が途絶えた。病棟の照明は生きている。医療機器の電源も落ちていない。でも、すべての情報システムが沈黙した。

 停電ではない。システム障害だ。

 当直の看護師長が院内一斉放送をかけた。「全館システム障害が発生しました。各部署は手動対応に切り替えてください」

 CE室の当直当番はユウだった。

 放送を聞いた瞬間、ユウはすでに動いていた。CE室の緊急連絡網を起動し、アキ、カナ、翔に一斉連絡を入れた。メッセージは短く、正確だった。「全館システム障害。至急登院。詳細はCE室で」。送信しながら、ユウはホワイトボードに向かった。

 マーカーを手に取る前に、頭の中で優先順位をつけた。

 人工呼吸器管理中の患者、七名。透析中、三名。ICUのIABP、一台。この三つが最初に守るべきものだ。遠隔モニタリングが落ちた今、全部を足で確認するしかない。CE室の当直は自分一人だ。七名を同時には回れない。どこから行くか。

 IABPだ。

 大動脈内バルーンポンプは、心臓が動くたびにバルーンを膨らませ、血流を助ける装置だ。外部電源が生きていても、システム障害でモニタリングが途絶えれば、動作の異常を誰も検知できなくなる。人工呼吸器は内蔵バッテリーがある。透析は現時点では外部電源で動いている。IABPが最も早く孤立する。

 ユウはホワイトボードに数字だけ書いた。「呼吸器×7 透析×3 IABP×1」。誰かが来たとき、一秒で状況がわかるように。マーカーのキャップを閉めて、ICUへ走った。

 廊下は照明が生きていた。でも静かだった。モニターの集中管理音が途絶えた病院は、ここまで違う音がするのか、とユウは走りながら思った。普段は意識しない音が、消えることで初めてわかる。

 ICUに入ると、当直看護師が三名、各ベッドを手で確認していた。

 「鳥海さん」ベテランの看護師・柴田が振り返った。五十代、この病院で二十年以上働いている。「IABPが」

 「見ます」

 ユウはIABPの前に立った。装置は動いている。バルーンの駆動音が聞こえる。しかしカウンターパルセーション(心臓の拍動に合わせてバルーンを動かす同期機能)の同期ランプが、わずかに不規則に点滅していた。システム障害の影響で、心電図との同期信号が不安定になっている。

 「同期がずれかけています。当直の先生に連絡をお願いします。内蔵バッテリーに切り替えます」ユウは柴田に言った。「その間、患者のバイタルを手動で見ていてください」

 「わかりました」

ユウは装置の操作パネルに向かった。外部電源からバッテリー駆動への切り替え——緊急時の手順として、何度も確認してきた操作だ。手順通りに切り替える。

 装置の表示が、一瞬だけ暗くなった。

 ユウの息が止まった。

 次の瞬間、バッテリー駆動の表示が点灯した。同期ランプが、規則正しい点滅に戻った。

 バルーンの駆動音が、一定のリズムを取り戻した。

 「安定しました」

 柴田が息を吐いた。「ありがとう」

 ユウは記録をつけながら、ICUの残りのベッドを確認した。人工呼吸器三台、輸液ポンプ五台、シリンジポンプ二台。バッテリー残量、アラーム設定、回路の状態。一台ずつ、手で確かめる。遠隔モニタリングが使えないから、目と指がモニター代わりだ。

 七分で全台を確認した。

 三号床の人工呼吸器のバッテリーが、他より少ない。三十八パーセント。問題ないが、記録に残す。ICUを出て、CE室に戻る途中、廊下で透析室の担当看護師とすれ違った。

 「鳥海さん、透析どうしましょう」

 「今すぐは問題ありません。外部電源で動いてます。ただ長引く場合は返血の判断が必要になるので、担当医に状況を報告しておいてください」

 「わかりました」

 CE室に戻ってホワイトボードに情報を書き加えた。病棟ごとの担当区分、確認済みの機器、残バッテリーの懸念点。字が乱れないように書く。誰が来ても、状況が読める字で書く。

 放送から、十九分が経っていた。

 ユウはマーカーを置いて、白衣の袖をまくった。まだ汗をかいている。でも、手は止まっていなかった。走って、確認して、判断して、記録した。一人で動いた十九分間、迷った瞬間はなかった。

 迷わなかったのは、怖くなかったからではない。

 怖かった。IABPの表示が暗くなった一瞬、心臓が跳ね上がった。でも怖さより先に、手が動いていた。そういう順番になったのは、いつからだろうとユウは思った。入職したころは逆だった。手より怖さが先に来て、動けなくなることがあった。今は違う。怖さが来ると同時に、手が動く。怖さが、自分を動かすエンジンになっている。

 アキがよく言っていた。怖いから確認する。怖さを捨てた技術者に、命は預けられない、と。

 ユウはその言葉が最初、よくわからなかった。怖さは邪魔なものだと思っていたから。でも今夜、IABPの前で息が止まった瞬間に、やっとわかった気がした。怖いから、ちゃんとやる。怖いから、手が動く。怖さはなくならない。なくなったら、たぶん終わりだ。


 アキのスマートフォンが鳴ったのは、自宅のベッドの中だった。

 画面を見る前に、体が起き上がっていた。ユウからのメッセージを読んで、そのまま着替えた。コートを羽織りながら玄関を出る。夜の空気が冷たかった。九月の深夜は、もう秋の温度だ。

 病院まで車で十分。走りながら、アキは状況を頭の中で整理した。

 システムが落ちても、医療機器そのものはバッテリーと独立電源で動いている。人工呼吸器、透析装置、輸液ポンプ、シリンジポンプ――これらはネットワークから切り離されても単体で動作する設計だ。ただし、遠隔モニタリングが使えない。各病床の状態を、足で確認するしかない。

 透析装置は。現時点では外部電源で維持されているはずだが、障害が長引けば水供給系統やポンプ、安全監視システムすべてに影響が出る。長期化は避けなければいけない。

 ICUのIABPは。予備電源への切り替えが必要だ。誰かすでに動いているか。

 病院に着いたのは、発生から二十二分後だった。

 CE室に入ると、ユウがホワイトボードの前に立っていた。白衣の袖をまくって、マーカーを手に持っている。ホワイトボードには、病棟ごとの担当区分と確認事項が、すでに整理されて書き出されていた。

 「状況は」

 「システム障害の原因はまだ不明。医療情報部門が対応中。復旧の見込みは現時点で不明」ユウが淡々と言った。「人工呼吸器管理中の患者が院内に七名。透析中が三名。ICUのIABPが一台稼働中」

 「バッテリー状況は」

 「人工呼吸器は全台、内蔵バッテリーで最低四時間は動く。透析装置は今は外部電源で動いてるけど、長引けば水供給とポンプ、安全監視に影響が出る。IABPは予備電源に切り替え済みだ」

 「誰が切り替えた」

 「俺が最初にICUに行って、看護師と一緒にやった」

 アキはユウを見た。放送から二十二分でそこまで動いていた。ホワイトボードの字が、状況を整理しながら書いたにしては、ひどく落ち着いている。

 「翔は」

 「今、三西病棟に向かってる。カナは小児病棟」

 アキはホワイトボードを見た。ユウがすでに病棟ごとの担当と確認事項を書き出していた。誰が何をすべきかが、一目でわかる。

 「私はICUと四階東を担当する。ユウはここで情報を集約してくれ」

 「わかった」

 「何かあればすぐに連絡。判断に迷ったら必ず確認してから動く」

 「了解」

 アキは走り出した。

ICUに入ると、当直看護師が三名で各ベッドを手動確認していた。

 「南條さん、来てくれた」

 「状況を教えてください」

 「バイタルは各ベッドのモニターで確認できてます。ただ記録が電子カルテに入れられなくて、手書きに切り替えました。IABPは予備電源で動いてます」

 「機器を一台ずつ確認します」

 アキはICUの七床を順番に回った。人工呼吸器のバッテリー残量、アラーム設定、回路の状態。輸液ポンプの残量と流量。シリンジポンプの設定と薬剤残量。一台ずつ、手で確かめる。遠隔モニタリングが使えないから、足で稼ぐしかない。数値を目で読んで、手で触れて、体で確認する。それがCEの仕事だ。

 三号床の人工呼吸器のバッテリー残量が、他より少なかった。

 画面を見ると、残量は三十八パーセント。四時間は持つ計算だが、障害がいつ復旧するかわからない状況では、余裕を持って動くほうがいい。

 「この機器、最後に充電確認したのはいつですか」

 「昨日の日勤帯だと思います」

 「予備機を持ってきます。念のため交換しましょう」

 アキはCE室に取って返し、予備の人工呼吸器を押して戻った。

 患者への影響を最小限にしながら、機器を切り替える。

 接続を外している間、この人の肺は自力で動かなければならない。人工呼吸器に頼り切っている肺が、数秒だけ自分で息をする。それだけのことだ。でも、その数秒が長すぎれば、酸素が落ちる。だから三秒以内でなければならない。

 三秒というのは、声に出してカウントすればわかる。いち、に、さん。それだけの時間だ。その間に、古い回路を外して、新しい回路をつないで、固定を確認する。段取りを間違えれば、三秒では終わらない。

 アキは看護師に手順を確認しながら、一つひとつの動作の順番を頭の中で組んだ。

「タイミングを合わせます。私が『今』と言ったら接続を切り替えてください。三秒以内で」

「わかりました」

アキは予備機の回路を手で確認した。接続部の遊びがないか。チューブの折れがないか。この数秒のために、すべてを整える。

 「いきます。三、二、一、今」

 接続が外れた。

 いち。古い回路を引く。新しい回路を手に取る。

 に。チューブの先端を気管チューブに合わせる。押し込む。

 さん。固定リングを回す。手応えを確かめる。

 「つなぎました」

 気道内圧を確認する。正常範囲だ。SpO₂モニターの数値が、乱れなく並んでいる。患者の胸が、規則正しく動いている。

 アキは息をついた。

看護師も息をついた。「ありがとうございます。南條さんがいてくれると、安心します」

 アキは答えなかった。でも、その言葉を静かに受け取った。安心します。石田さんが言っていた言葉と同じだ。逃げずにいてくれると安心する。そこに人間がいること。それが安心の正体だ。システムが止まった夜に、それがより鮮明になる。

 旧機のバッテリー残量は三十八パーセントだった。充電しながら次の確認に移る。

 四階東の病棟も順番に回った。輸液ポンプ、シリンジポンプ、心電図モニター。異常が二件。いずれも軽微で、現場で対応できた。記録は手書きで残した。

 翔が三西病棟に着いたのは、障害発生から三十分後だった。

 廊下を早足で歩きながら、翔は何度か深呼吸した。一人だ。アキもユウもいない。カナもいない。自分一人で、この病棟の機器を全部確認しなければいけない。

 ナースステーションに入ると、担当看護師が待っていた。

 「佐々木さん、来てくれてよかった。五号室でシリンジポンプのアラームが出てて」

 翔はすぐに五号室へ向かった。

 シリンジポンプの画面に「流量低下」のアラームが表示されていた。注射器の残量を確認する。十分ある。次に回路を確認する。三方活栓(点滴回路の分岐部分にある切り替え弁)の向きを確認すると、設定がずれていた。

 翔は三方活栓の向きを正しい位置に戻した。アラームが止まった。流量が正常値に戻った。

 記録をつける。手が少し震えていた。でも、止まらなかった。

 ユウに報告した。「三方活栓のずれが原因でした。修正して正常です」

 「よし。記録残して、次の確認続けて」

 「はい」

 翔はナースステーションを出て、次の病室に向かった。廊下の蛍光灯が、いつもより白く見えた。システムが止まって、病院の音が変わっている。電子音が消えて、足音と人の声だけが廊下に響く。その静けさの中で、翔は自分の息と足音を聞きながら歩いた。

 アキへのメッセージを送った。「三方活栓のずれが原因でした。修正して正常に戻りました」

 すぐに返信が来た。「よくやった」

 翔はその二文字を、しばらく見ていた。よくやった。自分一人でやった。誰かに聞かなかった。迷ったけれど、手が動いた。

 次の病室に向かう足が、少しだけ速くなった。

 その頃、石田さんのベッドがある透析室では、当直看護師がバイタルの手動確認を続けていた。石田さんは起きていた。夜間透析は終了していたが、システム障害の影響でモニタリングが手動になったことを、石田さんはすでに把握していた。

 翔が透析室の確認に回ってきたのは、午前零時を過ぎたころだった。

 「石田さん、確認に来ました」

 「慌ててたな」石田さんが言った。

 「はい、慌ててました」翔が素直に答えた。

 「でも、ちゃんとやったじゃないか」

 翔が頭を下げた。「ありがとうございます」

 「俺に礼を言うな」石田さんが透析装置を顎で示した。「機械に言え。ちゃんとアラーム鳴らしてくれたんだから」

 翔は思わず笑った。透析装置を見た。画面には、正常を示すグリーンのランプが光っていた。アラームが鳴ったから気づけた。機械が教えてくれた。それに人間が応えた。その連携が、今夜を動かしている。


カナが小児病棟に着いたのは、障害発生から二十八分後だった。

 エレベーターを降りると、廊下の壁のクレヨンのイラストが、非常灯の薄い光の中で見えた。ひまわりと太陽と、名前のわからない生き物たち。いつもより暗い廊下で、それらが少し頼りなく見えた。

 ナースステーションに入ると、当直看護師が二名で手書きの記録をつけていた。

 「宮永さん、来てくれた。機器は今のところ動いてるんですけど、七号室の子が泣いてて」

 「機器の確認を先にしてから行きます」

 カナは病棟を順番に回った。人工呼吸器の回路確認、輸液ポンプの残量、パルスオキシメーターの装着状態。一台ずつ、丁寧に手で触れて確かめる。照明が暗くても、指先は正直だ。回路の継ぎ目の遊び、プローブの固定の緩み、チューブの折れ。目で見えなくても、触れればわかる。

 全室の確認が終わって、カナは七号室に向かった。

 ドアの小窓から中を確認する。ベッドに小さな体が横たわっている。五歳くらいの女の子。先月から入院している患者で、カナが担当していた。人工呼吸器が接続されている。モニター画面は動いているが、遠隔モニタリングが切れているから、ナースステーションには数値が届いていない。母親らしき女性が椅子に座って、子どもの手を握っていた。子どもは泣いていた。声を殺した泣き方で、でも体が震えている。

 カナは静かにドアを開けた。

 「こんな夜中にごめんね」カナがベッドの横にしゃがんだ。「機械、ちゃんと動いてるよ。音、聞こえる?」

 ピッ、ピッ、ピッ。

 「うん」女の子が小さくうなずいた。泣きながら、でもちゃんと聞こえている。

 「それ、あなたが生きてる音。画面が暗くなっても、音は鳴ってるでしょ。機械は止まってないよ」

 女の子がしばらく音を聞いた。それから、少しだけ肩の力が抜けた。

 「お姉ちゃん、メカちゃん?」

 「そう、メカちゃん。今夜もいるよ」

 女の子のお母さんが「ありがとうございます」と小声で言った。目が赤い。カナは微笑んで、もう一度機器を確認してから病室を出た。

 廊下に出て、カナは少しだけ立ち止まった。

 機械が止まっても、人間は止まらない。

 それがCEの仕事だ、とカナは思った。遠隔モニタリングが切れても、足で確認しに来る。CDSSがアラートを出せなくても、回路を指先で触れて確かめる。画面が暗くなっても、声をかけに来る。システムが止まった夜だからこそ、人間にしかできないことが際立つ。

 カナは北棟の廊下を歩き出した。非常灯の薄い光の中で、クレヨンのひまわりが見えた。どんな夜でも、ここに貼ってある。

 午前一時過ぎ、カナから連絡が来た。

 「小児病棟、全機器確認完了しました。異常なし。七号室の子、落ち着きました」

 ユウがCE室から全員に転送した。アキが四階東の最後の病室を出たのは、その直後だった。担当エリアの全機器確認が完了した。異常は三件。いずれも軽微で、現場で対応済みだ。

 アキは廊下の壁に背をもたせかけて、少しだけ息をついた。汗をかいていた。九月の夜でも、走り回れば汗をかく。廊下の窓から、夜の空が見えた。都市の光が、低い雲を薄く照らしている。病院の外では、街がいつもどおりに動いている。

 スマートフォンにユウからメッセージが来た。「アキ、状況は」

 「四階東、完了。異常三件、全部対応済み」

 「ICUは」

 「異常なし。予備機に切り替え一件」

 「お疲れ。翔もカナも問題なくやってる」

 アキはその文字を読んで、廊下の天井を見た。

 翔も、カナも。

 この夜、四人がそれぞれの場所で動いていた。アキが全部を見ていたわけではない。ユウが情報を集約して、カナが小児病棟で声をかけて、翔が一人でアラームに対応した。誰かが誰かを補って、夜が動いていた。

 一人でやっていたら、間に合わなかった。

 技士長補佐になったとき、現場から離れることへの怖さがあった。でも今夜、アキはICUと四階東だけを見ていた。その間、三西病棟は翔が守り、小児病棟はカナが守り、CE室ではユウが全体を見ていた。チームで分担するから、全体を守れた。

 渡していく立場になった、と高梨先輩が言っていた。渡した先が、今夜動いている。


午前二時十七分、医療情報部門からユウに連絡が入った。

 「サーバーの一部に障害が発生していました。現在、段階的に復旧中です。遠隔モニタリングは三十分以内に復旧見込み、電子カルテは一時間以内の予定です」

 ユウがCE室から全員に一斉送信した。「復旧見込みが出た。各自、現在地での確認を続けて」

 アキが四階東の廊下でそのメッセージを受け取ったのは、次の病室に向かう途中だった。復旧見込みが出た。あとどれくらいかかるかはわからないが、終わりが見えてきた。アキは足を速めた。残りの確認を終わらせてから戻ろう。

 翔は三西病棟の最後の病室を出たところだった。

 全室の確認が完了した。異常対応二件。どちらも自分で処置できた。記録は手書きで残してある。引き継ぎに必要な情報は全部書いた。

 廊下に一人で立って、翔は少しだけ息をついた。

 やれた。

 アキもユウもいなかった。カナもいなかった。一人で、この病棟を守った。震えながらでも、手が動いた。迷いながらでも、判断できた。

 スマートフォンが鳴った。ユウからだった。「透析室も確認できるか。担当看護師が手一杯みたいだ」

 翔はすぐに「はい」と返信して、透析室へ向かった。石田さんが言っていた。ちゃんとやったじゃないか、と。機械に礼を言え、と。翔は廊下の先にある透析装置を見た。暗い廊下の中で、静かに動いている。

 ――機械に礼を言え。

 その言葉が、翔には妙に嬉しかった。機械が鳴らしてくれたアラームに気づいて、人間が応えた。それだけのことが、今夜は大きかった。

 カナは小児病棟の廊下を最後にもう一度歩いた。

 全室の確認が終わっている。でも、もう一度だけ歩いておきたかった。七号室の前を通ると、中は静かになっていた。女の子は眠ったのだろう。モニターの光が、ドアの隙間から薄く漏れている。ピッ、ピッ、ピッ。その音が、廊下の静けさの中で規則正しく続いていた。

 カナはその音を聞きながら、ハルくんのノートのことを思い出した。

 「機械の向こうにカナさんがいて、あったかかった」

 あの言葉が今夜、また別の形で生きている。システムが止まって、画面が暗くなって、数値が見えなくなっても、機械の音は鳴り続けている。そしてその音のそばに、人間がいる。それがCEだ。

 午前三時二分、遠隔モニタリングが復旧した。

 ナースステーションの大型モニターに、一斉に数値が戻ってきた。各病床のバイタルが画面を埋める。グリーンのランプが点灯する。CDSSが再起動した。数値が流れ始める。いつもの夜の病院の画面が、戻ってきた。

 内科病棟のナースステーションにいた当直看護師が「戻った」と言った。その声が廊下に漏れて、小さな安堵の空気が広がった。

 CE室に四人が集まったのは、午前三時半だった。

 全員、白衣が少しくたびれている。カナの髪が乱れていた。翔の目が赤い。ユウがホワイトボードの前に立って、各担当エリアの最終確認を取った。

 全病棟、全機器、異常対応済み。患者全員、安全。

 「お疲れ様でした」ユウが言った。

 誰も大きな声を出さなかった。でも、室内に静かな空気が満ちた。やり切った、という空気だ。CE室の蛍光灯が、四人の白衣を均等に照らしている。

 翔がぽつりと言った。「怖かったです」

 「そうだな」ユウが言った。

 「でも、手は動きました」

 アキは翔を見た。怖いまま、手を動かす。あの日、翔の手帳に書かれた言葉が、今夜実現した。言葉が体になった瞬間だ。アキが一ノ瀬から受け取って、翔に渡した言葉が、今夜この病院の夜を守った。

 「カナさん」翔が続けた。「小児病棟、一人でよかったんですか」

 「大丈夫だったよ」カナが笑った。「機械が止まっても、声は出るから」

 翔がうなずいた。カナの言葉を、また手帳に書き留めそうな顔をしていた。

 アキはカナを見た。乱れた髪、疲れた目、でも笑っている顔。小児病棟に一人で向かって、七号室の女の子に声をかけて、全室の機器を確認して戻ってきた顔だ。

 「カナ、よくやった」

 「……ありがとうございます」カナが静かに言った。目が少し潤んでいた。それ以上は何も言わなかった。でも、その沈黙の中に、受け取った、という気持ちが確かにあった。


 アキはホワイトボードを見た。ユウが最初に書き出したこの表が、今夜の動きの骨格になった。誰が何をすべきかが可視化されていたから、四人がそれぞれの判断で動けた。情報が集約されていたから、迷いが減った。

 「ユウ」アキが言った。

 「ん?」

 「最初にこれ書いたの、よかった」

 ユウが少し照れた顔をした。「お前が来る前に何かしないといけないと思って」

 「助かった」

 「どういたしまして」

 カナが「先輩たち、仲いいですね」と言った。翔が小さく笑った。アキはそれには答えなかった。ただ、顔が少し熱くなった。

 四人でしばらく、それぞれ黙っていた。CE室の時計が、静かに秒を刻んでいる。廊下の奥からモニター音が届いてくる。ピッ、ピッ、ピッ。今日も誰かが生きている。


翌朝、石渡部長からCE室に連絡が来た。

 「昨夜の対応、報告を聞いた。CEチームが迅速に動いてくれたおかげで、患者への影響がゼロだった。感謝する」

 古賀技士長がアキに向かって言った。「よくやった」

 「チームがやりました」

 「お前がチームを作ったんだろ」

 アキは答えなかった。でも、その言葉を否定する気にもなれなかった。チームを作った、というより、チームに育てられた、という感覚のほうが近かった。カナの「機械と患者のあいだにいる人間」という言葉が、翔の「怖いまま、手を動かす」という手帳の言葉が、ユウの「俺はお前についていく」という言葉が。そういうものが積み重なって、昨夜の四人があった。

 技士長が続けた。「南條、今回のことをレポートにまとめてくれ。システム障害時のCE対応マニュアルとして、院内標準にしたい」

 「はい」

 「それと」技士長が少し表情を和らげた。「お前、昨夜何時間動いてた」

 「三時間半ほどです」

 「今日、午後は上がっていい」

 アキは少し驚いたが、うなずいた。

 廊下に出ると、ユウが待っていた。

 朝の申し送りを終えて、点検バッグを肩にかけたままCE室の前に立っていた。アキが出てくるのを待っていたのだろう。

 「聞こえてた。午後、上がっていいって」

 「うん」

 「じゃあ、行こう」ユウが言った。「屋上の続き、ちゃんとしたい」

 アキはユウを見た。昨夜からずっと、二人は仕事の中にいた。状況確認して、役割分担して、動いて、戻って。それが終わった朝だ。今朝の空気は、昨夜の緊張とは違う。柔らかい、九月の朝の空気だ。

 「うん」アキが言った。「行こう」

 二人で廊下を歩いた。朝の病院は、夜とはまた違う動きをしている。日勤の看護師たちが申し送りを終えて動き始める時間だ。昨夜のシステム障害の話が、至る所で交わされている。廊下を歩くたびに、「昨夜はありがとうございました」という声が届いた。アキは会釈しながら歩いた。

 外来棟の手前で、廊下の窓から空が見えた。

 九月の朝の空が、澄んでいた。夜通し動いた後の空は、妙に清潔な感じがする。昨夜の緊張が、空気ごと洗われたような朝だ。積乱雲の名残りが白く流れている。夏が終わって、秋が来る前の空だ。

 「きれいだな」ユウが言った。

 「うん」

 二人でしばらく、その空を見上げた。

 夜通し動いて、疲れているはずなのに、今この瞬間は穏やかだった。隣にユウがいる。昨夜、それぞれの場所で動いて、朝にCE室で顔を合わせて、今こうして並んで空を見ている。それがごく自然なことのように感じられた。

 「話したいことって」アキが言った。

 「急がなくていい」ユウが言った。「午後、ちゃんと話す。今は、これでいい」

 アキはうなずいた。

 これでいい。その言葉が、今朝の空気にぴたりと合っていた。急がなくていい。昨夜があって、今朝がある。今夜があって、明日がある。その続きの中に、ちゃんと話す時間がある。

 廊下の奥からモニター音が届いてくる。ピッ、ピッ、ピッ。今日も誰かが生きている。その音が、朝の光の中で静かに続いていた。

 アキは窓から離れて、チェックリストを開いた。朝の点検を始めなければいけない。昨夜どれだけ動いても、朝は来る。新しい一日が始まる。それがこの場所の、変わらないリズムだ。

 「じゃあ、先に点検に行ってくる」

 「俺も行く」ユウが言った。「一緒に回ろう」

 アキは少し笑った。「珍しい」

 「たまには」

 二人で並んで、ICUへ向かった。九月の朝の光が廊下に伸びていた。夜通し動いた二人の白衣が、その光の中で並んでいる。

 ピッ、ピッ、ピッ。

 今日も、誰かが生きている。


読んでくださってありがとうございます。

「怖さが来ると同時に、手が動く。怖さが、自分を動かすエンジンになっている」——ユウがこの境地に至るまでに、五年間かかりました。アキから受け取った言葉が、緊急事態の深夜に、ユウの体の中で生きていました。

受け取ったものは、消えない。渡していく。その連鎖が、この夜に証明されました。

残り2章+エピローグ。第十一章へ続きます。

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