第九章 数値の見えないもの
第九章では、AI診断支援システム(CDSS)が病棟で本格稼働します。
数値は正常範囲内、アラートも出ていない。それでもカナには「波形が整いすぎている」という違和感がありました。その気づきが、この章の出発点です。
システムが見えないものに、人間が気づく。その連鎖の中に、CEがいる——アキがレポートに書いた一文が、この作品全体のテーマを言葉にします。
四月になると、病院の空気がまた変わった。
新年度。新しい研修医が白衣を着て廊下を歩き、看護師の配置換えがあり、各部署に新顔が増える。CE室にも今年は新人の配属はなかったが、DXプロジェクトの本格始動という意味で、アキにとっては新しい季節の始まりだった。
三月の屋上で、ユウと話した。
特別なことは何も決まらなかった。ただ、お互いの気持ちを言葉にして、確かめた。それだけのことが、思いのほか大きかった。翌朝から病院に来るたびに、廊下でユウと目が合うと、何かが少し違う感じがした。変わったわけではない。でも、変わった。それで十分だった。
AI診断支援システムの試験運用が、内科病棟と集中治療室で開始された。
システムの正式名称は「臨床意思決定支援システム」、院内ではCDSS(Clinical Decision Support System――電子カルテのデータ、バイタルサインの推移、投薬記録を統合的に解析し、異常の予兆や治療の選択肢をリアルタイムで医療スタッフに提示するシステム)と呼ばれた。
遠隔モニタリングも同時に稼働した。各病床のバイタルモニターがネットワークで結ばれ、ナースステーションの大型モニターに全床の数値が一覧表示される。異常値が出ると自動でアラートが鳴る仕組みだ。
CEの役割は、これらのシステムそのものの安全管理と、接続されている医療機器の動作保証だった。システムが正しいデータを出すためには、元になる機器が正確に動いていなければならない。データの源泉を守るのが、CEの仕事だ。どれだけ高度なシステムが入っても、その根っこには機器があり、機器のそばにCEがいる。アキはそのことを、プロジェクトの資料に明示した。
「南條先輩、これ見てください」
試験運用開始から三日目の朝、カナがアキをナースステーションに呼んだ。大型モニターの前に立って、ある病床の波形を指差している。
「四号床、バイタルは全部正常範囲内です。CDSSのアラートも出ていない」
「うん」
「でも、なんか変な気がして」
アキはモニターを見た。SpO₂九十六、脈拍七十二、血圧百十八の七十二。確かに正常範囲だ。CDSSも異常を示していない。
「どこが変だと思う」
「脈拍の波形です。数値は正常なんですけど、波形の形が昨日と少し違う気がして。なんか、整いすぎているというか」
アキは波形を改めて見た。カナの言う「整いすぎている」という表現が、最初はわからなかった。でも、昨日のトレンドグラフと並べてみると、確かに微細な変動が減っている。健康な人の脈拍は、呼吸に合わせてわずかに変動する。それが今朝は妙に一定だ。
「病室に行こう」
二人で四号床に入った。七十代の男性患者。軽度の肺炎で入院中で、症状は改善傾向にあった。カナが患者に声をかけながら顔色を確認した。アキはパルスオキシメーター(指先に装着してSpO₂と脈拍を測定する機器)のプローブの装着状態を見た。
「プローブ、少しずれてます」
指先からプローブが半分浮いていた。測定自体はできているが、接触が不安定だ。こういう場合、数値は表示されるが波形の細かい変動が平滑化されることがある。CDSSは数値だけを見ているから、アラートは出ない。
プローブを正しく装着し直した。波形がすぐに、昨日と同じ細かい変動を取り戻した。
「これだったね」アキがカナに言った。
「よかった。大事じゃなくて」カナが息をついた。「でも、数値が正常でも変だと思ったのは、間違いじゃなかったですね」
「間違いじゃなかった」
病室を出て、カナがアキに言った。「CDSSって、数値を見るんですよね。波形の形の変化までは、まだ見られないんですか」
「今のシステムではそこまでは難しい。波形の形の異常検知は、次世代の課題だ」
「じゃあ今は、人間が補うしかない」
「そう。だからあなたの気づきは、今のシステムには代替できない」
カナが少し考えてから言った。「AIって、学習していないパターンには反応できないんですね。経験を積んだ人間の感覚には、まだ追いつけない部分がある」
「そうだよ」
カナがうなずいた。「じゃあ私たちは、AIが気づけないことに気づける人間になればいい」
アキはその言葉を聞いて、少し立ち止まった。
AIが気づけないことに気づける人間。
一ノ瀬が言っていた。CEが主体になれる場所を、お前が作れ。その場所の意味が、今少し具体的になった。
五月に入ると、CDSSの試験運用は順調に見えた。
内科病棟での稼働率は高く、看護師たちも遠隔モニタリングの大型モニターへの目の向け方が変わってきていた。異常値が出ればCDSSがアラートを鳴らし、当直看護師が確認に行く。その流れが、少しずつ定着し始めていた。
アキはシステムの動作確認と接続機器の点検を毎日続けながら、何か引っかかるものを感じていた。うまく言葉にできない引っかかりだ。システムは正常に動いている。数値は正しく表示されている。でも、どこかに見えていない何かがある気がした。
その予感が、形を持ち始めたのは五月の第二週だった。
医療情報部門の担当者、三十代の男性・桐島が、CDSSのバージョンアップ作業を行った。
桐島は善意の人間だった。システムの更新を定期的に行うことが患者の安全につながると信じていて、休日出勤をいとわず作業する勤勉さを持っていた。今回のバージョンアップも、メーカーから推奨されたアップデートを適用するだけの、いつもどおりの作業のはずだった。
問題は、バージョンアップ後の設定手順が前回と変わっていたことだ。
メーカーの手順書には、新バージョンでは一部のアラーム閾値設定を手動で再入力する必要があると書かれていた。しかし桐島は「前と同じ手順でやれば大丈夫だ」という確信を持っていた。過去に何度もバージョンアップを経験してきた自信があった。手順書を最後まで読まずに、慣れた手順で作業を終えた。
悪意はまったくなかった。ただ、「前と同じだろう」という思い込みがあっただけだ。
その結果、CDSSは特定の条件下で誤ったアラート判定をするようになった。具体的には、血圧の変動幅が小さい高齢患者で、実際には問題のない数値にもかかわらず「要注意」のアラートが繰り返し鳴るようになった。
最初の数日は、誰も気づかなかった。
アラートが増えたことには気づいていた。でも、新しいシステムだから最初は敏感に反応するものだ、という解釈が、自然に広まった。桐島自身も、アラート頻度が増えたことを報告書に記録したが、「試験運用初期の調整期間内」として処理した。
ベテランの内科医・堤が最初に苛立ちを見せたのは、五月の第三週だった。
堤は五十代、内科歴二十五年のベテランだった。患者を深く診る医師で、細かい数値の変化よりも患者の全体的な状態を重視するやり方で、長年信頼を積み上げてきた。そのやり方で、何百人もの患者を診てきた。
「また誤作動か」
堤が内科病棟のナースステーションでCDSSのアラートを確認しながら言った。「三時間で四回目だぞ。この患者、昨日から状態は安定してる。機械が騒いでるだけだ」
当直看護師が「でも確認に行ったほうが……」と言いかけると、堤が手を振った。「行ってくれていい。ただ、異常はないはずだ。機械より俺の経験のほうが正しい」
アキがその場に居合わせたのは、偶然だった。遠隔モニタリングの動作確認でナースステーションに来ていた。
「堤先生、アラートの頻度が増えているのは私も確認しています。システムの設定を見直したほうがいいかもしれません。医師と連携しながら、CEとして確認させてください」
堤がアキを見た。「南條さん、機械のことはわかるんだろうけど、患者のことは俺のほうがわかる。アラートが多いのはシステムが過敏すぎるだけだ。設定の問題なら情報部門に言ってくれ」
「はい、情報部門にも確認します」アキは一拍置いた。「ただ一点だけ確認させてください。六号室の患者さん、昨日からのSpO₂のトレンドが、数値は正常範囲内ですが流れが変わっています。アラートとは別に、念のため診ていただけますか」
堤が足を止めた。アキを見た。
「数値は正常なんだろう」
「はい。ただ、流れが変わっています」
「……今は忙しい」
堤は回診へ向かった。アキはその背中を見ながら、手帳にメモを書いた。六号室・SpO₂トレンド変化・要経過観察。言えた。届かなかったかもしれない。でも、言えた。それだけは確かだ。
翔が異変に気づいたのは、五月の第四週の回診中だった。
内科病棟の六号室、七十八歳の男性患者。慢性心不全で入院中で、CDSSの管理対象になっていた。翔が輸液ポンプの定期点検でその病室に入ったとき、患者の表情がいつもと少し違うことに気づいた。
眉間の皺が深い。呼吸が、昨日より少し浅い気がする。SpO₂は九十四。正常範囲の下限だが、この患者の普段の値は九十七前後だ。CDSSはアラートを出していない。
翔は輸液ポンプの確認をしながら、患者の顔を何度も見た。
――気のせいかもしれない。でも、何かが違う。
翔の中で、二つの声が拮抗していた。一つは、「これは報告すべき変化だ」という声。もう一つは、「新人指導担当になったばかりなのに、気のせいで騒いだら恥ずかしい」という声。
翔は今月から、カナの下に新しく配属された新人・永田の指導担当になっていた。先輩として、確かな判断ができる人間でなければならない、という意識が、翔の中に重くあった。間違った報告をして、先輩としての信頼を失うことが怖かった。
病室を出てから、翔はナースステーションの前で立ち止まった。
担当看護師に声をかけようとして、やめた。堤先生のことが頭をよぎった。アラートが続いている中で、翔がさらに「患者の状態が気になります」と言っても、「また機械担当が騒いでいる」と思われるかもしれない。CEは機械を見ていればいい。先日の堤先生の言葉が、翔の耳に残っていた。
翔は点検記録をつけながら、その引っかかりを胸の中に押し込んだ。
言い出せなかった。
カナがその日の午後、医師からの口頭指示を受けたのは、内科病棟のナースステーション前の廊下だった。
担当医の若い研修医・川本が、早足で歩きながらカナに声をかけた。「宮永さん、五号室の人工鼻、明日の午前に交換でいいですよ」
「はい、わかりました」
カナはそう答えた。でも、川本の言い方は「明日の午前」と「明後日の午前」の発音が似ていて、カナの耳には「明後日」と届いていた。カナには確信があった。なぜなら、前回の交換から七十二時間を計算すると、明後日の午前がちょうど交換時期に当たるからだ。川本先生はちゃんとスケジュールを把握している、と思った。だから確認しなかった。
善意だった。自分の計算への自信だった。「言われた通りだ」という安心感があった。
でも、川本が言ったのは「明日の午前」だった。患者の状態が少し変化していたため、交換時期を一日早めようとしていた。その変化はカルテに記載されていたが、カナはその記録をまだ確認していなかった。
カナは「明後日の午前に交換」という自分の認識を、処置予定表に記入した。確認済み、と思い込んだまま。
翌朝、川本が処置予定表を確認したとき、日付のずれに気づいた。カナを呼んで確認すると、聞き間違いが判明した。交換は予定どおり翌日の午前に実施でき、患者への影響はなかった。カナは川本に深く謝り、口頭指示は必ず復唱確認することを、その日から自分のルールにした。
その夜、ユウは深夜の点検に入っていた。
前日から臨時の対応が重なっていて、ユウの疲労は相当なものだった。それでも点検の手順を守ろうとしていた。輸液ポンプ、シリンジポンプ、心電図モニター、パルスオキシメーター。一台ずつ確認する。
ICUの五号床まで来たとき、ユウの目が一瞬だけ滑った。
チェックリストの「SpO₂プローブ装着部位の確認」という項目を、無意識に飛ばした。次の項目の「バッテリー残量確認」に目が行って、そちらを確認した。プローブはきちんと装着されているように見えた。でも「見えた」だけで、実際には指先で確かめていなかった。
疲労からの、うっかりだった。
悪意はない。注意力が落ちていたわけでもない。ただ、疲れた目が、一項目だけ滑った。
翌朝、アキが点検記録を確認したとき、その空白に気づいた。
ユウの記録の、SpO₂プローブ装着部位確認の欄だけが、白いままだった。
アキはICUに行って、五号床のプローブを確認した。プローブはほぼ正しい位置にあったが、固定テープが少し緩んでいて、動作時にずれる可能性があった。アキはテープを貼り直した。患者への直接的な影響はなかった。
でも、アキはその記録の空白を見て、少しの間動けなかった。
ユウが飛ばした。
五年間、ユウの記録に空白が出たことは一度もなかった。アキはそれを当然のように思っていた。ユウは正確だ。ユウは抜かさない。そういう人間だと、疑ったことがなかった。でも今、チェックリストの白い欄が、その確信に小さな穴を開けた。
ユウも疲れる。ユウも飛ばす。
それが怖かったのか、安心したのか、アキには判断がつかなかった。ただ、ユウが人間だということを、改めて感じた。完璧に見えるものには穴がある、と翔に言った言葉が、今朝は自分に向かって返ってきた。
その日の朝、アキは違和感を感じながら内科病棟のナースステーションに向かった。
遠隔モニタリングの大型モニターを開いて、各病床の数値を確認する。CDSSはどの床もアラートを出していない。数値はどれも正常範囲内だ。
でも、何かが引っかかった。
六号室の患者。昨日、翔が点検に入った患者だ。SpO₂九十四。脈拍六十八。血圧百十二の六十八。どれも正常範囲内だ。CDSSは何も言っていない。
しかし、昨日のトレンドグラフと今朝の波形を並べると、わずかな変化がある。昨日の午後から、脈拍の変動幅が少しずつ小さくなっている。数値は変わっていない。でも、流れが変わっている。
カナが波形の変化に気づいたあの朝のことを、アキは思い出した。整いすぎている、とカナは言った。それと似た何かが、今この画面にある。
アキは六号室に向かった。
ベッドサイドに立って、患者の顔を見た。眉間の皺。呼吸の浅さ。SpO₂モニターの波形。パルスオキシメーターのプローブの装着状態を確認した。正常だ。では、この変化は何から来ているのか。
アキはCDSSのアラート履歴を開いた。
過去二週間のデータを遡ると、この患者だけでなく、内科病棟全体でアラートの頻度が増えていることがわかった。しかしどのアラートも、実際に処置が必要な異常には結びついていない。堤先生が「誤作動だ」と言っていた通り、アラートの内容は軽微なものばかりだ。
でも、アキの目には別のものが見えた。
アラートが増えたのと同じタイミングで、特定の患者群――高齢で血圧変動が小さい患者――において、CDSSの感度が変わっている。アラートが増えた一方で、本来なら注意を要する微細な変化に対してはアラートが出ていない。
システムの設定が、どこかでずれている。
アキは医療情報部門に連絡を入れた。「CDSSのアラート設定について、確認させてください。先月のバージョンアップ後から、挙動が変わっている気がします」
桐島が少し慌てた様子で答えた。「バージョンアップは通常手順でやりましたが……確認してみます」
「一緒に見せてもらえますか。CEとして、接続機器との整合性も含めて確認したいので」
「はい、もちろんです」
情報処理室に入って、桐島と並んでCDSSの設定画面を開いた。バージョンアップ前後の設定ログを比較していくと、三十分もかからずに問題が見つかった。
アラーム閾値の設定項目のひとつが、新バージョンのデフォルト値に戻っていた。前バージョンではこの項目は手動で設定し直す必要がなかったが、新バージョンでは再入力が必要だった。桐島がその手順を知らずに作業を終えたため、特定の患者群に対する感度設定が初期値のままになっていた。
「これが原因です」アキは画面を指差した。「この閾値が院内の患者層に合っていないから、アラートが増えている。そして感度のバランスが崩れているから、本来検知すべき変化を見逃している可能性があります」
桐島が青ざめた。「申し訳ありません、私が確認不足で……」
「責任の話をするより、まず修正しましょう」アキは静かに言った。「桐島さんが悪意でやったわけではないことはわかっています。手順書の確認が必要な変更点だったことを、メーカーがもっと明示すべきでした。仕組みの問題です。一緒に直しましょう」
桐島が深く息を吸った。「……はい、お願いします」
「まず石渡部長と堤先生に報告してから、変更の承認を得ましょう」アキは言った。桐島がうなずいた。
その午後、石渡部長の承認を得て、作業を再開した。メーカーのサポートに電話を入れる。担当者が出るまで四分待った。回線の向こうで確認が走る。
アキはその間も画面を離れず、バージョンアップ前後の設定ログを自分の手で一行ずつ照合した。患者層ごとの年齢分布、基礎疾患の傾向、過去三ヶ月のアラート頻度——それらを頭の中で重ねながら、適切な閾値を導き出す。
サポート担当者が示した推奨値と、アキが手で計算した値が、一致した。「その値で合っています」と画面の向こうの声が言った。桐島が隣で、メモを取り続けていた。
一時間かけて、CDSSのアラーム閾値を院内の患者層に合わせた適切な値にすべて再設定した。
修正後、アキは内科病棟の遠隔モニタリングモニターに戻った。設定変更後のCDSSが、六号室の患者に初めて「要確認」のアラートを出した。
アキはすぐに担当看護師と一緒に六号室に向かった。患者の状態を確認すると、医師への報告が必要な変化があることがわかった。担当医への連絡が入り、処置が行われた。患者への直接的な深刻な影響はなかった。でも、もう少し放置されていれば、状況は変わっていたかもしれなかった。
その報告を聞いた堤が、内科病棟のナースステーションでアキを呼び止めた。
「南條さん」
アキは振り返った。堤の表情が、先日とは違っていた。いつもの自信に満ちた顔ではなく、少し静かな顔だ。
「システムの設定が間違っていたんだな」
「はい。バージョンアップ時の設定漏れが原因でした。悪意はなく、手順の確認不足によるものです」
堤が少し間を置いた。「もう少し、聞かせてもらえるか」
アキはナースステーションの端末を操作して、CDSSのアラート履歴を画面に呼び出した。
「このグラフを見てください。縦軸がアラートの発生件数、横軸が日付です。バージョンアップ直後からアラートの頻度が急増しています。しかしこの期間、実際に処置が必要だった症例はゼロです」
「それは私も感じていた。だから誤作動だと思った」
「はい。その判断自体は正しかった。問題はその先です」アキは画面を切り替えた。
「こちらが今回の六号室の患者のトレンドです。CDSSは五日間、一度もアラートを出していません。でも脈拍の変動幅は、ここからここへと、少しずつ小さくなっています」
堤が画面に顔を近づけた。「……確かに、変わっている」
「CDSSはアラームの閾値を超えた数値にしか反応しません。変化の流れや質感は、今のシステムには見えない。先生が長年の経験で患者の全体像を読んでこられたのと同じように、CEはシステムが拾えないこういう変化を読む必要があります」
「つまり、機械の言っていることを翻訳するのが、あなたたちの仕事だということか」
アキは少し考えてから答えた。「翻訳と、翻訳できないものを足で拾いに行くこと、だと思っています」アキは続けた。「CDSSは数値を読みます。でも今朝、私が六号室に向かったのは数値を見たからではありません。数値の変わり方が、昨日と違って見えたからです。その違和感は、画面の前にいるだけでは気づけない。機器に触れて、患者の顔を見て、初めてわかることがある。それを拾いに行くのが、CEの仕事だと思っています」
堤がしばらく黙った。廊下の蛍光灯が、白く二人を照らしている。
「私は、アラートを無視し続けた」
「誤作動だという判断は、当時の状況からすれば自然な判断でした」
「でも、機械より俺の経験のほうが正しいと思い込んでいた」堤が静かに言った。「それは、驕りだったかもしれない」
アキは何も言わなかった。否定もしなかった。
堤が少し間を置いてから言った。「教えてくれてありがとう」
その四文字が、廊下の空気の中に静かに落ちた。
アキは小さく頭を下げた。「ありがとうございます」
堤が歩き出した。その背中を見ながら、アキは息をついた。
教えてくれてありがとう。
二十五年のキャリアを持つ内科医が、臨床工学技士に向けて言った言葉だ。CEは機械を見ていればいい、と言った人間が、今日、ありがとうと言った。その変化の重さを、アキは静かに受け取った。
廊下を歩きながら、アキはふと思い出していた。入職して間もないころ、この廊下で今井主任に言われた言葉。「私、十年この仕事してるんだけど。CEさんに毎回細かく言われなくても、わかることはわかるのよ」。あのころのアキには、その言葉が壁だった。でも今、堤先生が「教えてくれてありがとう」と言った。同じ廊下で、言葉の重さが変わった。あのころ壁だったものが、今は橋になっている。
その日の夕方、翔がアキのところに来た。
CE室のドアをノックして、少し躊躇してから入ってきた。アキが顔を上げると、翔は真っすぐに立っていたが、目が落ち着かなかった。
「先輩、話があります」
「座って」
翔が椅子に座った。アキもペンを置いた。
「六号室の患者さんのことです」翔がゆっくりと言った。「先週の回診のとき、私、気づいてたんです。SpO₂が普段より低くて、表情が違って。でも……言い出せなかった」
アキは黙って聞いた。
「新人指導担当になったばかりで、気のせいかもしれないと思って。堤先生がアラートを誤作動だと言ってるのを聞いてたから、僕がまた何か言っても、また機械担当が騒いでると思われると思って」翔の声が少し細くなった。「意地を張ってました。失敗したくなかった。格好悪いところを見せたくなかった」
「今日、ちゃんと話してくれてよかった」
「でも遅かったです。もっと早く言えば……」
「患者さんへの深刻な影響はなかった」アキは真っすぐに翔を見た。「それは事実として受け取って。ただ、言い出せなかった気持ちはわかる」
翔が顔を上げた。
「私も同じことをやったことがある。シリンジポンプの照合漏れのとき、今井主任に言われるまで気づかなかった。気づいていたとしても、言い出す勇気があったかどうか、わからない。怖かったから」
「先輩でも、ですか」
「でも、だよ」アキは続けた。「でも次は、怖いまま声に出して。怖いまま、手を動かす。それと同じで、怖いまま、声に出す。それがあなたの次の一歩だよ」
翔が静かにうなずいた。手帳を取り出して、何かを書いた。アキには見えなかったが、「怖いまま、声に出す」と書かれた。手帳に「怖いまま、手を動かす」という言葉が書かれた日から、また一つ、言葉が加わった。
「ユウさんのことも」翔が少し迷いながら言った。「今朝、点検記録を整理していて、昨夜の欄に空白があるのを見て。先輩が確認に行ってましたよね」
「うん」
「ユウさんでも、飛ばすことがあるんですね」
アキは少し間を置いた。「ある。疲れてたら、ある」
「……なんか、ほっとしました」
「ほっとしていい。完璧な人間はいない。でも、だから確認する。だから二人でやる。だから記録を残す。その仕組みが大事なんだよ」
翔がうなずいた。今日は何度もうなずいている。言葉を頭で処理しながら、体に入れようとしている翔の様子が、アキには伝わってきた。
「翔くん」
「はい」
「あなたが気づいていた。それは間違いじゃなかった。言い出せなかっただけで、見えていた。それを忘れないで」
翔が深く頭を下げた。「はい」
翔が帰ってから、アキはCDSSの分析レポートに向かった。
今回の一連の経緯を、データと記録に基づいてまとめていく。設定ミスの発見経緯、アラート履歴の分析、エラーの連鎖の図式化。誰が悪かったか、という話ではない。どういう仕組みの問題があったか、という話だ。
情報部門担当者の思い込み。ベテラン医師の頑固さ。翔の意地。カナの勘違い。ユウのうっかり。そしてアキ自身の、システムへの過信。五月に入って引っかかりを感じながらも、「試験運用初期だから」と一週間様子を見てしまった。どれも悪意からではなかった。全員が善意で動いていた。でもその善意が積み重なって、患者が危険にさらされる寸前まで行った。
アキはその連鎖を、レポートの中に正直に書いた。
原因の一つひとつを書きながら、アキは思った。医療の現場で起きるエラーの多くは、こういうものだ。悪い人間が悪いことをするのではなく、いい人間がいいことをしようとして、積み重なる。その積み重なりを見える形にすること、仕組みとして防ぐこと、それがこのレポートの目的だ。
「AIは広く速く見る。人間は深く丁寧に見る。CEはその橋渡しを担う」
レポートの結論部分に、アキはその一文を書いた。
今回、CDSSは設定ミスのせいで正しく機能しなかった。でも、正しく機能していたとしても、翔が気づいた患者の表情の変化や、カナが気づいた波形の微細な変動は、CDSSには見えない。数値の先にある何かは、人間にしか見えない。そしてその人間が機器の状態を守っているから、CDSSのデータが意味を持つ。
機器を守る人間がいて、データが生まれる。データを読む人間がいて、患者に届く。その連鎖の中に、CEがいる。
翌朝、アキは石渡部長に報告書を提出した。
部長が読み終えるのを、アキは立ったまま待った。窓から差し込む朝の光が、書類の上に落ちている。
「南條くん」部長が顔を上げた。「このレポートを院内全体に共有したい」
「はい」
「医師にも看護師にも読んでもらう。CDSSの限界と、CEの役割を、院内全体で理解する必要がある」部長が少し間を置いた。「今回、患者への深刻な影響がなかったのは、あなたが気づいたからだ。システムでもなく、医師でもなく、CEが気づいた」
「チーム全員が、それぞれの場所で気づこうとしていました」
「そうだな」部長がうなずいた。「でも、その全体を見ていたのはあなただ」
アキは頭を下げた。
部長室を出て、廊下を歩いた。七月の光が窓から長く伸びている。白い廊下が、少し眩しかった。分析と再発防止策のまとめに二ヶ月かけた。
その間、アキは何度も六号室の患者の顔を思い出した。数値は正常範囲内だった。システムも何も言わなかった。それでも変化はあった。その事実を、データだけでなく言葉にすることが、この二ヶ月の仕事だった。その時間が、レポートの精度を上げた。
エレベーターの前でユウが待っていた。
「報告、どうだった」
「共有してもらえることになった」
「そっか」ユウが少し笑った。「よかったな」
二人で廊下を歩いた。カナと翔が透析室から出てきた。翔がカナに何かを質問して、カナが答えながら歩いている。四人が同じ廊下を歩いている。
「ユウ」アキが言った。
「ん」
「あのときのプローブの件、確認しておいた」
ユウが少し止まった。「……覚えてたか」
「うん」
ユウが前を向いたまま言った。「ありがとう。俺も飛ばすんだな、やっぱり」
「飛ばす。だから二人でやる」
ユウがうなずいた。それ以上は言わなかった。でも、その短いやり取りの中に、五年間並んできた時間が入っていた。
ピッ、ピッ、ピッ。
遠くでモニター音が鳴っている。今日も、誰かが生きている。
南條アキ、二十九歳。技士長補佐、二年目の夏。
機械の向こう側に、患者がいる。その事実を、今日もここから守っていく。
読んでくださってありがとうございます。
「AIが気づけないことに気づける人間になればいい」——カナのこの言葉は、入職時の「機械と患者のあいだにいる人間」という言葉と同じ線上にあります。カナは二年間で、その言葉を自分で更新しました。
「飛ばす。だから二人でやる」——アキとユウの七月の廊下の一言に、五年間が入っています。
残り3章。第十章へ続きます。




