エピローグ 命の鼓動、続く
エピローグです。
三年後の春。技士長になったアキ、講師として後輩を育てるカナ、言葉を渡していく翔、MBAへ向かうユウ。
彼女たちの「その後」を、最後までお付き合いください。
それから三年が経った。
南條アキは技士長になっていた。古賀技士長の最終出勤日、アキはCE室で技士長を見送った。技士長はいつもどおり、余分なことを言わなかった。荷物をまとめて、一度だけCE室を見回して、「南條、頼んだぞ、これからも頑張ってくれ」と言った。それだけだった。アキは深く頭を下げた。顔を上げたとき、技士長はもうドアの外に出ていた。その背中を、アキはドアが閉まるまで見ていた。古賀技士長が定年退職し、その後を継いだ形だった。技士長室のドアに「技士長 南條アキ」という表札が貼られた日、アキはしばらくその表札を見ていた。南條アキという名前が、ここにある。ここにも、あそこにも。入職してから、ずっとそうだった。
宮永カナは呼吸療法の専門家として、院内外で研修講師を務めるようになっていた。後輩CEの育成にも力を入れていて、毎年春に新人が配属されるたびに、カナが最初の一週間を担当した。患者からは相変わらず「メカちゃん」と呼ばれていて、カナはその呼ばれ方を誇りにしていた。骨折で入院していた男の子が、あの日つけてくれた名前だ。その言葉が、今も続いている。
ハルくんのノートは、CE室の引き出しにまだある。付箋の水色と、青いペンの「味方は、ちゃんとそばにいる」という文字も、色褪せていない。読みたくなったら読む。忘れそうになったら開く。それだけでいい。ハルくんの言葉が、カナの根っことして、今もそこにある。
佐々木翔は中堅になっていた。新人の指導担当として、毎年春に緊張した顔の新人を迎えた。最初の一週間は翔が担当する。初日に必ず言う言葉がある。「怖いままでいい。怖いから確認する。それが命を守ることにつながってる」。自分がアキから受け取った言葉を、今は自分が渡している。翔の手帳は三冊目になっていた。一冊目の最初のページには「怖いまま、手を動かす」と書いてある。その文字は、インクが少し薄くなっていたが、消えていなかった。
鳥海ユウは相変わらず軽やかで、相変わらず洞察力が鋭く、相変わらずアキの隣にいた。ただし週に二日は、院内ではなく大学院にいた。
院長からMBA取得の打診があったとき、ユウは即答したらしい。「面白そうだから」と。病院経営に臨床工学の視点を持ち込む人間が必要だ、という院長の判断だった。
アキは「現場、減るじゃない」と言った。
ユウは「お前がいるから大丈夫だろ」と笑った。
それがユウらしかった。
朝の点検に一緒に来ることもあれば、それぞれが別の場所にいることもある。どちらでも、夜にはCE室で落ち合う。それがいつの間にか、当たり前になっていた。
CDSSと遠隔モニタリングは院内に完全に定着し、新しい世代のAI機器も順次導入されていた。システムの精度は上がり続けていた。アラートの感度も、エラーの連鎖のあの夜の経験を経て、より適切に調整されていた。
でも、朝のICUの確認は今も人間が足で行っていた。
機械が見えないものを人間が見る。それはシステムがどれだけ進化しても変わらなかった。プローブのわずかなずれ、回路の継ぎ目の感触、患者の眉間の皺の深さ。数値にならないものは、足で行かなければわからない。アキはその確認を、技士長になっても続けた。
「メリーちゃん」という愛称は、今も使われていた。
アキが技士長になってからも、若い看護師や研修医がそう呼ぶことがあった。入職したばかりの看護師が廊下で「あの、メリーちゃんさん……あ、すみません、南條技士長」と言い直すことがあった。アキは「メリーちゃんでいいよ」と答えた。
もうその呼ばれ方に、複雑な感情を持たなかった。正確には、感じないのではなく、受け取れるようになっていた。メリーちゃん、と呼ばれるたびに、それがりおちゃんの病室から始まった長い時間を思い出させた。おばあさんが「やさしい顔してるのよ」と言ってくれた廊下。橋本看護師が「りおちゃんが笑ったの、入院してから初めてかもしれない」と言ってくれた場面。その積み重なりが、今のアキの中にある。
ある日、職業体験に来た高校生がアキに聞いた。
「南條さんって、メリーちゃんって呼ばれてるんですか」
「昔からね」
「なんでメリーちゃんなんですか」
「MEっていう略称から来てて、それが訛って、メリーになって」アキが言った。「最初は複雑だったけど、今は好きだよ」
「どうして好きになったんですか」
アキは少し考えた。どうして、と聞かれると、答えるのに少し時間がかかる。でも、答えはちゃんとある。
「患者さんが呼んでくれる名前だから。機械担当の誰か、じゃなくて、メリーちゃんって呼んでくれるのは、ちゃんと見てくれてるってことだと思うから」
高校生がノートに書いた。アキはその様子を見ながら、なぎさのことを思い出した。
「CEって、医療の芯みたいだと思いました」と言ってくれた高校生。あの言葉が、今もアキの中にある。なぎさが今年春にCEとして入職したと聞いたのは、先月のことだ。
今日来てくれたこの高校生も、何かを受け取って帰っていくだろう。そしてそれがいつか、誰かに渡されるかもしれない。
アキは窓の外を見た。春の光が廊下に伸びていた。
白衣のポケットに手を入れた。
りおちゃんのクレヨンの絵は、もうそこにない。くたびれた紙が、十年ほどの時間をかけてついに形を保てなくなったころ、アキは額縁を買ってきてCE室の壁に飾った。白衣を着た細長い人と、ベッドに寝た丸い人。二人のあいだに四角い機械。そこから波線が出ていて、「ぴっぴっぴっ」と書いてある。今もCE室の壁にある。色褪せているが、消えていない。
でも、ポケットに手を入れるたびに、あの紙の温もりを思い出す。くたびれた紙の感触。体温で少し温かくなっていた、あの感触。りおちゃんが渡してくれた日の廊下の西日。「またね!」と言いながらエレベーターに乗っていった小さな手。そういうものが全部、ポケットに手を入れるたびに戻ってくる。
記憶は、ポケットの中にある。
アキは廊下を歩き出した。
朝の点検に向かう廊下だ。技士長になっても、この時間だけは変わらない。チェックリストを手に持って、ICUへ向かう。自動ドアが開くと、消毒液と空調の混ざった空気が頬をかすめる。その感触も、変わらない。
ナースステーションから声がかかった。「おはようございます、メリーちゃん」
「おはようございます」
アキは答えながら、モニターに目をやった。各病床の数値が正常範囲に並んでいる。CDSSは静かだ。でも、アキの足は止まらない。足で確認しに行く。それが今日も、アキの仕事だ。
ベッドサイドに立って、機器を確認する。
人工呼吸器の回路を指先でたどる。シリコンチューブの滑らかな感触。Yピースの継ぎ目。人工鼻のフィルター。この動作を、アキは何千回繰り返してきただろう。数えたことはない。でも、指先が覚えている。異常があればわかる。正常であることも、わかる。
三号床の患者の顔を見た。六十代の女性。肺炎による急性呼吸不全で入院中だ。眉間の皺が、昨日より少し薄くなった気がした。
気のせいかもしれない。でも、気のせいかもしれないことを確かめに、アキは今朝もここに来た。それが全部だ。数値が正常でも来る。システムが異常なしと言っても来る。足で来て、目で見て、指で触れる。その積み重なりが、この仕事だ。
点検を終えてICUを出ると、廊下でカナとすれ違った。
「おはようございます、技士長」
「おはよう。メカちゃん」
カナが少し笑った。「その呼び方、嬉しいんですよね、やっぱり」
「そうなの?」
「はい。楓くんがつけてくれた名前だから」
カナが小児病棟のほうへ歩いていった。白衣の背中が、朝の廊下に消えていく。あの四月の朝、CE室のドアを勢いよく開けて「よろしくお願いします!!」と叫んだ声が、まだ耳に残っている。あの声が、今は後輩に呼吸の話を教えている。
翔が早足でやってきた。
「おはようございます。三西病棟の点検、行ってきます」
「うん。新人、どうだった?」
「昨日、初めてアラームに一人で対応できて。慌ててたけど、手は動いてました」
アキはうなずいた。「よかった」
「先輩が教えてくれた言葉を、そのまま使いました」
「怖いまま、手を動かす?」
「はい。伝わったと思います」
翔が三西病棟へ向かった。一ノ瀬からアキへ。アキからカナ、翔へ。翔から新人へ。言葉が渡されていく。渡されるたびに、少しずつ形が変わって、でも意味は変わらない。怖さを持ったまま、手を動かす。命を守るために、怖さを使う。その言葉が、今日も誰かの体に入っていく。
CE室に戻ると、ユウがコーヒーを二杯用意していた。
「点検、終わった?」
「終わった」
「異常は」
「なし」
「そっか」ユウがコーヒーをアキの前に置いた。温かかった。ユウはいつもホットを選んでくる。それは入職したころから変わらない。季節に合わせて、いつの間にか。
アキはコーヒーを一口飲んだ。窓の外に、春の空が見えた。今日は高い空だ。どこまでも続いている、薄い青だ。
「ユウ」
「ん」
「今日で、入職してから何年になるか知ってる?」
ユウが少し考えた。「十四年か、十五年か」
「十五年」
「そんなになるか」ユウが窓の外を見た。「早いな」
「早い」アキは続けた。「でも、一日一日は長かった気がする」
「そうだな」ユウが笑った。「長くて、でも早い。矛盾してるけど、そういうもんだろ」
アキはうなずいた。長くて、早い。一日一日は長かった。アラームに怯えた夜も、インシデントレポートを書いた夜も、一ノ瀬に「怖いままでいい」と言われた廊下も、ハルくんのノートを受け取ったカナの隣に座った床も。一日一日は確かに長かった。でも、十五年が経ってみると、早い。
それが、積み重なるということだ。
アキは立ち上がった。今日の仕事が待っている。新人の指導記録を確認して、来月の研修の資料を作って、石渡部長との会議に出て、夕方にもう一度ラウンドに出る。技士長になっても、仕事は尽きない。尽きないから、続けられる。
廊下に出た。
春の光が、廊下を長く照らしている。窓から差し込む光が、床に白い長方形を作っている。その光の中を、アキは歩いた。
――CEです。何でもござれ。
呟いた。誰にも聞こえない声で。機械の向こうに患者がいる。どんな場面でも、ここに来る。それだけのことだ。技士長になっても、この言葉はまだ似合わない気がする。でも、いつか完全に似合う日が来るまで、言い続けようと思っていた。入職したばかりのあの夜、ICUの廊下で初めて心の中で言ってみた言葉。あのときも似合わないと思った。でも、いつか似合う日が来るかもしれないと思った。
その「いつか」は、まだ続いている。
廊下の先で、カナが振り返った気がした。
翔が背筋を伸ばした気がした。
ユウが小さく笑った気がした。
ピッ、ピッ、ピッ。
モニター音が、廊下を満たしている。
誰かが今日も生きている。その音が、この病院の、この廊下の、この空気の中に溶けている。
新しい春が、また始まる。
機械の向こうに、患者がいる。
その事実を、今日もここから守っていく。
それが、臨床工学技士という仕事だ。
―完-
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「CEです。何でもござれ」——アキがこの言葉を初めて心の中で呟いたのは、入職したばかりの夜でした。技士長になった今も、まだ似合わない気がすると言います。それでもいつか似合う日が来るまで言い続けると決めた、その「いつか」がまだ続いている——そういう終わり方にしたかった物語でした。
完結後は引き続き、月曜・木曜に『からだのことば ─ 体の声がきこえる ─』を連載します。臨床工学技士の新人男女が主人公の物語です。またお付き合いいただけたら嬉しいです。




