↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/8

第漆話 痛快・現代律令ニッポンの歩き方

 六月半ば。梅雨入りの近づく武蔵国大江戸は、重苦しい鉛色の空と蒸し暑さに包まれていた。

 豊島郡衙郡民生活寮の執務室では、壁面の大型電光表示板に映し出された左院(国会)中継の音声が、朝から低音の地鳴りのように響いている。


『――太政大臣(だじょうだいじん)! 貴閣下の進める「電信監視総覧法案」は、全臣民の端末通信記録を国家が常時捕捉する稀に見る悪法!これは十七条憲法第五条「財を貪りて訴えを聴くことなかれ」に真っ向から反するものではありませんか!臣民の私信という精神的財を国家が貪るなど、断じて容認できません!

太子の尊ばれた『論語』顔淵(がんえん)篇には何とあるか!「足食、足兵、民信之矣」――統治において兵力や財政よりも重きを置くべきは「民の信」であると孔子も喝破している!臣民を疑い、四六時中その電信を監視するがごとき不信の政治に、いかなる正統性がありましょうか!』


 議場の野党席から「そうだ!」「不信の府だ!」と激しい野次が飛ぶ。黎民公地共産党の象徴である鎌と稲穂、そして党内位階を表す小徳(しょうとく)(薄紫)の記章を胸につけた古池明議員が、分厚い漢籍を片手に演壇を叩いていた。


 対する答弁席。高伊知早苗太政大臣(従一位)は乱れぬ姿勢で扇子を卓に置くと、正面から古池を見据え、拡声器に向かって静かに口を開いた。


『……古池議員の切実なるご懸念、為政の重責を担う者として痛いほど胸に迫るものがございます。私信の秘匿、民の信頼、それらがいかに代えがたい尊厳であるか、私も決して軽んずるものではございません。

しかしながら議員、その『論語』憲問(けんもん)篇において、孔子自らが斉の宰相・管仲を評した言葉をお忘れでしょうか。「如其仁、如其仁」――小忠や細微な節義に殉じることよりも、天下を糾合して民を混乱から救い、秩序を保つことこそが真の大仁であると称えた一節でございます。大を生かすために、時に小を殺さねばならぬ冷徹な決断を下す――これもまた、天下を預かる為政者が背負うべき因果であり、徳であると心得ます。

暗黒為替座や匿名・流動型凶賊の手により、今この瞬間も汗水垂らして稼いだ財と生命を脅かされている無辜の民草がおります。日々の糧と安全が脅かされていては、礼節も信頼も成り立ちませぬ。民草が汗して築いた富を守り抜き、枕を高くして眠れる最低限の治安を維持することこそ、施政の何よりの土台ではないでしょうか。

信を損なうための監視ではなく、弱き民の財と命を守り、社会の瓦解を防ぐための苦渋の防壁。それこそが、太子の憲法第一条の説く「和を以て貴しと為す」――すなわち、真の世の調和を実現するための太子の御心に沿う振る舞いであると、私は固く確信しております』


 野次がやみ、議場にピンと張り詰めた静寂が落ちる。

 理想を叫ぶ野党の切実さと、冷徹な現実を背負う為政者の覚悟。二つの信念が、二千五百年前の古典を通じて真っ向から火花を散らしていた。


 窓口で電脳人別帳の照合をしていた俺は、小さく息を呑んだ。


(……なんだかんだ言われている殿上人も、私欲だけで動いているわけじゃないんだな。あの太政大臣も古池議員も、立場は違えど本気で民草の暮らしを良くしようと足掻いている)


 だが、と俺は胸の内で苦い息を吐き出す。


(問題は、彼らの志の高さじゃない。この国の根幹にある「制度」そのものが、彼らの善意を一筋縄ではいかない呪縛に変えているんだ。

もしも日本国憲法なら、第九十六条に改正規定があって「時代に合わないなら、国民投票を経て条文そのものを改めよう」という正道が開かれている。

だけど、十七条憲法には、改憲の手続きなんて一行も書かれていない。推古朝の昔に聖徳太子が「神仏の真理」として授けた最高規範だから、人間風情が一文字でも直そうものなら即座に朝敵扱い。

国を憂う政治家たちがどれだけ真摯に議論を重ねても、最後は二千五百年前の論語や、千四百年前のたった十七条の漢文に無理やり引き寄せて正当化する「解釈改憲」の神学論争が永遠に続いているんだ……)


「……はぁ。また始まったか」


 隣の席で、一条兼嗣少主鑰(従七位下)が手元の端末を抱え込むようにして、深いため息をついた。

 その画面には、京の太政官正院から送達されてきたばかりの、真っ赤な「至急令達」が警告音とともに点滅している。


「佐藤くん……さっき左院で大臣が言ってた件、さっそく緊急勅令として通っちゃったよ。今日から郡衙の窓口の電脳端末、全部改修だってさ」

「……改修、ですか? 来年度からじゃなくて今日から?」


(今日からって、ジョブズの新製品発表会かよ……)


「今日からだよ! ほら、最近横行してる偽造電脳人別帳札による『なりすまし口座開設』とか『高層集合長屋私財地の地面師詐欺』が社会問題になってただろ? 被害総額が数千億文に達してて、民草の財産を守るための本人確認厳格化自体は、まあ誰も反対できない大義名分なんだよ」

「ええ、被害に遭ったお年寄りが泣きついてくるの、先週も窓口で見ました。保安強化自体は絶対必要ですけど……で、今回の法的根拠は何なんですか?」


 俺が尋ねると、一条はひどく言いにくそうに視線を泳がせ、端末の通達文を捲っていった。


「……太政官法制局の新しい解釈通達でね、【第十四条:群臣百寮、嫉妬あることなかれ】が適用されたんだ」


 俺は打鍵機を打つ手を止め、眉根を寄せた。


「……嫉妬するな、ですよ? 生体認証と何の関係があるんですか?」

「えーとね……『偽造人別帳札を用いて他人の富や身分を詐取する行為は、他者の恵まれた境遇に対する邪悪な嫉妬心に起因する。よって、生体情報をあらかじめ国家に供出し、身元を公明正大に照合可能とすることは、臣民の嫉妬と邪心を根本から未然に防ぐ行為であり、第十四条の精神に合致する』……ってさ。だから、人別帳の写し一通出すのにも、従来の電脳人別帳札に加えて【虹彩・指紋・掌静脈のいずれかの生体照合】が必須化された。」


(無茶苦茶すぎるだろ!!

『地面師の動機は経済格差による嫉妬だから、生体監視は嫉妬防止策』って、風が吹けば桶屋が儲かる以上の超絶ウルトラC論理破綻だぞ!詐欺防止のための厳格な生体認証システムを「嫉妬の戒め」で根拠づけるなんて、千四百年前の聖徳太子も草葉の陰で卒倒してるわ……!)


「しかもそれだけじゃないんだ」


 一条は脂汗を浮かべ、泣きそうな声で続けた。


「第七条『人各々任あり』を組み合わせて『官吏は怠ることなく厳正に確認すべし』と解釈された結果、生体照合は滞りなく郡衙の窓口にて官吏が執り行うようにとのことで、端末改修の猶予期間無し。全国一斉即日稼働だよ」


(理念と大義は立派でも、条文を直せないから解釈に解釈を塗り固めた結果、現場への着弾が最悪のパッチ当てになる典型例だ……!)


「少主鑰、うちの窓口の光学式照合機、平整(へいせい)初期に配備された旧式の光学式ですよ!? 掌静脈なんて読み取れるわけないじゃないですか!」

「だから、現場で手作業で補正しろって通達の末尾に書いてあるんだよ! 読み取れなかった不具合情報は、担当官吏が直接目視で確認して、職員証の電子朱印で『不嫉妬迂回承認』を手動で押せってさ!」

「手作業!? 窓口の処理時間、今の五倍に跳ね上がりますよ!?」


 その悲鳴に呼応するかのように、窓口の受付番号発券機がけたたましい不具合警告音を鳴らし始めた。

 正院が中央情報基盤へ強制修正を行った瞬間、郡民生活寮の窓口端末が一斉に青い不具合画面を吐き出したのだ。


「おい木っ端役人! さっきから電脳人別帳札かざしても『不嫉妬認証不具合』って出て弾かれるぞ!」

「これから為替座の決済があるんだ! 人別帳の写しが出ないってどういうことだ!」


 衝立の向こうから、待ちくたびれた郡民たちの怒号が一斉に押し寄せてくる。


「ひぃっ、申し訳ございません! ただいま中務(なかつかさ)省の認証情報基盤を再起動しておりますので少々お待ちを……!」


 一条が腰を抜かしかけながら受付台へ飛び出していく。

 俺はこめかみを強く押さえた。胃の奥がきりきりと痛む。


(……この国は、何も変わらない。

改憲規定がない不磨(ふま)の大典を金科玉条に掲げて、政治家は古典の引用で教養バトルを繰り広げ、キャリア官僚は先例と格式の迷宮に引きこもり、そのツケは全部、末端の窓口で泥をかぶる地下人に降ってくる。

古代の律令貴族の時代から、電脳で武装した現代に至るまで、この理不尽の構造は一ミリも変わっちゃいないんだ)


 ふと、胸元の職員証(電脳木簡)に視線を落とす。


『武蔵国 豊島郡衙 郡民生活寮 主帳 佐藤和真(従八位下)』


 初位を脱し、ほんの少しだけ位階が上がったことで、今や自分には窓口の法的責任を負う決裁権限がある。逃げ出すことはできない。物忌み代行を使って布団に潜り込むことも、もう選ばなかった。

 俺は大きく息を吸い込み、立ち上がった。自席の引き出しから、従八位下の官吏にのみ支給されている電子決裁用の朱印識別子を取り出す。


「少主鑰、僕が不具合の個別迂回承認をやります! 少主鑰は受付台で手書きの仮交付願を配ってください!」

「えっ……? 佐藤くん、でもそれ、一件一件君の名前で決裁履歴が残るんだぞ!?後で民部省の監査が入ったら、君が責任を問われるかもしれないんだぞ!?」

「構いませんよ!」


 俺は苦笑しながら、端末の管理画面を叩き起こした。


「十七条憲法第十条にこうあります。『人の違うを怒らざれ、人皆心あり、心各々執る所あり』――相手の事情を察して柔軟に対応しろって、これも太子の教えですからね。京都の公卿が好き勝手に解釈改憲するなら、こっちだって現場の都合のいいように憲法を解釈してやりますよ!」


 カタカタカタ、と猛烈な速度で打鍵機を叩き、旧型照合機の不具合確認を強制省略する修正を当てる。画面上の警告灯が次々と緑色の「正常」へと切り替わっていく。


「百三十五番の木簡をお持ちの方、大変お待たせいたしました! 四番窓口へどうぞ、手作業で即座に発行いたします!」


 声を張り上げると、苛立っていた年配の男性が驚いたように受付台へ進み出た。


「……すまんな、兄ちゃん。お役所仕事だから何時間も待たされるかと覚悟してたよ」

「いえ、情報基盤の都合でご迷惑をおかけしました。こちらが電脳人別帳の写しの抄本になります。お気をつけて」


 頭を下げて書類を手渡すと、男性は安堵したように頷き、小走りで雑踏へと戻っていった。それを見送る胸の奥に、ほんの少しだけ、確かな温かみが灯っていた。


(……そうだ。どれだけ政治が狂っていようと、憲法が時代遅れの呪縛になっていようと、窓口の向こうで生きているのは、日々の暮らしに追われる名もなき民草だ。

そして、その理不尽な制度の隙間で緩衝材になって、少しでも世の中を滑らかに回すこと――それこそが、この国の地下人官吏が千年間続けてきた、本当の仕事なんじゃないか)


 窓口の修羅場がようやく引き潮のように去り、庁舎の窓の外が群青色の夜の帳に包まれる頃。

 俺は郡衙裏の喫煙所で、涼やかな夜風に吹かれていた。自販機で買った微糖の缶珈琲を開け、一口含む。甘みと苦味が、酷使した脳の隅々に染み渡っていく。

 服の隠しの中で、電脳携帯端末が小さく震えた。号外の速報通知。


『高伊知太政大臣、今夕の記者会見で「黎和の電脳律令体制は磐石」と強調。一方、左院では野党が参議会不信任の奏上を検討、千本丸太町の政局は緊迫』


「……また明日も、朝から大騒ぎだな」


 画面を消し、夜空を見上げた。

 豊島の街の灯に遮られ、星は見えない。だが、超高層の高層集合長屋群の頂の向こうには、千年前と変わらない月が静かに浮かんでいた。

 五畿九道、八十八カ国。

 巨大な階層性官僚組織の最底辺で、明日もまた、理不尽な令達と厄介な窓口対応が待っているだろう。

 それでも――自分はここで、この理不尽で愛おしい電脳律令の世界を、しぶとく生き抜いていくのだ。


「……よし。帰って、美味いものでも食うか」


 缶珈琲を屑箱に放り込み、煌々と灯る大江戸の夜の街へと、力強く歩き出していった。

【コラム:十七条憲法における「解釈改憲」の泥沼】

 推古朝の昔に聖徳太子が定めた不磨の大典『十七条憲法』には、人間の手で条文を修正・削除するための「改憲規定」が存在しません。そのため、時代に合わない新制度(生体認証や通信監視など)を導入する際、政府はたった17条の漢文を無理やり拡大解釈する「解釈改憲」を繰り返します。 第十四条の「嫉妬あることなかれ」を「地面師詐欺は嫉妬が原因だから、生体スキャンは嫉妬防止策である」と強弁するなど、政治家や官僚のトンデモ解釈のツケが、すべて現場の「手作業バイパス処理」として降ってきます。

 泰正(たいしょう)期、この規定が近代化の重大な足かせになると憂慮した元老と京帝国大学の箕部達吉教授により「憲法とは、国家という法人を動かす『機関』に過ぎず、時代の変化に応じた憲法条文の改正は可能」とする憲法機関説が提唱されましたが、保守派や共産主義者、軍部による激しい糾弾を受け、箕部教授は失脚、十七条憲法が「不磨の大典」として強く認識されるという逆効果となりました。

 以来、黎和の現在に至るまで、改憲はタブーとされ、政府は憲法と現実の整合性をとるため常に四苦八苦しています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。