第陸話 ニュー・現代律令ニッポンの歩き方
六月初旬、武蔵国大江戸には汗ばむ初夏の陽気が差し始めていた。
前月に臨時応援で駆り出されていた税務寮の地子雑税騒動もようやく一段落し、俺は本来の所属である郡民生活寮の窓口へと戻っていた。しかし、平穏が訪れる気配など微塵もない。
「……少主鑰。窓口の順番待ち、三十人を超えました」
俺が端末から目を離さずに声をかけると、隣のシマで受話器を耳に挟んだままの一条少主鑰(従七位下)が、げっそりとした顔で手を振った。
郡民生活寮の仕事場を見渡せば、普段の三分の一ほどの席がぽっかりと空いている。
「また連絡が入ったよ……。人別記録係の鈴木くん、今朝から【物忌み】に入ったそうだ」
一条の言葉に、俺は思わず打鍵機を叩く手を止めた。
「鈴木さんもですか? 今週だけでもう四人目ですよ。いくら感染症と並ぶ正当な公認事由とはいえ、重なりすぎじゃないですか……?」
「滅多なことを言うもんじゃないよ、佐藤くん」
一条は慌てて周囲を窺い、声を潜めて佐藤を窘めた。
「触穢令と憲法第二条『篤く三宝を敬え』がある以上、凶事や穢れに触れた者を登庁させるわけにはいかないんだ。流感に罹った職員を出勤させられないのと同じだよ。無理に出てこられて郡衙の情報基幹機や国分寺に万一の祟りや障りでもあれば、それこそ国家の一大事だからね」
(……いや、インフルと同列に扱うなよ。この国の公衆衛生法規ってどうなってるんだ……。BCPも大丈夫なのか)
そう諭す一条の表情には、しかし深い苦々しさが張り付いていた。
端末の画面を佐藤に見せる。そこには神祇官の電子朱印が押された、どこか既視感のある様式の物忌み届が表示されていた。
「……問題は、これだよ。例の【物忌み代行】だ」
「ああ……巷で流行っているという、電脳陰陽代行ですか」
「そう。本来なら『ちょっと不吉な夢を見た』とか『烏が不穏に鳴いていた』程度で済む日常の些事を、民間の怪しげな陰陽師が人工知能で大仰にこじつけて、神祇官の公認基準ギリギリの凶兆に仕立て上げてしまうんだ。本人も激務で追い詰められているから、二千文ばかり払って頼んでしまうんだろうが……残された現場の業務が回らなくなるのは本当に頭が痛いよ」
(退職代行ならぬ物忌み代行かよ……。合法的に当日欠勤って、現世のブラック企業戦士が見たら泣いて羨むチート技だな……)
一条は深くため息をつき、自席の引き出しから栄養変若水を取り出して一気に飲み干した。普段は頼りなく見える上司だが、欠勤した部下の穴を埋めるため、ここ数日はずっと一番遅くまで残業をこなしている。目の下には濃い隈が張り付いていた。
窓口からは、電脳人別帳の住所変更や印鑑登録を待つ郡民の苛立ちが、硝子越しにじりじりと伝わってくる。
「次の方、六十七番の木簡をお持ちの方どうぞ」
俺は疲弊した頭を切り替え、淡々と窓口対応をこなしていった。
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その日の残業を終え、深夜の豊島駅前を歩きながら、俺は電脳携帯端末の画面をぼんやりと見つめていた。
電網の広告欄に、派手な烏帽子と直衣姿の、一見して陰陽師と分かる男の姿が浮かび上がる。
『もう激務に耐えられない貴方へ。電脳陰陽代行が、最短三分で合法的な物忌み申請を代行。神祇官公認の穢れ除けで、心身を休めましょう』
指先が、無意識のうちに登録釦の上で止まった。
(……二千文払えば、明日は休めるんだよな)
この過酷で理不尽な電脳律令の世界において、自分をすり減らしてまで働く意味がどこにあるのか。物忌み代行を使って「正当な物忌み」を装えば、誰も自分を責められない。堂々と布団の中で泥のように眠ることができる。
申し込み様式を開き、住所と氏名を入力しかけた――その時、ふと脳裏をよぎったのは、栄養変若水の空き瓶を文机に並べていた一条のくたびれた横顔だった。
「佐藤くんがいてくれて助かるよ」
さっき退庁する際、一条が缶珈琲を渡しながら掛けてくれた何気ない一言。
俺が抜ければ、あの人は明日、過労で本当に倒れてしまうかもしれない。
(……やめだ、やめ)
小さく息を吐き、画面を閉じて電脳携帯端末を服の隠しに突っ込んだ。
誰に褒められるわけでもなく、位階が上がったところで責任と仕事が増えるだけの地下人暮らしだ。それでも、目の前で同じ泥をかぶって踏ん張っている同僚を見捨てるほど、まだ心まで擦り切れてはいない。
夜風はぬるく、豊島の空には雲に霞んだ月が浮かんでいた。
「……明日も早いな。帰って寝るか」
俺は猫背を少しだけ伸ばし、雑踏の中を長屋に向かって、一歩一歩確かに歩き始めた。
【コラム:「物忌み」と「触穢令」による古代労務管理】
「物忌み」とは、祭祀の前や特定の不吉な日時に、身を清めて邪気を避けるために、一定期間室内に引きこもって言動を慎む日本の伝統的な風習のことです。この現代律令国家では、古代の衛生法規である「触穢令」や憲法第二条「篤く三宝を敬え」に基づき、穢れや不吉な兆候に触れた者は登庁を禁じられる「物忌み」制度が公認されています。この国ではインフルエンザなどの感染症予防と同等に扱われていますが、近年ではAI陰陽師が神祇官公認の不吉な兆候を人工的に捏造し、二千文程度で合法的な当日欠勤を申請してくれる「電脳陰陽代行サービス」が横行し、現場の欠勤率を跳ね上げて社会問題になっています。また、物忌みの一種である「方違え」による遅刻の職務専念義務免除の認定や、対策のための宿泊費や通勤交通費の支給など、労務泣かせの仕組みとなっています。




