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番外編:樺太危うし!大露西亜皇帝の罠!!

番外編では佐藤目線では描けない話を書きます。

一、北辺の凍土、ツンドラの覇王


 鉛色の波頭が砕け散るオホーツク海。その最果て、北サハリン州オハの寒村に、重厚な爆音を響かせて大露西亜(ロシア)帝国空軍の巨大輸送機が降り立った。

 タラップから姿を現したのは、毛皮の重厚な外套を肩に羽織った男――大露西亜皇帝ウラジーミル一世、その人である。

 柔道着を着せれば熊をも締め落とし、上半身裸で虎を手懐けると言われるその男は、凍てつく風を深々と吸い込むと、天然ガスの採掘櫓を背にして集まった報道陣を冷徹な碧眼で見据えた。


「――聖暦一八七五年の千島樺太交換条約こそが、極東における正当なる境界である」


 吐き出された白息が、冬眠から目覚めたばかりの報道陣のカメラを曇らせる。


「聖暦一九〇五年のポーツマスにおいて、日本が不当に掠め取った南サハリンの地……我がスラブ民族の誇り高き不凍港を、これ以上異民族の手に委ねておく道理はない。帝国の資源は、帝国の港より全世界へ送られるべきである」


 北サハリンのガスを輸出したいが、冬期に凍結しない南部の北見国大泊港とパイプラインの主導権は、依然として日本が握っている。経済的な焦燥を汎スラブ主義の軍靴で包み隠した皇帝の一言は、オホーツクの冷気よりも鋭く、千本丸太町へと突き刺さった。



二、左院炎上、多賀城の亡霊


 洛中の空気が爆発したのは、その翌朝の左院であった。


「――左大臣閣下! 北狄(ほくてき)の首魁(しゅかい)ウラジーミルが、我が国の神聖なる北門を侵さんと蠢動しております!」


 壇上を拳で叩き割らんばかりの勢いで吠えたのは、保守強硬派の巨頭・岩原慎太朗議員(正四位下・元武蔵守)であった。壇上で白檀の扇子を振り回しながら、議場全体を呑み込む怪気焔を上げる。


「太子の憲法第一条『和を以て貴しと為す』とは、領土を差し出して外敵に媚びへつらう屈辱の平和では断じてない!

先例を見よ! 銘治(めいじ)三十七年の日露征夷において、北狄の南進を阻むべく朝廷は征夷大将軍の節刀を下賜された!陸水両軍の不毛な確執を乗り越え、親王殿下を奉じて神州の誇りを守り抜いたあの輝かしき勝利を、今の腑抜けた公卿どもは忘れたのか!

座して瓦斯(ガス)の利権に目を曇らせるなど恥を知れ! 今こそ千三百年の祖法に立ち返り、北見国大泊に【黎和の多賀城】を築くのだ! そして【黎和の坂上田村麻呂】たる征夷大将軍を任じ、防人令を発し、無礼なる北狄を樺太から放逐すべきであります!」


 議場の右派議員たちから地鳴りのような「征夷だ!」「将軍を立てよ!」という怒号が沸き起こり、議場は瞬く間に主戦論の熱狂に包まれた。



三、参議会の迷走


 一方、京・太政官正院の奥深く、参議会は頭痛と胃痛の坩堝と化していた。


「……また征夷大将軍などと言い出して、左院の跳ねっ返りどもは正気か!」


 刑部卿(ぎょうぶきょう)・比良口博参議(従三位)が青ざめた顔で漢籍の注釈書をめくる。


「日露戦役で親王殿下を立てて手打ちにしたのは、あれは例外中の例外!令外の官たる征夷大将軍に軍事大権を一度でも渡してみなさい。鎌倉幕府や江戸幕府の再来、太政官制そのものが瓦解しますぞ!」

「お恥ずかしい話、衛士府(えじふ)(陸軍)と主船寮(しゅせんりょう)(水軍)がすでに水面下で摩擦を起こし始めているようです」


 兵部卿(ひょうぶきょう)・小和泉進次郎参議(従三位)も懸念の声を上げる。


「衛士府は『樺太の油田防衛のため陸軍大将を副将軍に据えよ』と主張し、主船寮は『オホーツク海を制する水軍大将こそが主導権を握るべき』と譲らず、兵部省の中はすでに樺太のように冷え切っていますよ。日露戦役の確執がいまだ現役とは、兵部卿になって初めて実感しました」

「ええい、見苦しい! そもそも憲法第十七条『事独り断ずべからず、衆とともに宜しく論ずべし』に照らし、独裁的な軍事司令官の設置など違憲の極み!しかし露西亜の挑発を無視すれば本邦の誇りを汚した謗りを免れぬ……!」


 内大臣・桔原実(従二位)が苛ついた声を上げる中、列席する参議たちは額から流れるほど冷汗を流し、千四百年前の条文と百二十年前の日露の先例の迷宮で、ただただ右往左往するばかりであった。



四、豊島郡衙に着弾する赤紙


 その壮大なしわ寄せが、極東の巨大迷宮・池袋に鎮座する豊島郡衙に着弾したのは、翌日の昼下がりのことだった。


「佐藤くん! 大変だ、武蔵国庁から至急の電子令達が下りてきた!」


 一条少主鑰(従七位下)が、胃薬の瓶を握りしめたまま執務室へ転がり込んできた。

 佐藤和真(従八位下)は打鍵機を打つ手を止め、死んだ魚のような目を向ける。


「……少主鑰、今度は何ですか。露西亜産瓦斯の配給制限ですか?」

「違うよ、太政官布告による防人令(さきもりりょう)の臨時発動が見込まれるため、今のうちに水面下で準備を進めておくようにという達(たっし)だよ!うちの管内から、電脳人別帳を活用して【防人適格者】を緊急抽出して、召集令状の電子送達を即日発行することになるかもって!」


「……は?」


 佐藤は自席の端末を二度見した。


(防人令って……元は古代の北九州太宰府防衛のための法律だろ!?

なんで南樺太の国境警備のために、千年前の『筑紫・壱岐・対馬行きの法律』を無理やり引っ張って適用しようとしてんだよ!)


「しかも最悪なことにね!」


 一条が慟哭する。


「何故かこの情報がすでに世間に流布しているみたいで、徴兵されるかもって、郡民が苦情を言うために窓口に押しかけてきているんだよ!」


 案の定、五分後には窓口の衝立が吹き飛ぶほどの怒号が押し寄せた。

 携帯電脳端末の画面に表示された電脳瓦版号外の「防人召集令達か!?」という煽情的な見出しを見た郡民が、血相を変えて郡衙に殺到したのだ。


「おい木っ端役人ども!なんで俺が樺太に防人として送られなきゃならないんだ!」

「俺はただの自転車屋だぞ! 坂上田村麻呂になれるわけないだろ!」

「しかも陸軍と水軍の両方から召集令状が来るかもって、その時はどっちに行けばいいんだよ!」

「ひぃっ、申し訳ございません! ただいま国からは何の情報も降りてきていませんので……!」


 泡を吹いて倒れかける一条を背中に押し込み、佐藤はため息とともに拳を握りしめた。


(ウラジーミル一世が極寒のツンドラでカッコつけたせいで、なんで俺がこの豊島郡で泥をかぶらなきゃならないんだ……!)


「皆様、落ち着いてください! 現時点において太政官より防人令に関する正式な宣旨は一切下達されておりません! 根拠なき風説に惑わされず、まずは所定の番号札をお取りになって待合席でお待ちください! 状況が判明次第、電子高札にて速やかに公示いたします!」



五、兵部卿の言霊


 国会が沸騰し、軍部が軋み、民草が荒ぶり、現場の窓口が崩壊の危機に瀕していたその日の夕刻。

 事態を収拾すべく、参議会の記者会見場に現れたのは、いつもの内大臣・桔原実(従二位)ではなく兵部卿・小和泉進次郎参議(従三位)であった。

 完璧に仕立てられた濃紺の背広に身を包み、涼やかな流し目で無数の閃光電球を浴びる兵部卿。

 記者たちから「征夷大将軍の任命はあるのか!」「南樺太へ防人を派遣するのか!」と矢のような質問が飛ぶ中、彼は静かに、深く息を吸い込み、拡声器へと唇を寄せた。


「……皆さんが、北方のことを心配している。その危機感と愛国の情は、痛いほど伝わってきます」


 会場のざわめきが、すっと引いていく。


「ですが、私は皆さんに問いかけたい。

今、大露西亜皇帝ウラジーミル一世陛下がオハを視察された。これは事実です。

では、軍を動かしたのか? 動かしていません。

動かしていないということは、すなわち、動いていないということです。そしてそれは、動けない理由があるからに他ならない。

北樺太の凍土に眠る天然瓦斯は、南部の不凍港――我が国の基幹設備があって初めて世界へ送り出せる。

北が寒いからこそ、彼らは南の温もり……すなわち我が国の実利的な瓦斯輸送管を、誰よりも必要としているんですね」


 記者たちが息を呑み、硬筆を走らせる。


「今ここで我が国が軽々しく征夷の軍を動かせば、それこそ相手の敷いた挑発の土俵に乗ることになる。

防人を送るというのは、ただ威勢のいい号令をかけることではありません。

一度動かせば、そこには現場の兵たちの命と民草の血税が張り付く。兵部の現場を預かってきた私だからこそ、その重みを誰よりも現実として知っています。

守るべきものを守るために、私は、感情ではなく冷静さで国益を守り抜きたい。

太子の憲法第一条『和を以て貴しと為す』とは、思考停止の妥協ではない。

相手に刃を抜かせず、こちらの瓦斯と主権を確保し続けること――これこそが、黎和における最も強固な『和』の防壁です。

したがって、現時点における防人の実力展開は見合わせ、水警予備隊による警戒監視の維持と、外交折衝を通じた冷静かつ毅然とした対話を継続します」


ふっ、と涼やかな笑みを浮かべ、兵部卿は深く一礼して会見場を去っていった。


「…………」


 会見場に残された記者たち、そして中継を見ていた全民草の間に、確かな安堵と納得が広がった。

 一見すると独特の間と言い回しで煙に巻いているようでいて、その実、"相手の真の狙い(経済)を見抜き、挑発をいなし、陸水軍の暴走を止め、無駄な現場の負担を遮断する"という、極めて手堅く隙のない見事な火消しであった。

 昼下がりの情報番組の辛口解説者も、手元の資料を置き、唸るように頷いた。


「……いやはや、言葉遣いは相変わらず独特ですが、仰っていることは極めて現実的で冷静ですね。煽るだけ煽った左院の議論より、よほど大人の外交防衛論ですよ」


 主戦論で沸騰していた世論の熱気は、兵部卿の放った「計算された冷静さ」によって、急速に落ち着きを取り戻していった。

 夜。豊島の空に浮かぶ月を見上げながら、佐藤は郡衙裏の喫煙所で缶珈琲を開けた。

 手元の携帯電脳端末には、電子瓦版号外の「防人召集令達・全面凍結」という通知が大々的に表示されている。


「……あの人、兵部卿になってから本当に化けたよな。言葉の使い方は独特だけど、一番現場の泥を理解して手綱を引いてくれた」

「そうだね……」


 隣で一条が、ようやく胃の痛みが引いたような顔で煙草を燻らせた。


「勇ましいことを言って現場をすり潰す貴族より、ああやって綺麗に梯子を外して鎮火してくれるお偉方の方が、僕ら地下人官吏にとってはよっぽどありがたい名将だよ」


 巨大な階層性官僚組織と、千四百年の前の憲法、そして老獪さと洗練さを身につけた現代の政治力学。

 理不尽の極みのような電脳律令国家の夜は、安堵の紫煙とともに、静かに更けていくのであった。

【コラム:大露西亜帝国ウラジーミル帝】

 本作の世界では、大清帝国同様、露西亜帝国のロマノフ王朝は継続しています。共産革命はフランスで成功し、フランスコミューン連邦として花開きました。共産圏に対抗するため、やむを得ず東アジアの日本、大清帝国、露西亜帝国はゆるい連帯を形成していますが、互いに歴史・領土・経済問題を抱え、常に炎上する危険性を秘めた危うい関係です。

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