第肆話 また又・現代律令ニッポンの歩き方
武蔵国大江戸の空に生ぬるい春風が吹き始める三月下旬、豊島郡衙の空気は一年で最も重く、淀みきっていた。
執務室の窓からは、豊島駅西口の雑踏と、威容を誇る高層集合長屋群が見下ろせる。しかし室内の官吏たちに、街の春めいた景色を愛でる余裕など微塵もない。
「……出たぞ」
誰かが掠れた声で呟いた瞬間、カタカタと鳴り響いていた打鍵器の打鍵音がピタリと止まった。
室内の大型壁面電光表示板に、京の太政官正院の式部省から送達された紫色の電脳公文書が投影される。
『黎和八年 春季中央並ビニ諸国司馬除目大綱』
除目――。
千余年の昔より、諸国の官吏に官職と位階を割り振る春の人事異動。現代の電脳律令ニッポンにおいても、それは全官吏の生殺与奪の権を握る絶対の儀式であった。
「……五畿九道、八十八カ国……」
俺の隣で、郡民生活寮庶務少主鑰の一条兼嗣(正八位上)が、青ざめた顔で胃のあたりを押さえながら呟いた。
「佐藤くん……八十八もあるんだぞ、この国は。北は流氷が押し寄せる北海道の千島国から、南は亜熱帯の熱帯雨林で大清帝国の水師と睨み合ってる南島道八重山国まで……。辞令一枚、式部省の電子朱印ひとつで、来週からどこに飛ばされるか分からないんだ……!」
「少主鑰、落ち着いてください。僕らは豊島郡衙の現地採用、生粋の地下人官吏ですよ。全国異動があるのは、進士試験に受かって烏丸の本庁にいる殿上人の進士達だけでしょ」
「甘い! 甘すぎるよ佐藤くん!」
一条は脂汗を拭いながら、声を潜めて文机に身を乗り出した。
「確かに基本はそうだ。だがね、近年の『地方過疎国再生臨時令』を知らないのかい?南島道の宮古国や山北国、北海道の天塩国あたりじゃ、電脳人別帳の改修に追いつける下級実務官吏が絶望的に足りてないんだ! そこで式部省の連中が何をしたと思う?『実務経験豊かな東海道の大江戸地下人を、地方応援の名目で現地へ期限付き出向』という名の大江戸の力を削ぐための強制連行、配流だよ!」
「配流って……島流しじゃないですか」
「島流しだよ! 律令が定まって以来、遠流の行き先は相場が決まってるんだ!噂じゃ、昨年末の電脳賦役の突合で大ポカをやらかしたうちの寮から、見せしめに誰か一人、八重山国の僻地出張所へ飛ばされるって話なんだよ……!」
背筋に嫌な汗が伝う。
昨年末の電脳賦役の突合――豊島駅西口の雑居高層建築街で起きた地子雑税台帳と電脳人別帳の不一致不具合を、不眠不休の残業で無理やり手作業で修正したのは、他ならぬ自分だった。結果的に手続きに落ち度はなかったはずだが、京の民部省本庁の官僚が「先例にない例外処理だ」と激怒していたという話を後から聞いた。
(……まさか、俺か?南島道八重山国って、石垣島とか西表島だぞ。大江戸のコンビニ弁当と深夜アニメの生活から、いきなり東南亜細亜の太子派共産ゲリラが国境を越えてくる最前線の窓口に放り出されるのか……!?)
そのとき、バタンと勢いよく執務室の扉が開き、郡民生活寮の主政・大河内正信(従六位上)が姿を現した。
いつもは事なかれ主義で頼りない大河内の顔が、心なしか土気色を通り越して白蝋のようになっている。その手には、厳重に暗号化された式部省の人事内示記録媒体が握られていた。
「……えー、全員、手を止めて聞いてくれ」
大河内の震える声に、執務室が水を打ったように静まり返る。
税務寮の小野塚綾(少初位下)も、隣のシマから不安そうに首を伸ばしていた。
「先ほど、武蔵国庁を経由して、式部省より当寮における『春の除目』の差定が届いた」
大河内は唾を飲み込み、手元の木簡端末を展開した。
「まず、庶務少主鑰の一条くん」
「ひっ……!」
一条が喉の奥で悲鳴を上げた。
「……一条少主鑰は、現職留任。ただし、位階を正八位上より『従七位下』へ一階昇叙とする」
「……えっ?」
一条が目を丸くした。
従七位下。八位の壁を越え、七位の仲間入りである。少主鑰級の地下人としては順調当確の昇進であった。
「しょ、昇叙……? りゅ、留任ですか……? 八重山国でも千島国でもなく……?」
「うむ。昨今の電脳人別帳統合における激務と、黎民公地共産党との左院分院答弁を無難に乗り切った功績が、式部省考課令において『上々吉』と評価されたようだ。……おめでとう、一条くん」
「あ、ありがとうございます……! 生きて大江戸に残れる……!」
一条はその場に崩れ落ち、文机に突っ伏して安堵の涙を流した。
(よかった……本当に良かったですね、一条さん……)
俺が胸を撫で下ろしたのも束の間。大河内の視線が、すっと佐藤の方へ向けられた。
「……続いて、書生の佐藤和真くん、大初位上」
心臓が跳ね上がった。
「佐藤書生も……現職留任とする。豊島郡衙郡民生活寮にて、引き続き電脳人別帳の管理および窓口実務を命ず」
「……っ!!」
留任! 八重山国への配流は免れた!
全身の力を抜いてへたり込みそうになった瞬間、大河内が言いにくそうに咳払いを挟んだ。
「……ただし、だ。佐藤書生。位階について、式部省より沙汰があった。大初位上より一階昇叙とし、『従八位下』に叙す、とのことだ。また、昇叙があったことから、豊島郡衙においても一階昇段し、『主帳(主任)』となる」
仕事場が一瞬、奇妙な静寂に包まれた。
「従八位下……?」
俺はポカンと口を開けた。
初位(大初位・少初位)を脱し、ついに「八位」の官吏へと昇級した。更には、書生から主帳への昇格。前世の公務員で言えば「主任試験に受かって課内でも柱となる一人前の正規公務員として認められた」ようなものだ。喜ばしいはずの昇進である。
しかし、隣で涙を拭っていた一条少主鑰が、サッと青ざめて俺の肩を掴んだ。
「さ、佐藤くん……従八位下って……」
「少主鑰? 何ですか?」
「初位の間はさ……公文書の最終責任を負わずに済む『補助員』扱いだったんだよ。だが『八位』になった瞬間、律令の規定で【公文書の専決決裁権限】が発生する……! つまり君、来年度から窓口で揉める高層集合長屋転入者や、共産党の厄介な電脳開墾申請の承認印を、自分の名前と位階で直接押さなきゃいけなくなるんだぞ……!」
「……えっ?」
「しかもだ」
大河内主政が、申し訳なさそうに視線を逸らしながら補足した。
「昇叙に伴う手当は、月額わずか三千文の昇給なんだ。だけど八位官吏となった以上、郡民生活寮の電脳夜間宿直の当番表に名前が入るんだ。手当は雀の涙で、背負う法的責任と残業時間だけが倍増する……地下人にとって『最も割に合わない昇叙』と言われているのが、その従八位下なんだよ……」
「……」
俺はその場に凍りついた。
島流しは回避できた。大江戸に残れた。
だが待っていたのは、階級序列が一段上がったことによる、より過酷で生々しい「現場の責任の押し付け」だった。
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昼休み。
胃の激痛に耐えかねた俺は、いつもの郡衙裏の喫煙所へと逃げ込んだ。
紫煙を燻らせていると、カチャリと発火器の音がして、猫背の男がやってきた。くたびれた背広の隠しに手を突っ込み、ひどい隈を作った目で笑う――隣の班の少主鑰、高橋和樹(従七位上)である。
「やあ、佐藤くん。昇叙と昇段、おめでとう。……いや、その顔を見る限り、手放しでは喜べないようだね」
高橋は苦笑しながら、自販機で買った冷たい缶珈琲を放ってよこした。
「……高橋少主鑰、見てたでしょう。従八位下ですよ。手当なんて月三千文しか増えないくせに、来月から僕が窓口の決裁責任者だなんて、割に合わなすぎますよ」
「ああ、八位の壁か。地下人官吏の最初の関門だね」
高橋は紫煙を細く吐き出しながら、自身の胸元の職員証――「従七位上」と刻まれた電脳木簡を指先で弾いた。
「世間の位階ってのは残酷だよ。ほんの少しだけ位を上げて『お前も一人前の官吏だ』とおだて上げ、現場の泥と悪質苦情を全部その八位に背負わせる。千本丸太町の殿上人どもが編み出した、実に狡猾な現場管理術さ。上層部は『位階の栄誉』とか言って誤魔化すが、実態は安月給で責任だけを押し付ける使い捨ての安全弁なんだから。
ほら、こないだ委員会で質問してた赤嶺議員(小礼)もそうだし、黎民公地共産党の田邑委員長(大徳)が左院中継で『位階制度はプロレタリアートを分断する鎖である!』なんて気炎を吐いてるのをよく見かけるけど……まあ、中身はともかく、あの批判自体はその通りだよなぁ」
「まったくですよ……。これなら大初位のまま、気楽な書生(平職員)で雑用を打ってたかったです」
「ははは。まあそう言うなよ。でもね、佐藤くん。位が上がったということは、それだけ君の押す電子判に重みが生まれたということでもあるんだ」
高橋は煙草をくわえ直すと、少し真面目な顔になって俺の目を見た。
「新年度になれば、転入超過で電脳人別帳の書き換えやら、春の班田収授の微調整やらで窓口は怒号の嵐になる。理不尽な法令と、待ちくたびれた郡民の板挟みだ。だけどね……君のように現場の痛みがわかって、胃を痛められる男が判を押してくれるなら、窓口に来る郡民にとってもまだ救いがあるというものさ。上しか見てない選り抜き官吏に機械的に跳ね除けられるより、ずっとね」
「買い被りすぎですよ高橋少主鑰……。僕はただ、定時で帰りたいだけの平凡な地下人です」
「それでいいのさ。太子の第一条『和を以て貴しと為す』っていうのはね、大層な理想に殉じることじゃない。理不尽な組織のなかで、日々の持ち場で波風を立てずに、お互い死なない程度に生き延びることなんだからさ」
高橋は煙草をもみ消すと、俺の肩をポンと叩いて執務室へと戻っていった。
俺は春の生ぬるい風を吸い込み、服の隠しの中から新しく更新された職員証を取り出した。
画面には、新しく書き換えられた身分が冷ややかに明滅している。
『武蔵国 豊島郡衙 郡民生活寮 主帳 佐藤和真(従八位下)』
(……はぁ。来週から、窓口で怒鳴り込んでくる悪質苦情申立者の相手、俺が最終防衛線になるのか……)
新年度の気配を孕んだ青空を見上げながら、俺は深く、長いため息を吐き出した。
千年の格式と電脳官僚制が軋みを上げるこの豊島郡衙で、地下人たちの胃を削る日々が、また幕を開けようとしていた。
【コラム:春の除目と「八位の壁」】
「除目」とは、古代より毎年春に行われる官吏の官職・位階の決定儀式(人事異動)です。位階は、上は「正一位」から下は「少初位下」まで、細かく分けると30段階のランクが存在します。この位階には内部にさらに明確な序列が存在します。五位以上の者は、天子から特別に「昇殿の許可(勅許)」を得た者で殿上人と呼ばれます。一方で六位以下の下級官人を地下人と呼び、どれだけ優秀で仕事ができても、このランクの人は原則として殿上の間や本省に上がることはできません。
地方採用の地下人は通常であれば国衙や郡衙が人事権を持ちますが、最終的な人事優先権は式部省が持つという、人事中央集権制が採用されています。これにより国は地方に対しても強い人事権限を持ち、強権で地方の統制をおこなっています。特に、中央との折り合いの悪い武蔵国(大江戸)からの地下人の引き抜きはあからさまで、これがますます大江戸の反発を買っています。
最底辺の「初位(大初位・少初位)」の官吏は公文書の最終責任を負わない補助員で安月給ですが、「八位(従八位下)」へ昇叙すると、律令規定により公文書の専決決裁権限が発生します。昇進手当は月数千文(数千円)程度にもかかわらず、窓口のクレーマー対応や夜間宿直の法的責任が一気にのしかかるため、現場では「地下人にとって最も割に合わない昇進」と恐れられています。




