番外編〈砂漠の国の国王の訪問〉
あの忌々しい砂漠の国からの命懸けの脱出から、半年後。
ヴァレンシュタットの王城に、ザハラート国王から一通の、謝罪と条約の再締結を乞う書簡が届いた。
そして、今日。ザハラート国王自らが、直々にヴァレンシュタットへと訪れる。
ステイルは朝から機嫌が最悪だった。
何故あのような不潔で不浄な者たちの相手を、またしてもしなければならないのか。そんな奴らの影すらアヤナーラに近づけたくはない、いや、本音を言えば我が国に入ることすら許しがたいという怒りで胸がいっぱいだった。
現在、アヤナーラのお腹は新しい命を宿して随分と大きくなっている。当然、ステイルは彼女をザハラート国王の前に出すつもりなど微塵もなかった。
(あんな悍ましい思いをするのは、私だけで十分だ。アヤの目や耳に、一瞬たりともあの砂漠の男を映してなるものか)
ステイルは彼女を城の最も安全な奥の部屋へと隠し、鉄壁の守護を敷いた上で、1人で玉座に就いたのだった。
そして、ついに謁見の時間が訪れる。
重厚な扉が開き、ザハラート国王が、かつての傲慢な笑みを完全に消し去った悲壮な面持ちで入ってきた。
「ステイル陛下。こちらには見えませんがアヤナーラ王妃殿下。……此度は、我が国の数々のご無礼、どうか、どうかお許し願いたい。我が国は古くからの一夫多妻制。気に入った女をいくらでも娶り、歓待として差し出すことこそが最大の富と権力の象徴であり、世界の常識だと思い込んでおりました。それゆえ、ステイル陛下の元へも毎晩のように美女をあてがい、第二王妃の打診にしても、あの貴族の自慢の娘を見れば、必ずやあなたも喜んで彼女を妻とするだろうと信じて疑わなかったのです」
ザハラート国王は、ステイルの前に進み出ると、王としてのプライドを捨ててその場に膝を突き、胸に手を当てて深く頭を下げた。
「ですが……あなたが我が国に訪れる前、我もあなたとアヤナーラ王妃殿下の関係については、念入りに調べ上げておりました。あなたが妃殿下一人を深く愛し、他のいかなる女性にも目を向けず、宝物のように大切にされているということを。……だが、我が国に入りさえすれば、我が国が誇る魅惑の美女たちを見たら、あなたも男として羽を伸ばして楽しむはずだと……。今までは他国の大使たちも、そうして我が国の夜を楽しんでいかれた。だからあなたも同じだと思い込んでいたのです。それが……まさか、あなたの逆鱗に触れる行為であったとは、つゆ知らず、我らの傲慢を押し付けてしまった」
深々と平伏するザハラート国王を、ステイルは玉座から冷徹に見下ろした。その瞳の奥には、すべてを凍りつかせる絶対零度の光を放っている。
「……。それで? そのおめでたい思い込みが、国際的にはただの『野蛮な非常識』であったという事実を、国王陛下は何故知るに至ったのだ?」
ステイルの声は、低く地を這うような地鳴りとなって響いた。すべてを絡めとり、殺気と怒りに満ちた声に、ザハラート国王はびくりと肩を震わせ、冷や汗を流しながら答えた。
「……最初は、失礼ながら、あなたが王族としての歓待を無下に拒み、我が国に無礼を働いたのだと正直思っておりました。……しかし、その後、我が友人、アースパーニャのトムゴール陛下が我が国に来訪された時、我らは同じように、我が国屈指の美女たちを彼の寝室に配置したのです。すると……トムゴール陛下も、あなたと全く同じように烈火のごとく激怒され、夜中に我が私室へと怒鳴り込んできたのです」
ザハラート国王は、当時の恐怖を思い出すように顔を青ざめさせた。
「我は何をそんなに怒っているのか全くわからず、そして、『トムゴール陛下も、先日のヴァレンシュタットのステイル陛下と同じように怒るとは。ただ夜を楽しめば良いではないか』と不用意に告げてしまった。……そうしたら、彼はさらに激怒し、こう言い放ったのです。『金輪際、この国には来ない。今の友人関係を続けたいのならば、このような不潔な真似は二度としないと今すぐに誓え! さもなければ、これまでの友好同盟もすべて即座に解除する!』と。……それでも我は何故そこまで言われねばならぬのか理解できず、それから数日、トムゴール陛下に我が国以外の世界の『婚姻の尊さと、王妃への敬意という常識』を、一から、徹底的に叩き込まれることになりました」
ザハラート国王は、床に額を擦り付けんばかりにして声を震わせた。
「我はそれを聞き、自分がなんと愚かで悍ましいことをしたのだろうかと、我が身の無知を深く責めました。そして、もう一度貴国との関係を友好的なものに修復したいと考えたのです。……今更、虫のいい話であることは重々承知しております。しかし、貴国との通商条約を結び、物資の融通をしていただかなければ、我が国はこれからの飢餓の季節を越えられず、死人が溢れかえってしまいます。……ですから、どうか我が国の無礼をお許し願いたい。そして、もう一度だけ、条約を締結したいと……お願いに参りました」
砂漠の王の、国の存亡を懸けた決死の懇願が、静まり返った謁見の間に虚しく響き渡るのだった。
「……私は、正直そちらの民がどうなろうと知ったことではない。我が妻と私に対してあれほどの侮辱を働いたのだ。助けてやる義理など微塵もない」
ステイルは冷酷に言い放ち、玉座の肘置きを指先でトントンと不機嫌そうに叩いた。
「……だが、いかに民という存在が国にとって大事なのか……ザハラート陛下も身を以て理解しているからこそ、すべてのプライドを捨てて我が国に助けを求めたのだろう?」
「……恥ずかしながら、その通りです」
ザハラート国王は床に額を擦り付けたまま、声を震わせた。
「我が国では砂漠地帯が年々広がり、オアシスが干上がって作物が全く採れなくなっている場所が増えております。飢えに苦しむ民衆が、毎日宮殿の門前に押し寄せて悲鳴を上げているのです。このままでは民は飢え死にし、我が国は滅びます。……ですから、ステイル陛下、どうか、我が民を救っていただきたいのです!」
砂漠の王の悲痛な土下座が、謁見の間を重苦しく支配した。
――その時だった。
「……陛下。その条約、締結して差し上げたらいかがかしら」
静かだが凛とした声が響き、謁見の間の側面の扉が開いた。そこに現れたのは、大きなお腹を愛おしそうに抱えた、ヴァレンシュタットの王妃アヤナーラだった。
「アヤ……っ!? 何故ここにいるんだ! 体に障る、部屋に戻っていなさいとあれほど……!」
ステイルが驚愕して玉座から立ち上がる。
アヤナーラは、ステイルが怒りのあまりザハラート国王にその場で斬りかかるのではないかと内心強い不安を感じており、ユリウスに頼み込み、謁見の間が見渡せる隠し部屋へと密かに移動していたのだ。
「陛下、私なら大丈夫ですよ。」
アヤナーラは大きなお腹をそっと手で支えながら、穏やかに微笑んだ。
「……だが、ザハラートに我が国の誇りを侮辱されたのは事実だ。アヤ、君は本当にあいつらを許せるのか? 私は君以外の女を一切目に入れないと誓っていたのに、それを国家ぐるみで破られたのだぞ。私は、そう簡単に奴らを許すつもりはない!」
ステイルは顔を青ざめさせ、悲痛な表情でアヤナーラに訴えかける。その銀色の瞳には、未だにザハラートへの激しい怒りが燃えていた。
「……確かに、私もその出来事を最初に聞いた時には、深く心が痛みました」
アヤナーラはそっと自分の胸元に手を当て、少しだけ眉を下げて切なげに微笑んだ。
「陛下の寝室に、私以外の女性たちがいたと聞くだけで……胸が痛くて、辛くてたまりませんでしたわ。……ですが、ザハラート国王陛下は、今はもう世界の常識を学ばれたのですよね?」
アヤナーラが視線を床に伏せるザハラート国王へと向ける。
「『このような非礼は今後一切行わない』、そして『我が国からザハラートへの入国は今後一切禁止にし、ザハラートからの入国は王と側近のみとする』。この二点を厳格な誓約書として条約に書き加え署名していただくのはいかがでしょう、陛下?」
アヤナーラの完璧な提案に、謁見の間はしばらくの沈黙に包まれた。
愛する妻の「胸が痛かった」という言葉にステイルの胸は張り裂けそうになり、同時に彼女が提示した「ザハラートへの入国を一切禁止、ザハラート側からも王と側近のみ」という、アヤナーラに二度と不純な動機で近づかせないための好条件が、彼の理性の天秤を動かす。
「…………わかった。アヤナーラがそこまで言うのなら、そうしよう」
ステイルは渋々と、けれど彼女の願いを受け入れるために、ようやくザハラート国王へと視線を戻した、その時だった。
ドガアアアアン!!!
凄まじい轟音と共に、ステイルの銀の魔力が暴発し、ザハラート国王のすぐ横の大理石の床を木っ端微塵に吹き飛ばした。
「ひっ……!?」「陛下!?」
ユリウスが悲鳴を上げ、アヤナーラも目を見開く。
何故なら、平伏を解いて顔を上げたザハラート国王の顔が、あろうことか茹でダコのように真っ赤に染まり、うっとりとした完全な「恍惚の表情」を浮かべていたからだ。
ザハラート国王は、先ほどまでのステイルの警告など一切耳に入っておらず、アヤナーラを一目見た瞬間から脳内がアヤナーラ一色に染まっていた。
(ああ……! なんという美しさだ……! 大輪の薔薇とはまさに彼女のことか。こんなに美しい女性を私は見たことがない。だからこそ、ステイル陛下も他の女など見向きもしなかったのか……。あぁ、我も、彼女をこの手に入れたい……!)
その不純極まりない動機と下劣な欲望の視線を、ステイルが絶対に見逃すはずがなかった。
「……貴様、今、私のアヤをどんな目で見ていた?」
銀色の瞳を完璧な「魔王」のそれに変えたステイルが、床にめり込むほどの殺気を放ちながら、ゆっくりと玉座の階段を下り始めるのだった。
「……はっ! 申し訳ありません……っ。アヤナーラ王妃殿下があまりにも美しく……、無礼ながら、一瞬で目を奪われてしまいました……っ!」
ザハラート国王は慌てて床に額を擦り付けた。だが、その土下座の最中、彼の心の中にはどす黒い本能が未だに燻っていた。
(……あぁ、やはり、あの極上の薔薇を我が物にしたい。目の前のステイルを殺せば、彼女を我が物に出来るだろうか……? いや、待て、この化け物のような魔力に敵うはずがない。……そういえば、あのトムゴールが我が国で言っていたな。『アヤナーラ様に構うことは万に一つも許さぬ。もしも彼女に惚れたなどと少しでも知られた瞬間、我が弟、アルベルトがアースパーニャの全軍を率いて即刻お前と民を殺しに行くだろう』と……。悔しいが、民の命を天秤に掛けられている今、これ以上の暴挙は死を意味する……我慢するしかないのか……!)
「我が妻、アヤナーラは美しいであろう?」
床で這いつくばるザハラート王の頭上に、ステイルの声が降ってきた。
「私は、アヤナーラがこの世界で一番美しく、尊いと思っている。そして、彼女は私のものだ。誰にも渡さないし、もし誰かが彼女を奪おうとする素振りでも見せるのなら――私は、そいつがいる国を、そいつの血肉ごと跡形もなく世界から消し潰す。……私の言っている意味が、分かっているな? ザハラート国王陛下。変な気を起こすことだけは、己の身のために避けたほうが賢明だ」
殺気をこれでもかと込めた、唸るような冷徹な声。
ザハラート国王はハッと目を見開いた。自分の脳内の不純な妄想が、今、この男に全て見透かされている……そう気づいた瞬間、背筋に強烈な悪寒が走り、完全な恐怖に慄いた。
「……か、重ね重ね……申し訳ありません……っ。も、もちろん……アヤナーラ王妃殿下に……指一本……手を出すようなことなど……断じて……致しません……っ!!」
ステイルが放つ、大気すら圧殺するような威圧感に、砂漠の王の声も身体も、ガタガタと情けなく震えていた。
「条約は、アヤナーラが提示した条件をすべて加えた上で締結しよう。だが……一度でも裏切れば、その瞬間、そなたごと国もろとも消し去ると、骨の髄まで覚えておくといい」
ステイルはゴミを見るような冷たい視線で言い放ち、手元の書類をユリウスへと渡した。
その場で、アヤナーラが考案した「ザハラート側の入国完全禁止」の誓約が裏面に刻まれた条約が、正式に締結された。ザハラート国王はサインを終えるなり、命からがら逃げ出すように、すぐさまヴァレンシュタットを後にした。
(……ヴァレンシュタットの王には、そしてあの薔薇の王妃には、生涯、天地がひっくり返っても絶対に逆らってはならない……!)
砂漠の王は、馬車の窓から遠ざかる城壁を見つめながら、そう固く神に誓うのだった。




