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番外編〈銀の王の潔癖―砂漠の国の誘惑と、留守を預かる薔薇―〉

アースパーニャよりもさらに遠方、古くからの習わしで一夫多妻制を敷く砂漠の国「ザハラート」へ、ステイルは通商条約の締結のために赴いていた。

アヤナーラは国母としての執務と、幼いシリウスの面倒を見るためにヴァレンシュタットの王城に残り、ステイルにとってはまさに「地獄の二ヶ月」が幕を開けたのである。


アースパーニャへの公式訪問の際ですら、一週間の滞在と移動を含めて一ヶ月を要した。それよりも遥か遠方に位置するザハラートへの道程は、片道だけで三週間。馬車に揺られ、過酷な道のりに、見知らぬ宿に泊まる日々の中で、ステイルの精神はすでに限界を迎えていた。


「……はぁ。アヤに会いたい。アヤの香りが、温もりが足りない……。何故こんなにも遠い国へ私が直々に行かねばならぬのか。ユリウス、よく聞け。私はもう、二度とこんな地の果てのような遠国へは行かないからな! もし行くというなら、次は絶対にアヤを同行させる!」


「……一人でこれくらいの公務をこなせなくてどうされるのですか。あなたは一国の王なのですよ? もう少し威厳をお持ちください、子供ではあるまいし」


隣で呆れたように書類に目を通しているユリウスに、ステイルは恨めしそうな視線を向けた。

「ユリウス! お前だって、心から愛し合う女性が出来たなら私のこの引き裂かれるような気持ちが分かるはずだ。……まさか、お前はまだ、想い人すらおらんのか?」


「……私は、心に決めた女性ひとがおりますので。ご安心を」


さらりと告げられた言葉に、ステイルは驚いて弾かれたように目を見開いた。あの鉄仮面のユリウスが、耳まで真っ赤にして俯いている。


「……で? 相手は誰なのだ?」

「……言わなくても、分かるでしょう」


気まずそうに顔を赤くしているユリウスの姿は、ステイルにとっても非常に新鮮だった。


(……相手は……エミリーか。なるほど。だが、エミリーは男爵位の末席で侍女の身分だ。側近たるユリウスとの身分の差を考えれば、正式な婚姻は難しいのではないか? ……いや待て。エミリーは昔から、我が愛しきアヤに誰よりも忠実に仕えてくれている。その多大なる功績の褒賞として、私が彼女に爵位を授けて格を上げれば問題なかろう。よし、この辺りの段取りは、帰国したらすぐにアヤと相談せねばな)


ユリウスの恋路すらアヤナーラへの感謝へと繋げる思考回路で、ステイルはニヤリと笑った。


「……エミリーか?」


その名を口にした瞬間、ユリウスの顔は茹でダコのようにさらに真っ赤に染まり、ステイルは内心で(やはりな)と確信するのだった。


ーーーー


四週間目。

過酷な砂漠を越え、ようやくザハラートの王宮に到着したステイルたちを待っていたのは、ザハラート国王による盛大な歓迎会だった。


「ステイル国王! よくぞ遥々参ってくださった。滞在中の二週間は、我が国が誇る最高の歓待を思う存分楽しんでくだされ。もちろん、若いあなたのために『あれ』も極上のものを用意してある。ガハハハ!」


下品に響き渡るザハラート王の笑い声に、ステイルは不快感と共に、嫌な予感を覚えていた。


そしてその日の夜。

「ステイル陛下。ようこそいらっしゃいました。今夜は私たちに、あなたのお世話をさせてくださいませ」


長旅の疲れを癒やすために用意された格式高い客間へ入ろうとした瞬間、ステイルの足が止まった。

そこには、薄布を纏った妖艶な美女たちが、ステイルを誘惑せんと甘い香を漂わせながら、すでにベッドの周りに待ち構えていたのだ。


「……国王(あいつ)は、私を、そして我が国を侮辱しているのか? 私にはアヤという、世界で一番美しく大切な王妃がいることを知っているはずなのに……私の寝室に、こんな汚らわしい奴らを用意するなど……っ!!」


ステイルは凄まじい怒りに身を震わせ、拳を強く握りしめすぎて爪が手のひらに食い込み、血が滲んでいた。アヤナーラ以外の女性が視界に入るだけでも不快極まりない彼にとって、これは歓待ではなく最悪の精神攻撃だった。


「お前たち、今すぐにここから立ち去れっ! 二度と私の視界に入るな、不浄の者がっ!!」


かつての「氷の王子」すら超える、底冷えするようなステイルの怒号に、美女たちは恐れ慄いて悲鳴を上げ、即座に部屋から退室していった。


しかし、一夫多妻制の文化を持つザハラート国王の命は絶対だった。ステイルの激しい拒絶を知ってなお、「ただの照れ隠しだろう」と勘違いした王の差し金により、毎晩、毎晩、容姿を変えた美女たちがステイルの客間を訪れる。


「アヤ……アヤ……。私はもう、限界だ……っ」


アヤナーラに触れられない飢えと、毎夜繰り返される下劣な誘惑への嫌悪感。

ザハラートに滞在して一週間、ステイルの精神の限界は、疾うの昔に振り切れてしまっていた――。



五週間目――。

ザハラートに滞在して一週間が経過した頃、運命の晩餐会が開かれた。


「ステイル陛下。我が国との絆をより強固なものにするため、ぜひ我が娘をあなたの『第二王妃』として迎え入れてはいただけないだろうか。あの子も麗しい陛下をひと目見て以来、熱烈に慕っておりましてね。ガハハ、悪い話ではないでしょう?」


豪華絢爛な晩餐会の席で、現地の貴族が極上の美酒を片手に、自信満々にそう提案した。一夫多妻制を敷くザハラートの者たちにとって、複数の妻を娶ることは富と権力の象徴であり、彼らにとってはこれ以上ない最高の礼遇のつもりだったのだ。


だが、その瞬間。

またたく間に会場の空気が凍りついた。砂漠のねっとりとした熱気を、一瞬で絶対零度の極寒へと変えさせるほどの、凄まじい冷気が場を支配する。


「……貴殿は今、何と言った?」


ステイルは銀縁メガネの奥の瞳を、かつての「冷徹な王子」をも遥かに超える、底冷えするような殺気を帯びてギラリと光らせた。銀のグラスを握りしめる手が、激しい怒りのあまり微かに、けれど確かに震えている。


「い、いや、ですから……我が娘を、第二王妃として……」


その貴族は、ただ事ではない王の気迫に気圧され、冷や汗を流しながら言葉を詰まらせた。


「黙れ、不浄の者が」

ステイルの声は、低く、地を這うような地鳴りとなって響いた。


「……私にとって、妻はアヤナーラただ一人だ。我が国の気高き王妃の隣に、他の女を並べるなど……この私に対する最大の侮辱であり、彼女の存在への冒涜だ! そんな不潔で悍ましい提案をする口があるなら、今すぐ私の魔力でその唇ごと縫い合わせてやろうか!」


「ひっ……! ぶ、無礼な……!」

貴族が恐怖に顔を青ざめさせ、周囲の貴族たちも一斉に立ち上がる。しかし、ステイルはそれ以上に乱暴に椅子を蹴立てて立ち上がった。


「条約などどうでもいい。毎晩のように見知らぬ女を送り込み、挙句に私の最愛の妻を侮辱するような、こんな無礼で不潔な国に、一秒たりとも滞在したくない。……ユリウス! 帰るぞ! 今すぐだ!」


「陛下!? まだ肝心の条約への署名が……! 待ってください、夜間の砂漠は危険です、馬車の準備がまだ整って――!」


翌日に正式な条約を締結することになっていたのだが、自身のプライドを何度も傷つけられ、さらには愛する妻であるアヤナーラまで汚されたと感じたステイルには、もういかなる理屈も通じなかった。


ステイルはユリウスの必死の制止を完全に無視し、王としての威厳をかなぐり捨てて客間を飛び出すと、夜を徹して自ら馬を走らせた。


本来なら二週間滞在するはずだった予定を、一週間も切り上げての強行突破である。

暗闇の砂漠の中、狂ったように馬に鞭を当てながら、ステイルは窶れた顔で何度も、何度もその名を呟き続けた。 


「アヤ……アヤ……っ! 今すぐ戻る、今すぐ君の元へ……。私を、私の魂を、君の温もりだけで上書きしてくれ……っ!」


寝不足とアヤナーラ不足、そして激しい嫌悪感によって限界を迎えた銀の王は、ただ一筋の執着だけを頼りに、狂気的な速度でヴァレンシュタットを目指して爆走するのだった。




ステイルが怒りに任せてザハラートを飛び出してから、二週間。

片道三週間の距離を、寝る間も惜しんで驚異的な速度で縮めつつある王の執念など知る由もなく、ヴァレンシュタット王城には、数年ぶりとなる穏やかな時間が流れていた。


「母上、大好きです! 父上がいないから、今の母上は私だけのものです! ずっと、ずっとこうしてぎゅーってしててください」


日当たりの良い柔らかなテラスで、幼いシリウスがアヤナーラの膝の上を完全に占領し、ここぞとばかりに甘えた声を上げていた。


「はい、ぎゅーっ、ですよ」


アヤナーラが愛おしそうに優しく抱きしめると、シリウスは「キャッキャ」と無邪気な声を上げて笑う。そして、城にいない父に向かって、この上なく勝ち誇ったような、そして幸せそうな笑顔を見せるのだった。


「……それにしても、本当に、静かだわね」


アヤナーラは、膝の上の愛らしい小さな温もりを感じながら、エミリーが淹れてくれたお茶を優雅に楽しんでいた。

いつもなら、この状況だと、どこからともなくステイルが凄まじいオーラと共に飛んできて、「シリウス、母上を困らせてはいけない。そこは私の席だ」と大人げなく息子を引き離しにかかる。もしくは、五分おきに「アヤ、疲れていないか」「喉は乾いていないか」「私の方も見てくれ」と、二人の間に無理やり割り込んでくるのが常だった。


けれど、今はそれがない。


アヤナーラは、ステイルから「愛されている」という絶対的な安心感に包まれつつも、彼が遠い異国へ赴いていることで期せずして得られた、数年ぶりの"静寂"という贅沢を、心穏やかに噛み締めていた。


「アヤナーラ様、陛下がいらっしゃらないと、本当にお城が平和ですね。お騒がせな書類も溜まりませんし、何よりルカヌス様も、心なしか毎日顔色がよろしいですよ」


エミリーがクスクスと楽しそうに笑いながら、焼き上がったばかりのお菓子を運んでくる。


「ふふ、そうですわね。ステイルには少し申し訳ないけれど、こうしてシリウスとゆっくり寄り添って過ごせる時間は、私にとって本当に貴重な休息だわ」


アヤナーラは、ステイルの強すぎる執着から一時的に解放された静寂を、ほんの少しだけ楽しんでいた。もちろん、彼の熱い囁きや温もりが恋しくないわけではない。けれど、彼がいないからこそ、自分が普段どれほど彼の手で過保護に守られていたかを再確認しつつ、心地よく羽を伸ばしていたのだ。


――だが、アヤナーラがこの静寂を愛おしく思う理由は、もう一つあった。


実はこのとき、アヤナーラのお腹の中には、新たな小さな命が宿っていたのだ。

ステイルが砂漠の国へ旅立った後に発覚したため、物理的な距離もあって、未だステイルには告げられずにいた。


アヤナーラは、ふんわりとしたドレスの上から、まだ膨らみの目立たない愛おしいお腹にそっと優しく手を当てた。

(……お父様は今頃、遠い砂漠の国で、私たちのために一生懸命公務を頑張っていらっしゃるわ。無事に帰っていらしたら、一番に報告しましょうね)


お腹の赤ちゃんに心の中でそう話しかけるアヤナーラの表情は、慈愛に満ちた美しい「母の顔」そのものだった。

城の中で、この幸福な秘密を唯一共有していたエミリーは、そんなアヤナーラの後ろ姿を見守りながら、我がことのように優しく、温かい微笑みを浮かべているのだった。


そんな穏やかな時間を過ごしていた三人の元へ、バタン!と激しい音を立てて、血相を変えたルカヌスがテラスへと飛び込んできた。


「アヤナーラ! 大変だ! 砂漠の国から、あり得ない速度の早馬が届いたよ! 兄上が『不潔な国にアヤとの聖域を汚された!』とか何とか叫びながら、条約締結も放り出して爆速でこっちに向かってるって!」


「……あら。まぁ、もうお帰りになるの?」


アヤナーラは、数年ぶりの貴重な静寂が予定より半月以上も早く終わってしまうことに少しだけ残念そうにしつつも、彼らしいそのあまりの暴走っぷりに、愛おしそうにクスクスと微笑んだ。


「エミリー、今すぐ湯浴みと温かい食事の準備をして差し上げて。……それほど怒り狂って不眠不休で帰ってくるというのなら、相当、精神的にも機嫌が悪そうですものね。私がたっぷり、あの方を甘やかして差し上げなくては」


――その、わずか一時間後。


ヴァレンシュタット王城の重厚な城門が開き、一頭の馬が滑り込んできた。

そこにいたのは、かつての美しい銀の王の格調高さなど微塵もなく、髪は乱れ、最高級の燕尾服は泥と埃でドロドロになった、満身創痍のステイルの姿だった。


ステイルは馬から飛び降りるなり、出迎えの先頭に立つアヤナーラの姿を見つけると、文字通り視界が開けたような歓喜と絶望が混ざった顔をして叫んだ。


「アヤ……っ! アヤアアアアア!!」


そのまま這いずるように突き進み、アヤナーラの足元に跪くようにして膝から崩れ落ちる。二週間の滞在予定を丸々一週間で切り上げ、さらに三週間の帰路を、魔力で馬の体力を限界まで底上げして、わずか二週間で駆け抜けてみせたのだ。

泥と埃に塗れて帰還したステイルの瞳には、再会の喜び以上に、砂漠の国で味わったどろりとした「憎悪」と「不快感」が未だに渦巻いている。


「アヤ……! アヤ、無事か!? 私がいない間、変な男が不浄な下心を持って近づかなかったか!? ルカヌスが余計な真似をして君を困らせなかったか!?」


「ステイル、落ち着いてくださいませ。……そんなに全身ボロボロになって。私はご覧の通り、ずっとあなたの帰りを待っていましたよ」


アヤナーラは、恐怖と嫌悪感でガタガタと震えながら縋り付いてくる夫を、優しく抱きしめてその背中をトントンと宥めた。

周囲の兵士や侍女たちがドン引きしているのを優雅な微笑みで受け流し、アヤナーラはステイルを優しく導き、誰の目にも触れない、二人きりの寝室へと連れ込んだ。


バタン、と内側から鍵が閉まり、ようやくステイルの長くて悍ましい「不浄の旅」に、終わりの鐘が鳴るのだった。





――深夜。


湯浴みを終え、アヤナーラの手で丁寧に濡れた銀髪を乾かされたステイルは、ようやく少しだけ人心地ついたようだった。しかし、彼女の膝に頭を預け、その心地よい体温に触れた途端、再びその端正な顔が屈辱と嫌悪に歪んだ。


「……アヤ。私は、あんなに侮辱されたのは生まれて初めてだ。あの砂漠の男たちめ、死んでも許さん……っ」


ステイルはアヤナーラの細い腰を力任せに抱き寄せ、縋り付くようにその腹部に顔を押し当てた。


「あやつら、あろうことか私に『第二王妃』を勧めてきたんだ。娘を差し出すから受け入れろと……! 君の隣に、君以外の女を並べるなどとほざいたのだ……! 想像しただけで、あの国を、あの場所をすべて私の魔力で焼き尽くしてやりたくなった!」


ステイルの声は未だに怒りと嫌悪で震え、外された眼鏡の奥の銀色の瞳には、本気の殺意が宿っている。 


「私はあいつらの提案を、我が国の、そして君への宣戦布告と見なした。……ユリウスには『大袈裟だ、これでは外交問題になる』と死ぬほど叱られたが、あんな不潔で悍ましい思想を持つ者たちと、これ以上同じ空気を吸うなど一秒たりとも耐えられなかったんだ!」


「まあ……。ステイル、それは本当に大変でしたね」


アヤナーラは、ステイルの燃えるような嫉妬と剥き出しの潔癖さを、まるでおもちゃを取り上げられて怒り狂う子供を宥めるように、優しく、よしよしと彼の銀髪を撫でた。


「でも、ステイル。あなたがそれほどまでに私だけを想ってくれて私はとても誇らしいですよ。……だから、そんなに怒らないで。私はここにいます。あなたの妻は、世界で私一人だけですよ」


その絶対的な全肯定の言葉こそが、ステイルにとっての何よりの鎮静剤だった。

彼はゆっくりと顔を上げ、涙に潤んだ、けれどドロリとした熱を帯びた瞳でアヤナーラを至近距離で見つめた。


「……アヤ。不潔な記憶を、私の脳裏から上書きしてくれ。あんな奴らの声も、差し出された女たちの姿も、すべて君の温もりで消し去りたいんだ。……君の、君だけの愛で、私を満たしてくれ……」


ステイルはアヤナーラの手を取り、一指ずつ、執念深く、貪るように口づけを落としていく。その呼吸はすでに浅く、熱い。


「……本来なら三週間かかるはずの帰路を、私は二週間で駆け抜けた。その分、今夜は二週間分、いや、ひと月半我慢した以上の愛を私にくれないか? ……いいだろう? 私を、君なしでは生きていけない身体にしたのは、他ならぬ君なのだからな」


「……ふふ、はい、ステイル。……お帰りなさいませ」


アヤナーラが優しく微笑んで彼を自分の元へと引き寄せると、ステイルは深い溜息と共に彼女の唇を塞いだ。一ヶ月半の飢えをすべてぶつけるような、深く、甘く、息もできないほどの口付け。


ステイルの強すぎる腕に抱きしめられながら、アヤナーラは彼の愛の熱が最高潮に達したその瞬間、彼の耳元で、そっと世界で一番美しい秘密を紡ぎ出した。


アヤナーラは、情熱的に自分を貪るステイルをそっと抱きしめ返し、その愛の熱を全身で受け止めながら、ついに温めていた言葉を紡ぎ出した。


「ステイル。……私、赤ちゃんを授かりました。」


「……え……?」


耳元で囁かれた言葉に、ステイルの動きが完全に停止した。重ねられていた唇が離れ、彼の瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。


「ステイルが旅立った直後に判明したので、すぐに伝えることが出来なかったのですけれど……。シリウスに、弟か、妹が出来ますよ」


アヤナーラはそう言って、まだ膨らみの目立たないお腹に愛おしそうに手を当て、慈愛に満ちた聖母のような笑顔で微笑んだ。


その瞬間、ステイルの脳内は完全にパニックに陥った。


驚き、困惑し、そして直後――自らとアヤナーラの間に、再び新たなる奇跡が宿ったという至上の喜びと感動が、津波のように押し寄せて彼の全身を激しく震わせた。


「ア、アヤ……。本当、なのか……? 私たちの、二人の子供が……、本当に……っ?」


あまりの尊さと幸福感に、ステイルの目から大粒の涙がぽろぽろと溢れ出す。さっきまで砂漠の国への憎悪で血走っていた瞳は嘘のように消え去り、そこには愛おしさで胸を締め付けられている一人の父親の姿しかなかった。


「……あぁ、アヤ……! ありがとう……!! 君を……そして、この愛しい子を、私は命に代えても愛する……っ!」


ステイルは壊れ物を扱うような手つきで、アヤナーラのお腹にそっと大きな手のひらを添え、何度も、何度も愛おしそうに、慈しむように撫でた。


(……あぁ、そうだ。あんな不潔な異国での出来事など、この奇跡に比べればただの塵に過ぎない。私の魂は、私の世界は、いつだってこのアヤと、私たちの子供たちのためだけに存在するのだ……っ)


「ステイル、もう泣かないで? ……今夜は、たくさんお祝いをしましょうね」


アヤナーラが涙を指先で優しく拭うと、ステイルは彼女の手のひらに何度も狂おしいほどの口づけを落とし、誓うように囁いた。


「あぁ、アヤ……。今夜だけではない、一生、来世まで君を私の愛で満たし続けよう。……愛している、アヤ。私の世界でたった一人の、最愛の王妃……」


ふんわりと二人を包み込むベッドの中で、ステイルはお腹の新しい命に負担をかけないよう、けれど決して離さないという激しい執着を込めて、アヤナーラをそっと、深く抱きしめ直した。


窓の外の砂漠の熱気とは違う、二人だけの神聖で甘く、重い愛の熱が、夜明けを迎えるまで寝室を満たし続けるのだった。



翌朝。


食堂に現れたステイルは、昨日の泥だらけで憤怒に満ちていた姿が嘘のように、いつもの満足げでどこか傲慢な「愛妻家」の顔に完全に戻っていた。


朝食の席で、隣に座るルカヌスに「兄上、あんなに『不潔だ!』って怒り狂っていたのに、一晩で随分と機嫌が直ったね。分かりやすすぎるよ」と呆れ混じりに揶揄からかわれたが、ステイルはアヤナーラの腰を当然のように引き寄せ、勝ち誇ったようにこう言い放った。


「当然だ。私には世界で唯一、私のすべてを浄化してくれる聖なる薔薇がいるからな。……あんな砂漠の砂粒のような下劣な誘惑など、私とアヤの愛の前では塵も同然、全くの無力だ」


ステイルの「上書き」は、どうやら完璧に、それも新しい命の奇跡と共に最上の形で完了したようだった。


そして朝食の後、ステイルはアヤナーラに、道中で気づいたユリウスの恋路について相談を持ちかけた。


「――というわけで、ユリウスの相手はエミリーなのだ。だが、ユリウスと侍女のエミリーでは身分差があり、このままでは婚姻は難しい。そこでだ、アヤ。エミリーに相応の爵位を授けて、二人の壁を取り払ってやりたいと思うのだが……」


話を聞いたアヤナーラは、「まあ……! それは本当に嬉しいことですね」と、驚きつつも我がことのように嬉しそうに微笑んだ。


「エミリーにどの行いを功績として爵位を与えるか、ですか……。そうね、彼女は私が以前、誘拐されたとき、恐ろしい犯人を前にしても私を庇って、誰よりも早く前に出て守ろうとしてくれたの。あの大変な功績だけでも、じゅうぶんに相応しいのではないかしら?」


「あぁ、そうだな。あの時の彼女の忠誠心と勇気は、まさに全侍女の模範たるものだった。……よし、決めた。勇敢なる侍女頭エミリーに、我が国の『子爵』の爵位を授けよう。ユリウスは侯爵で、私の筆頭側近だから立場はかなり上だが、エミリーが子爵家の当主となれば、貴族間での婚姻としても全く問題ない。これで二人の壁は完全に崩れ去ったな」


「ええ。二人には、これまでの苦労が報われるくらい、誰よりも結ばれて幸せになってもらいたいですね」


「そうだな。……まぁ、ユリウスにはこれからも私のノロケの相手として、一生馬車馬のように働いてもらわねば困るがね」


悪戯っぽく笑うステイルに、アヤナーラも「もう、ステイルったら」とクスクスと笑い声を重ね、二人は優しく笑い合った。


窓の外から差し込むヴァレンシュタットの柔らかな朝日は、新しく授かった小さき命と、忠誠を尽くしてきた側近たちの輝かしい未来を、どこまでも温かく祝福するように照らし出しているのだった。


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