番外編〈銀の王の憂鬱-アースパーニャへ旅立つ薔薇〉
その日、ステイルは朝から落ち着かず悶々としていた。
なぜなら、アルベルトがヴァレンシュタットを公式訪問してから二年の月日が経っていた今日、今度はアヤナーラが公務でアースパーニャに行くからだ。
元々は、ステイルが行く予定だったが、アースパーニャへの公務後、すぐに砂漠の国ザハラートへの公務が控えており、この度はアヤナーラがアースパーニャへと向かうことになっていた。
王族であり、そしてアヤナーラの近衛騎士としてルカヌス、侍女のエミリー、さらには護衛騎士も数十人体制で同行するが気が気じゃない。
「陛下。落ち着いてください。さっきから何にも進んでないじゃないですか!」と大きな溜息をつくユリウス。
「やっぱり行く前にアヤを堪能してくる!」と席を立つがすぐに阻止されてしまう。
「ダメです!明日の公務前までにこの大量の書類を片付けなければなりません!なので、お見送りまでは会わせられません!」
私は大きな溜息をつき机の上にある大量の書類と向き合った。
ーーーー
「みなさん、私がいない間、きっとステイル様がとても迷惑をお掛けしてしまうと思いますがよろしくお願いしますね。そしてシリウスのこともよろしくお願いします。」
「はい、陛下と殿下は我々にお任せください。」とユリウスが礼をする。
「……アヤ……やっぱり行くなっ!あの男の元へ行ってしまう気がして……私は…私は…」と皆の前で泣き始めるステイル。
「陛下、大丈夫ですよ。ほら、ルカヌス様もついてきてくださいますし、3週間後戻って来ますからね。」と笑顔で返すアヤナーラ。
「……それもまた心配だ!だってルカヌスはアヤを…!」とまた泣き出すステイル。
見かねたルカヌスは「…もう、いい加減行ってもいいかな?そんなに女々しいとアヤナーラは僕のところに来ちゃうよ?」とニタリと笑い挑発する。
「お前なんかに渡すものかっ!ああ、アヤ。必ず帰って来ておくれ!帰ってきたら私をずっと愛しておくれ!だが、帰ってきたとしてもたったの三日しか堪能出来ずに私も出立しなければいけないのだ……ユリウス!なぜこのような予定にしたのだ!…アヤ、すぐに帰ってきておくれ…!」と泣き縋る。
そんなステイルに「はい、必ず帰りますね」と頭をなでなですると一瞬幸せそうな顔をするが、なかなか離れずついに、ユリウスとルカヌスに引き剥がされた。
「では、皆さま行ってまいります。」
そう言ってアヤナーラたちはアースパーニャへと旅立っていった。
ーーーー
アースパーニャの王都に到着した一行を最初に出迎えたのは、王族の正装を着ている第二王子であり、「竜殺し」の二つ名を持つアースパーニャの騎士団長、アルベルトだった。
「ようこそ、ヴァレンシュタットの薔薇、アヤナーラ王妃。……そして、ルカヌス殿下」
アルベルトの視線がアヤナーラに向けられる。その瞳には、前世からの記憶を抱える男特有の、深く、けれど静かな情熱が宿っていた。
「お久しぶりです、アルベルト殿下」
アヤナーラが微笑むと、アルベルトは騎士の礼を尽くし、彼女の手をそっと取った。かつてのステイルなら、この瞬間に会場を氷漬けにしていたであろう光景だ。
「……あ、あの。アルベルト殿下。その辺りで止めておいていただけますか? 兄上から『アヤに触れる男は、王族であれ騎士であれ、その瞬間に宣戦布告とみなせ』と、恐ろしい伝言を預かっているんです」
ルカヌスが、冗談めかしつつも本気で頭を抱えながら割って入る。アルベルトは苦笑して手を離した。
「ははは。相変わらずだな、ヴァレンシュタットの王は。……安心してくれ、ルカヌス殿下。私は彼女の幸せを壊すつもりはない」
その夜、歓迎の晩餐会が終わった後の静かなテラス。アヤナーラとアルベルトは、二人きりで言葉を交わした。
「アルベルト様。お元気そうですね。アースパーニャの民衆が、あなたのことを誇らしげに話すのを聞くのが、私も嬉しかったです」
「……ありがとう、アヤナーラ。君にそう言ってもらえるだけで、私がこの世界で剣を取る意味があるというものだ。……最近のヴァレンシュタットでの暮らしはどうだい? あの嫉妬深い男に、毎日困らされているんじゃないか?」
「ふふ、毎日が嵐のようですわ。……でも、私はその嵐も含めて、ステイルとの日々を愛してます。」
アヤナーラの真っ直ぐな瞳に、アルベルトは眩しそうに目を細めた。前世の「彰人と綾乃」という形ではなく、今の「ステイルとアヤナーラ」という絆を、彼女は心から慈しんでいる。
「……分かっているよ。君のその瞳が、彼を愛していると語っている。……だが、何度でも言うが、一つだけ約束してくれ。もし彼が君を泣かせることがあれば……その時は、迷わずこの国へ逃げておいで。私は、君という光を守るためなら、いつでも『略奪者』になる用意がある」
「……その必要はないよ、アルベルト殿下。兄は、彼女を泣かせる暇があるなら、自分の命を削ってでも彼女を笑わせる男だからね」
(いや、この間は相当ヤバかったけど…今は前よりも愛し合ってるからな。)
背後から現れたルカヌスの言葉に、アルベルトは苦笑いを浮かべた。だが、ルカヌスがアヤナーラを気遣って少し距離を置いた隙に、アルベルトは彼女の瞳をじっと見つめ、声を落とした。
「……いつでも略奪者になる用意があると言ったが……やっぱり、今すぐにでも君を連れ去りたいと思っているよ。この間のヴァレンシュタットの帰り際…たまたま君のメガネをかけた姿を見てしまったんだ…。その背後にはステイル殿が…。二人が幸せそうに笑っている姿を見たら嫉妬で狂いそうだった…。何故、綾乃まで奪うのかと…。このまま…君を奪って帰りたいと何度も帰りの馬車で考えていた。
…ねぇ、綾乃。もし…また生まれ変われたら……次こそ、俺に綾乃を守らせてもらえないか?」
その名前を呼ばれた瞬間、アヤナーラの心に前世の記憶が鮮やかに蘇る。アルベルトの瞳には、騎士の仮面では隠しきれないほどの思慕が溢れていた。
「俺は今、必死に心を押し殺している。けれど、君を前にすると……どうしても、気持ちが溢れて仕方ないんだ」
アルベルトの震える声に、アヤナーラは胸を締め付けられた。彼がどれほどの想いで今世の自分を見守ってくれているのか。その深い愛を知っているからこそ、彼女は静かに、けれど慈愛を込めて首を振った。
「……彰人……いえ、アルベルト殿下、ごめんなさい。私は今のステイルとの人生を、命ある限り全うしたいのです。……ですから、もし次があるのなら……もしあなたがまた私を見つけて…その時に、私がまたあなたを好きになれたなら……」
アヤナーラはそこまで言って、ふっと切なげに、でも穏やかに微笑んだ。
「……君は…残酷だな。来世の約束はしてくれないのだな。……ああ、分かった。来世の君に振られないよう、私はまた徳を積んで、必ず君を探し出すことにしよう」
アルベルトは、寂しげながらも今度こそはという表情で、彼女の手に騎士の誓いとしての口づけを落とした。
しんと静まり返るテラス。
重すぎる愛の告白に、アヤナーラは少しだけ悪戯っぽく、大輪の薔薇のような笑顔を浮かべて、その空気をふっと和らげるように言葉を紡いだ。
「――そういえば、アルベルト殿下。少しお聞きしたいのですが、ステイルって……前世で私たちが好きだったバンドの、あの『マナト』に少し雰囲気が似ていませんか?」
「……え!?…… マナト!?」
アースパーニャ最強の騎士団長が、現世の立場を完全に忘れて素っ頓狂な声を上げた。
その瞬間、アルベルトの脳裏に、彰人としての記憶が鮮やかに蘇ってくる。
(そうだ……! 俺が好きだったあのロックバンドに、いつの間にか綾乃のほうが熱狂的にハマっていって、二人で何度もライブに行ったっけ……!)
「あぁ……マナト、本当に格好よかったよな。ライブで最前列を取れた時なんて、綾乃、マナトに手を差し出されて握手されて、泣いて喜んでただろ? 俺、内心マナトにめちゃくちゃ嫉妬してたんだからな」
「ふふ、そんなこともありましたね」
アルベルトの口調が、完全に前世の「彰人」のそれに戻っていく。アヤナーラはクスクスと肩を揺らした。
「実はヴァレンシュタットでね、つい口が滑ってステイルに『マナトみたい』と言ってしまったんです。……そうしたら彼、ものすごい顔で嫉妬してしまって。色々あった挙げ句、マナトがライブの時に着ていたあの『軍服』を、わざわざ職人に作らせて、それを着て私の前に現れたんですよ?」
「はははははっ! あの冷徹な国王が、前世の男に嫉妬してステージ衣装を作らせたのか!?それは……流石に俺でもそこまではやらないぞ!」
アルベルトは思わずお腹を抱えて豪快に笑い声を上げた。
あの完璧主義で恐ろしいヴァレンシュタットの王が、自分の知らない「マナト」という男の影に怯え、必死に張り合おうと軍服を新調している姿を想像して、笑いが止まなくなってしまったのだ。
「まぁ、とても似合っていて素敵でしたけれど……。でも、ステイルの嫉妬深さには、本当に毎日飽きませんわ」
そう言ってアヤナーラは愛おしそうに目を細めた。
アルベルトの弾けたような笑顔を見つめながら、アヤナーラは、今世で再会して以来、ようやく彼とこうして心から笑って話せるようになったことに、深い嬉しさと喜びを感じていた。ずっと彼を過去に縛り付けてしまっていると自分を責めていた彼女の心から、すっと重荷が消えていく。
「……参ったな。ライバルは、俺が思っている以上に手強くて、可愛い男のようだ。……あぁ、楽しかったよ、綾乃。久しぶりに、君と笑い合えた気がする」
アルベルトは今度こそ、未練のトゲが抜けたような、本当に清々しい笑顔を浮かべた。
「では、失礼するよ。……来世で、誰よりも男前になった俺に、また一目惚れする準備だけはしておいてくれ」
ウインクを一つ残し、アルベルトは軽やかな足取りでその場を去った。
アヤナーラは、前世の楽しかった思い出と、今世で自分のために髪を白くするまで愛を叫び続けるであろう「重すぎる夫」の顔を思い浮かべながら、どこまでも温かい、幸せな笑顔でその夜空の星を見上げるのだった。
後ろで見ていたルカヌスの目の前にはアルベルトとアヤナーラではなく、彰人と綾乃がいた。前世の夫婦であった二人しかわからない空気感に、ああ、自分はここへは入れないな。本当に想い合っていた夫婦だったのだな。とチクッと心が痛んだ。
ーーーー
アースパーニャ国の王宮。
アヤナーラはアースパーニャを統べる王、トムゴールに公務とは別に話がしたいと呼ばれ応接間へと向かっていた。
扉の外には騎士たちが控え、窓の外には、アルベルトが率いる最強の騎士団が訓練に励む声が微かに響いている。
「アヤナーラ王妃。まずは我が国への公式訪問、心より感謝いたします」
トムゴール国王は、アルベルトによく似た面影を持ちながらも、一国の主としての落ち着きと深い慈愛を湛えた瞳でアヤナーラを見つめた。彼は給仕を下がらせ、側近たちには扉の近くで待機を命じ、トムゴールとアヤナーラの空間だけに盗聴防止結界をかけたあと、少し表情を和らげて静かに口を開いた。
「――単刀直入に申し上げましょう。私は、弟のアルベルトから、弟が生死の淵で思い出したという『前世の記憶』について、すべてを聞いています。その時に弟が命を懸けて愛し、妻として娶っていたのが、今世のあなたであり……『綾乃』という女性だったことも」
「……はい。以前公務でアルベルト様がいらした時にトムゴール陛下にお伝えしたことをお聞きしました。」
トムゴールは「そうでしたか」と、寂しげに語り出した。
「あいつが婚約を破棄した時、私は酷く怒りました。ですが、事情を聞いて合点がいったのです。……アヤナーラ王妃、我が弟があなたに、何か不条理な迷惑を掛けてはいないだろうか? あいつは……『もう、彼女以外の女性を愛することはできない』と、頑なに心を閉ざしてしまっている」
トムゴールは紅茶のカップに視線を落とし、深くため息をついた。
「あなたはヴァレンシュタットのステイル国王から、深く、それこそ国を揺るがすほどに溺愛されていると聞き及んでいます。だからこそ、アルベルトの存在があなたたちの、そしてあなたの重荷や迷惑になっているのではないかと、私はずっと案じていたのです。……それなのに、あなたがこうして公務としてこちらに足を運び、私に会う機会をくださった。心から感謝いたします」
気遣わしげに尋ねるトムゴールに、アヤナーラは少し困ったような、切ない微笑みを浮かべた。
「……いいえ、陛下。アルベルト殿下の存在が、迷惑だなんて思ったことは一度もありません。前世だけでなく今世でも、そこまで私のことを深く想ってくださることは、一人の女性として、正直とても嬉しいと思っております」
アヤナーラは胸元にそっと手を当て、窓の外の騎士団のほうへ、祈るような視線を向けた。
「ですが……私は、前世で病室で亡くなるあの瞬間、彼に『私に囚われず、どうかあなたの人生を歩んで』と、もう既に声が出ず…最後に伝えることができませんでした。私のその一言が足りなかったせいで、彼は今世に生まれ変わってまでも、過去の私に囚われてしまっている……。そう思うと、彼に対しても、ご婚約者様にとっても、お兄様であるトムゴール陛下に対しても、本当に申し訳なく思っているのです……。でも…実は、昨夜晩餐会のあとテラスで、アルベルト殿下と、少しだけお話をさせていただいたのです。前世の思い出話――私たちが好きだった『マナト』という音楽家の話をしましたら、殿下がそれはもう、お腹を抱えて豪快に笑ってくださったのです。」
「ほう、あいつがそんな風に笑ったのですか?」
トムゴール陛下は驚いたように眉を上げた。アヤナーラに心を囚われて以来、どこか陰のあった弟が、そんなふうに素の笑顔を見せたことが意外だったのだ。
「ええ。私が今世で再会して以来、ようやく彼とこうして心から笑って話せるようになったことに、私は深い嬉しさと喜びを感じました。ずっと彼を過去に縛り付けてしまっていると自分を責めていた私の心からも、すっと重荷が消えていきました。……アルベルト殿下はもう、前世の悲しい未練に囚われてばかりはいないのではないかと思うのです。」
アヤナーラの凛とした、けれど慈愛に満ちた言葉に、トムゴールはしばらく呆然とした後、本当に嬉しそうに、そして安堵したように深く息を吐いた。
「……なるほど。あいつが命を懸けてでも愛した理由が、今、よく分かりました。あいつを救ってくれてありがとう、アヤナーラ王妃。」
トムゴールはアヤナーラの気高き慈悲の心に深く感銘を受け、温かい眼差しで彼女を見つめ直すのだった。
「少し昔話をしてもいいでしょうか?」
少し間を置いて、トムゴールは懐かしむように遠い目をして話し始めた。
「私があなたの婚約者候補の一人だったことは、覚えていらっしゃいますか? ……実は、私の父上とステイル殿の父上(先代の国王)とは腐れ縁といいますか、大変仲が良いのです。それで、プライベートで私が幼き頃にヴァレンシュタットへ家族で招待していただき…アルベルトはまだ4歳だったので国に残りましたが…その時に、私はあなたにお会いしているのです」
アヤナーラが「え……?」と小さく息を呑むのを、トムゴールは優しく見つめ返した。
――20年前。
「では、これから観光地へ行ってまいります」
「ああ、楽しんで来るといい」
ヴァレンシュタットの王城で父上に見送られ、母上と私、そして女性の文官一人と護衛騎士の計五人で、私たちはヴァレンシュタットの有名な観光地へと向かっていた。
馬車を走らせていると、街外れに、王城にも引けを取らないほどの大きな美しい城が見えた。
「あのお城も王城なのですか?」
私が興味本位で文官に尋ねると、彼女は誇らしげに微笑んだ。
「……いえ、あちらはサヴォイア公爵邸です。サヴォイア公爵家の歴史は古く、何代にも渡って王家を支えて来られたのですよ」
「王族ではないのに、お城のような屋敷を持っているのですか……」
驚き、窓の外に見入っていると、ちょうど公爵邸の重厚な正門が開いた。
門の前には、豪奢な馬車。そして、これから出発する主を見送りに出てきたのだろう、美しい家族の姿が見えた。
「お父様、いってらっしゃいませ」
その中心で、まだ幼くも、まるで大輪の薔薇が咲いたかのような、眩い笑顔を浮かべる一人の少女が見えた。それが、あなただった。
私は胸が激しく高鳴るのを感じ、思わず立ち上がった。
「馬車を止めていただけませんか? どうしても、あの方たちとお話がしてみたいのです!」
「申し訳ございません、王子殿下。いくら我が国と同盟を結ぶ王家の王子だとしても、公爵家へ突然押しかけるわけには参りません」
御者や文官にそう固く断られてしまう。
「では、何とかあのお子様たちとお話をする機会を、滞在中に与えてはいただけないでしょうか?」
私が必死に食い下がると、文官は困りながらも「公爵閣下が執務のためこれから王城へ来ると思いますので、陛下を通して、お伺いだけでも立ててみますね」と言ってくれた。
隣で母上からは「トムゴール、我が儘を言うものではありませんよ」と窘められたが、私の心はもう、あの門前の少女のことで頭がいっぱいだった。
プライベートな訪問のため公には動けなかった。だが、アースパーニャの幼き王子が会いたがっていると当時の国王から聞かされたサヴォイア公爵は、驚くほど寛大だった。
『三日後、我が家へプライベートな昼食会として招待しよう。その際には、子供たちも同席させよう』と言ってくださったのだ。
待ち望んだ三日後。サヴォイア公爵邸に足を踏み入れると、公爵家が勢揃いで温かく出迎えてくれた。
ご家族が順番に挨拶をしてくれ、最後に、あの門前で見た少女が一歩前に出た。
「お初にお目にかかります。アヤナーラ・ディ・サヴォイアと申します」
私を見上げて、まさに薔薇が花開くような笑顔で挨拶をしてくれた。
あぁ、あの日、馬車の窓から見たあの笑顔を、私はもう一度近くで見たかったのだ。
私は緊張で背筋を伸ばし、精一杯の礼儀を尽くして頭を下げた。
「お初にお目にかかります。アースパーニャの第一王子、トムゴール・アースパーニャと申します。この度は私の無理な願いを聞き届けていただき、本当に申し訳ございません。お招きいただけたこと、心から嬉しく思います」
和やかな昼食会が開かれた後、私はジュリアーノ殿とアヤナーラ嬢に連れられ、美しく手入れされた広大な庭園で、咲き誇る花々を見て回ることになった。
三日前、馬車の窓から初めてアヤナーラ嬢の姿を見たあの瞬間から。
私の心はすでに、まっすぐにあなたへと向かっていたのです――。
「庭園では、ジュリアーノ殿が楽しく会話を盛り上げてくださり、その後ろでアヤナーラ嬢が可憐に微笑んでおられました。……その時です。アヤナーラ嬢が、庭の石につまずきそうになった」
トムゴールは当時の情景を思い浮かべるように、目を細めて語り続ける。
「幼い子供とは思えないほど鮮やかな、そして紳士的な身のこなしで、ジュリアーノ殿があなたを支え……気づいた瞬間には、その小さな身体を両手でしっかりと抱きかかえておられた。それを見て、私はジュリアーノ殿がどれほど妹のあなたを大切に、宝物のようにされているかを痛いほどに理解したのです。……ただ庭を回り、穏やかに談笑していたはずでした。なのに、彼は私に向かって、優しく微笑みながらこう言ったのです。
『アヤナーラはこの国からは出しませんよ、トムゴール殿下。私たち家族の目の届かない場所には、絶対に送りたくありませんから』
と。やんわりとした、けれど絶対に譲らない鉄壁の牽制でした」
「お兄様が……そんな昔から……」
アヤナーラが驚いて小さく口元を隠す。
「ええ。ですが、私はもうあなたに夢中だった。つまずいた時の照れ笑い、花を愛でる慈愛の表情、兄にエスコートされる時の無垢な笑顔……。そのすべてが、私の幼き心に深く突き刺さっていたのです。そして、我が国へ帰る前日。私は父上に向かって膝をつき、『サヴォイア公爵家のアヤナーラ嬢との婚約をお願いします』と、必死に頭を下げました」
トムゴールは自嘲気味に、ふっと息を漏らした。
「父上は驚いた顔をしていましたが、『打診はしてみよう』と約束してくれた。……しかし、いくら待てど、サヴォイア公爵家からの返事は来ない。私は痺れを切らし、父上にもう一度聞いてほしいと何度も頼み込みましたが、『急かしてどうする。王族からの打診だぞ、返事が来るまで待て』と、取り合ってはくれませんでした。……そして、それから一年後。父上に呼ばれた私は、執務室で絶望に突き落とされたのです」
トムゴールの拳が、切なさと当時の怒りを思い出すように微かに震える。
「『サヴォイア公爵家は、アースパーニャ第一王子との婚約は認められない。……ステイル第一王子との婚約が決まった、と返事が来た。元々、王家と公爵家同士であちらが打診をしていたのだろう。残念だったな』と。……その時、私は父上の友人である、あなたの国の先代の王族を激しく憎みました。あんなに良くしてもらった国なのに……たった一人の少女を、私の光を奪われたために、国ごと呪いたいとさえ思った。……月日は流れ、私も諦めを受け入れてアースパーニャの公爵令嬢と結婚し、そして、この国の王座に就いた」
そこでトムゴールは言葉を切り、真っ直ぐにアヤナーラの瞳を見つめた。その瞳には、今や怨嗟ではなく、背筋が凍るような冷徹な「確信」が宿っている。
「――ですが、あの白竜の死闘から目覚めたアルベルトから、あの衝撃の告白を聞いた時。私は、恐ろしいほどの鳥肌と共に、不謹慎にも『あなたが我が国に来なくて、本当に本当によかった』と思ってしまったのです」
「……陛下……?」
「アルベルトの目は、ステイル殿を激しく敵視し、今にもその隣からあなたを奪い取ろうとする狂気に満ちていた。……もしもあの時、あなたが私の元へ嫁いでくれていたとしたならば、前世の記憶を取り戻したアルベルトは、手段を選ばず、必ずあなたを我が物にしていただろう。たとえ……実の兄であるこの私を、手にかけたとしても」
トムゴールの低い声が、静かな部屋に重く響く。
「あいつの愛は、前世の絆に縛られた本物だ。だが、本物ゆえに恐ろしい。……ヴァレンシュタットのステイル国王が、どれほど狂気的な独占欲であなたを囲い込んでいるかは、我が国にも届いています。ですが、今の私は分かります。ステイル国王の『重すぎる愛の檻』が盾なのだと。」
トムゴールは静かに紅茶を口に運ぶと、憑き物が落ちたような、清々しくも切ない笑みをアヤナーラへと向けた。
「かつては、あなたを奪っていった隣国とステイル殿を激しく憎んでしまったこともありました。ですが、今の私にはそのような気持ちは一切ありません。……逆に、記憶を取り戻した弟の存在が、あなたたちを苦しめ、二人の絆を引き裂こうとしているのではないかと、私はずっと心配していたのです。……ですが、今日、あなたの口から『とても幸せだ』という本心を聞くことができて、そして、先程の話を聞けてようやく心から安心しました」
トムゴールは優しく目を細め、お茶会のテーブル越しにアヤナーラを真っ直ぐに見つめた。
「かつての私たちの父たちが、素晴らしい腐れ縁を保っていたように。……私とステイル殿、そして我が国とヴァレンシュタットも、そのような深い友好関係をこれから築いていけたら、これほど嬉しいことはありません」
そう言って、トムゴール陛下は少年のような悪戯っぽさを湛えた、温かい笑顔を浮かべた。
「陛下……。ありがとうございます。私も、ステイル陛下も、きっと同じ気持ちですわ」
アヤナーラもまた、胸の奥の仕えが取れたような、大輪の薔薇のような笑顔で応じるのだった。
アースパーニャの王が示した、かつての恋心への決別と、新たなる同盟の誓い。それは、ヴァレンシュタットで首を長くして彼女の帰りを待つ「銀の王」にとっても、この上ない最高の贈り物となるのだった。
ーーーー
その頃。
ヴァレンシュタットの城では、ステイルが胸を抑えて悶絶していた。
「……っ! 今、アヤがまたあいつを『彰人』と呼んだ気がする! 嫌だ、魂まで持っていかないでくれ! ユリウス、今すぐアースパーニャに軍を出すぞ!…それにアヤが誰かに言い寄られている気さえする!」
「陛下、寝言は寝てからにしてください」
ステイルの「嫉妬の霊感」が過去最高に冴え渡り、ユリウスが不眠不休で王をなだめる夜が続くのだった。
ーーーー
晩餐会の喧騒を離れ、月明かりが差し込む回廊。アルベルトとルカヌスは、二人きりで足を止めた。
アルベルトは夜風に吹かれながら、視線を遠くへ向けたまま、静かに問いかけた。
「……ルカヌス殿下。一つ、単刀直入に聞かせてほしい。彼女は……アヤナーラは、本当にあの国で幸せに暮らせているのか?」
その問いに宿る、切実な響き。ルカヌスは兄ステイルの顔を思い浮かべ、自嘲気味に口角を上げた。
「ええ。以前のような、狂気じみた幽閉はもうありません。……もっとも、あの独占欲と嫉妬心だけは、死んでも治らないようですが。兄上は今や、彼女の一呼吸さえも自分だけのものにしたいと言わんばかりに、四六時中彼女を溺愛していますよ」
「幽閉、か……」
アルベルトの瞳に、鋭い怒りの火が灯る。それを見たルカヌスは、拳を強く握りしめ、視線を落とした。
「……あの時、私は騎士団の訓練や遠方への派遣で、王都を長く離れていました。戻った時には、すべてが終わっていた。……兄上が彼女を閉じ込め、その心を壊そうとしていたことに、私は気づいてあげられなかったんです」
ルカヌスの声が、苦い後悔で震える。
「……血を分けた弟でありながら、彼女の悲鳴に気づけなかった自分を、私は一生許すつもりはありません。だからこそ誓ったのです。二度と、あんな真似はさせないと。たとえ相手が兄上であっても、彼女を傷つけるなら私は容赦しません」
「……そうか。君も、地獄を見てきたのだな」
アルベルトが同情を込めて呟くと、ルカヌスは顔を上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「ええ。ですから、アルベルト殿下。もし万が一、兄上と何かあったその時は、この私がいます。……忘れないでいただきたい。私も、あなた以上に……いいえ、誰よりも、アヤナーラを愛している。彼女に何かあれば、誰よりも早く彼女の手を引くのは、もう他の誰でもない、この私だ」
静かな回廊に、ルカヌスの決死の宣戦布告が響く。
それは過去の自分への決別であり、一人の男としての、一生を懸けた執着の告白だった。
アルベルトは驚きに目を見開いた後、ふっと肩の力を抜いて笑った。
「……なるほど。あの国の王家は、誰も彼も救いようがないな。……だが、少しだけ安心したよ。彼女を守る『盾』は、あの兄一人ではないということか」
「買い被りですよ。……さあ、戻りましょう。兄上の生霊が飛んできて、また彼女を閉じ込めかねませんから」
二人は互いに背を向け、歩き出した。
愛する女性の「最後の砦」になろうとする、二人の男。その歪で純粋な献身が、月光の下で静かに交差した瞬間だった。
ーーーー
アヤナーラが旅立ってから三日。
城内では、国王ステイルの「異常事態」が深刻化していた。
「陛下。……何をしているのですか」
執務室に入ったユリウスは、絶句した。
ステイルは、アヤナーラがいつも使っているクッションを椅子に置き、その横でアヤナーラの香水が染み込んだ布を大事そうに握りしめながら、虚空を見つめていたのだ。
「……ユリウス。今、アヤが私の名を呼んだ気がしたんだ。……幻聴だろうか。いや、これは愛が時空を超えた共鳴ではないか?」
「ただの重症です。早くペンを持ってください。……というか、その布を離してください。不審者に見えます」
五日目。
ステイルはついに、前世のリストを更新し始めた。
[アヤが帰ってきたら、死ぬほど甘えて上書きする事リスト]
・玄関先で三時間抱きしめる
・お姫様抱っこをしてアヤの匂いを嗅ぎ堪能して、二時間はその幸せを噛み締める
・食事はすべて私の口へ運んでもらう
・風呂上がりの髪を三週間分、丁寧に乾かしてもらう……
ステイルはリストを指でなぞりながら、どこか虚ろな、しかし熱を帯びた瞳で呟く。
「……帰ってきたら……優しくは出来ないだろうな。すまないな、アヤ……一秒たりとも君を忘れたことはなかった。……覚悟しておいてくれ、何度でも抱かせてほしい……」
その「国王」としてあるまじき淫靡な独り言を、扉の前で聞いていたユリウスが盛大な溜息と共に割って入った。
「陛下。……なんと、はしたないことを言っておられるのですか! もう少し自分が一国の王であるという自覚を持ってください!」
「ユリウス! ノックもしないで入るなと言っただろう!」
「ノックは三回しましたが、陛下がアヤナーラ様の名前を呪文のように唱えながらリストを音読されていたので、聞こえなかったのでしょう。……というか、いい加減にしてください。シリウス様が『父上が部屋でアヤ、アヤと呪文を唱えていて怖い』と、半泣きで私に泣きついてこられましたよ」
「……っ、シリウスか。あいつにはまだ、この愛の深さは早すぎたか」
「愛ではなく、ただの恐怖です。これ以上、次代の王にトラウマを植え付けるのはやめてください。ほら、ペンを持ってください! アヤナーラ様が戻られた時に、仕事が山積みだったらそれこそ会わせませんよ!」
ユリウスの鉄壁の正論に、ステイルは「ぐぬぬ……」と唸りながら、アヤナーラへの「情熱的な上書き」を果たすため、猛烈な勢いで書類を片付け始めるのだった。
十日目。
ステイルはあまりの寂しさに、ついに禁断の手に出た。
「……ユリウス。君に頼みがある。……アヤの代わりに、私の頭を撫でて『よしよし』と言ってくれないか」
「死んでもお断りします」
「なぜだ! 君は私の側近だろう! 主君のメンタルケアをしろ!」
「それは王妃殿下の仕事です。……代わりのルカヌス様も不在ですので、どうかそのまま一人で枕でも濡らしていてください」
十五日目。
ステイルは、アースパーニャへ送る「公務の返信」の中に、自分の独占欲を凝縮した私信をこっそり混ぜようとして、ユリウスに検閲された。
『アヤ。アルベルトの顔を三秒以上見てはいけない。奴が騎士の礼をしたら、それは求婚の合図だと思え。今すぐ帰ってきてくれ。私はもう、君の温もりがないと銀の彫像になってしまいそうだ』
「陛下。……これは外交問題になります。破棄しました」
「ユリウス!! 貴様、私の愛を……!」
二十日目。
いよいよ明日帰還するという日。ステイルは、アヤナーラを驚かせるための「サプライズ」として、城の入口から寝室までを、彼女の好きな薔薇の花びらで埋め尽くすという暴挙に出た。
「陛下! 滑って転ぶでしょうが! 掃除する身にもなってください!」
エミリーが不在のため、代わりの侍女たちが悲鳴を上げる中、ステイルは満足げに鼻を鳴らした。
「ふっ……。これでアヤは、アルベルトのことなど一瞬で忘れるはずだ。私の愛は、海よりも深く、薔薇の花びらよりも厚いのだからな!」
三週間ぶりに帰還するアヤナーラを待つステイルの瞳は、再会への情熱と、溜まりに溜まった独占欲で、恐ろしいほどの輝きを放っていた。
ーーーー
ついに三週間が経ち、アヤナーラの馬車が城の正門に到着した。
扉が開いた瞬間、アヤナーラは思わず息を呑んだ。エントランスから広間にかけて、彼女の好きな深紅の薔薇の花びらが、足の踏み場もないほど敷き詰められていたからだ。
「お帰り、アヤ……! 会いたかった、死ぬほど、会いたかった……!」
馬車のステップを降りる間も与えず、ステイルがアヤナーラを力任せに抱き寄せた。文字通り、リストの第一項目「玄関先で三時間抱きしめる」の遂行である。
「へ、陛下……苦しいですわ。それに、皆様が見ていらっしゃいます……」
「三週間だ。二十一日間、五百時間以上も君を我慢したんだ。……誰に見られようと構わない。君の温もりが、香りが、今やっと私を正気に戻してくれている……」
ステイルは周囲の目など一ミリも気にせず、彼女の首筋に顔を埋めて深く、深く呼吸を繰り返した。その様子は、まさに「お姫様抱っこをして二時間は匂いを嗅ぐ」を今すぐこの場で始めかねない危うさだった。
「陛下、一時間経過しました。他の者が仕事ができません。……続きは寝室でどうぞ」
ユリウスが冷徹に告げ、ようやく物理的に引き剥がされたステイルは、そのままアヤナーラを「お姫様抱っこ」で奪い去るように寝室へと連れ去った。
寝室の扉が閉まった瞬間、ステイルは彼女をベッドへ降ろし、覆い被さるようにして抱きしめた。
「……アヤ、愛している。……彰人に優しい顔を見せたのか? 彼に優しくしたのか? ……いや、もういい。聞きたくない。私の名前を呼んでくれ。私の熱だけで、君を上書きさせてくれ」
ステイルの瞳には、三週間溜め込んだ独占欲がどろりと渦巻いていた。彼は、かつてのリストにあった「優しくは出来ないだろうな」という独り言を証明するかのように、熱く、執拗に彼女を愛した。
「……っ、ステイル……本当に、余裕がないのですね」
「ああ、ない。君の前でだけは、私はいつまで経っても飢えた獣のままだ。……アヤ、もう二度と離さない。一生、私の腕の中に閉じ込めておきたい……」
ステイルは、彼女の指先、耳たぶ、そして心臓の鼓動を確かめるように、何度も何度も口づけを落とした。リストにあった「よしよし」さえも、今は彼が彼女を慈しみ、支配するための甘い罠のようだった。
三週間分の空白を埋めるような、激しくも甘い夜。
アヤナーラは、ステイルの重すぎる愛に翻弄されながらも、その剥き出しの情熱に、確かな「生」の喜びを感じていた。
翌朝。
アヤナーラの手によって丁寧に「よしよし」され、リストの項目をすべて(無理やり)完遂させたステイルは、かつてないほど満足げな、毒気の抜けた顔で朝食の席に現れた。
「兄上……。三週間分、しっかり『補給』できたみたいだね。顔色が良すぎて、こっちが当てられそうだよ」
戻ってきたルカヌスが呆れ顔で茶化したが、ステイルは余裕の微笑みでアヤナーラの手を握った。
「ああ、最高だった。……だが、足りないな。後二日、三週間分の遅れを取り戻させてもらうつもりだ」
アヤナーラが真っ赤になって俯く横で、ユリウスは「……また、リストが更新されそうだな」と、密かに天を仰ぐのだった。
ーーーー
アヤナーラが戻り、甘い再会の一夜を過ごした後。ステイルの胸には、三週間の間ずっと燻り続けていた「疑念」が、重い澱のように沈んでいた。
彼はついに、執務室へルカヌスを呼び出した。
「……ルカヌス。アースパーニャでのことを話せ。アヤとあの男が何を話し、どんな顔をしていたのか。一言一句、漏らさずに、だ」
「兄上、やめておいた方がいいよ。聞けばまた寝込むことになるのは目に見えてるんだから」
ルカヌスが呆れたように肩をすくめるが、ステイルの銀色の瞳に宿る光は、冗談を許さないほど鋭く、暗かった。
「……これは国王としての命令だ。私の前で、隠し事は許さん」
「……はぁ。本当に後悔しないでよ?」
ルカヌスは観念したように、あのテラスでの会話を打ち明けた。アルベルトがアヤナーラを「綾乃」と呼び、来世の約束を乞うたこと。そして、アヤナーラがそれにどう答えたか。
ステイルは、ルカヌスの言葉を聞くたびに、顔から血の気が引いていくのが分かった。
(……来世の、約束……だと……!?)
彰人として彼女を愛し、今世でも彼女を奪おうとする「宿命の男」の情熱。それは、どれほどステイルがアヤナーラを愛そうとも、介入することのできない魂の領域だった。
(…私も絶対に来世であいつより先にアヤを見つけ出し奪わせはしない!)
ステイルは机を叩き、激しい嫉妬と無力感に、奥歯が砕けるほど噛み締めた。しかし、ルカヌスがアヤナーラの最後の言葉――「今のステイルとの人生を全うしたい」という決意を口にした瞬間。
「…………っ」
ステイルは、大きく息を吐き出し、そのまま顔を覆って崩れ落ちた。
「兄上? ほら、だから言ったじゃないか……」
「……いや。……いい。……それでいい……」
ステイルの声は震えていた。顔を覆う指の隙間から、一筋の涙が溢れる。
嫉妬で狂いそうだった心が、彼女の「今の私は、ステイルの妻」という揺るぎない愛の言葉によって、一気に救われたのだ。
(ああ、アヤ……。君は、過去も未来もすべて抱えた上で、今、私の隣にいてくれるのだな)
「……ルカヌス。感謝する」
「……泣きながら礼を言われるのは、ちょっと勘弁してほしいな。……さて、これでおしまい。兄上、早く仕事に戻ってよ」
ルカヌスはマナトの話は敢えてしなかった。
あの彰人と綾乃の会話は二人だけのものだと思ったから。
ルカヌスが出て行った後、ステイルはしばらくの間、静かに涙を流し続けた。
嫉妬心が消えたわけではない。来世への不安が消えたわけでもない。
けれど、今この瞬間、彼女が自分を「選んでくれている」という事実が、何よりもステイルの魂を強く、熱く繋ぎ止めていた。
その日の午後。
ステイルは公務の合間を縫ってアヤナーラの元へ駆け込むと、何も言わずに彼女を後ろから抱きしめた。
「……どうしたのですか、ステイル?」
「……いや。……ただ、君を愛していると、言いたかっただけだ」
ステイルは彼女の髪に顔を埋め、自分を選んでくれた「今の彼女」を、二度と離すまいと誓うのだった。




