番外編〈再会、そして誓いの上書き〉
アースパーニャ国の第二王子にして、大陸最強の騎士アルベルト。
彼の訪問は、数年前、ステイルが嫉妬のあまり剣を抜きかけ、国王に止められたあの日以来の公式訪問である。
アヤナーラから「私は綾乃ではなく、アヤナーラとしてステイルと共に生きる」とはっきりと告げられた彼は、あれから一度も彼女に接触してこなかった。しかし、その彼が「特使」として再びこの国の土を踏む。
「……ユリウス。私の顔は怖いか?」
謁見の間へ向かう廊下で、ステイルが低く問いかけた。
「ええ、非常に。鏡を見れば、数年前の自分に逆戻りしているのが分かりますよ、陛下」
ユリウスが呆れたように答える。
扉が開くと、そこには「竜殺し」の威風を纏ったアルベルトが立っていた。
かつては「彰人」の面影を探し、殺意をぶつけた相手。だが、今のステイルは王座に深く腰掛け、銀色の瞳で真っ直ぐにライバルを見据えた。
「久しいな、アルベルト殿下。……今日は騎士団長としてではなく、一国の王子としての訪問かな?」
「その通りです、ステイル陛下。……そして、一人の男として、彼女が健やかであるかを確認しに来ました」
アルベルトの視線がアヤナーラへ向く。ステイルの身体が僅かに強張ったが、アヤナーラはステイルの手をそっと握り、毅然とアルベルトへ微笑み返した。
「ご心配いただき、ありがとうございます、アルベルト殿下。……この通り、私は今、この方の隣でこれ以上ないほど幸せに過ごしております。」
アヤナーラの言葉は、あの日告げた「決別」の念押しだった。
アルベルトは一瞬、寂しげに目を細めたが、すぐに清々しい笑みを浮かべた。
「……参りましたね。その笑顔を見せられては、私の出る幕はもう本当に無いようだ。陛下、あなたの勝ちだ。……前世の彰人は、彼女にこれほど誇らしげな顔をさせてやれただろうか」
「……あいつのことは知らない。だが、これからのアヤを、誰よりも幸せにできるのが私であることだけは、神にだって譲るつもりはない」
ステイルは、アヤナーラの指に自らの指を絡めた。
あの日、国王に止められ、アヤナーラに救われた「未熟な王子」はもういない。
その日の夜会、ルカヌスがアルベルトに「兄上、あんなに余裕ぶってるけど、昨夜は一晩中『あいつが来たらどう追い返そうか。アヤがあいつに付いていってしまったら…私はどうしたらいいんだ』って、僕に愚痴ってたんだよ」と耳打ちし、アルベルトが豪快に笑い声を上げる場面もあった。
夜会の喧騒を離れ、テラスで一人夜風に当たっていたアヤナーラ。そこへ、静かな足音と共にアルベルトが現れた。
「元気そうで何よりだ」
久しぶりに見る前世の妻に向け、アルベルトは慈しむような笑みを浮かべる。
「アルベルト殿下。ありがとうございます。騎士としてのご活躍、聞き及んでいますよ。……でも、お体は大切になさってくださいね」
アヤナーラが微笑み返す。その心の奥では(彰人には、今世でもどうか元気で幸せでいてほしい)という、祈りにも似た想いが過っていた。
「私も同じ気持ちだ。……出来ることならこのまま君を連れて帰りたい。叶わぬ願いだと分かってはいるがね」
アルベルトの瞳に、隠しきれない情熱が灯る。(本当は今すぐにでも彼女を抱き寄せたい。彼女を前にすると、愛おしさでどうにかなりそうだ)
「……お子が生まれたと聞いたが、元気か?」
「はい。陛下と二人で、毎日私の隣を取り合っていますわ」
(彰人も、陽菜が寝た後に私のところに来て……翌朝、陽菜に『なんでパパがママの隣にいるの!』って怒られていたわね)
ふと脳裏を過った前世の愛おしい記憶に、アヤナーラの微笑みがほんの少しだけ柔らかくなる。
二人の間に流れる、今世の者には介入できない「過去の記憶」が混じった穏やかな空気。
「そうか。……本当に幸せそうで安心したよ。だが忘れないでくれ。何かあったなら、私はすぐにでも君を攫いに来る」
アルベルトは真剣な表情で告げると、引き寄せられるようにアヤナーラへ一歩、歩み寄った。夜風に揺れる彼女の細い肩へ、無意識に手が伸びる。かつてのようにその身体を強く抱きしめ、自分のものだと叫びたい衝動を必死に抑え込むように、彼の指先が宙で微かに震えていた。
「……綾乃。君が誘拐されたことを聞いた。私は胸が張り裂けそうになって、すぐにでも駆けつけようとしたんだ…。だが、兄に止められてしまった。『お前はこのアースパーニャの騎士団長で、ヴァレンシュタットの騎士団長ではないのだ。そして、今のお前はアヤナーラ様の何者でもないのだ』と。」
アルベルトは悔しさに耐えるように、テラスの欄干を強く握りしめた。その手元を、アヤナーラが「ん?」と小さく首を傾げて見つめる。
「ああ。兄には婚約破棄の時に全てを話した。白竜を倒し、怪我を負って伏せっていた時に前世の記憶を思い出したこと。前世で愛した人、その人が今の君だと言うことも。そして、記憶を思い出した今は他の女性を愛せないとも。」
「…何故です?」
アヤナーラは胸元にそっと手を当て、切ない表情を浮かべた。
「だって私は、あなたを選ばなかった…。あなたには、アルベルトとしての人生を生きてほしかった。婚約者がいたなら…どうしてその方との幸せを選ばれなかったのです?その方を愛してらしたのでしょう?」
アルベルトは自嘲気味に微笑み、遠い夜空を見上げた。
「…私は…白竜との死闘で生死の淵を彷徨い、恐らく一度心臓が止まった。だが、彰人の記憶を取り戻した瞬間、また心臓が大きな音を立てて動き出したのがわかった。彰人が生きて綾乃を守れと言っていた。もちろん私…アルベルトの記憶はもちろんある。…が、以前の私も婚約者を愛せてはいなかった。いつも彼女を遠ざけ、なるべく関わらないように鍛錬に身を注いでいた。」
彼は自分の両手を見つめ、微かに身震いをした。
「…目覚めた時、婚約者に触られた事が嫌で仕方なかった…。君以外の女性に触れられる事がこれほどまでに嫌なものなのか…と思うほど気持ちが悪くなってしまった…。その瞬間、私は君のためだけに生きると誓ったんだ…。今の君には迷惑な話だとは思うが…。」
夜風がアヤナーラの美しい髪を揺らす。彼女は真っ直ぐにアルベルトの瞳を見つめ、静かに、けれど明確に言葉を紡いだ。
「…アルベルト殿下。綾乃のせいであなたを縛り付けるような形になってしまっているのですね…。本当に申し訳ありません。」
アヤナーラは優しく首を振る。
「あの時もお伝えしましたが、綾乃はとても幸せな人生でしたよ?それは、もっと長生きして彰人と、陽菜を育て成長を見守りたかった…。でも綾乃はあの時…死んでも幸せだったと思っているのです。
それは彰人にとても愛されていたから。孤独だった綾乃を彰人の愛で包んでくれていたから、守っていてくれたから綾乃はとても幸せだったのです…。だから、もう囚われないでください…。」
アヤナーラはそう言って一筋の涙を流した。
アルベルトは無意識にその涙を指で拭いながら、その指先の温もりに酷く切なそうな表情を浮かべた。
「……っ…すまない…。君はそう言ってくれるが…私はもう君以外の女性を視界に入れることはない。本当は今すぐにでも君を攫いこの世界の果てに行き、君と二人で暮らしたい…こんなことばかり考えてしまう…。だが、君は愛する人が居るのだ。……だから、これからも君を見守らせてほしい。」
と、真剣な表情で告げた、その時。
会場の影から、その様子を凝視していたステイルの顔は、嫉妬と独占欲に狂った、かつての「冷徹な王子」すら超える凄まじいものになっていた。
「陛下、お顔が大変なことになっております。どうか怒りを鎮めてください」
ユリウスが必死に小声で諫めるが、ステイルの耳には届かない。そこへ、ルカヌスがひょいと現れ、火に油を注いだ。
「へぇ、二人で真剣に話してるねぇ、兄上。アヤナーラ、涙まで流してるよ?ねぇ、彰人に盗られるんじゃないの?」
「ルカヌス様! なぜ煽るようなことを言うのですか!」とユリウスが怒るが、ルカヌスは笑い続ける。
「兄上、さっきまでの余裕綽々の顔はどこへ行ったんだい? 今は昔に逆戻りしたような顔をしてるよ」
ステイルは拳を血が滲むほど握りしめ、地を這うような声で漏らした。
「……今すぐに夜会を終わらせて、アヤを抱きたい。あいつの視線を、記憶を、すべて上書きして消し去ってしまいたい……」
「陛下! はしたないです! まだ客人がいらっしゃるのですよ!」
ユリウスの悲鳴に近い静止も虚しく、ステイルの限界は訪れた。
遠くからステイルの放つ「ただならぬ殺気」を察知したアヤナーラが、苦笑しながら告げる。
「……そろそろ陛下の我慢の限界のようですので、私は戻りますね。アルベルト殿下……あなたもどうか、幸せになってください」
アヤナーラが戻るなり、ステイルは皆の前であることも構わず、彼女を力任せに抱きしめ口づけした。
その瞬間、まるで時間が凍りついたかのように、楽団の演奏が一寸の狂いもなくピタリと止まった。会場を満たしていた歓談の声は消え失せ、静まり返った広間に貴族たちの息を呑むどよめきだけが波紋のように広がっていく。その狂気的な独占欲の光景を、アルベルトは冷ややかな、けれどどこか覚悟を決めたような、真っ直ぐな瞳で見つめていた。
「「"陛下! ""兄上! "皆様の前です、やめてください!」」
ユリウス、ルカヌスの制止を振り切り、ステイルは彼女を抱き抱えた。
「いやだ。もう無理だ。……私はアヤを連れて行く!」
王としての威厳をかなぐり捨て、獲物を守る獣のような足取りでアヤナーラを連れ去っていくステイル。
「もう……仕方ないなぁ。僕が対応しなきゃいけなくなるじゃないか」と呟くルカヌス。
盛大なため息を吐き、頭を抱えるユリウス。
その騒ぎを遠くで見届けながら、アルベルトは静かに呟いた。
「……愛されているんだな。安心したよ、綾乃」
その声は夜風に消え、彼は独り、月明かりの下で騎士の礼を捧げた。
ー寝室の重い扉が閉まり、二人きりになった瞬間。
「アヤ……あいつと一体何の話をしたのだ…」
力無く、怖いものを見るように怯えた表情でステイルはアヤナーラに尋ねた。
「……アルベルト殿下が、彰人の記憶を取り戻した時の話と……それから婚約を破棄した事……」
部屋の明かりも点けぬまま、アヤナーラはステイルの胸に顔を埋めた状態で、ぽつりぽつりと話し出した。
「彼は私以外の女性のことを、もう視界に入れることは出来ないのだそうです。……でも、私にはステイルがいるから、これからも見守らせてほしい……と、そう仰っていました」
すべてを打ち明けたアヤナーラの言葉を受け、ステイルの呼吸が一瞬止まる。
彼は驚くほど激しく震えた手で、アヤナーラの顔を包み込み、無理やり自分の方へと向けさせた。その指先は氷のように冷たく、失う恐怖に怯えきっている。
「……アヤ……私は、本当に君の夫でいいのか……?」
ステイルの銀色の瞳が、激しい不安と自責の念で揺れていた。
「私は、君の心を何度もたくさん傷つけてしまった……。あいつ(前世の夫)の記憶がある君の気持ちは、本当に……本当に、私に向いてくれているのか……?」
泣き出しそうな、あまりにも脆く震える声。
アヤナーラは逃げようとするステイルの手を、自分の両手でそっと、けれど決して離さない強さで握りしめた。そして、彼の目を真っ直ぐに見つめ、一文字一文字を彼の心に刻みつけるように優しく微笑む。
「はい。ステイル。あなたは私の、ただ一人の夫です」
アヤナーラはステイルの頬に手を伸ばし、彼の不安を拭うように愛おしそうに撫でた。
「私はあなたを、心から愛しています。幼い頃からずっと、この気持ちは変わりません。……あなたが離れていく、あなたを失うと思った時……私の心が壊れてしまったくらい、私の心には、あなたしかいないのです」
アヤナーラは涙の滲む瞳でステイルをじっと見上げ、小さな子供のように彼の燕尾服の袖をぎゅっと握りしめた。
「ステイル、お願い……私を、もう二度と離さないで?」
その極上の甘い呪いのような一言を聞いた瞬間、ステイルの中で張り詰めていた糸が、ぷつんと音を立てて千切れた。
「あぁ……離さない、死んでも離さない……! 君のすべてを、私の愛で、私の名前で、今度こそ完全に塗り潰してやる……っ」
前世の記憶ごと彼女を奪い去るように、ステイルは夜が明けるまで、何度も何度もアヤナーラを激しく抱き続けた。
ー翌朝。
「……ステイル? まだ怒っているの?」
「怒ってはいない。……ただ、改めて思っただけだ。前世だろうが何だろうが、君の今の笑顔を創れるのは、私だけでいい」
ステイルは彼女を背後から包み込み、耳元で熱く囁いた。
「アルベルトは独身を貫くらしいが……勝手にすればいい。私は…君が、そして私の髪が白くなるまでずっと、私の名前だけを呼び続けるように仕向けるだけだ」
ステイルの独占欲は、もはや「破壊」ではなく、二人の未来を繋ぎ止めるための、強く熱い「楔」となっていた。
ーーーー
アルベルトが帰国する日の早朝。
馬車へ乗り込む直前、彼は何気なく、朝靄に包まれたヴァレンシュタット城の庭園から城の窓を見上げた。
その瞬間、アルベルトは息を呑み、目を見開いたままその場に硬直した。
城の最上階に近い、朝日の差し込む窓辺。
そこには――学生時代の、かつての自分の妻である「綾乃」の姿があった。
普段は決して掛けない、前世の彼女が愛用していたものと酷似した黒縁のメガネを掛け、誰かと心から楽しそうに笑い合っている。
視線を少しずらせば、彼女の背後から愛おしそうに抱きしめ、共にメガネを覗き込んで悪戯っぽく笑うステイルの姿があった。
(……あぁ、そうか。あの男、わざと綾乃にメガネを掛けさせて……私に見せつけているんだ。私の記憶を、存在を、自分の愛で完全に上書きしたのだと、誇示しているんだ……)
そのあまりにも残酷で、けれど幸せに満ちた光景に、アルベルトは胸を直接抉られたような激痛に襲われた。
必死に押し殺し、蓋をしてきたはずの「彰人」としての愛おしさと絶望が、雷に打たれたかのようになって全身を駆け巡る。
「う、……うおああああああああっ……!!」
アルベルトは、周囲の兵士たちが驚愕して駆け寄るのも構わず、頭を抱えてその場に崩れ落ち、うずくまった。
喉の奥から、獣のような悲痛な叫びが漏れ出す。
(なぜだ……なぜ、綾乃がここにいる……! なぜ、あのメガネを……!)
(私が……、私がアルベルトとして生きようと、必死になって堪えていたこの気持ちを、何故あの男は、こんなにも簡単に、残酷に暴こうとするんだ……!)
泥に塗れ、涙を流しながら、アルベルトは二度と届かない前世の妻の名前を、心の中で何度も、何度も叫び続けた。
(綾乃……。あぁ、綾乃……っ!)
アースパーニャへと走り出す馬車の窓から、アルベルトはもう一度だけ城を見上げた。
そこには、王の愛という名の最も甘く重い檻の中で、世界一幸せそうに笑う「アヤナーラ」の姿だけが、いつまでも美しく輝いていた。




