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番外編〈薔薇の刺(とげ)②――見えない壁と銀の王の焦燥――〉

あの日の激しい和解から、数日が過ぎた。


ステイルは誓い通り、公務の間も可能な限りアヤナーラの側にいた。だが、何かが決定的に違っていた。


「……アヤ、今日の午後は二人で庭園を散歩しないか? 君が好きな白薔薇が見頃だと聞いたんだ」


ステイルが背後から彼女の手を握り、期待を込めて覗き込む。以前なら「ええ、喜んで」と花が咲くような笑顔を見せてくれたはずだった。

しかし、アヤナーラは穏やかに微笑み、その手をそっと、けれど確実に引き抜いた。


「ありがとうございます、ステイル陛下。ですが、午後は孤児院への寄付に関する書類の整理があるのです。王妃としての務めを優先させていただいてもよろしいでしょうか」


「陛下……? アヤ、二人きりの時は名前でと……」


「公務の間は、立場を弁えるべきだと思い直しました。陛下にご迷惑をおかけするわけには参りませんから」


アヤナーラは完璧な淑女の礼をして、静かに部屋を出て行った。


残されたステイルは、自分の手が空を切った感触を呆然と見つめていた。


(……壁がある。アヤの周りに、透明で、決して壊せないほど強固な壁が……)


食事の時も、寝室で隣にいる時でさえ、アヤナーラはどこか他人行儀だった。 


「ステイル様が望まれるなら」「陛下のお心のままに」


彼女はステイルのすべてを肯定し、微笑みを絶やさない。だがそれは、ステイルが求めていた「甘え」や「嫉妬」を含んだ熱い感情ではなく、冷たく研ぎ澄まされた「完璧な王妃の仮面」だった。


「ユリウス……アヤが遠い。隣にいるのに、手が届かない場所にいるようだ。……あの日、私が彼女に『生きる意味を失わせた』せいか? 彼女は私に、もう心を預けてくれないのか……っ」


執務室で頭を抱えるステイルに、ユリウスは珍しく同情の混じった溜息をついた。


「……アヤナーラ様は、傷ついたんですよ。陛下を愛しすぎて、嫉妬してしまった自分を『王妃失格』だと思い詰め、二度とあんな思いをしないように心を閉ざしてしまったのかもしれません」


「……そんな、……私は、醜い嫉妬すら愛おしいと言ったのに……!」


ステイルは我慢できず、アヤナーラの私室へ走った。


ノックもせずに入ると、彼女は窓際で一人、静かに本を読んでいた。その横顔があまりに儚く、今にも消えてしまいそうで、ステイルは彼女を力任せに抱きしめた。


「アヤ! やめてくれ! そんなふうに、完璧な王妃になどならなくていい! 私を突き放さないでくれ、……名前を呼んでくれ、アヤ……っ!!」


ステイルの必死の叫びに、アヤナーラは一瞬だけ瞳を揺らした。だが、彼女が口にしたのは、ステイルの心を粉々に砕くほど残酷で優しい言葉だった。


「……陛下。私、決めたのです。もう二度と、あんな醜い感情であなたを困らせたりしないと。……ですから、どうぞ安心してください。私はずっと、あなたの隣で『正しい王妃』であり続けますから」


アヤナーラの瞳には、もう涙はなかった。

ただ、どこまでも透き通った絶望のような静寂が、ステイルとの間に横たわっていた。

 

ーーーー


(……あぁ、これでもう大丈夫。私はもう、ステイルを困らせることはない)


アヤナーラは鏡に向かって、何度も「完璧な王妃」の笑顔を練習していた。


あの夜、自分の中に渦巻いたドス黒い嫉妬。世界を壊したいと願った醜い情念。それを思い出すたびに、彼女は自分の心が汚れてしまったような気がして、吐き気がしたのだ。


(ステイルは、この国の太陽。私一人の感情で、その光を曇らせてはいけない。……私は、彼の隣にふさわしい、感情を持たない美しい人形になればいいの。そうすれば、もうあんなに胸が張り裂けそうな思いをしなくて済むのだから)


かつてのステイルのように、心に何重もの鍵をかけ、感情を氷の底に沈める。

そうして出来上がったのが、誰が見ても非の打ち所がない、けれど温もりの一切ない「冷たい微笑」だった。


ステイルがどれほど必死に愛を囁いても、彼女の耳には「役割への賞賛」としてしか届かない。彼女の心は、自分を傷つけないための深いまゆの中に閉じこもってしまっていた。


ーーーー


そんなある日、公務で登城していた兄のジュリアーノが、廊下でアヤナーラとすれ違った。


「やあ、アヤナーラ。元気にして……」


呼びかけたジュリアーノの言葉が、凍りついたように止まった。


目の前にいる妹は、いつものように優雅に微笑み、「お久しぶりです、お兄様」と完璧な挨拶を返した。だが、その瞳には光がなく、貼り付けたような笑顔は、まるで精巧に作られた死者の仮面のようだった。


「……アヤナーラ、その顔は……どうしたんだ」


「何のことでしょう? 私はいたって健やかですよ。王妃としての公務も、順調にこなしております」


アヤナーラが去った後、ジュリアーノは怒りで拳を震わせた。


あの馬鹿国王!私の大切な妹に一体何をしたのだっ!


ジュリアーノはそのままステイルの執務室へ怒鳴り込んだ。


「ステイル!! 貴様、アヤナーラに何をした!そして何を強いた!」


書類を捌いていたステイルが顔を上げる。その顔もまた、後悔と焦燥で見る影もなくやつれていた。


「……ジュリアーノ。私は、何も……」


「白々しい! 今のアヤナーラを見たか? あの子は笑っていない! 心を殺して、ただの置物のような顔をして城を歩いている! あんなのはアヤナーラじゃない!」


ジュリアーノは机を叩き、ステイルの胸ぐらを掴み上げた。


「……あの子を幽閉していた時よりも、今のほうがよっぽど酷い状態だ。お前はアヤナーラの心を破壊したのか!? ――今すぐアヤナーラを実家へ連れ戻す。これ以上、あの子をこの(じごく)に置いておくわけにはいかない!」


「待て、それは……! 私はアヤを愛している! 失うことなどできない!」


「愛だと!? 自分の独占欲で妹の心を壊しておいて、よくそんなことが言えたな! 今日限りでアヤナーラをサヴォイアへ返してもらう。これは決定事項だ!」


義兄の激しい怒号を浴びながら、ステイルはただ絶望に染まった瞳で立ち尽くすしかなかった。今の自分には、彼女を連れ戻そうとするジュリアーノを止める「言葉」も「資格」もないことを、誰よりも自分自身が理解していた。


サヴォイア公爵邸の庭園。かつてアヤナーラが風に笑い、花と語らっていた場所には、いまや重苦しい沈黙だけが流れていた。


アヤナーラは、窓際で椅子に座り、ただじっと外を見つめている。


「……母上。お花を摘んできましたよ」


シリウスが小さな手で差し出した花を、アヤナーラは受け取り、穏やかに微笑む。


「ありがとう、シリウス。とても綺麗ね」


だが、その瞳には何の色彩も宿っていない。シリウスは、大好きな母の目が少しも笑っていないことに気づき、小さく唇を噛んだ。子供の純粋な心は、母がどこか遠い場所へ行ってしまったことを敏感に察していた。


その頃、サヴォイア邸の門前には、またしても一人の男が立っていた。


かつての気品あふれる面影を失い、頬は痩せこけ、瞳に絶望を湛えた国王ステイルである。


彼は王としての威厳もプライドも捨て、門を固める兵士たちの前で、そして冷たく見下ろす公爵とジュリアーノの前で、何度も何度も頭を下げた。


「……お願いだ、会わせてくれ。ひと目だけでいい、アヤの声を聞かせてほしい……っ。私は、彼女なしでは……死んでしまうんだ……」


「死ねばいいだろう。……君が死んだところで、アヤナーラの心は戻ってこない」


ジュリアーノの言葉は、氷の刃のようにステイルの胸に突き刺さる。


「陛下。……今回ばかりは、私もあなたを許せません」


いつもは穏やかな義母までもが、静かな、けれど拒絶に満ちた声を出す。


「娘をあんな人形のような姿に変えておいて、まだ何を求めるのです? あなたの愛は、あの子にとっては毒でしかなかったのですよ」


「……毒……。私の、愛が……」


ステイルはその場に崩れ落ちた。

自らの狂おしいほどの執着が、彼女を救うどころか、彼女の精神を内側から腐らせていた。自分が「愛」と呼んでいたものは、ただ彼女を閉じ込め、窒息させるための檻でしかなかったのだ。


ステイルは震える手で地面を掴み、泥に汚れながらも、ただアヤナーラがいるはずの窓を見上げて、掠れた声で彼女の名を呼び続けた。


「アヤ……アヤ……。すまない、私が……私がすべて、間違っていたんだ……っ」


実家という安全な檻の中に逃げ込んだアヤナーラと、その外で自らを断罪し続け、窶れ果てていく銀の王。


二人の間に横たわる「心の壁」は、物理的な距離よりもずっと深く、暗い溝となって広がっていた。



「やあ、アヤナーラ。今日も公爵邸の庭は綺麗だね。……あ、そのクッキー、一枚もらってもいいかな?」


ルカヌスは、サヴォイア家から許可をもらい、ステイルのような悲壮感を一切見せず、ただの義弟として毎日アヤナーラの隣に座り続けた。


ステイルの話題は出さない。ただ、最近城であった面白い失敗談や、ルカヌスが騎士団で困っていることなどを、穏やかに、陽気に話し続けた。


アヤナーラの「人形の仮面」が、ルカヌスの屈託のない笑い声に触れて、少しずつ、少しずつほころんでいく。


そして、ある日の夕暮れ。


ルカヌスがふと、「……兄上はね、今、執務室で君の脱ぎ捨てた手袋を握りしめて泣いているよ」と、冗談めかして、けれど寂しそうに零した時だった。


アヤナーラの瞳に、久しぶりに微かな光が揺れた。


「……ルカヌス様。私、……怖いんです」


震える声で、アヤナーラはようやく心の奥底に沈めていた言葉を溢れさせた。


「ステイルを愛しすぎて、彼が他の誰かに微笑むだけで、世界中を呪いたくなる自分が……。あんなに醜い心を持っているのに、聖母のような顔をして隣に座り続けるのが、耐えられなかった」


アヤナーラは自分の胸元を強く握りしめ、涙を堪えるように視線を落とす。


「私がステイルの隣にいれば、いつか私の独占欲が彼を壊してしまう。……彼を愛すれば愛するほど、私は自分を嫌いになって、息ができなくなるんです。だから、心を殺すしかなかった。……ステイルを愛さない自分になれば、もう誰も…私も傷つかなくて済むと思ったから……」


それは、ステイルへの拒絶ではなく、「ステイルを愛しすぎる自分」への恐怖と絶望だった。


ルカヌスは、初めて聞いたアヤナーラの本心に、胸を突かれた。


兄も兄なら、この王妃も、あまりにも愛が深すぎて、自分自身を焼き尽くそうとしていたのだ。


「……アヤナーラ。君も、兄上と同じなんだね。……二人とも、相手を想う力が強すぎて、自分たちを壊しているんだ」


ルカヌスは優しくアヤナーラの手に自分の手を重ねた。


「ねえ、アヤナーラ。一度、兄上にその『醜い心』を全部ぶつけてみたらどうだい? ……あの兄なら、きっと君のその真っ黒な独占欲さえ、この世で最も尊い宝物として飲み込んでしまうはずだよ。……だけど、覚えておいて?前にも兄上が嫌なら僕にすれば良いと言ったよね?そんなに辛いならやめてもいいんだよ?離れた方が幸せになるのなら、今度は僕が君を幸せする準備はいつだって出来ているんだからね?」


ルカヌスの言葉に、アヤナーラは息を呑んで彼を見つめた。


冗談めかした口調ではなかった。その瞳には、学生の頃からずっと、兄の陰で彼女を見守り続けてきた男の、静かで揺るぎない覚悟が宿っていた。


「ルカヌス様……」


「……兄上を愛しすぎて壊れるのが怖いなら、僕が君のすべてを引き受けるよ。兄上のように君を縛ったりはしない。ただ、君が君のままでいられる場所を、僕が作るから」


ルカヌスはそう言って、優しく、けれど拒絶を許さない強さでアヤナーラの指先に触れた。


アヤナーラの心は、ステイル以外の「逃げ場」を提示され、激しく惑う。


(ステイル様を愛する苦しみから、解放してくれる……? でも、それは……)


一方、ユリウスからアヤナーラの「本心」と「ルカヌスの宣戦布告」の報告を聞いたステイルは、もはや理性の限界だった。


「……あいつが、アヤにまたそんなことを……。そしてアヤは、自分を醜いと思って苦しんでいたのか……」


窶れ、死人のようだったステイルの瞳に、暗い、ドロリとした光が戻る。


彼はその夜、サヴォイア邸の門を魔力を暴走させて突破した。


「アヤ……アヤ……っ!!」


制止する公爵やジュリアーノを振り切り、ステイルはアヤナーラの部屋へ突撃する。そこには、ルカヌスと二人きりでいたアヤナーラがいた。


「兄上。……流石に無作法ですよ」


ルカヌスがアヤナーラを庇うように前に立つ。


その姿を見た瞬間、ステイルの独占欲が爆発した。


「どけ、ルカヌス! ……アヤ、君は、自分の心が醜いから私を避けていたのか? 嫉妬で世界を壊したいほど、私を愛してくれているから、消えたいと思ったのか……っ!」


ステイルはルカヌスを突き飛ばし、アヤナーラの足元に崩れ落ちるように跪いた。


「……そんなもの、醜いものか! 君が、君以外の女を殺したいと願うなら、私がこの手で殺してやろう。君が私の視界を君だけで埋め尽くしたいなら、私は自ら両目を潰して、君の姿だけを脳裏に焼き付けて生きよう! 醜さ? 汚れ? ――馬鹿なことを言わないでくれ。私にとっては、君のその独占欲こそが、最高に甘美な愛の証なんだ……っ!!」


ステイルはアヤナーラの手を強引に引き寄せ、自らの頬に押し当てた。


「私を壊したければ、壊せばいい。君の嫉妬で私を窒息させてくれ。……お願いだ、アヤ。ルカヌスのところへなんて行かないでくれ。君に嫌われるより、君に監禁される方が、私は何万倍も幸せなんだ……っ!」


なりふり構わず、弟の前で醜態を晒しながらも、アヤナーラへの「異常なまでの肯定」を叫ぶステイル。


その狂気的な愛の告白を前にして、アヤナーラの「氷の仮面」が、ついに大きな音を立てて砕け散った。


アヤナーラは一筋の涙を流した。


ステイルのその手を取りたい。

でもまた傷つくのが怖い。

ステイルに触れようとした手をまた引っ込める。


あの夜の光景を今でもはっきり覚えている。


他の女性に気がある素振りをしたステイルを見ていられなかった。

自分にだけ向けられると信じていた愛を他国の王女に向けられている恐ろしさ、それを思い出した瞬間またも心が崩壊するかのように涙が溢れ出した。


「……怖い………怖い………ステイルが…他の女性と話すだけで……またあの愛がこもった顔で他の女性を見るなんて………怖くてたまらない……。こんな私はもう嫌……。」と泣き震えながら本心を話すアヤナーラ。


「……アヤ…君をこんなにも傷つけてしまっていたなんて……本当にすまない。だが………私はアヤ。君だけしかいらない。他の女など知らない、要らない!君を失った時は、私はこの世から去るだろう。……だが、私と離れることで君は幸せになれるのか?ルカヌスや、彰人のところに行けば君は幸せになれるのか?私は君以外との幸せなど要らない。君を失いたくない。お願いだ…。戻って来てくれ………」


「……ステイルが、……私の、ステイルが……」


アヤナーラは溢れる涙を止めることもできず、震える指先でステイルのやつれた頬に触れた。あの夜、一晩中扉の前で泣き明かし、自分を追いかけてボロボロになったこの男は、今、確かに自分だけを見ている。


「幸せになれるかなんて、わからない……。ステイルがいない世界で、私が笑えるはずなんて……ないのに……っ!」


アヤナーラは、一度引っ込めた手を、今度はステイルの首に回してしがみついた。


ステイルは、壊れ物を扱うような慎重さと、決して逃がさないという狂気的な力強さで、彼女を抱き返した。


「……あぁ、アヤ。そう言ってくれるのを待っていた……! 怖がらせていい、私を縛っていい。君が不安になるなら、私は二度と夜会になど出ない。他国の王女だろうが誰だろうが、君以外の存在をこの世界から消し去ってもいい……っ!」


ステイルはアヤナーラの髪に顔を埋め、むせび泣きながら誓いを立てる。


「君を失うくらいなら、私は王ですらなくなる。……ただ、君を愛するためだけに生きる、君だけの『犬』になろう。だから、……私を捨てないでくれ。私を、君の愛という名の檻の中に一生閉じ込めておいてくれ……」


傍らでその光景を見ていたルカヌスは、静かに拳を握り、そして、ゆっくりと解いた。


兄のその「狂気」に近い愛の深さを前にしては、自分の「穏やかな幸せ」の提案など、今の彼女には届かないことを悟ったのだ。


「……負けだよ、兄上。……アヤナーラ。君も、結局は兄上のその重すぎる鎖がなければ、息もできないんだね」


ルカヌスは寂しげに、けれど吹っ切れたような微笑みを浮かべて部屋を後にした。


残された二人は、サヴォイア邸の静寂の中で、互いの体温と涙を確かめ合うように、いつまでも、いつまでも抱き合い続けた。


「……愛している、アヤ。愛している。二度と、君を一人にはしない……」


アヤナーラの「怖い」という本心を受け止め、それを「愛の鎖」に変えて結び直したステイル。二人の絆は、以前よりもずっといびつで、けれど誰にも入り込めないほど強固な共依存へと完成されていった。


アヤナーラとの和解を遂げた翌朝。ステイルは、サヴォイア公爵とジュリアーノが待ち構える大広間へと向かった。


そこには、娘を壊した男を二度と許すまいと、氷のような殺気を放つ義父と義兄が立っていた。ステイルが口を開くより先に、ジュリアーノの冷徹な声が響く。


「……アヤナーラと話したようだな。だが、それで許されたと思うな。あの子は優しすぎるから君を受け入れただけだ。我々は、君をアヤナーラの隣に置くことなど断じて認めない」


「そうだ。ステイル。貴殿の『愛』は暴力的だ。娘をまたあんな人形に変えるつもりなら、今ここで私が貴殿を斬り、刺し違えてでもアヤナーラを奪い返す」


父が剣の柄に手をかけたその瞬間。


ステイルは、無言のままその場に崩れ落ちるように膝をつき、冷たい大理石の床に額を擦り付けた。


「……ステイル!?」


驚愕に目を見開く二人をよそに、ステイルは地を這うような声で紡いだ。


「……謝罪の言葉など、何の価値もないことは分かっている。私は、私の独占欲と浅はかな嫉妬で、世界で一番大切な人を死の淵まで追い詰めた。……私は、王としても、夫としても、人としても……死してなお余りある罪を犯した」


ステイルは顔を上げると、自らの胸元から一本の短剣を取り出し、迷うことなく左の手のひらを切り裂いた。溢れ出した鮮血が床を汚すが、彼は眉一つ動かさない。


「これは、私自身の血に誓う『呪約』だ。……もし、今後一秒でもアヤナーラを不安にさせ、彼女の瞳から光を奪うようなことがあれば、この命を即座にサヴォイアに捧げよう。……私は二度と、彼女以外の女を視界に入れない。公務であっても、彼女が望まぬ接触は一切断つ。……この国の王である前に、私はアヤナーラを愛するためだけに存在する影となることを、ここに誓う……っ!」


ステイルの瞳には、かつてないほど鋭く、そして狂気的なまでに澄んだ「覚悟」が宿っていた。


「……アヤナーラが、私の隣で笑えないのなら、この国など滅びて構わない。……お義父上、義兄上。……どうか、もう一度だけ……アヤナーラの側にいることを許してほしい。彼女なしでは、私は一分一秒たりとも、正気でいられないんだ……!」


その、なりふり構わぬ必死さと、血の誓約の重さに、公爵とジュリアーノは言葉を失った。


「……フン、狂っているな。王がそこまで自分を捨てて、一人の女に執着するなど」


ジュリアーノは忌々しそうに、けれどステイルの「本気」を認めざるを得ないように視線を逸らした。


「……ステイル。その誓い、違えば次は容赦せん。……アヤナーラを連れて行け。そして、二度と娘を泣かせるな」


公爵が静かに道を開けた。


ステイルは傷ついた手で、けれど力強く、背後で見守っていたアヤナーラの手を握りしめた。


「……あぁ。……誓おう。私の命の最後の一滴まで、アヤナーラを愛し抜くことを」


こうして、銀の王は正式にサヴォイア家からアヤナーラを「奪い返し」、より重く、より深い愛の鎖で結ばれた二人は、再び城へと戻っていくのだった。



城に戻った翌朝。執務室の光景は、側近のユリウスに「もはや別の意味で国家の危機だ」と言わしめるものになっていた。


「……陛下。その、アヤナーラ様を膝に乗せたまま、左手で私の首を絞めるような殺気を放ちながら署名するのはやめていただけませんか」


ステイルはアヤナーラを自分の膝の上にがっちりと固定し、彼女の細い腰に腕を回したまま、一切離そうとしない。


「うるさい。アヤが視界から一秒でも消えれば、私の集中力は霧散する。……それからユリウス、君はさっきからアヤと三回も目を合わせたな? 次回からは、目隠しをして報告に来い」


「無茶を言わないでください」


「ふふ、ステイル様。ユリウス様が困っていらっしゃいますよ」


アヤナーラが苦笑してステイルの頬を撫でると、彼はとろけるような、それでいて執着に満ちた瞳で彼女を見つめ返した。


「アヤ……君がそうして私を宥めるのも、実は私以外の男に慈悲を見せているのではないかと不安になるんだ。……あぁ、やはり今日の公務はすべて中止だ。君を地下の宝物庫の奥深くに隠して、私だけが君を眺めていられるようにしたい……!」


「……兄上、本音が漏れすぎていて気持ち悪いですよ」


呆れ顔で入ってきたルカヌスが、アヤナーラに焼きたてのクッキーを差し出そうとする。だが、その手はステイルの鋭い視線によって空中で止められた。


「ルカヌス。そのクッキーをアヤの口に運ぼうとしたら、その腕を三日三晩、騎士団の訓練用ダミーに固定してやる。……アヤに食べさせていいのは、私だけだ」


ステイルはルカヌスから皿を奪い取ると、敬虔な信者が祈りを捧げるような手つきで、クッキーをアヤナーラの口元へ運んだ。


「さあ、アヤ。『あーん』だ。君の栄養は、すべて私の手から摂取してほしい。君の体を作るすべてが、私の愛の結果であってほしいんだ……」


「……もう、ステイル様ったら」


アヤナーラは困り果てた顔をしながらも、以前のような冷たい微笑みではなく、心からの柔らかな笑顔でそれを受け入れた。彼女もまた、あの別れの危機を経て、ステイルの「異常なまでの重さ」がなければ、自分の心も満たされないことを自覚してしまったのだ。


「……あぁ、食べた……! 尊い……、アヤ、君が咀嚼する音すら、私にとっては至高の音楽だ。……ユリウス! 今の音を記録しておけ!」


「……お帰りください、陛下。……ルカヌス様、今夜は多めに胃薬をいただけませんか。この『甘すぎる地獄』は、一生続きそうですから……」


ユリウスとルカヌスが天を仰ぐ横で、ステイルはアヤナーラの髪に顔を埋め、深く、深く、彼女の香りを吸い込んだ。


「愛しているよ、アヤ。……二度と、私の鎖から逃げられると思わないでくれ。君の幸せは、私の腕の中だけにしかないのだから……っ」

アヤナーラの耳元で、甘い呪いのように囁き続けるステイル。


それは、かつて彼女が「怖い」と泣いた重さ。けれど今のアヤナーラにとっては、世界で一番温かくて、絶対に外したくない愛の鎖なのだった。


アヤナーラが城に戻ってからというもの、ステイルの粘着度は増すばかりだったが、そこに思わぬ伏兵が立ちはだかった。


「……母上、本を読んでください」


執務室でアヤナーラを膝に乗せていたステイルの前に、幼いシリウスが絵本を抱えて現れた。


ステイルは眉をひそめ、息子を牽制けんせいするようにアヤナーラの腰を抱きしめる。


「シリウス。母上は今、私と一緒に公務中だ。向こうでルカヌスに遊んでもらいなさい」


「嫌です。母上は、私だけの母上です。……ねえ、母上?」


シリウスは潤んだ瞳でアヤナーラを見つめ、あざといほど可愛らしく首を傾げた。その瞳はステイルにそっくりだが、そこにはステイル以上の「計算高さ」が光っている。


「ふふ、いいわよ。シリウス、こっちにおいで」


「アヤ!? ダメだ、午後の分の『アヤナーラ成分』がまだ足りていな……」


ステイルの制止も虚しく、アヤナーラはステイルの膝から降りて、シリウスを隣のソファへと誘った。シリウスはアヤナーラの膝にちゃっかりと収まり、その細い首に腕を回して密着する。


そして、アヤナーラから見えない位置で、シリウスは父であるステイルに向かって、「ニヤリ」と勝ち誇ったような、冷徹な笑みを浮かべてみせた。


「……っ!! あ、あいつ、今私を笑ったな!? アヤ、見たか? 今、シリウスが私のことを笑ったんだぞ!」


「あら、そんなわけないでしょう? シリウスはこんなに可愛いんですもの。……さあ、シリウス。読みましょうね」


アヤナーラがシリウスの頭を優しく撫でると、シリウスは「えへへ」と可愛らしく甘えながら、さらにアヤナーラの胸に顔を埋めた。その背後で、ステイルへの挑発として、アヤナーラの服の袖をギュッと握りしめて「自分のもの」だと主張する。


「おのれ……シリウス……! 我が息子ながら、なんという卑怯な手を……! ユリウス! 今すぐこいつを騎士団の訓練場へ連れて行け! 母親離れをさせるんだ!」


「無理ですよ。……というか、陛下。息子相手に本気で嫉妬して、顔を真っ赤にするのはやめてください。見苦しいです」


ユリウスの冷たいツッコミを無視して、ステイルはアヤナーラとシリウスの間に割り込もうと必死だ。


「シリウス、そこは私の特等席だ! 代われ! さもなくば、明日のおやつを禁止……」


「ステイル様? 子供相手に何を仰っているのかしら」


アヤナーラの冷ややかな視線が突き刺さり、ステイルは「……っ、す、すまない……」とその場に膝をついた。


膝の上でアヤナーラに甘えるシリウス。それを見上げながら、ステイルは激しい敗北感と、自分に似すぎてしまった息子の将来に、別の意味で恐ろしさを感じるのだった。


(……あいつ、アヤの『落とし方』を完全に熟知している……! 私の最大のライバルは、隣国の王子でも彰人でもなく、血を分けたこの息子だったのか……!)


サヴォイアでの嵐が去った後、城には「重すぎる父」と「策士な息子」による、アヤナーラ争奪戦という名の新たな戦火が切って落とされたのだった。




「もう、二人ともいい加減にしてください」


ステイルとシリウスが、アヤナーラの左右で「私の席だっ!」「いや私の場所ですっ!」と火花を散らしていると、アヤナーラは困ったように笑いながら、二人をまとめて腕の中に引き寄せた。


「ひっ……! アヤ!?」「わっ、母上……!」


突然のことに驚く二人を、アヤナーラは力強く、慈しむようにぎゅっと抱きしめる。


「ステイル様は私の大切な夫で、シリウスは私の愛しい息子。二人とも同じくらい、私にとってはかけがえのない宝物なのですよ? そんなに喧嘩ばかりしていると、私、悲しくなってしまいます」


アヤナーラの柔らかな温もりと、優しい声。


その「無敵の愛」に包まれた瞬間、ステイルの嫉妬もシリウスの挑発も、魔法が解けたように消え去ってしまった。


「……すまない、アヤ。君を困らせるつもりはなかったんだ。ただ、君が……あまりに愛おしいから……」


ステイルはアヤナーラの肩に顔を埋め、先ほどまでの刺々しさが嘘のように、甘えるような吐息を漏らす。


「……私も、ごめんなさい。母上。」


シリウスも、ステイルに負けじとアヤナーラの胸に顔を擦り寄せ、満足そうに瞳を閉じた。


二人の「重すぎる愛」を一身に受け止めながら、アヤナーラは満足そうに微笑み、二人の頭を交互に撫でる。


「ふふ、仲良しですね。……今夜は三人で一緒に眠りましょうか」


「「……!!」」


ステイルとシリウスが同時に顔を輝かせたが、すぐに火花が散る。


((……"母上""アヤ"の隣は、絶対に譲らないっ……!))


その様子を遠巻きに眺めていたユリウスは、呆れたように、けれどどこか安心したように肩をすくめた。


「……結局、あの親子を一番手のひらで転がしているのは、アヤナーラ様なんですよね」


「本当だね。兄上なんて、もう完全に骨抜きだ」


ルカヌスも笑いながら、幸せそうな家族の肖像を眺めていた。


ステイルの重すぎる愛も、シリウスの幼い独占欲も、すべてはアヤナーラという大きな愛の海に溶けていく。


城の執務室には、窓から差し込む夕日に照らされて、世界で一番甘くて騒がしい「幸せな戦場」の時間が、穏やかに流れていくのだった。


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