番外編〈薔薇の刺(とげ)①――銀の王の平伏――〉
国王となったステイルは、その理知的で気品あふれる容姿から、他国の令嬢たちの憧れの的となっていた。本人はアヤナーラ以外にこれっぽっちも興味がないのだが、立場上、公務で彼女たちに囲まれることは避けられない。
それは何度も、アヤナーラの目に留まっていた。
その日の夜会でも、ステイルは他国の王女に熱烈な視線を向けられ、言葉を交わしていた。
傍目には、ステイルがその会話を心から楽しんでいるようにさえ見えていた。
そう、それは誰が見てもステイルとその王女がお互いに想い合っていると思うほどに…
一方、アヤナーラの元にも、ステイルのいない隙を突いて多くの王子や貴族たちが押し寄せていた。アヤナーラはいつもの完璧な微笑みで、淑女としての挨拶をこなしていた。
……だが、ステイルは内心、狂おしいほどの嫉妬に焼かれていた。
(……あんな男たちの言葉に、なぜ微笑んでやるんだ……!)
その苛立ちを隠し、王妃としての彼女を男たちから逸らすために、彼はあえて目の前の王女との話を盛り上げ、こちらも気があるような素振りをし、アヤナーラを牽制するような「余裕」を見せてしまったのだ。
「……やっと戻れた。あんな退屈な会話、一秒でも早く切り上げたかったよ、アヤ」
ようやく男たちを追い払い、アヤナーラの腰を抱き寄せたステイル。だが、彼の期待した「お疲れ様」という言葉は返ってこなかった。
返ってきたのは、かつて経験したことのないほど「冷ややかな微笑」だった。
「あら。退屈だなんて。……あの王女様、ステイル陛下のお話をされている時、とても楽しそうに頬を染めていらっしゃいましたわ。そして、陛下、あなたも。お二人が想い合っているようでとてもお似合いでしたよ。」
「……え?」
「私のような地味な女より、あのように若々しく華やかな方とご一緒の方が、陛下にとってもよろしいのではないかしら?」
アヤナーラは、ステイルの手をそっと、けれど拒絶するように払い除けると、完璧な社交用の礼をして背を向けた。
「私は一通りご挨拶は終わりましたから、私は一足先に失礼いたします。……今夜は、一人で休みたい気分ですので」
ステイルの思考が停止した。
アヤナーラが、怒っている? 以前のような「お仕置き」ではなく、明らかに瞳の奥が凍りついている。
「ま、待ってくれ! アヤ! 私はあの方の名前すら覚えていないんだ!」
ステイルが慌てて追いかけようとしたが、その行く手をユリウスが(わざとらしく)書類を抱えて遮った。
「陛下、あなたはまだ挨拶が終わっていませんよ。……おやおや、王妃様に呆れられてしまったのですか?」
「ユリウス、どけ! 今すぐ追いかけないと、私は一生を後悔することになる!」
「無理ですね。公務です。兄上。先程見てましたがあれはやりすぎです。兄上に本当は一切の気がないにしろ、相手は元々兄上に気があり、その上でああいった素振りをされたら、義姉上も怒って当然ですよ。あれは兄上にも気があるようにしか見えませんでした。義姉上は……相当に『嫉妬』もされてます。兄上もかつて彼女をさんざん嫉妬してきたのですから、これも因果応報でしょう」
後ろから現れたルカヌスが、眉間に皺を寄せながらワインを口にした。
その夜、ステイルは絶望に打ちひしがれながら、深夜まで公務をこなした。
ようやく解放され、寝室の扉の前でステイルは震えていた。
「……アヤ、入ってもいいだろうか」
「嫌です。入ってこないでください。もう私は必要ないと思いますので。明日には出て行きます。あの王女様とどうぞお幸せに。シリウスは王子なので私にはついていけない事はわかっております。ですから、シリウスに寂しい思いはさせないでくださいね。王女様と共にたくさん愛してあげてください。」
「…っ!アヤっ?アヤ!開けてくれ!私が悪かった!お願いだ…!」
王妃の私室の前で人目も憚らず泣きながら許しを乞う国王。
「嫌です。入ってこないでください。明日には出て行きますから。離縁状も書きましたので。あの王女様とどうぞお幸せに」
その一言が、ステイルの脳内で爆音と共に弾けた。
「……え? ……り…離縁状………?アヤ、今、何と言った……?」
あまりの恐怖にステイルの指先が氷のように冷たくなる。自分から彼女を奪おうとする者はすべて排除してきたが、まさか「彼女自身」の手で自分との世界を終わらせようとされるとは、想像すらしていなかった。
「……っ! アヤ! アヤ! 開けてくれ! 私が悪かった、私が愚かだったんだ! お願いだ、そんな恐ろしいことを言わないでくれ……!」
王妃の私室の前。本来なら威厳を保つべき国王が、人目も憚らず扉に縋り付き、子供のように泣きながら許しを乞う。その姿は、通りかかった侍女たちが目を逸らすほどに惨めなものだった。
「アヤ……! 私から君を奪わないでくれ! 嫌だ、離さない、絶対に離さないっ! 君がここを出ていくというなら、私はこの扉の前で死んでやる! 君を失うくらいなら、この国も、この命も、私には何の価値もないんだ……っ!」
それでも返答はない。
ステイルは扉を叩くのをやめ、ズルズルとその場に崩れ落ちた。
扉の向こうでは、アヤナーラがベッドの上で膝を抱え、震える唇を噛み締めていた。
(……嘘よ。あんなに楽しそうに笑っていたくせに。どうしてそんなに必死な声で泣くの……? 私をこんなに苦しめるくせに……)
彼女の胸に渦巻くのは、自分でも制御できないほど黒く濁った独占欲。
「ステイルが私以外の女の人に気があるくらいなら、いっそ、あの方の目に見える世界なんて壊れてしまえばいいのに」と思わず呟いていた。そんな自分への自己嫌悪を感じ、はあと溜息をついた。
「……アヤ……。頼む、声を聞かせてくれ……。私を見捨てないでくれ……アヤ……アヤ……っ! お願いだ、開けてくれ……!」
その夜、王宮の回廊には、聞く者の胸を締め付けるような悲痛な叫びが、夜通し響き渡っていた。
ステイルは、閉ざされた扉に額を押し当て、時折狂ったように拳で扉を叩いては、その場に崩れ落ちることを繰り返した。
「……出ていくなんて言わないでくれ……。あんな王女なんてどうでもいいんだ。私は、君がいなければ……君のいない明日なんて、私には……っ」
大声を上げて泣きじゃくり、呼吸を乱しながら彼女の名前を呼び続ける。銀縁のメガネは涙で汚れ、床に投げ捨てられていた。
護衛の近衛騎士たちも、そのあまりに惨めな国王の姿に、言葉を失って少し遠くから見守るしかなかった。
ルカヌスは遠くからその姿を見て「兄上今回はやり過ぎたから一晩反省したらいいよ。僕がアヤナーラをもらってもいいんだよ?」と呟いていた。
深夜。静まり返った城内で、ステイルは扉の前にうずくまり、子供のように膝を抱えて震えていた。
「……アヤ……、……アヤ……」
もはや声は枯れ、掠れた呟きが時折漏れるだけ。だが彼は一歩もその場を動かず、ただ扉の向こうの気配を求め、冷たい床の上で一晩中、彼女の慈悲を待ち続けた。
――そして、翌朝。
差し込む朝日の光が、廊下を白く照らし始めた頃。
カチャリ、と小さな、けれど決定的な音が、ステイルの耳に届いた。
重い瞼を上げたステイルの目の前で、ゆっくりと扉が開く。
そこに立っていたのは、ステイルと同じように一睡もできず、泣き腫らし青白い顔をしたアヤナーラだった。
「……アヤ……」
一晩中泣き明かしたステイルの瞳は赤く腫れ上がり、美しかった銀髪は乱れ、燕尾服は無惨にシワが寄っている。
アヤナーラを見た瞬間、ステイルは弾かれたように立ち上がり、扉を押し開けて部屋へと雪崩れ込んだ。
「……アヤ、……あ、ああ……! 捨てないでくれ……。私を、まだ見捨てないでくれ……っ」
ステイルは彼女が何かを言いかけるよりも早く、その細い体を壊れんばかりの力で抱き締めた。あまりの勢いに二人はよろめき、そのまま床に膝をつく。
「……離さない。死んでも離さない……! 出ていくなど、二度と言わないでくれ! 君がいない世界など、私にとっては地獄と同じだ!」
ステイルはアヤナーラの腰にしがみつき、その胸に顔を埋めて、嗚咽を漏らしながら何度も繰り返した。
「私が悪かった……! 君を不安にさせた、あの女に一瞬でも視線を向けた私の目は、潰してしまってもいい! 君以外の女を私の瞳に映したことが、これほどまでに罪深いことだとは……っ」
ステイルは顔を上げると、アヤナーラの手を両手で包み込み、縋るように見上げた。
泣き腫らし縋る姿は、国王としての威厳など微塵も残っていない。そこにあるのは、ただ一人の女性の愛を失うことに怯え、魂を削っている一人の男の姿だけだった。
「……アヤ。私を罰してくれ。君の手で私を縛って、二度と君の視界から出られないようにしてくれ……。君の許可なく呼吸をすることさえ許さないと言ってくれ! そうすれば、私はようやく安心できる……」
ステイルはアヤナーラの足元に額を擦り付けるようにして平伏した。
「私は君だけのものだ、アヤ。君を泣かせるような私など、君の手で……君の手で壊してしまえばいいんだ……っ」
狂おしいほどの情念がこもったステイルの言葉に、アヤナーラは彼を拒絶する力が抜けていくのを感じた。
目の前で自分に平伏し、全てを捧げると泣き喚くこの「銀の王」を、やはり自分は手放すことができない。
……でも……
「……ステイル……」
アヤナーラは震える手で、ステイルの乱れた銀髪をそっと、包み込むように撫でた。
「ステイルが私以外の女の人に気があるくらいなら、いっそ、ステイルの目に見える世界なんて壊れてしまえばいいのに……と思ってしまったくらい、悲しくて、辛くて……。私は息をするのも嫌になりました。もうあなたの前から消えてしまいたい…何度もそう思いました。こんな世界になんて生きていたくない…ステイルが私のそばにいないなら、私の生きる意味はもうありません……。ですから、私は出て行きます。……今までありがとうございました。」
一滴、また一滴とアヤナーラの目から溢れる涙が、ステイルの頬を濡らす。
その告白は、どんな刃よりも深く、ステイルの胸を切り裂いた。
「……っ、そこまで考えていたのか……。アヤ、すまない……っ! 私は……君が色んな男に言い寄られているのを見て、どうしても、どうしてもこちらに気を引かせたかったんだ。あんな女との話など切り捨ててでも、すぐに君の元へ行けばよかったのに……。私はなんと、なんと愚かなのだ……!お願いだっ!………出て行くなどと言わないでくれっ……!」
ステイルは自らの行いが招いた結果の重さに、声が枯れるほどに咽び泣いた。
自分が嫉妬を隠そうとして取った浅はかな行動が、最愛の女性から「生きる意味」すら奪いかけていた。彼女を幸せにするために捧げたはずのこの命が、逆に彼女を死の淵まで追い詰めていた事実に、ステイルは激しい自己嫌悪に陥り、彼女の膝に顔を埋めて震えた。
「許してくれなんて言えない。……だがアヤ、お願いだ。消えるなんて言わないでくれ。君のいない世界など、私にとってはただの虚無だ。君がいなくなれば、私はその瞬間に自ら命を絶つだろう。私の心臓は、君のためにだけ動いているのだから……!」
ステイルはアヤナーラの細い腰に腕を回し、二度と離さないという誓いを込めて強く抱きしめた。
「君を不安にさせるもの、君を悲しませるもの……それが私自身であるならば、私は私を許さない。これからは、公務も、国も、何一つ君より優先させることはしない。君の視界から私が消える不安を、一秒たりとも抱かせないと誓う。だから……側にいてくれ、アヤ……っ」
アヤナーラの涙をステイルが唇で優しく拭い去り、二人は静かに、互いの体温を確かめるように抱き合った。
一晩中吹き荒れた絶望の嵐が去り、寝室にはただ、互いなしでは生きていけない二人の、重く切ない愛の余韻だけが満ちていた。
昨夜の凄絶な和解から一夜明け、城内にはようやく平穏が戻ったように見えた。
「……ステイル。もう、お仕事へ行くお時間ですよ?」
アヤナーラが困ったように微笑みながら、自分の背中にぴったりと張り付いている「国王」に声をかける。
ステイルはアヤナーラの腰に両腕を回し、首筋に鼻を押し当てたまま、一ミリも動こうとしない。
「嫌だ。今日は行かない。いや、一生行かない。君を一瞬でも一人にすれば、また君が悲しみに囚われて消えてしまうかもしれない……。そう思うと、私は一歩もこの部屋から出られないんだ」
「そんなこと、もうしませんから。ね?」
「信じられない。君は優しすぎるから、私に気を遣ってまた一人で泣くかもしれない。……決めた。今日の公務はすべて中止だ。ユリウスには『陛下はアヤナーラ成分の補給により執務不能』と伝えてある」
「いつの間に……」
アヤナーラが呆れていると、寝室の扉が遠慮なくノックされた。
「陛下。アヤナーラ成分だろうが何だろうが、隣国との調印式は待ってくれません。さっさと離れて出てきてください。……アヤナーラ様も、甘やかさないでください」
扉の向こうから、ユリウスの心底疲れ切った声が響く。
「聞こえない! 私は今、アヤの鼓動を確認するという最優先事項の最中だ! 邪魔をするな、悪魔め!」
ステイルはさらに力を込めてアヤナーラを抱き寄せ、その頬に何度も何度も、慈しむような口づけを落とした。
「アヤ……愛している。愛している、愛している。……私が君の隣にいることが当たり前すぎて、退屈だと思えるくらい、ずっと側にいさせてくれ。君が『もういい』と言っても、私は絶対に離れないからね……」
結局、その日のステイルは、またもアヤナーラを膝の上に乗せたまま執務を行うという暴挙に出た。
ユリウスやルカヌスの白い目など気にも留めず、彼は空いた左手で驚異的な速さで書類を捌きつつ、右手でずっとアヤナーラの手を握りしめていたという。
「……兄上、本当に懲りないね。アヤナーラも、あんな重たい男のどこがいいんだか」
ルカヌスが呆れて肩をすくめると、アヤナーラはステイルの頭を優しく撫でながら、幸せそうに…でも切なげな表情で微笑んだ。
「ふふ。……でも、私はこの『重さ』がないと、もう生きていけないみたいです」
アヤナーラを失いかけた恐怖が生んだ、ステイルの「究極の粘着愛」。
それは彼女にとって、何よりも安心できる、世界で一番甘くて重い鎖……のはずだった。




