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番外編〈国王の「ノロケ」報告書〉

国王の執務室。窓からは午後の柔らかな光が差し込み、本来ならば厳粛な空気が流れているはずの場所である。


しかし、側近のユリウスは、ペンを動かす手を止めて深い、深い溜息をついた。

「……ステイル様。先ほどからその報告書、一行も進んでいませんよ」


机に向かっているステイルは、公務の書類を広げたまま、どこか遠い目をして口角を緩ませていた。


「ユリウス。……今朝のアヤを見たか?」


「見ていません。私は朝から陛下のスケジュール調整に追われていましたから」


「そうか、惜しいことをしたな。今朝のアヤは、寝ぼけて私の袖を掴みながら『ステイル、行かないで……』と呟いたんだ」


ステイルは真面目な顔で、まるで国家の重大機密を明かすようなトーンで続けた。


「あの声の掠れ具合、そして掴んだ指の力の入れ方……。あれはもはや、我が国の伝統工芸品にも匹敵する美しさだった。私は危うく、今日の公務をすべて放り出すところだったよ」


「……放り出さなくて結構です。そもそも放り出そうとするのは毎日でしょう?というか、それを私に報告してどうしろと?」


「共感だ、ユリウス。あんなに愛らしい生き物が、私の妻であるという事実に、私は毎日震えているんだ。あのアヤの寝顔を肖像画にして、全騎士団の盾に刻めば、兵士の士気も上がるのではないか?」


「剣を受ける盾に刻むなんて不敬ですよ。……いいから、その『国宝』を独り占めできている幸せを噛み締めて、さっさとこの予算案に署名してください」


ユリウスは死んだ魚のような目でステイルを見つめた。


感情を失っていたあの頃の「氷の王子」に戻ってほしいとは言わない。だが、感情を取り戻した結果が、この「年中無休の惚気国王」だとは、誰が想像しただろうか。


「……ああ、ダメだ。アヤに会いたくなってきた。ユリウス、午後の会議は一時間遅らせろ」


「却下です」


「なぜだ! 王のメンタルケアも側近の仕事だろう!」


「陛下。……昨日も同じ理由で遅らせたのを忘れたんですか?」


ユリウスの冷徹な一言に、ステイルは「ぐぬぬ……」と唸りながら、渋々とペンを走らせ始めた。

その様子を眺めながら、ユリウスは「愛に狂った……というより、愛に溺れてるな」と、かつての自分に教えてやりたい衝動に駆られるのだった。


翌日。ユリウスが執務室のドアを開けた瞬間、ステイルは書類を放り投げて椅子から立ち上がった。


「ユリウス! 聞け、昨日の午後のことだ。公務で中庭を横切った際、遥か遠くの回廊にアヤの姿が見えた。私が視線を送ると、アヤはすぐに私を見つけ、ふわりと微笑んでくれたんだ。……あぁ、あの微笑みはもはや慈愛に満ちた女神そのもの。あの瞬間、中庭の花々は一斉に開花し、小鳥たちは祝福の歌を歌い始めた。私は確信した。この国の平和はアヤの微笑みによって保たれているのだと!」


「……陛下。陛下が勝手に足を止めて見惚れていたせいで、後ろにいた大使たちが将棋倒しになった件については、後で始末書を書いていただきますからね」


ユリウスの冷徹なツッコミを、ステイルは「愛の代償としては安すぎる」と一蹴する。

しかし、ステイルのノロケは止まらない。

今度は恨めしそうな目でユリウスを睨みつけた。


「それに、今朝のことだ! 私が目を覚ましたら、アヤが愛おしそうに私の頭を撫でてくれていたんだ。その手の温もり、優しい眼差し……あぁ、私はあのまま永遠に、アヤという名の揺り籠の中でまどろんでいたかった。……なのにユリウス! お前が『早く来い』と扉を叩き壊さんばかりに急かすから……! お前は人の幸せを壊して愉悦に浸る、悪魔の化身か!?」


「……悪魔で結構です。予定を三十分過ぎても起きてこない陛下が悪いんですよ。だいたい、甘えていないでさっさと執務に戻ってください」


「甘えているのではない、充電だ! アヤという名の聖なる魔力が枯渇すれば、私はただの肉の塊になる! ユリウス、お前には分からないのか? 私の隣にアヤがいて、私の髪に指を通してくれる……。その奇跡のような幸福を、仕事ごときで中断せねばならぬ苦痛を!」


「……仕事ごとき、と言いましたね? 陛下、今その発言をアヤナーラ様に聞かせて差し上げましょうか? 『ステイル様はアヤナーラ様との時間を理由に、民のための公務を軽んじておられます』と」


その言葉が出た瞬間、ステイルの顔色が変わった。


「……っ! 待て、それは卑怯だぞユリウス! アヤにそんな誤解をされたら、今夜の膝枕が……!!」


「では、今日中にこの山を片付けてください。さもなくば、アヤナーラ様には『陛下がお疲れのようですので、今夜は一人で静かに休ませてあげてください』と伝えておきます」


「……悪魔か。お前は、真の悪魔か……!!」


ステイルは血涙を流さんばかりの表情でペンを握り、驚異的な速度で書類を処理し始めた。

「アヤナーラに嫌われたくない」という一心で発揮される集中力は、まさに国家の至宝であった。


その背中を見守りながら、ユリウスは静かにルカヌスに耳打ちした。


「……ルカヌス様。今夜もアヤナーラ様に、クッキーを差し入れてもらえないかとお願いできませんか?アヤナーラ様がいてくれないと、この国は滅びます」


「……了解」と肩をすくめながら溜息をつくルカヌスだった。



コンコンと私の私室の扉をノックする音が聞こえ、エミリーが扉を開けるとルカヌスが立っていた。


「やあ、アヤナーラ。ちょっといいかい?兄上がまた君の惚気話を延々と語っているよ。そして、君との時間を邪魔されるくらいなら仕事などしたくないとかもね。毎日聞かされるこちらの身にもなってほしいよ。」と肩をすくめる。


「またステイルが皆さんの仕事の邪魔をしているのね。ごめんなさいね。」と眉を下げる。


「いや、君は悪くないよ。それでユリウスから伝言だ。『溜まっている書類が片付けられないのなら、"疲れているので一人で休むとアヤナーラに伝える"と言った瞬間から、爆速で書類を捌いているから、アヤナーラにクッキーを差し入れてもらえないだろうか』と、ことづかった。」


「ふふふ。わかりました。いつもご迷惑をお掛けしてるから、ユリウス様やルカヌス様の分も多めに焼きますね」


アヤナーラの聖母のような微笑みに、ルカヌスは心の底から救われたような顔をした。


「ありがとう、アヤナーラ。執務室に吹き荒れるノロケの嵐を止められるのは君だけなんだ」


――数時間後。

執務室の扉が開くと同時に、甘い香りが部屋いっぱいに広がった。


「ステイル様。お仕事は順調?」


ペンを握ったまま、魂が抜けかかっていたステイルが弾かれたように顔を上げた。


「ア、アヤ……! ああ、空から天使が舞い降りてきた! 順調だ、順調どころか、今なら大陸全土の予算案を三十分で書き上げられるほど力が漲っている!」


「あら、それは頼もしいわね。ではお茶にしましょう?クッキーを焼いてきましたよ。ユリウス様とルカヌス様の分もありますからね」


アヤナーラがバスケットをテーブルに置くと、ステイルは自分の分を手に取り、拝むようにして口に運んだ。


「……っ! なんという甘美な味だ。君の愛が生地の隅々にまで浸透している……! これを食べている間、私は全知全能の神になった気分だ……」


一方で、ユリウスとルカヌスも端の方でこっそりクッキーを口にする。


「……美味しいですね。精神に効く味がします」


「全くだ。……兄上がさっき『仕事なんてしたくない』とか言っていたのが嘘のようだね」


ルカヌスがわざとらしく呟くと、クッキーを頬張っていたステイルが「ブッ!」と噴き出しそうになった。


「ル、ルカヌス! お前、余計なことをアヤに……!」


「あら、ステイル? 責任ある国王様が、そんなことを仰ったのかしら?」


アヤナーラが少しだけ目を細めてステイルを見つめると、彼は真っ青になってアヤナーラの足元に跪いた。


「違うんだ、アヤ! あれは……ユリウスが悪魔の囁きで私を誘惑しただけで、私の本心は常に民と、そして君の誇りある夫であるために……!」


「ふふ、冗談ですよ。でも、しっかり働かないと、明日のおやつは抜きにしますからね。それに国民はこの国の財産なのですよ?私たちは国民のために働かなければいけませんよ。」


「……っ!! 働く、死ぬ気で働く! むしろ今すぐ隣国の視察にでも行ってくる!……いや、アヤと離れるのは嫌だ!ここで、君の見える場所でしっかり働くからっ!」


アヤナーラの「おやつ抜き」という脅しと「国民のため」という正論の合わせ技で、ステイルは再び机にしがみつき、恐ろしい形相で署名を始めた。

その様子を眺めながら、ユリウスは静かにクッキーの二枚目を口に運び、ルカヌスと視線を交わした。


(……アヤナーラ様。あなたこそが、この国の真の支配者ですね)

二人の心は、今日一番の平穏に包まれていた。



寝室の扉が閉まると同時に、ステイルは背後からアヤナーラを抱き寄せ、その首筋に顔を埋めた。


「……ステイル? 先ほどクッキーを召し上がったばかりなのに、まだお腹が空いているのですか?」


冗談めかして笑うアヤナーラに、ステイルは低く、熱を持った声で囁く。


「……あぁ、空いているとも。クッキーでは満たされない、もっと根源的な渇きがね。……アヤ、私を見てくれ」


ステイルは彼女を正面に向かせると、銀縁メガネを外してナイトテーブルに置いた。眼鏡のない彼の瞳は、昼間よりもずっと深く、独占欲を隠そうともせずにアヤナーラを射抜く。


「昼間、君がユリウスたちの前で『国民は国の財産』だと言った時……私は誇らしかった反面、酷く嫉妬したんだ。君の瞳の中に、私以外の誰かが映っていることが、たとえそれが『民』という抽象的な存在であっても、私は耐え難い」


「ステイル、それは流石に我が儘が過ぎますよ……んっ」


唇を指先でそっと塞がれ、言葉が途切れる。ステイルの指はそのまま彼女の頬を滑り、髪を掬い上げた。


「分かっている。だからこそ、こうして二人きりの時は、君のすべてを私だけで塗り潰したい。……今日のクッキーのお礼だ、アヤ。君が望むなら、夜が明けるまで愛を囁き続けよう。君の耳に、肌に、心に、私の愛以外の何物も入り込む余地がないほどに」


ステイルはアヤナーラを横抱きにし、ゆっくりとベッドへ横たえた。


「……愛している。一分一秒、君を想わない瞬間などない。君の笑顔も、困ったような眉の下げ方も、私を叱る声も……そのすべてが私の魂を震わせる。……アヤ、今夜は一睡もさせない。君の中に、私の愛を刻みつけなくてはならないからね」


熱い吐息と共に重ねられる口付け。

アヤナーラは、ステイルの強すぎる腕の中で、彼の心臓が自分と同じように激しく脈打っているのを感じていた。


「……本当に、重いお方ですね……」


「あぁ、重いとも。この重さこそが、私が君を離さないという誓いの証だ」


窓の外では月が静かに二人を見守り、城の執務室で見せた「国王」の顔は消え、そこにはただ、一人の女性に溺れる一人の男の姿だけがあった。


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