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番外編〈【悲報】-アヤナーラ帰省する〉

明日帰省するアヤナーラに、ステイルは一日中付き纏っていた。


「……アヤ、やはり私も一緒に行くべきだと思うのだ。護衛も必要だろう?」


「ステイル、実家ですよ? 護衛騎士の方も大勢いますし、たった一時間の距離ですから」


「ならば、半日でこちらへ戻ってくるのはどうかな? ……いや、三時間だけでもいい!」


延々と続く、斜め上の提案。私は困ったように笑いながら返した。


「ステイル、もう決まった事ですよ。お父様も、お母様も、お兄様も……もちろん私も楽しみにしていますから。一週間、我慢してくださいね?」


「一週間……っ!? 一週間も君のいない城で、私は何を糧に生きればいいというのだ……!」


「大げさですよ。たった一時間で戻れる距離なんですから。久しぶりの家族水入らずを楽しませてください」


「それを言うなら、私だって君の夫だ! なぜ私がその『水入らず』に含まれていないのだ!?」


「それは、ステイル様がご一緒だと、アヤナーラ様が気を使って休まらないからですよ」


背後から、氷のように冷ややかなエミリーの声が響きました。


「エミリー!?」


「アヤナーラ様は、『(殿下のいらっしゃらない)』ご家族との時間を楽しみにされているのです。いい加減、お邪魔虫なのは自覚してください。……ほら、アヤナーラ様、お荷物の最終チェックをしましょう」


「……お、お邪魔……。エミリーまでそんなことを言うのか……っ。私は一時間だって耐えられないというのに……!」


ステイルはその場に膝をつき、まるでこの世の終わりのような顔で、遠ざかる私たちの背中を見つめていた。


翌日、ステイルは寝室のドアの前に立ちはだかっていた。


「…ここは通さないっ!アヤ、行くなっ!」


しかし、扉は外側から簡単に開けられる。


「そんなことだと思ってアヤナーラ様から鍵をお預かりしていました。ステイル様。諦めてください。」そう言ってユリウスが入ってきた。


「ユリウス…お前まで私を裏切るのかっ…」


「裏切るも何も、アヤナーラ様にご実家でゆっくりしていただきたいだけですよ。殿下は諦めて執務に参りましょう。アヤナーラ様、ステイル様はこのままお預かりいたします。どうかご実家でごゆるりとお過ごしください。」

(見送りに行かせたら馬車の前で寝転び駄々をこねるだろうから絶対に行かせられない)


そう言ってお辞儀をする。


「ふふふ。ありがとう、ユリウス。ステイル、1週間留守にします。お城のことよろしくお願いしますね。行ってきます。」


「ユリウス離せっ!私も一緒に行くー!アヤーッ!待ってくれー!」


ステイルは叫びながらユリウスに首根っこを掴まれ引きずられていった。


ーーーー


実家に到着したアヤナーラを待っていたのは、私を溺愛する父と兄、そして母だった。



「ただいま帰りました。お父様、お母様、お兄様。お久しぶりです。」


「「「おかえりなさい、アヤナーラ!」」」


「アヤナーラ、疲れただろう?あの馬鹿王子に何か困った事はされてないかい?昔みたいに閉じ込められたりなんてことされてたら、すぐに言うんだよ?私が父と城へ乗り込むからね。」


「ああ。もしまた同じようなことがあった場合、国王に私はアヤナーラを奪い返すぞと脅している。すぐにでも離縁させるからな。だから、何かあったらすぐに言いなさい。」


「はぁ。また始まったわ。」


兄と父は左右から私を抱きしめ、母はそれを見て呆れていた。


私は実家に帰ってきたと改めて実感した。


父と兄は、私の結婚後、しばらくの間私を城の奥深くに囲い込み、実家との接触さえ断とうとしたステイルを未だに許していない。


城での公務の度に、彼らは国王陛下やステイルを捕まえては、

「アヤナーラは無事だろうな? 泣かせてはいないだろうな?」

と、殺気混じりに詰め寄っているらしい。


そんなわけで、ステイルは我が家へは事実上の“永久出禁”なのだ。

どうしても連れてくる場合は、一ヶ月以上前から申請し、厳重な審査(という名の父と兄の圧接面談)をパスしなければ、彼はサヴォイア邸の敷居を跨ぐことさえ許されない。


だからこその、待ちに待った“家族水入らず”だった。



一方その頃。


「………ユリウス、アヤナーラは無事に着いただろうか? もしかしたら、道中で盗賊に襲われ、怖くて私の名を呼んでいるかもしれないっ! 今すぐに無事を確かめに、……いや、救い出しに行かねばっ!」


ガバッと立ち上がったステイルを、ユリウスが冷めた目で書類に押し戻した。


「……先程、無事にご実家へ到着されたと報告がありました。公爵閣下やジュリアーノ様に熱烈な歓迎を受け、現在は団らんの最中だそうです。それから……『ステイル殿下が一歩でもこの屋敷に近づいたら、即座に離縁の手続きを始めるからそのつもりで』と、念を押す伝言も届いております。この一週間は大人しくしていてください」

(……当然の反応だな。ステイル様がアヤナーラ様を幽閉していたことを、私に問い詰めた時の公爵は、今すぐにでも城へ戦争を仕掛けてきそうなほど恐ろしかった。この一週間、この主を野に放つわけにはいかない……)


それを聞いたステイルは、その場に崩れ落ちた。


「そんなっ……一週間もアヤナーラの姿を見られないなど、私は……私は死んでしまう……!」


「死にませんから、そのペンを持ってください。仕事が山積みですよ」


ーーーー


「さあ、アヤナーラ。こっちにおいで。今日は君の好きな菓子を腕利きの職人に作らせたんだ」


テラスのソファに座っていたジュリアーノお兄様が、私の手を取って隣に座らせる。


城では常に「王子妃」として、あるいはステイルの「妻」として気を張っているけれど、お兄様の前では、私はただの「可愛い妹」に戻ってしまう。


「ふふ、ありがとうございます。お兄様。……でも、そんなに見つめられると少し恥ずかしいです」


「何を言っているんだ。君の顔は一週間見続けても飽きないよ。……あぁ、やはり少し痩せたかな? あの馬鹿王子、君にまともな食事を与えていないんじゃないだろうな」


「そんなことありませんよ。ステイル様は、むしろ私が食べきれないほど用意してくださるくらいで……」


ステイルの名を出した瞬間、お兄様の眉がピクリと跳ねた。


「……アヤナーラ。実家にいる間は、あんな男のことは忘れていいんだ。今は私のことだけを考えていればいい。……ほら、あーんして」


お兄様は銀のスプーンで、宝石のようなベリーが乗ったケーキを掬い、私の口元に運んでくる。ステイルの必死すぎる「あーん」とは違い、お兄様のは洗練されていて、断らせない優雅な圧があった。


「お兄様、自分で食べられます……」


「ダメだよ。一分一秒でも長く、こうして君の世話をさせてくれ。……あぁ、美味しいかい? 可愛いな、アヤナーラ。一生このまま、私が食べさせてあげたいくらいだ」


お兄様は空いた方の手で、私の髪を優しく撫でる。その手つきは、まるでもろい宝物を扱うかのように丁寧で……。


「……このまま、城へ帰したくないな。この屋敷を魔法で隔離して、君と家族だけで永遠に暮らせたらいいのに」


冗談めかして言っているけれど、お兄様の瞳は少しも笑っていない。

(ステイル様といい、お兄様とお父様といい……どうして私の周りの人は、すぐに私を隔離したがるのかしら……)


「ジュリアーノ! 自分だけアヤナーラを独占するとは卑怯だぞ!」


凄まじい足音と共に、お父様がテラスへ飛び込んできた。その手には、これでもかというほど豪華な毛皮の膝掛けが抱えられている。


「お父様まで……。私はただ、妹との大切な時間を過ごしていただけです」


「黙れ! 執務の合間に様子を見に来たら、アヤナーラが寒そうにしているではないか!」


「……お父様、今は最高に天気が良くて暖かいですよ?」


私の指摘など耳に入らない様子で、お父様は私の肩から無理やり毛皮を羽織らせ、さらにその上から私をぎゅーっと抱きしめた。


「ああ、アヤナーラ……! 柔らかくて温かい。やはりお前は城などにいるべきではない。今すぐあの馬鹿王子に離縁状を叩きつけて、一生父と共に暮らそう。な?」


「父上、それは私のセリフです。アヤナーラの隣は私の特等席ですよ。さあ、父上は母上の元へ」


「なんだと!? 父親である私を差し置いて、息子の分際で生意気な!」


左右から父と兄に挟まれ、頬をすり寄せられたり、代わる代わるお菓子を口に運ばれたり……。


二人の「アヤナーラ争奪戦」が激化し、テラスが異様な熱気に包まれ始めたその時。


「……あなたたち、いい加減になさい」

冷気を含んだ声と共に、お母様が紅茶を持って現れた。


「お、お母様……」


「アヤナーラが困っているのが見えないの? 暑苦しいし、重苦しいわ。二人とも、今すぐアヤナーラから離れなさい」


お母様の絶対零度の眼差しに、あんなに威勢の良かった二人が「うっ……」と言葉を詰まらせ、しぶしぶ私を解放する。


「ごめんなさいね、アヤナーラ。外には『あの男』、中には『この二人』。……本当、あなたの周りには、まともな愛情表現ができる殿方はいないのかしら」


お母様は優雅に私に紅茶を差し出しながら、深いため息をついた。


「もう……。でも、みんなが元気そうで良かったです」


私が苦笑いして答えると、解放されたはずの父と兄が、今度は私の足元に跪いて、憧れに満ちた瞳で私を見上げてきた。


「「アヤナーラが、微笑んだ……(トウトイ)!!」」


(……この人たち、ステイル様と全く同じ反応をしてる……)


実家での生活も、城に負けず劣らず前途多難になりそうな予感がすると同時に懐かしさが込み上げてきた。


翌朝、サヴォイア邸の門前に、一通の……いや、一抱えもある巨大な木箱が届けられた。


「……なんだこれは。爆発物か? あの馬鹿王子、ついに我が家を爆破してアヤナーラを力ずくで連れ戻す気か!?」


お父様が剣の柄に手をかけ、ジュリアーノお兄様が鋭い視線で木箱を睨みつける。


恐る恐るエミリーが箱を開けると、そこに入っていたのは……。


「……手紙、ですね。これ、全部」


「……は?」


箱の中には、隙間なく詰め込まれた大量の封書。そして、一番上に置かれた「第一号」と書かれた手紙を、お父様が忌々しそうに読み上げた。


『親愛なる私のアヤ。君が去ってから三十分が経過した。城の空気は薄くなり、太陽はその輝きを失ったようだ。今、この手紙を書きながら、君の髪の香りを思い出して動悸が止まらない。……ちなみに、この箱の中には、君が戻る一週間後までの“一時間おき”の私の気持ちを綴った手紙が168通入っている。予約配達だと思って、一時間ごとに開封してほしい』


「「気持ち悪い!!!」」

父と兄の叫びが屋敷中に響き渡る。


しかし、手紙はそれだけではなかった。


「……待ってください。手紙の裏に、何か魔法陣のようなものが描かれています」


私が手に取ると、その瞬間に手紙からステイルの立体的な「声」が響き出した。


『アヤ! 今、誰といるんだ!? ジュリアーノか? 公爵か? それとも、記憶の中のアイツか!? 誰が隣にいてもいいが、心だけは私のそばに置いておいてくれ! 愛している! 今すぐ会いたい! 壁を壊してでも今すぐそこに……(ガサゴソッ)……離せユリウス! 私はまだ書き終えていないっ!!』


最後はユリウスに取り押さえられる音と共に音声が途切れた。


「……即刻、焼却処分だ。こんな呪いの手紙、アヤナーラに見せられるか!」


「賛成です父上。庭で焚き火にしましょう。……アヤナーラ、今すぐ目と耳を洗っておいで。汚らわしいものを見てしまったね」


二人が血相を変えて箱を運び出す中、お母様だけが、封筒の隅に書かれた『追伸:お義父上、お義母上、お義兄様。アヤナーラをよろしくお願いします(血文字に見える赤インク)』という文字を見て、深いため息をついた。


「……あの子、城でちゃんと仕事してるのかしらね」


ステイルの重すぎる愛は、物理的な距離など簡単に飛び越えて、サヴォイア邸に「国家の危機(ストーカー的な意味で)」を運んできたのだった。



「手紙を焼けば済むと思っていた私たちが甘かった……っ!」

庭で大量の手紙を処分した翌日。ジュリアーノお兄様が空を見上げて絶叫した。


見上げれば、空を埋め尽くさんばかりの真っ白な伝書鳩の群れが、サヴォイア邸を目指して急降下してきている。


「な、なんだあの数は!? 宣戦布告の伝令か!?」


「いえ、お父様……。全部、ステイル様の紋章をつけた足輪をしています……」


鳩たちは一斉に庭に降り立つと、クチバシに咥えていた「一輪の薔薇」を私の足元に次々と置いていく。その数、数百本。あっという間に足元は真っ赤な薔薇の海になった。


しかも、その一輪一輪に小さな魔石が仕込まれており、私が一歩動くたびに、ステイルの甘い囁きが四方八方からステレオ放送のように響き渡るのだ。


『アヤ、愛している……』『アヤ、寂しくないか……』『アヤ、君に触れたい……』


「あああああ! うるさい! 気持ち悪い! 庭師を呼べ! この薔薇をすべて焼き尽くせ!!」


お父様が耳を塞いで悶絶していると、今度は正門の方から重々しい車輪の音が響いてきた。


「今度はなんだ……。……なっ、王家の紋章が入った荷馬車が……五台も!?」


ジュリアーノお兄様が呆然とする中、荷馬車から次々と運び出されたのは、私の等身大の「ステイル特製・癒やしの魔力付きアヤナーラ像」や、「ステイルの心音が録音された安眠枕」、さらには「城のステイルの部屋とリアルタイムで繋がる双方向通信機能付きの鏡」といった、怪しげな贈り物(呪物)の山だった。


「……アヤ、あいつは正気か? 君はこんな男と毎日一緒に寝ているのか!?」


「お兄様……。私も、ここまでとは……」


さらに、空からは鳩に混じって、ステイルが放った「空飛ぶ魔法のぬいぐるみ」がふわふわと飛来し、私の肩に乗っては『アヤ、早く帰ってきて……』と泣き言を漏らしている。


「……もうダメだ。この家はあの馬鹿王子に汚染されたわ」


お母様が、庭を埋め尽くす薔薇と、鏡の中から必死にこちらを覗き込もうとしているステイルの目(※鏡はまだ布がかけられている)を見て、ついに天を仰いだ。


「よし、アヤナーラ。今すぐこの家を畳んで、隣国へ夜逃げするぞ! あの男から逃げるんだ!!」


お父様の決死の叫びが響く中、私は足元の薔薇を一本拾い上げ、困ったように、けれど少しだけ頬を緩めて呟いた。


「ふふ……。ステイル様も、よほど寂しいのでしょうね……」

(……でも、心臓の音が聞こえる枕は、ちょっと怖いかも……)


サヴォイア邸の一週間は、静養どころか、ステイルの「重すぎる愛の猛攻」を防ぐための、要塞戦の様相を呈していた。


ステイルの「贈り物攻撃」をすべて地下倉庫に封印した4日後。城へ帰る前日。


サヴォイア邸の裏口に、怪しげな「植木屋」が姿を現した。

深い帽子を被り、顔の半分を布で覆ったその男は、やけにガタイが良く、銀縁の眼鏡が布の隙間からギラリと光っている。


「……(よし。ユリウスの目を盗んで城を抜け出すのに三時間を要したが、ようやくアヤのいる聖域に辿り着いた。変装も完璧だ。今の私は、ただの草むしりが大好きな植木屋だ……)」


男――ステイルは、震える手で庭の茂みをかき分けた。その視線の先には、テラスでジュリアーノと談笑するアヤナーラの姿がある。


「……っ、アヤ! ああ、愛しのアヤ! 今すぐ駆け寄って抱きしめたい! ……だが待て、今行けば不法侵入で義父上に首をはねられる。ここは慎重に、庭師のふりをして接触を……」


ステイルが匍匐前進でアヤナーラに近づこうとした、その時。


「……おい、そこの不審者」

頭上から、氷のように冷たい声が降ってきた。

見上げれば、そこには獲物を追い詰めた肉食獣のような笑みを浮かべたジュリアーノと、杖を構えた義父上が立っていた。


「ひっ……! い、いや、私は通りすがりの植木屋で……」


「ほう。サヴォイア家の庭師は、全員私の顔と名前を覚えているはずだが? それに、その『植木屋』にしては、指に嵌めている『王家の紋章入りの指輪』が随分と主張しているようだがな」


「しまっ……! 外し忘れた……っ!」


ステイルが慌てて手を隠すが、もう遅い。お父様が杖をステイルの額にピタリと突きつけた。


「……ステイル。貴様、あれほど『近づくな』と書面で送ったはずだ。これはもはや、我が公爵家に対する宣戦布告と受け取って良いのだな?」


「ち、違う! 私はただ、アヤが栄養失調になっていないか、悪い虫がついていないかを確認しに来ただけで……!」


「悪い虫は貴様だ!!」

義父上の怒号が響き渡る。


騒ぎに気づいたアヤナーラが「あら、ステイル様?」とこちらを振り返った瞬間、ステイルの理性が弾け飛んだ。


「アヤーッ! 会いたかった! 私だ、君の夫だ! 今すぐ城へ帰ろう、さあ、私の胸へ――ぶべっ!?」


感動の再会になるはずが、ステイルの顔面に、ユリウスが投げた「分厚い執務書類の束」がクリーンヒットした。


「……確保。ステイル様、不法侵入及び公務執行放棄の罪で、城へ強制送還いたします」


いつの間にか背後に立っていたユリウスが、冷徹な手つきでステイルに縄をかける。


「離せ! アヤ! 私の顔を見てくれ! せめて、せめて『あーん』を一回だけでも……アヤーッ!!」


ズルズルと引きずられていく「植木屋(王子)」の姿を見送りながら、私は手に持っていたティーカップをそっと置いた。


「……相変わらず、お元気そうで良かったです」


「アヤナーラ、あんな男のことは忘れなさい。さあ、次はどのお菓子を食べるかい?」


サヴォイア邸の警備は、この日を境に「対ステイル用」として通常の三倍に跳ね上がったのだった。


ステイルがユリウスに引きずられていった日の夜。


騒がしかった父と兄がようやく寝静まった頃、お母様が私の部屋を訪ねてきた。


「……あんな騒がしい人たちに囲まれて、疲れなかったかしら? アヤナーラ」


お母様は私のベッドの端に腰掛け、優しく私の髪を梳いてくれた。


「いいえ、お母様。……でも、少しだけ驚きました。お父様もジュリアーノお兄様も、あんなにステイル様を嫌っているなんて」


「嫌っているわけではないのよ。ただ、あの人たちは不器用なだけ。……あなたが城で一人、泣いているんじゃないかと、ずっと心配していたの。あんな独占欲の塊のような男の側で、無理をして笑っているんじゃないかって」


お母様の瞳には、冗談を言っている時とは違う、母親としての切実な心配が滲んでいた。


私はお母様の手をそっと握りしめ、ゆっくりと首を振った。


「……お母様。当時はその…大変なことも多かったのですが、今の生活はとても幸せに思っているんです」


「……本当に? あの、一時間おきに手紙を送りつけてくるような男が、あなたの夫でいいの?」


「ふふっ、確かにステイル様は少し……いえ、かなり個性的ですけれど。でも、私が熱を出せば国家の危機だと叫んで寄り添ってくれますし、私の笑顔一つで世界が輝くと言って喜んでくれるんです。あんなに真っ直ぐに、私という人間を必要としてくれる人は、他にいません」


私はステイルからもらった、ボロボロになっても大切にしている(実家の検閲を逃れた一通の)手紙を胸に当てて微笑んだ。


「……ステイル様の愛は、確かに重いかもしれません。でも、その重さが私には心地いいんです。彼が隣にいてくれるだけで、私は自分がこの世で一番大切な存在なんだって、心から信じられるから」


私の言葉をじっと聞いていたお母様は、しばらく呆れたように、そして最後にはとても穏やかな顔をして溜め息をついた。


「……そう。あなたがそんなに綺麗な顔で笑うなら、もう何も言うことはないわね。どうやら、本当にあの『重すぎる愛』が、あなたの特効薬になっているみたい」


お母様は私の額にそっとキスをした。


「安心したわ。……これでお父様たちにも、少しは大人しくするよう言っておける。明日には城へ戻るのでしょう? あの幸せな『戦場』へ、笑顔で帰ってあげなさい」


「はい。ありがとうございます、お母様」


月明かりの下、ようやく「家族」としての本当の安らぎを感じた、最後の帰省の夜だった。



ーーーー


アヤナーラが帰省して三日目。城の執務室は、もはや「愛の重い廃人の収容所」と化していた。


「……ユリウス。アヤナーラの声が、幻聴で聞こえてくる。今、私を呼んだ。……呼んだだろう!? ああ、今すぐ行かねば、アヤナーラが私の不在に耐えきれず絶望しているはずだっ!」


ステイルは血走った目で立ち上がり、窓から飛び降りようとする。それをユリウスが、事務的な手つきで後ろから羽交い締めにし、椅子に叩きつけた。


「殿下、それは幻聴です。アヤナーラ様からは今朝、『お兄様の焼いたクッキーが美味しいです』と至極幸せそうな定期連絡が届いております。……はい、ペンを持って。仕事が三時間遅れています」


「……クッキーだと? ジュリアーノの? ……殺す。今すぐサヴォイア公爵領に隕石を落として、あやつだけをピンポイントで排除……」


「国家の危機を自ら作らないでください。……おや、ルカヌス様。ちょうど良いところに」


部屋に入ってきた弟のルカヌスは、兄のあまりに無残な姿に、入り口で一歩後ずさった。


「……兄上、ひどい顔ですよ。もしかしてアヤナーラが居ない間ずっと寝てないのですか?燕尾服のボタンがズレていますし、眼鏡も曇っています。…何より、その……アヤナーラのぬいぐるみを抱きしめたまま執務をするのはやめてください」


「黙れルカヌス! これにはアヤの残り香が……あぁっ、薄れている! 匂いが消えていく! これは大事件だ、今すぐ全速力の騎士を走らせて、アヤナーラの私服を三枚ほど補充してこい!」


「嫌ですよ! 私が変態だと思われるじゃないですか!」


「いいから行け! これは第一種緊急事態だ! 私の精神が崩壊すれば、この国の政務が止まるのだぞ!」


ステイルは机に突っ伏し、床を激しく叩きながら、今度は「アヤナーラ不足」による禁断症状でガタガタと震え始めた。


「……あぁ、アヤナーラ。君がいないと、コーヒーの味もしない。空気も冷たい。……ユリウス、もう一度聞くが、私はサヴォイア公爵家の地下道の一部にはなっていないか?」


「なっていませんし、昨日掘ろうとした穴は私が埋めました」


「ならば……せめて、せめてアヤが今食べている食事と同じものを、私にも用意しろ! 彼女と同じ味を感じることで、魂の結合を……」


「公爵邸の献立なんて把握してませんよ。いいからこの書類にサインを!」


ユリウスの怒号と、ルカヌスの深い溜息。


城の人間たちは、アヤナーラという名の「猛獣使い」がいなければ、この王子がいかに危険な暴走機関車になるかを、改めて身をもって知ることとなった。


「あと四日……。あと四日も、私はこの『地獄』で耐えねばならぬというのか……っ!」


「地獄なのは、あなたの相手をしている私たちの方ですよ」


ステイルの嘆きは、深夜の城内に虚しく響き渡るのだった。




ーアヤナーラが帰ってくる前日ー


「……明日と明後日、休み? 私が、アヤと片時も離れずに過ごせる時間を、二日間も保証すると言うのか、ユリウス!」


ステイルが弾かれたように顔を上げ、銀縁メガネを鋭く光らせた。


「ええ。ただし条件があります。今ここにある三日分の書類、これを今日中にすべて完璧に終わらせてください。一文字でもミスがあれば、明日の迎えは私が代わりに行きます」


ユリウスが机の上にドサリと積み上げたのは、もはや壁のような厚みの書類の山。普段なら数人がかりで数日かかる量だ。


「……ふっ、ユリウス。君は私を甘く見すぎだ」

その瞬間、ステイルの周りの空気が変わった。


「アヤナーラとの二日間」という報酬を前にした彼は、もはや人間ではなく、超高速の事務処理マシンと化した。


「(……アヤの笑顔、アヤの温もり、アヤの『ただいま』……それさえあれば、指の骨が折れても構わん!)」


凄まじい筆致で書類が片付けられていく。あまりの速さに、ペン先から摩擦で煙が出ているのではないかとルカヌスが心配するほどだった。


――そして、翌日早朝。

まだ朝日すら昇りきっていない薄暗い時間、城の正門には、すでに準備万端の馬車と、鼻息の荒いステイルの姿があった。


「……ステイル様。出発は六時の予定でしたが、まだ四時ですよ」


眠そうに目をこするユリウスに、ステイルは燕尾服の襟を正しながら、勝ち誇ったような笑みを向けた。


「ユリウス。一分一秒でも早くサヴォイアの結界(門)の前で待機し、アヤが目覚めて窓を開けた瞬間に私の姿を見せてやるのだ。それが夫としての、いや、一人の男としての務めというものだろう?」


「……ただのストーカーの思考ですね。いいから乗ってください。道中で寝ないでくださいよ、昨夜も一睡もしていないんですから」


馬車に飛び乗ったステイルは、御者に「出せ! 限界速度で飛ばせ! 馬が疲れたら私が後ろから魔力で押す!」と無茶な指示を飛ばしながら、サヴォイア邸へとひた走る。


「待っていてくれ、アヤ! 今、君の騎士(夫)が、一週間の孤独という名の呪いを解きに行くぞ……!」


馬車の窓から身を乗り出し、まだ見ぬ実家の方向を熱く見つめるステイル。


その瞳には、この1週間ろくに眠れていないことによる深いクマと、それ以上に恐ろしい「愛の執念」が宿っていた。



早朝、まだ星が瞬くサヴォイア邸の門前に、殺気にも似た執念を漂わせる馬車が滑り込んだ。


執事からその報告を受け公爵は仕方なく応接室へステイルを招き入れた。


応接室で対峙したサヴォイア公爵の目は、鋭くステイルを射抜く。


「……ステイル。以前のような真似をすれば、この国の王子だろうと、私は全力でアヤナーラを奪い返す。二度目はないと、肝に銘じなさい」


公爵は王子という立場のステイルではなく、義理の息子…アヤナーラの夫の立場のステイルとしてはっきり告げた。


重い沈黙の中、ステイルは銀縁メガネを外し、真っ直ぐに義父を見据えて頭を下げた。


「……承知しております。あのような愚かな過ちは二度と。私はただ、彼女がいない世界に耐えられないだけなのです。私の魂は、彼女無しでは呼吸すらままならない……」


その真剣すぎる、もはや狂気さえ孕んだ瞳に、公爵は毒気を抜かれたように溜息を吐いた。


「……もういい、朝食を共にすることを許そう。アヤナーラが待っている」


まさか朝食にまで招待されるとは思わなかったステイルは、アヤナーラに会えるという感激と、義父との和解の兆しに胸を熱くしていた。


(……やはり誠意は伝わるものだ。アヤ、今行くぞ! 家族水入らずの朝食、夫として最高の笑顔で君の隣に座ろう!)


………だが、食堂へ足を踏み入れた瞬間、その希望は粉々に打ち砕かれた。そこはステイルにとって、新たなる拷問の場となったのだ。


ステイルの席は、長テーブルの端。アヤナーラの席からは、視力検査でもしているのかと思うほど一番遠い席だった。


当然のように、アヤナーラの隣にはジュリアーノ、反対側には公爵が、鉄壁の守護神のごとく陣取っている。


「ほら、アヤナーラ、この果実も食べなさい。栄養を摂らないと、またあっちで倒れてしまうよ」


「お兄様、もうお腹がいっぱいです」


楽しげな兄妹の会話は、遠く離れたステイルの元へは微かにしか届かない。


「(……遠い。アヤが、果てしなく遠い……っ! 私が剥いてやるはずだった果実を、なぜアイツが……! 公爵、視線が痛い! 杖をこっちに向けないでくれ……!)」


ステイルは、自分の皿に乗った味のしないパンを、執念だけで咀嚼し続けるしかなかった。

顔面を蒼白にしながら一時間もの「お預け」を耐え抜いた。


ようやく、城へと向かう馬車が動き出した瞬間。


扉が閉まった音と同時に、ステイルはアヤナーラを力任せに引き寄せ、自分の膝の上に乗せた。


「……っ、アヤ! アヤ、アヤ……!!」


「ステイル!? 急に……んっ」


一週間分の飢えを埋めるような、深く、甘く、苦しいほどの口付け。アヤナーラが息を整える隙も与えず、彼は何度も、何度も彼女の唇を奪い、首筋に顔を埋めてその香りを貪った。


ガタンと馬車が揺れる中、ステイルはアヤナーラの肩に顔を埋め、まるで壊れ物を守るように強く、激しく抱きしめた。


「ステイル、苦しいです……。そんなに力を入れなくても、私は逃げたりしませんよ?」


「……っ、逃げるさ。君は気づいていないだろうが、公爵もジュリアーノも、隙あらば君を城へ返さないつもりだった。……私は、生きた心地がしなかったんだ。一週間、この胸に君の重みを感じられないことが、これほど恐ろしいとは思わなかった……!」


ステイルの声は微かに震えていた。

普段の冷静沈着な彼からは想像もできないほど、その呼吸は乱れ、瞳には余裕の一片もなかった。


「城の冷たいベッドで、何度君の名を呼んだと思っている……? 暗闇の中で、君がもう戻ってこないのではないか、実家の温もりに絆されて私のことなど忘れてしまったのではないか……そんな妄想に、毎夜正気を削られていたんだ!」


「そんなこと、あるはずありません。私は、あなたの妻なのですから」


「言葉だけでは足りない……! アヤ、私の目を見てくれ」


ステイルはアヤナーラの頬を両手で包み込み、至近距離で見つめる。銀縁メガネの奥の瞳は、潤んでいるようにも、狂気を孕んでいるようにも見えた。


「君と離れていた一時間は、私にとっての一年と同じだ。つまり私は、君に七年も会えなかった計算になる。……七年だぞ? 七年も飢えていた男が、今さら紳士的な振る舞いなどできると思うか?」 


「……ななねん……。それは流石に計算が……んっ」


理屈を封じ込めるように、ステイルは再び深く、激しく唇を重ねた。

それは愛の囁きというより、執着の証明。


「もう二度と、私の視界から消えることは許さない。……城に着いたら、覚悟しておけ。君の肌に、髪に、心に……私がいない間に紛れ込んだ家族の気配など、一欠片も残さず、私の愛で上書きしてやるからな……っ」


ステイルの切実な独占欲と、一週間耐え抜いて限界を迎えた男の「余裕のなさ」が、馬車の狭い空間を熱く支配していた。




城に到着するなり、ステイルは戸惑う周囲を無視してアヤナーラを横抱きに抱え上げ、寝室へと直行した。

バタン、と内側から鍵がかけられる。


「ステイル、まだお昼ですよ……? お着替えも……」


「そんなものはどうでもいい。……アヤ、君が足りないんだ。一週間分、いや、一生分、私で君を塗り潰させてくれ……」


眼鏡を投げ捨てたステイルの瞳には、熱い欲望と、独占欲に満ちた愛の炎が宿っていた。


その夜、寝室の灯りが消えることはなく、アヤナーラはステイルの重すぎる愛に溺れ、結局一睡もできないまま「幸せな戦場」への帰還を実感することになったのだった。


ーーーー


「ふふふ。ずっと眠っているわね。本当にお疲れ様、ステイル」


窓から差し込む翌日の昼下がりの光の中、アヤナーラは自分の膝で子供のように深く眠り続けるステイルの頭を、優しく撫でていた。


一週間の無理が祟ったのか、彼はアヤナーラという特効薬を摂取した瞬間に、糸が切れたように眠りに落ちてしまったのだ。



そして、運命の三日目の朝。


「おはようございます、ステイル様。本日からは、また溜まったお仕事を頑張れますね!」


爽やかな笑顔で現れたユリウスの声に、ステイルは幸せな夢から引きずり戻された。


「………はっ? ユリウス、何を言っている。今日はまだ、アヤとの休日の……いわば、二日目の本番メインディッシュのはずでは……?」


「いいえ。ステイル様は昨日、丸一日、一度も起きることなく寝て過ごされました。よって、貴重な休日はすでに消化済みです。さあ、執務室へ行きましょう」


「………なんだと……!? そんな……私は、アヤと一日中手を繋いで、あんなことやこんなことをする予定を分単位で立てていたのだぞ! 嘘だ、そんなはずはない……! アヤ! 今の話は嘘だと言ってくれ!」


ステイルが這い寄るようにアヤナーラに縋りつくと、彼女はクスクスと楽しそうに笑いながら、非情な真実を告げた。


「ええ。ステイル、昨日は本当にぐっすりでしたよ。私が何度か起こそうとしても、私の手を握ったまま『あやぁ……むにゃ……』って、全然起きてくれなかったんですから」


「そ、そんな……一生の不覚……! 私の、私はまだアヤナーラを接種しきれていない……!!」


一週間の孤独に耐え、三日分の仕事を一日で終わらせたステイルの努力は、自らの睡魔によって泡と消えた。

絶望のあまり、床に崩れ落ちて「アヤァ……アヤァ……」と情けない声を上げる主を、ユリウスは容赦なく首根っこを掴んで引きずっていくのだった。


ーーーー


執務室の空気は、朝から最悪だった。


「……アヤ。やはり今すぐ確認してくる。サヴォイアの公爵が、秘密裏に潜入してアヤを連れ戻したかもしれん!」


「幻覚を見るのはやめてください。座れと言っているでしょう」


三十分おきに立ち上がるステイルを、ユリウスとルカヌスが左右から羽交い締めにして椅子に押し戻す。もはや執務ではなく格闘技だ。見かねたルカヌスが、ついに根を上げてアヤナーラの元へ走り、執務室への出張を依頼した。



そして数時間後。


イライラが頂点に達し、ペン先で机に穴を開けそうになっていたステイルの元に、待ち望んだ音が響く。


コンコン。


「なんだ! さっさと入って用件を伝えろ! 私は今、一刻を争う重大な事案(アヤに会いに行くこと)を検討中なのだ!」


不機嫌の塊のような声でステイルが吠える。だが、扉から覗いたのは、彼が世界で一番愛する人の笑顔だった。


「ふふふ。何をそんなに怒っているのかしら、ステイル様?」


「……っ!? ア、アヤ……ッ!!」


ステイルは目を見開き、椅子を蹴り飛ばして突進した。


「ああ、アヤ……! 会いたかった! ケチな側近と分からず屋の弟が私をここに監禁するのだ。君から会いに来てくれるなんて、私は世界一の幸せ者だ……!」


アヤナーラを力一杯抱きしめ、首筋に深く顔を埋めてその香りを貪るステイル。


「……ん? 甘い香りがする。美味しそうな匂いだ……。あぁ、このまま君を食べてしまいたい……」


「ふふ、ダメですよ。一週間頑張って待ってくれたステイル様に、クッキーを焼いてきたんです。少し休憩して、一緒に食べませんか?」


その言葉を聞いた瞬間、ステイルの顔がぱあっと輝いた。


「私、のために……君が手作りを……!? なんという尊さだ! これは食べることなどできん、魔術で永久凍結して家宝として飾らねば……!」


「ダメですよ、食べてください」


「……アヤがそう言うなら、食べよう。一欠片も残さず、私の血肉に変えてみせる!」


幸せそうにクッキーを頬張るステイルを眺めながら、ルカヌスとユリウスは深く、深い溜息をついた。


(……また始まった。でも、アヤナーラ様がいるだけでこの『猛獣』が大人しくなるんだから、本当に感謝しなきゃいけないな……)


二人は心の中でそう呟き、ようやく訪れた静寂の中で、山積みの書類に手を伸ばすのだった。



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