番外編〈【悲報】-アヤナーラ風邪を引く〉
「へっくしゅん……っ、ズ、ズ……」
(……うぅ。体がだるいし、熱っぽい。久しぶりに風邪を引いちゃったみたい……)
「アヤ! どうした、顔が真っ赤だぞ!?」
異変に気づいたステイルが血相を変えて駆け寄り、額に手を当てる。
「熱い……! 熱すぎる! エミリー、ユリウス、早く来い! 今すぐ国中の医者を集めるんだ!」
「すみません、ステイル。少し、風邪を引いてしまったようで……」
私が力なく微笑むと、ステイルは私の手を握り締め、絶望したような表情を浮かべた。
「謝る必要などない! 私が付いているからな。いいか、一歩も傍を離れない。私が君を癒してやるから……っ」
「ダメですよ。今日は他国の大使がいらっしゃる大切な公務の日でしょう……? 私にはエミリーが居てくれますから、ステイルはお仕事へ行ってください」
私が弱々しく服の袖を引くと、ステイルは天を仰いで叫んだ。
「……っ! アヤ! 君より大切な公務などこの世に存在しない! ユリウス! 今日の予定をすべて白紙にしろ! 国家の危機だ!」
廊下で控えていたユリウスが、深い溜息と共に部屋へ入り、冷静に告げる。
「……ステイル様。国家の危機なのは、他国の大使を放置して食糧輸入の契約を台無しにすることです。これはあなたがいなければ成立しません」
「だがアヤがこんなに苦しんでいるんだぞ!?」
「分かっております。……ですので、妥協案です。昼の会議は殿下、あなたがいなければ成立が出来ません。夜の晩餐会にも殿下の顔見せは必須です。挨拶さえ済ませれば、あとの接待はすべてルカヌス様に押し付けます。それで手を打ってください」
「……っ、そんな……! アヤが熱で戦っているというのに、私は酒を酌み交わさねばならぬというのか……!」
ステイルはまるで今生の別れかのように、私の枕元で頭を抱えて悶絶し始めた。
午後。
他国の大使たちと、食糧輸入に関する極めて重要な会議が始まった。
普段なら鋭い指摘で相手を圧倒するステイルだが、今日の彼は、銀縁メガネの奥で虚空を見つめ、恐ろしいほどの殺気を放っている。
「……(今、アヤの熱が0.1度上がった気がする。エミリーはちゃんと氷を替えているだろうか。もしや苦しさのあまり、彰人やマナトの名を呼んでいるのでは……!)」
相手国の大使が、震えながら条件を提示する。
「え、ええと……我が国としては、昨年の1.2倍の輸出量を約束いたします。これで……いかがでしょうか、ステイル殿下。」
ステイルは微動だにせず、低く、地を這うような声で呟いた。
「……足りない」
「ひっ……! す、すみません! 1.5倍、いえ、2倍で検討いたします!」
大使はステイルの「看病に戻れない苛立ち」を「交渉への不満」だと完全に誤解し、震え上がっている。
隣で記録を取っていたユリウスが、こっそりステイルの脇腹を小突いた。
「(ステイル様!怖すぎます。相手が泣いていますよ。アヤナーラ様は今、お粥を食べて眠りについたと報告がありましたから、集中してください)」
『お粥を食べた』というワードに、ステイルが弾かれたようにユリウスへ顔を向けた。
「……何? 誰が食べさせた。エミリーか? 私以外の人間が、彼女の口に食べ物を運んだというのか……っ。……ユリウス、やはり今すぐ戻る。あとはルカヌスに任せ――」
「ダメです!!これはあなたが居なければ成立しませんっ!!それにルカヌス様は今は騎士団の方の仕事に行っています!」
ユリウスが必死にステイルの裾を引っ張って座らせる。
「……ふん。ならば、あと十分で終わらせる。おい、大使。今の条件で構わない、今すぐサインしろ。君たちの事情など知らん。私は一刻も早く、妻に『あーん』をしに戻らねばならんのだ」
「は、はいぃぃっ!」
本来なら数時間かかるはずの難航不落の交渉が、ステイルの「一刻も早く帰りたい」という執念だけで、わずか十五分で妥結した。
会議室を飛び出すステイルの背中を見送りながら、ユリウスは天を仰いだ。
「……結果オーライですが、これ、外交ルートで『我が国の王子は冷酷な交渉人』だと変な噂が広まりますね……」
ステイルはそんな心配など一蹴し、風のようにアヤナーラの寝室へとひた走るのだった。
バンっ……!
凄まじい音と共に、寝室の扉が勢いよく開かれた。
「アヤっ! お粥は誰に食べさせてもらったのだっ! それは私の特権だと言ったはずだ……!」
燕尾服を振り乱し、息を切らして叫ぶステイル。だが、そこに立ちはだかったのは冷ややかな目をしたエミリーだった。
「……ステイル様。アヤナーラ様は今、お休みになられたばかりです。大きな声を出さないでください」
「っ、す、すまない……。……それで、粥は?」
「半分ほど、ご自身で召し上がられました。……残りの半分は、殿下が戻られた時のために取ってありますよ」
エミリーのその言葉に、ステイルは目に見えてホッと胸を撫で下ろした。
「……そうか。自分でも食べられたのか。……だが、残りは私がやる。……私が、やらねばならないのだ」
ステイルはまるで神聖な儀式にでも臨むかのような敬虔な面持ちで、アヤナーラのベッドサイドに音もなく跪いた。
「……眠れているのか。……よし、晩餐会まで私が傍にいよう。もう誰にも、君の指一本触れさせはしない」
そう言ってアヤナーラの熱い手をそっと握りしめ、ステイルは晩餐会の時間ギリギリまで、一歩も動かずに彼女を見守り続けた。
夜。
「殿下。そろそろお時間です。」
「……ユリウス、よく聞け。挨拶は三秒で終わらせる。返杯も断る。私は光の速さでここに戻ってくるからな!」
鬼気迫る表情でユリウスに宣言し、ステイルは再び私の手を両手で包み込んだ。
「アヤ……。寂しくても、他の男(医者)をあまり見つめてはダメだぞ。いいか、エミリー以外は誰も信じるな。私が戻るまで、どうか、どうか持ちこたえてくれ……!」
「ステイル、ただの風邪ですから……そんな、戦場へ向かうような顔をしないでください」
私が苦笑しながら答えると、彼は私の額に、熱を分かち合おうとするかのような深い口づけを落とし、断腸の思いで部屋を後にした。
―― 一時間後。晩餐会の会場。
そこには、他国の大使たちを震え上がらせるほど冷徹な表情で、凄まじい圧を放つステイルの姿があった。
「……(アヤが今、咳をしたのではないか? 布団を蹴飛ばしていないか? もしやタカザワの夢でも見ているのでは……!)」
彼の頭の中は、外交など一ミリも入っていなかった。
挨拶を終えた瞬間、ステイルは差し出されたワイングラスを無視し、ルカヌスの肩を力強く叩いた。
「あとは頼んだぞ、ルカヌス。私は国家の存亡に関わる重大な公務(看病)に戻る!」
「……兄上!? まだ乾杯もしてませんよ!」
背後でルカヌスが絶叫するのも構わず、ステイルは風を切り、燕尾服を翻して廊下を爆走した。
私がうつらうつらとしていると、扉が勢いよく開き、息を切らしたステイルが飛び込んできた。
「アヤ! 今戻ったぞ!」
燕尾服の裾を翻し、肩で息をしながらステイルが寝室に飛び込んできた。
「ステイル……。お仕事は……?」
「そんなものはルカヌスに丸投げしてきた! それよりアヤ、気分はどうだ? 喉は乾いていないか? 寒くないか? 私がいない間に、寂しくて泣いたりしていなかったか!?」
ステイルは着替えもせず、最高級の燕尾服のままベッドサイドに跪き、私の手を両手で包み込んだ。
「……ステイル、ただの風邪ですから……そんな、今生の別れみたいな顔をしないでください」
苦笑いする私を無視して、彼は銀縁メガネを外し、熱で潤んだ私の瞳を至近距離で見つめてくる。
「いいか、アヤ。君を苦しめる風邪の菌など、私がすべて吸い出してやりたいくらいだ。エミリー、もういい、あとは私がやる。君は下がれ」
「でも殿下、お着替えを……」
「そんな暇はない! ――アヤ、お粥を持ってきたぞ。私が『あーん』をしてやるから、一口だけでも食べてくれ」
ステイルはエミリーからトレイを奪い取ると、震える手でスプーンを口元に運んできた。
「……あ、ありがとうございます。でも、自分で食べられま……」
「ダメだ。君は指一本動かしてはいけない。さあ、遠慮せずに私に甘えるんだ。……それとも、私ではなく、記憶の中の誰かに食べさせてほしいとでも言うのか……?」
急に弱気な(けれど独占欲の強い)表情を見せるステイルに勝てるはずもなく、私は大人しく口を開いた。
「おいしい……です」
「そうか。……あぁ、食べている姿も『トウトイ』な……。ずっとこうしていたい。公務など、二度と行きたくない……」
結局、ステイルは私が眠りにつくまで、片時も離れずに手を握りしめ、耳元で「愛している」「早く良くなってくれ」「君がいない世界など暗闇だ」とエンドレスで囁き続けた。
おかげで私の心臓は風邪の熱とは違う熱でバクバクしっぱなしで、ちっとも安眠できなかったけれど……。
翌朝、目が覚めると、燕尾服のまま私のベッドの端で伏して眠る、絶世の美男子の姿があった。
「……本当に、愛おしい人……」
私はそっと彼の頭を撫でた。
どうやら今夜の看病(という名の重すぎる愛)のおかげで、私の風邪は一気に吹き飛んでしまったようだった。




