番外編〈アヤナーラの逆襲-スーツの王子と甘い囁きの罠〉
「ねぇ。ステイル。いつもの装いも、とてもメガネと似合っているのですけど…もっとメガネに似合う衣装を着てほしいなって思うのですが……私、デザインを描いて作ってもらってもいいですか?」
「……何?…メガネに合う衣装があるのか!それはすぐにでも作らせよう!」と急いで仕立屋を呼ぶ。
「…ステイル、あの…デザインは完成まで楽しみにしていてほしいから、私だけが仕立屋さんと話していいでしょう?」
…私はいつもステイルが自分の好きな所を私に言わせてばかりなのが腑に落ちなかった。
ステイルは愛の言葉は毎日囁いてくれるけど、具体的にどんなところが好きとは言ってくれないのだ。
…いや。態度を見ていればどれだけ私を愛してくれているかはわかりますよ?
でも、私だって言葉にしてほしい。
どこをどんなふうに好きなのか伝えてほしい!
だから私は綾乃時代の、黒の胸元が開いたタイトなスカートにスリットが入ったちょっとセクシー系のワンピースを仕立屋さんに一緒に注文することにしたのだ。
これならステイルも、私に触れたければ好きなところを言ってってお願いしたら教えてくれるに違いない!そう思って…
そして2週間後ーー
ステイルは鏡の前で、かつてないほど入念に自らの姿を確認していた。
(ふむ、これが『スーツ』か。……なるほど。無駄のない意匠が、私の肢体の線をこれほどまでに際立たせるとはな)
鏡に映る自分を、冷徹なインテリ俳優・宇野賢太になりきったような目で見つめる。
(首元は……そうだな。あえて第一ボタンを外し、ネクタイをこの角度で緩めれば……よし。アヤの言う『色気』とやらは、これで十分だろう)
長い指先で銀縁メガネをクイと押し上げ、不敵な笑みを浮かべる。
今夜はアヤナーラに「好き」を言わせるだけではない。完膚なきまでに私に惚れ直し、再び腰を抜かさせてやる――。
獲物を追い詰める捕食者のような冷ややかな情熱を瞳に宿し、ステイルは自信満々にアヤナーラの私室へと足を踏み出した。
――その直後、さらに破壊力の高い彼女の姿を見て、自分の方がノックアウトされるとも知らずに。
「アヤ! 見てくれ、この『スーツ』という衣装、驚くほど身が引き締ま……っ!?」
颯爽と私室へ入ってきたステイル。
黒のスーツを完璧に着こなし、銀縁メガネの奥で知的な光を宿していたはずの彼は、アヤナーラの姿を一目見た瞬間、雷に打たれたように硬直した。
「……あ、アヤ……? その、格好は……」
目の前にいるのは、いつもと全く違う、夜の闇を纏ったようなアヤナーラだった。
右の肩紐は肩に、左の肩紐は腕に垂れ、深く開いた胸元には白い肌が覗き、体のラインを強調するタイトな生地。歩くたびにスリットから露わになる太もも。さらには、うなじを無防備に晒したお団子ヘア……。
ステイルの視線は、彼女の谷間と脚を激しく往復し、ついには顔を覆って天を仰いだ。
「……っ、ずるい。ずるすぎるぞ、アヤ……! メガネを掛けろと言ったのは、私を、正気を失わせるための罠だったのか!?」
「……罠じゃありません。ステイルがかっこよすぎるのがいけないんです。……でも」
アヤナーラはスリットから覗く足を少しだけ強調するように歩み寄り、ステイルの胸元……ネクタイのあたりに指を掛けた。
「今日は……私ばかり『好き』と言わされるのは嫌なんです。ステイルも、私のどこをどんな風に好きなのか……、ちゃんと『言葉』にしてくれないと、触らせてあげません」
潤んだ瞳で見つめ、少しだけ意地悪に微笑むアヤナーラ。
余裕を剥ぎ取られたインテリ王子は、喉を鳴らし、彼女の手を強く掴んだ。
「……よかろう。君が後悔するまで、一晩中語り尽くしてやる。……覚悟しろよ、アヤ」
ステイルの瞳に、知性ではなく剥き出しの熱情が灯った瞬間だった。
しかし「手も触っちゃダメですっ!」と振りほどかれる。
「……くっ! あぁ、もう今すぐに触れたい。その肌に、その柔らかな曲線に……! ああ、なんてことだ……!」
ステイルは両手で顔を覆い、天を仰いだ。銀縁メガネが、彼の激しい呼気でわずかに曇る。
「……わかった、アヤ。すべて言葉にしよう。君の瞳に私が映るたび、私は『ああ、君は私だけのものだ』と狂おしいほど安心する。私を誘う唇も、薔薇が咲いたような笑顔も、うなじから漂う色気も……すべてが私を狂わせる。君の鎖骨も、腰も、脚も……。そのすべてを私の手で、愛で塗り潰してしまいたいと……そればかり考えているんだ」
ステイルの喉が、熱を孕んで低く鳴った。
「それって……ほとんど外見のことばかりじゃないですか。ステイルは私の体にしか興味がないのですか?」
意地悪く首を傾げたアヤナーラに、ステイルは弾かれたように彼女の手を掴み、自分の心臓に押し当てた。
「――違うッ! そんな浅いものではない! 君の優しさが、孤独だった私の心を救ってくれたんだ。あんなに酷いことをした私を、君は許し、愛してくれた……。一目見たその瞬間から、私の世界には君しかいない。他の誰にも興味がないし、一秒たりとも離れたくない。……執務中も、食事中も、私の頭の中はアヤ、君の存在で埋め尽くされているんだ。……これで、満足か?」
ステイルはもう限界だと言わんばかりに、メガネを投げ乱暴にネクタイを引き抜いた。彼の瞳には、獲物を狙う肉食獣のような鋭さと、愛する者に縋るような熱を帯びている。
その必死な告白に、アヤナーラの心は最高の幸福感で満たされた。
「……はい。よく言えました、ステイル。
…たくさん愛してくれてありがとう…」と上目遣いをしながら満足げに微笑む彼女に、ステイルは飢えた獣のように襲いかかった。
「……『よく言えました』だと? 君は、自分が何をしたか分かっているのか」
ステイルの声は、低く、熱く、地を這うような重圧を帯びていた。
彼はアヤナーラの手を掴んだまま、ソファに押し倒す。スーツの硬い生地と、アヤナーラの柔らかなワンピースの生地が擦れ、官能的な音を立てた。
「私にこれほどの醜い独占欲を吐き出させておいて……自分だけ余裕な顔でいられると思うなよ、アヤ」
彼の瞳に宿る剥き出しの熱情がアヤナーラを射抜く。
「……ステイル……っ」
「さあ、お返しの時間だ。君が私の好きなところを言えと命じたように、私が、君を言葉にできないほど蕩けさせてあげよう」
ステイルの長い指が、ワンピースのスリットから覗く太ももをなぞり、ゆっくりと上へと這い上がってくる。
「この脚が、どれほど私の理性を掻き乱したか。……この胸元が、どれほど私を苛立たせたか……。他の男にこんな姿を晒したら、私は今度こそその男を消し、また君を一生暗い部屋に閉じ込めていたかもしれない。……そうさせなかった自分を褒めてほしいくらいだ」
彼の唇が、アヤナーラの鎖骨に深く、刻印を残すように押し付けられる。
「……あ、っ……」
「……声が小さいな。もっと聞かせてくれ。私のどこが好きなのか、どれほど私に狂わされているのか……君の心も、体も、一滴残らず私の愛で塗り潰してやる」
彼はネクタイを完全に解き、アヤナーラの両手首を緩く縛り上げるようにして頭上に固定した。スーツ姿の端正な王子様はどこへやら、そこにいるのは最愛の女性を支配し、貪ろうとする一人の男だった。
「……一晩中だ、アヤ。君が『もう言葉はいらない』と泣いて縋るまで、たっぷりと愛してあげるよ」
ステイルの瞳に、知性ではない「悦び」の光が灯り、二人の夜は深淵へと沈んでいった。
翌朝。
結局一睡もさせてくれなかったステイルは、腰を抜かして指一本動かせない私を、それはもう甲斐甲斐しく世話していた。
だが、着替えを手伝う名目で私の肌に触れるたび、ステイルの瞳には再び危険な熱が宿り始める。
「……アヤ。やはり、今日は公務は休もう。君をこのまま、一日中抱き締めていたい……」
「……ステイル、もうダメです。私、本当に動けません。それに、もうすぐユリウス様が……っ、ひゃっ」
這い上がってくる彼の手を必死に止めようとするが、ステイルは聞く耳を持たず、私の首筋に深く顔を埋めた。
「嫌だ。こんな煽情的な君を、エミリーにすら見せたくない。君のすべては私だけのものだ……」
逃がさないとばかりに深い口づけを落とされた、その時。
ドンドンドンドン!! と、遠慮のないノック音が寝室に響き渡った。
「殿下! もういい加減にしてください! エミリーも私も、廊下で一時間待っているのですよ! 早く着替えて執務室へ向かいますよっ!」
扉越しに響くユリウスの、怒りと呆れの混じった叫び。
ステイルはチッと盛大に舌打ちをすると、未練たっぷりに私から離れ、のろのろと寝室を後にした。
――だが、これで終わらないのが今のステイルだ。
「アヤ! 大丈夫か、アヤ! 歩けるようになったか? どこか痛むところはないか!?」
執務中だというのに、彼は三十分間おきに様子を見に駆け戻ってくる。
「大丈夫ですから、お仕事頑張ってくださいね」
額の汗を拭う暇もなく私の元へ走ってくるステイルを、私は苦笑しながら見送る。
呆れつつも、自分に向けられる隠しきれない独占欲が、今は少しだけ心地よかった。
執務室。
扉が閉まるなり、ユリウスの深い、深いため息が部屋に響き渡った。
「……殿下。椅子に座ってください。今!すぐに!です」
「ユリウス、もう一時間も経った。アヤの腰の状態が心配だ。湿布を貼り替えてやらねば……」
「そんな短時間で変えるものではありませんし、それはエミリーの仕事です。殿下の仕事は、山積みにされたこの予算案に目を通すことでしょうが!」
ユリウスはドサリと、これ見よがしに書類の束をステイルの前に叩きつけた。
ステイルは不満げに眉を寄せ、銀縁メガネ(昨夜の残り香を求めてわざわざ掛け直したもの)の奥で目を細める。
「私がいなければ、アヤが寂しがるだろう」
「寂しがっているのは殿下の方でしょう! 先ほどから三十分おきに往復して……廊下の絨毯が殿下の足跡で磨り減っていますよ。騎士たちも『殿下が落ち着かないので、何かの政変か』と怯えています」
ユリウスの正論に、ステイルはフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「……君にはわかるまい。あんなに煽情的な姿のアヤを、独りで置いておくのがどれほどの苦行か。今この瞬間も、誰かが彼女の寝室に入り込むのではないかと気が気でない」
「護衛がついていると言ったでしょう! それに、あんなに腰を抜かさせたのはどこの誰ですか! 殿下が少し自制なされば、アヤナーラ様も今頃普通に公務をなさっていたはずです!」
ユリウスの怒号に近い説教に、ステイルは一瞬ひるんだものの、すぐに狡猾な笑みを浮かべた。
「自制? 無理だな。あのアヤを見た後で自制できる男など、この世に存在しない。もしいたとしたら、それは男ではないか、あるいは聖者だろう」
「開き直らないでください! ……いいですか、この書類をすべて終わらせるまで、一歩も外へ出しません。ルカヌス様にお願いして、扉の前に騎士を立たせましたからね」
逃げ道を完全に塞がれ、ステイルはついに観念したようにペンを握った。
「……フン。早く終わらせればいいのだろう。……ユリウス、一時間後にアヤに茶を運べ。私の淹れた茶でなければ、彼女の喉は潤わない」
「はいはい、それくらいなら代行しますから、早く手を動かしてくださいっ!」
ユリウスの胃痛は、どうやら殿下が「愛妻家」を通り越して「愛妻中毒家」である限り、永遠に続く運命のようだった。




