番外編〈新たな脅威…メガネのインテリ俳優〉
私は今、推理小説を読んでいる。
それを読みながら前世のミステリードラマを思い出していた。
脳内を占領しているのは、メガネ姿のインテリ俳優・宇野賢太さんの冷徹な姿だ。
ドラマのクライマックス、親友を冷たく突き放して言い放ったあの一言……。
『お前が、犯人だ』
あのゾクッとするような低い声、メガネの奥で光る無慈悲な瞳!
「わぁー! この小説でも同じようなセリフがある! これ、賢太くんに言ってもらいたいなぁ! 懐かしい……あの冷たい視線で一度、射抜かれたい……!」
私がニヤニヤしながら本に顔を埋めていると、背後から氷点下の気配が立ち上った。
「……ケンタ……。……ほう。次は、親友を断罪する冷血漢が好みか」
振り向くと、そこには「また男の名前が出たな」と言わんばかりの、般若のような顔をしたステイルが立っていた。
「アヤ。君は、慈悲深い私の愛では物足りないというのか? メガネという道具を使い、親友すら慈しまぬそんな男の、どこに惹かれるというんだ」
「違いますステイル様! それは『役』であって、彼はその……ギャップが素敵なんです!」
「ギャップだと……? ふん。ならば、私だってそれくらいやってみせる。冷徹に人を追い詰めるなど、王族の私にとっては日常茶飯事だ」
ステイルは本を奪い取ると、その一節を鋭い目つきで睨みつけた。
「いいだろう。アヤの望み通り、その男以上に冷たく、そして美しく君を追い詰めてやる。……メガネとやらを、今すぐ用意させる!」
ステイルの「インテリ俳優ごっこ(本気)」の幕が開いた瞬間だった。
(……はぁ。アヤの頭の中には、一体どれほどの男が潜んでいるのだ。私一人の愛では、彼女を満足させてやることはできないのか……?)
ステイルの思考は、一日中そのことで支配されていた。
アヤナーラの前世では、遠い世界のスターを応援する「推し活」はごく一般的な娯楽だ。けれど、ここは異世界。
年に一度、大陸を渡り歩く旅役者の一団が訪れることはある。その時ばかりは民も熱狂するが、興行が終われば熱も冷める。特定の誰かを、会ったこともないのに一生をかけて愛し続けるなどという概念は、この世界には存在しなかった。
だからこそ、ステイルには理解できない。
アヤナーラが「懐かしい」と目を細め、実在しないはずの男たちに熱い視線を送る理由が。
(姿を奪い、声を奪い……今度は、その『ケンタ』とかいう男の冷徹さまでもが欲しいというのか。……いいだろう。アヤの望みがそこにあるのなら、私は何度でも、どんな姿にでもなってみせる)
それは、愛するがゆえの献身か、あるいは敗北を認められない王子の意地か。
「……ユリウス。今すぐ街で一番の細工師を呼べ。それから、視力矯正の必要がない『平らなガラス』を入れた枠を用意させるんだ」
ステイルは執務机を叩き、決然と命じた。
その瞳は、マナトやタカザワを打ち破ってきた時と同じ、あるいはそれ以上の、悲壮なまでの決意に満ちていた。
ついに、特注のメガネが出来上がった。
(ほう……これがメガネか。アヤが言っていたケンタのデザインを忠実に再現させたが、なるほど、視界を縁取るこの銀の枠が、理知的な印象を与えるというわけか)
実際にそれを掛け、ステイルは鏡の中の自分を見つめた。
無機質なレンズの奥で、自身の宝石のような瞳がいつもより冷ややか、かつ鋭く光っている。
(……フッ。これも、驚くほどよく似合うな)
ステイルは満足げに唇を歪めると、アヤナーラが悶絶していたあのミステリー小説を片手に、彼女の寝室へと向かった。
「――この事からして、すべての矛盾は君の嘘を示している」
部屋に入るなり、ステイルは長ったらしい推理のセリフを、感情を削ぎ落とした低音で朗読し始めた。そしてクライマックス。
「……お前が、犯人だ」
彼はメガネの中指でクイ、と押し上げると、目を細めて冷徹な光を放ち、本来なら親友に向けるはずの指先を、真っ直ぐにアヤナーラへと突きつけた。
「………………っ!!」
アヤナーラは、悲鳴を上げることすら忘れて固まった。
目の前にいるのは、愛する夫であって、夫ではない。
冷酷な知性と、氷のような美貌を纏った「インテリ王子」という名の暴力。
(破壊力が……! 賢太くんの数万倍、冷たくて、鋭くて、……エロい!!)
顔を真っ赤に染め、肩を震わせるアヤナーラ。
その視線が自分から一歩も動かせないのを見て、ステイルはメガネの奥で勝ち誇ったように瞳を細めた。
「アヤ。……どうかな? 私のこの姿は、君の期待に応えられているだろうか」
ステイルは低く艶のある声で囁きながら、アヤナーラの頬を大きな両手で包み込んだ。
指先で逃げ道を塞ぎ、至近距離でその瞳を、無機質なメガネの奥からじっと見つめる。もはや視線を逸らすことすら許されない。
「……っ、破壊力が、ハンパありません……! ステイル、私をどうするつもりですか……。これ以上は、本当に……心臓が止まってしまいますっ!」
爆発しそうなほど赤くなり、必死に訴えるアヤナーラ。その姿が、ステイルにとっては最高の『供述』だった。
「ふっ……。ならば止まればいい。私が、何度でもその鼓動を呼び戻してあげるからね」
冷徹な「役」を脱ぎ捨て、ステイルは満足げに、そして最高に甘く微笑んだ。
氷のようなメガネ越しの表情が、一気に「愛を注ぐ男」の熱を帯びて崩れる。その圧倒的なギャップに、アヤナーラはついに限界を迎え、顔を両手で覆ってその場に蹲った。
「……あぁ、もう無理……。尊すぎて……眩しすぎます……っ」
自分の手のひらで熱くなる顔を隠すアヤナーラを見下ろし、ステイルは勝利の余韻に浸る。
宇野賢太という脅威を塗り替え、今、彼女の瞳には自分だけが焼き付いている。その優越感に、彼はメガネを外し、さらに深く彼女を甘やかす準備を始めるのだった。
ふと、ステイルの脳裏に「ある記憶」が閃いた。
(……待てよ。そういえばアヤの記憶を見た時…学生時代の『綾乃』は、日常的にメガネを掛けていた。……私は、今の彼女がメガネを掛けている姿を見たことがない!)
それはステイルにとって、国家の危機にも匹敵する「一大事」だった。
(綾乃のメガネは、黒い縁のものだったと言っていたか……。くっ、なぜ今まで気づかなかったのだ。彼女の瞳を縁取る知的な黒枠……それを独占できるのは、夫であるこの私だけではないか!)
居ても立っても居られなくなったステイルは、公務の合間を縫って、先日呼び出したばかりの細工師を再び密かに召喚した。
「……アヤには内緒だ。極上の黒い素材を使い、彼女の顔立ちに最も似合う、そして最高に愛らしい『クロブチ』のメガネを特注したい。……期限は三日だ。それまでに、私の理想を形にしろ」
細工師が冷や汗を流しながら退室するのを見送り、ステイルは満足げに腕を組んだ。
「ふっ……。これでアヤをメガネ姿にさせれば、私は彼女の『前世の自分』さえもこの手で愛でることができるというわけだ。……完璧だ。完璧すぎるぞ、ステイル!」
自分の冴え渡る(迷走気味の)妙案に、ステイルは鏡の前で一人、不敵な笑みを浮かべるのだった。
三日後、ステイルのこだわりが詰まった特注のメガネが完成した。
彼は逸る心を抑え、寝室でくつろぐアヤナーラのもとへ向かうと、丁寧にラッピングされた箱を差し出した。
「アヤ、君にプレゼントがあるんだ。開けてみてくれないか」
「ありがとうございます、何かしら……」
不思議そうに箱を開けたアヤナーラは、中身を見た瞬間に目を見開いた。
「わぁっ! 懐かしい……! これ、私…綾乃が学生時代に毎日掛けていたメガネとそっくりです! ステイル、掛けてみてもいいですか?」
瞳を輝かせてはしゃぐ彼女に、ステイルは満足げに、けれど熱を帯びた声で囁いた。
「ああ、もちろんだ。……その姿を、私に一番に見せてほしい」
期待に胸を躍らせるステイルの前で、アヤナーラは少し照れながら背を向け、黒縁のメガネを装着した。そして、ゆっくりと振り返り、彼と視線を合わせる。
「…………っ!!」
衝撃がステイルを貫いた。
知的な黒枠が、彼女の澄んだ瞳と白い肌をこれ以上ないほど際立たせ、いつもとは違う「清楚で無防備な色気」を放っている。
ステイルはあまりの眩しさに直視できず、ガバッと顔を背けて口元を押さえた。耳まで真っ赤に染まっている。
「……アヤ、なんという……破壊力だ。私の心臓が、持ちそうにない……。メガネを掛けた君が、これほどまでに素敵だとは……っ」
彼は震える息を吐き出し、ようやく向き直ると、壊れ物を扱うような手つきで彼女の頬を優しく撫でた。
「これは、国宝に指定して城から一歩も出してはいけない……。あぁ、マナトやケンタなどどうでもいい。今、私の目の前にいる『メガネのアヤ』が、世界で一番……トウトイ……!」
自分の仕掛けた罠に自ら嵌まり、アヤナーラの美しさに完敗したステイル。
彼はその夜、メガネを外そうとするアヤナーラを必死に止め、「そのままでいてくれ」と一晩中甘え続けたという。
翌朝、窓から差し込む陽光がベッドを照らしても、ステイルはアヤナーラを離そうとしなかった。
「……ステイル、もう起きないと。ユリウス様が迎えに来てしまいますわ」
腕の中から抜け出そうとするアヤナーラを、ステイルはさらに強く抱き寄せ、首筋に顔を埋める。
「……行きたくない。今日の公務はすべて中止だ。……それよりもアヤ、もう一度昨日のメガネを掛けてくれないか」
「えぇっ!? 朝からですか?」
驚く彼女の枕元から、ステイルは自ら黒縁メガネを手に取り、手慣れた手つきで彼女に装着させた。
朝の光を浴びて、少し乱れた髪にメガネを掛けたアヤナーラの姿は、昨夜とはまた違う、破壊的な「日常の美しさ」を放っている。
「…………っ、やはり、素晴らしい。アヤ、君は自分がどれだけ罪深いか分かっているのか? こんな姿を見せられて、平然と執務室へ向かえる男がこの世にいると思うのか」
悶絶しながら、ステイルはアヤナーラのメガネを指先でクイ、と持ち上げた。昨日練習した「インテリ俳優」の仕草だが、今ではすっかり彼女を誘惑するための独自の武器になっている。
「今日の私は、昨日よりもさらに君に溺れている。……もう公務などどうでもいい。一日中、このメガネ越しに私だけを見つめていてほしいんだ」
蕩けるような甘い声で囁き、ステイルはアヤナーラの唇を塞いだ。
その数分後、扉の向こうからユリウスの「殿下、いい加減になさってください。メガネの件は既に耳に入っておりますが、公務は別問題です」という冷ややかな声が響き、ステイルの「メガネ休日計画」は無残にも打ち砕かれることになるのだった。
ステイルは「行きたくない」と子供のように駄々をこね、ユリウスに急かされて仕方なくとぼとぼと歩き出す。だが、メガネを掛けたアヤナーラに極上の微笑みで「行ってらっしゃい、ステイル」と送り出されると――。
(……っ、早く、一秒でも早く公務を終わらせて、またあの姿を拝まねば……!!)
彼は凄まじい決意を瞳に宿し、まるで戦場に赴く英雄のような勇ましさで部屋を後にした。その日の執務室では、あまりの事務処理スピードに「殿下の背中に炎が見える」と文官たちが震え上がったという。




