〈解かれた封印ー鏡の中の知らない私ー…2〉
それから月日は流れ、私たちは夫婦になった。
共働きの生活だったけれど、私の方が少しだけ帰りが早く、夕食を作って彼の帰りを待つのが日課だった。
玄関を開ける音が聞こえると駆け寄り、交わす「おかえり」のハグとキス。
日常に当たり前にある愛の言葉。
彰人に慈しまれるたび、私は心の底から「愛されている」という幸福を噛み締めていた。
結婚して一年が過ぎた頃、私たちの元に新しい命が舞い降りた。
「彰人、あのね……赤ちゃんができたの」
堪えきれずに涙ながらに伝えると、彼は一瞬だけ呆然と目を見開いた。
次の瞬間、彼の瞳からも大粒の涙が溢れだした。
「めちゃくちゃ嬉しい……!どうしよう、俺、パパになるんだな。……ああ、幸せすぎてどうにかなりそうだ」
彼は私を壊れ物のように優しく抱きしめ、何度も「ありがとう」と繰り返した。
お腹の中の命は、私たちの愛を吸い込むように順調に育っていきーー。
春の柔らかな光が差し込んだ日。
産声が、静かな病院の廊下にまで響き渡った。
「おめでとうございます、元気な女の子ですよ!旦那さん、奥さんの側へ!」
看護師さんに促され、彰人が分娩室に入ってくる。
私は生まれたばかりの小さくて温かい我が子を胸に抱き、枯れるほど流した涙の跡もそのままに、掠れた声で語りかけていた。
「……生まれて来てくれて、ありがとう。」
彰人は私の枕元に来ると、震える指先で私の涙を拭ってくれた。
「綾乃、ありがとう。本当によく頑張ったね。……綾乃に似た、なんて可愛い子なんだ」
「彰人にもそっくりだよ。本当に、本当に愛おしい……私たちの宝物だね」
二人でその小さな頬を撫で、命の重みを感じていた。
退院した日。
私の実家には両家の家族が集まり、賑やかなお祝いの席が設けられた。
そこで、彰人が誇らしげに娘の名を発表した。
「春の晴れやかな日に生まれた子。そして、その笑顔で周囲を明るく照らしてほしいと言う願いを込めて………『陽菜』と命名しました!」
わっと拍手が沸き起こり、陽菜はみんなの祝福に包まれた。
この温かな光が、永遠に続くと信じて疑わなかった。
穏やかな幸せが永遠に続くと信じていたある日、運命は唐突に牙を剥いた。
それは陽菜の8歳の誕生日のことだった。
私を蝕んだ病は、現代の医療では手の施しようもないものだった。
それでも彰人は決して諦めなかった。仕事以外の時間を削り、私を救える可能性を求めて奔走してくれた。けれど、最後に訪ねた医師の言葉は無慈悲だった。
「ーーご家族での時間を、大切になさってください」
退院の叶わない病室で、私は日に日に衰弱していった。
「彰人、陽菜、毎日来てくれてありがとう。心配掛けてごめんね…」
その言葉を口にするたび、二人の表情が歪むのを見るのが、何より辛かった。
そして、その時は深夜に訪れた。
ふと意識を浮上させると、枕元に彰人と陽菜が、そしてベッドの周りを囲むように家族が泣きながら立っていた。
(あぁ、私はもうすぐ死ぬんだ)
不思議と、心は凪いでいた。
彰人が、壊れそうなほど強く私の手を握りしめている。
「綾乃……綾乃っ!置いていかないでくれ…俺、綾乃を全然守れなかった。病気から救ってあげることすら出来なかった…綾乃、お願いだ!逝かないでくれ!」
隣では陽菜が「ママー、嫌だぁー」と声を上げ泣きじゃくっている。
私は重い瞼を押し上げ、最後の力を振り絞って、最愛の夫へと声を紡いだ。
「……ごめんね…彰人。彰人は……私を十分過ぎるほど守ってくれたよ…。私は…世界一幸せ者だよ。だから泣かないで…陽菜をよろしくね…。」
指先で陽菜の頬に触れる。
「陽菜……これからも元気に過ごしてね。ママ…お空から見守ってるからね。……彰人…愛してくれて、ありがとう…私も、ずっと愛してる…」
(ーーでも、どうか私に縛られないで。いつか素敵な人が現れたらその人と幸せになって。)
もう言葉が出ず、心の中で最後の手向けを唱えた瞬間、彰人が身を乗り出した。
「綾乃…君を………」
彼は最後に何かを言おうとしたのか、もう私の耳には届かなかった。
視界からは光が消え、世界は深い深い闇へと沈んでいった。
ーーそこで、意識が跳ね上がった。
頬を伝う涙は、死の間際の冷たさではない。
"夢"だと思っていたものは、紛れもない私の"記憶"だった。
私は、かつて「綾乃」として誰かを愛し、愛され、そして…穏やかな光の中で、未練を残して死んだことを思い出した。




