〈解かれた封印ー鏡の中の知らない私ー…1〉
熱い…肺の奥まで焼けるような熱気に、意識が溶けていく。
割れるような頭痛の中、パリンっと鏡が砕けるような音と共に「私」ではない誰かの人生に放り出された。
泥のような闇の向こう側。
運動会の喧騒、埃っぽい土の匂い、満点のテストを握りしめた小さな手の震え。
誰かに向けられた悪意に、心を殺して耐えた教室の片隅。
記憶の奔流に押し流されそうになる中、1人の学生の姿だけが、鮮明な輪郭を持って浮かび上がった。
そして彼との記憶…
「空橋さん、おはよう。」
周囲を氷つかせるかのように無機質な声。
クラスメイトからはその綺麗な整った外見と冷たく感じる性格から『氷の王子』と揶揄されていた神崎くん。
ただ、私に向けられる時だけ、その声が、その瞳が、とても優しいものに変わる。
「…おはようございます。」と挨拶を返す。
まぁ、私はあまり人と関わらないようにしていたから関係ないんだけど…と思っていたのに…
私に挨拶や話しかけてくる時だけは、とんでもなく眩しい笑顔で話しかけてくる。
「教科書忘れちゃったから見せてもらえない?」
「帰り、俺同じ方向だから途中まで一緒に帰ろ」
「ねぇ、空橋さん…」
…なんだかある日を境に、何度も話しかけてくるようになった。
一体どうしたんだろう。
そんな疑問を抱えながらも、いつもは断っていた誘いを断りきれず一緒に帰った日のことだった。
「毎日たくさん話しかけてごめんね」
不意に隣を歩く神崎くんが口を開いた。
「俺、この間さ、空橋さんがお婆さんを助けてたところ見ちゃったんだ。普段はあまり人に関わらないようにしてるみたいだからちょっとビックリして…」
彼は少し照れくさそうに笑いながら続ける。
「それからなんか気になっちゃって。気づいたら空橋さんのことばかり目で追ってたんだ…」
それは数日前のことだった。
スーパーの出口で、重たそうな段ボールをカートに乗せ損ね、中身をぶちまけてしまったお婆さんがいた。
周囲が冷淡に通り過ぎる中、私は反射的に駆け寄って、散らばった荷物を拾い集めたのだ。
「…あれ、見られてたんですね。お婆さん困ってそうだったから、手助けしただけです。まぁ、確かにあまり人と関わらないようにしてますけど。中学の頃にいじめられたことがあって……それから少し人間不信というか…」
自分でも驚くほど素直に、心の奥に隠していた傷を口にしていた。
神崎くんが持つ独特な空気感が、私の警戒心を解いたのかもしれない。
「そっか…。」
神崎くんは立ち止まり、少しだけ乱暴に自分の頭を掻いた。
「でも、あの時。お婆さんにお礼を言われた時の空橋さんの笑顔が……なんというか、すごく可愛くて。……それを見て、もっと話してみたいって思ったんだ。」
真っ赤な顔をして視線を逸らす彼を見て、私の頬にも一気に熱が昇る。
「あ…ありがと…うございます…」
そう返すのが精一杯だった。
それから、二人で一緒に帰る日が増えていった。
けれど、それを快く思わない女子たちからの視線は、日に日に冷たくなっていく。
ある日の放課後。教室に残っていた女子グループの刺々しい声が、私の耳に飛び込んできた。
「なんであんな地味な空橋さんなわけ!?私たちの方が全然可愛いじゃん!あんな根暗そうな子のどこがいいのよ!」
私はたまらず俯いた。
(また…いじめられるのかな。もうあんな思いは嫌……)
過去のトラウマが蘇り、身体が震える。その時だった。
ーーダンッ!
激しく壁を叩く音が教室に響き渡り神崎くんが猛烈な勢いで入ってきた。
彼は女子グループへ迷いなく近づくと、見たこともないほど険しい表情で言い放った。
「空橋さんだからいいんだよ。」
その声は低く、怒りで震えている。
「君たちみたいに人を貶す奴、俺本当に嫌いだ。自分たちの方が可愛い?………今の顔見せてやりたいよ。人の悪口を言っている時の顔が、どれだけ醜いか。俺が好きな人のこと、二度と悪く言わないでくれ!」
あまりの気迫に、女子たちは言葉を失い呆然と立ち尽くしている。
周囲のクラスメイトからも「確かに神崎の言う通りだよな………」と同意の声が漏れた。
私は、心臓が跳ね上がるのを感じていた。
庇ってくれた嬉しさ。
それ以上に………彼は今、なんて言った…?
『俺が好きな人』……?……何かの間違いじゃなくて…?
少しずつ話すうちに、彼が誠実な人だと分かっていた。けれど、まさかそんな風に思ってたくれていたなんて。
「空橋さん、俺のせいで嫌な思いさせてごめん」
さっきまでの怒りが嘘のように、彼はすぐに駆け寄って来て、申し訳なさそうに眉を下げた。
「いえ、庇っていただいてありがとうございました」
顔が火照って、まともに目を見られない。そんな私を真っ直ぐに見つめ、彼は真剣な眼差しで告げた。
「それでさ、明日の休み…時間もらえないかな」
ーーーー
翌日、私はお気に入りのワンピースを着て髪を整え、眼鏡ではなくコンタクトをつけた。
普段はなるべく目立たないよう髪を下ろし、前髪も目が隠れそうなところまで伸ばし、眼鏡をかけていた。
いつもとは違う装いに、鏡の中の自分に少しだけ勇気をもらって、待ち合わせの場所へと向かう。
駅に着くと、神崎くんはもうそこにいた。
「お待たせしました」
少し照れながら歩み寄り、思い切って笑顔を向けると、彼は弾かれたように目を見開いた。
「空橋さん……めちゃくちゃ、可愛い。……ヤバい、本当かわいい…」
彼はそう呟くと、真っ赤になった顔を隠すように腕で覆った。
不意に彼が周囲を鋭く見渡した。道行く人たちがこちらに目を向けていることに気づくと、なぜか焦ったように私の手を引き、歩き出した。
「空橋さん…。本当はもっと、ちゃんとした場所で言おうと思ったんだけど、もう耐えられない」
私の手を引く彼の掌が、微かに震えている。
「俺…空橋さんのことが、本当に好きなんだ。誰にも渡したくない。俺と付き合ってほしい。…いや、付き合ってください。一生かけて、絶対に俺が君を大切にするから。」
突然、彼が足を止めた。振り返ったその顔は、今にも泣き出しそうなほど切実で、必死な表情だった。
「絶対に守るから。お願い……!」
真っ直ぐな彼の熱量に、私の心も温かく満たされていく。
「…はい、よろしくお願いします」
私がそう答えた瞬間、彼の目から大粒の涙が溢れ出した。
「えっ!?なんで泣くの…神崎くん?」と彼の顔を慌てて覗き込むと、彼はボロボロと涙を零しながら、幸せそうに笑った。
「ごめん……嬉しすぎて。気持ちが、溢れたんだ。……ありがとう、空橋さん。いや、綾乃……」
初めて呼ばれた下の名前。その響きがあまりに優しくて、気づけば私の目からも涙が溢れていた。
「なんで綾乃まで泣くんだよ」と、彼は私の涙を優しく拭いながら笑う。
ー夕暮れの帰り道、私たちは手を繋いだまま、いつまでも笑い合っていた。
アヤナーラが流行病で眠り続けている時に記憶が蘇りました。




