執刀医たちのカルテ
四畳半に充満するカビの匂いが、思考の邪魔をする。壁一枚向こうからは、安酒に溺れた男の呻き声と、壊れたテレビの砂嵐の音が断続的に響いてくる。ドヤ街の安宿。これが、国家の命運を左右する取引の果てに俺がたどり着いた、新しい「城」だった。
「非効率、極まりないな」
呟きは、誰に聞かせるでもなく湿った空気に溶けた。目の前のノートPCの画面だけが、この薄汚い部屋で唯一、文明の光を放っている。アンナ・ベルから渡されたスマートフォンをテザリングし、ありったけの暗号化を重ねた脆弱な回線。いつ落ちるか分からない電力。最悪の環境だ。だが、それがどうした。
報酬は、てめえらの絶望だ。
前章で立てた誓いを反芻し、俺は『プロジェクトGENESIS』のコードの海へ再び意識を沈めた。鷹司が、そしてクロノスの残党どもが築き上げた、国家規模の巨大システム。その防御壁は幾重にも重なり、最新の防衛アルゴリズムで固められている。だが、どんな完璧なシステムにも、設計者の「癖」は滲み出る。
「……これか」
数時間にわたる解析の末、指が止まった。防御壁の最下層、データパケットのフィルタリングを行う難解なモジュール。その一部に、奇妙な冗長性を持つコードブロックがあった。無駄が多く、処理速度を僅かに犠牲にしているが、特定の攻撃に対しては異常なまでの耐久性を示す。見覚えがあった。三年前、いや、もっと前か。まだ互いをライバルと認め、技術を競い合っていたガキの頃。俺とジンが、遊びで組んだプロトタイプだ。
「……クソが」
吐き捨てた言葉に、過去の残滓がこびりついていた。あの頃の俺たちの技術が、あの女の、国民を管理するための檻に使われている。込み上げてきたのは、怒りよりも深い自己嫌悪だった。俺の生み出したものが、また世界を歪めている。
システムのさらに深層へ、俺は指を走らせる。あのコードの脆弱性は、開発者である俺が一番よく知っている。防御壁の継ぎ目にこじ開けたわずかな亀裂から、内部構造をスキャンするプローブを滑り込ませた、その瞬間だった。
画面が、ノイズと共に激しく明滅した。
全てのウィンドウが強制的に閉じられ、ディスプレイの中央に、チープなドットで描かれたピエロのアスキーアートが踊る。その口元が歪み、嘲るようなテキストが一行、タイプライターのように打ち出された。
『まだそんなノロい手でやってるのか、ゼロ?』
ジン。
全身の血が沸騰する。三年前の裏切り者が、今、回線の向こう側から直接、俺を嗤っている。ピエロの目が点滅したかと思うと、ノートPCの冷却ファンが悲鳴を上げた。脆弱な公共Wi-Fiの帯域が、意味不明なデータパケットで埋め尽くされていく。執拗なDDoS攻撃。それだけじゃない。ネットワークの揺らぎを利用して、こちらの物理的な位置情報を特定しようとするスキャンが、何重にも仕掛けられていた。
「上等じゃねえか……!」
歯を食いしばる。屈辱と、腹の底から湧き上がる黒い闘争心。この安宿が特定されるまで、もって数分。だが、それでいい。てめえがそのゲーム盤に乗ってきたのなら、最高のショーで迎えてやる。
絶望的な状況は、時に思考をクリアにする。ジンの攻撃は苛烈だが、単調だ。奴は俺の技術を侮り、力押しでねじ伏せようとしている。その傲慢さが、奴の唯一の弱点だ。
俺はキーボードを叩く速度を上げた。ジンの猛攻で飽和状態の通信パケット。それはノイズの塊だが、システム側から見れば、GENESISの防壁が「処理すべき対象」として認識している正規のデータでもある。
「てめえの弾を、くれてやるよ」
俺はジンの攻撃パケットの一つを捕獲し、そのヘッダー情報を偽装。内部に俺自身の侵入コードを、トロイの木馬として巧妙に埋め込んだ。ジンの攻撃そのものを「鍵」として利用し、システムの認証プロトコルを欺く。失敗すれば即座に位置を特定され、黒田の部隊が踏み込んでくるだろう。成功確率は低い。だが、この状況で俺が選べる、唯一の合理的な選択だった。
エンターキーを叩き込む。
一瞬の静寂。攻撃が止んだ。いや、違う。俺が放った偽装パケットが、ジンのDDoSの濁流に乗り、GENESISの認証サーバーに吸い込まれていく。
認証、成功。
画面に表示された文字列に、俺は短く息を吐いた。ブラックボックス領域への扉が、こじ開けられた。
そこに広がっていたのは、地獄の設計図だった。全国民の戸籍情報、金融資産、医療記録、購買履歴、SNSでの発言、交友関係。あらゆる個人情報が統合され、AIによってリアルタイムでスコアリングされている。『社会貢献度』『経済的価値』『国家への忠誠度』。冷たいパラメータで人々はランク付けされ、スコアの低い者は社会保障やインフラへのアクセスを制限される。鷹司が語っていた「経済危機からの脱却」の正体は、これだ。国民というリソースを最適化し、不要と判断した人間を静かに切り捨てる、冷酷な国民管理システム。
俺がかつて描いた、分散型ネットワークの理想。その成れの果てが、これか。戦慄が背筋を走った。
さらにデータの深層を漁る。最高管理権限者しかアクセスできない領域に、一つの音声ファイルを見つけた。ファイル名は『Directive_01』。再生すると、スピーカーから響いてきたのは、聞き慣れた鷹司早紀の冷静な声だった。
『日本の再生には、不要な枝葉を刈り込む必要がある。これは国家の延命措置。痛みを伴う外科手術よ』
感情の乗らない、淡々とした声。まるで天気予報でも読み上げるかのように、彼女は国民の選別を語っていた。
俺は、その外科手術に使われた、ただのメスだった。
怒りさえ湧いてこなかった。ただ、すとん、と全てが腑に落ちた。利用され、踊らされ、用済みになれば捨てられる。三年前のラグナロク事件から、何も変わっていなかった。
キーボードから手を離す。
PCの前で、全ての表情が消え失せた。画面の無機質な光だけが、虚ろな俺の瞳を映している。数秒か、数分か。時間の感覚がなかった。
その沈黙を破ったのは、ポケットの中のスマートフォンの振動だった。アンナ・ベルからのメッセージだ。
『外科手術の執刀医は、もう一人いるわ。メスを握っているのは鷹司だけじゃない』
もう一人?
俺の脳裏に、ドクター・リーの顔が浮かぶ。いや、違う。アンナの言い方は、もっと根深い何かを示唆している。鷹司と同等の権限を持つ、もう一人の執刀医。
まさか。
あり得ないと思考を打ち消そうとした、その時だった。
「あの女は……今頃、何をしている」
俺は無意識に呟いていた。桜井美咲。あの正義感の塊は、この腐りきったシステムの真実を知れば、どう動く? 飼い主の命令通り、俺の行方を追っているのか。それとも――。
俺の知らない場所で、別の歯車が回り始めている。
その予感が、冷たい絶望の底で、新たな闘争心の火種に変わっていた。




