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9月。
すっかり早起きの癖が付いた俺は、オリンと一緒に、学校に一番に登校するようになった。誰もいない教室には残暑もなく、どことなく寂しげな雰囲気を感じる。
机の上で頬杖を付き、飛び交う言葉を聞き流している。教室の広さ、人の数、クラスメートの会話、何一つ変わっていない。なのに、どこか小さく見えてしまう。
オリンも美夕も、この夏の出来事を誰にも喋らなかった。だからと言うわけではないが、俺も誰にも話さなかった。
俺と美夕は、それなりにうまくいっている。学校から一緒に帰ったり、休日にどこか出かけたりと、何処にでもいる、普通の恋人同士の関係だ。急な展開があるわけでもなく、二人の速さで時間が進んでいる。
オリンとは相変わらずの関係だ。俺と美夕に気を遣うこともなく、野暮なことを聞いてくることもない。
誰が見ても、淡々とした日々だと思う。これも「何も変わらない良さ」の一つなのだろうか。
10月。
淡々と続く日々の中、大きく変わったものがあった。それは俺自身だ。
「凪、あなたは結局、この夏休みで何が変わったの?」
食事中、母さんが俺に問いかけてきた。ここまでは何も変わらない。
「チーズの作り方を覚えたよ。それから、乳搾りも出来るようになった。早寝早起きも出来るようになった」
俺がそう答えると、父さんはテレビを見ながら笑った。
「あのね、私が聞きたいのは、将来のこと。行く前に言ったでしょ?将来のことを考えるって」
母さんは悲しそうに怒りながら言った。
少し早い気がするけど、俺は今考えている将来のことを話してみようと思った。これも何かの機会だ。
「俺さ、自分が何になりたいのか、真剣に考えたことなかったんだ。俺は「何になれるのか」それだけを考えていたんだ」
「・・・それで?」
「このままじゃ、実のない人生を送ってしまう結果になると思う」
「・・・それで?」
「俺、もっと知りたいんだ。自分に何が出来て、何が出来るようになるのかをさ」
「・・・それで?」
「それを知るには、この世界のことを知らなければいけないと思うんだよ。どんな場所があって、どんな仕事があって、どんな人たちがいてこの世界が成り立っているのかをさ」
「・・・それで?」
「だから、俺はそれを知るために旅に出たい。もっと色んなものを見て感じたいんだよ」
全てを言い終えると、母さんはテーブルに両肘を付け、両手で顔を覆った。
「・・・わざわざ回りくどい真似して、それが正しい人生だって言えるの?無駄な時間を過ごすかもしれないのよ?」
予想通りの展開になった。けど、このまま退くつもりはない。
「無駄なものなんてないよ。あったとしたら、俺が無駄にしているだけだ。俺はもう、何も無駄にしない。それには自信があるんだ」
「平凡な人生を送りたくないだけでしょ?普通に生きることは悪いことじゃないのよ?お父さんもそう思うでしょ?」
母さんは、テレビを見続けている父さんに答えを求めた。
「そうだな、そういう幸せもある」
「ほら、お父さんもそう言ってるでしょ?平穏な人生が、一番の幸せなんだから」
「それは俺が決めることだろ?」
母さんは再び顔を両手で覆った。
「母さんは、俺のことを何も分かってない」
そう、何も分かってない。
「だけど」
一方的に殴りつけちゃ駄目だ。
「俺も、母さんのこと、何も分かってなかった」
この夏に学んだことの一つだ。
「自分でやってみて分かったんだ。食事を作ったり、洗濯したりすることが、どれだけ大変なのかをさ。親の有難みが、この年になってやっと分かったんだ。今だって、俺のことを真剣に心配して言っているんだって、分かってるつもりだ」
母さんは何も言わず、ただ黙って俺の話を聞いている。いや、聞いてくれている。
「だけど、俺は自分で決めたとおりに生きてみたいんだ。ふざけて言ってるわけでもないし、逃げ出したくて言っているわけでもないんだ。本気でそうしたいと思っているから言ってるんだ」
本気の言葉を言い放つと、父さんは静かにテレビを消した。
「そこまで言うなら、お前の好きにするといい」
「あなた、またそうやって無責任なことを」
「私はただ、凪の好きなように生きて欲しいと思っているだけだ」
「それは無責任とは違うんですか?」
「凪がもし、人様に迷惑を掛けるようなことをしたのなら、私は責任をとるつもりだ」
「そういうことじゃないでしょ?」
母さんと父さんが、こんなに言い合うのを聞くのは初めてだ。
「俺の話を聞いてくれ」
俺は二人の間に飛び込んだ。二人は言い争いを止め、俺に耳を傾けてくれた。
「このまま黙って出て行くことも出来るけど、それは絶対にしないよ。納得してもらうまで、説き続けるつもりだ。それが家族ってもんだろ?」
俺の強い意志を示すと、居間は静まり返った。
「ご馳走様」
そう心を込めて言った後、俺は食器を台所に運び、部屋へと戻った。
11月。
早起きをすると、余計に寒さを感じてしまう時期だ。それでも、この夏に培った習慣を守り続けている。
学校からの帰り道、自転車を押しながら美夕と歩いていると、美夕が薄く白い息を吐きながら俺に報告を始めた。
「私ね、大学の推薦に受かったんだ。だから春になったら、またあの牧場に行くんだよ」
嬉しそうにそう言うと、俺の自転車のかごにカバンを押し入れた。
「よかったな、これで一歩前進だな。ま、心配してなかったけどな」
ここまで夢を持っている人だ、推薦に落ちるはずがない。
世界はそんな風に成り立っている。そう願いたい。
「あのさ、凪」
「何だ?」
俺は何を言われるのか、何となく想像できた。
「ね、一緒に行かない?今年の受験は間に合わないかもしれないけどさ、来年受けてもいいし、私が学校で習ったことを教えてもいいしさ。凪が農業に興味があるならだけど」
もし美夕が、モジモジしながら上目遣いでそう言ったとしたら、思わず頷いてしまったかもしれない。
けど美夕は一気に、ストレートに言ってきた。その方が美夕らしい。逆に美夕の性格が窺えて好きだな。だからこそ、俺も自分の意思を貫き通せる。
「正直、そうすることも真剣に考えたんだ。牧場の手伝いは楽しかったし、やりがいもあった。自分のやったことが、自分に恩恵として返ってくるのは、農業の醍醐味だよな」
目を閉じると、この夏に覚えた、草の音と匂いがしてくるようだった。
「へぇ・・・そんな風に思ってくれていたんだ」
美夕は一番嬉しい時の顔をして言った。
「けどさ、もう少し時間をくれないか?もっと自分のことを知りたいんだ。知った結果、農業を選ぶかもしれないし、違う何かを選ぶかもしれないけどな」
「うん、全然構わないよ」
俺のことをよく理解してくれている。俺はそんな美夕が一番好きだな。
「やだ、離れたくない」と言って、腕を掴んで甘えられたら、俺はどうしただろうな。
そんな考えが頭を過ぎった。もしそう言われたのなら、納得してくれるまで説得したんだろうな。
「じゃあ、また明日」
互いにそう言い合い、手を振った。
その日の、夕食を終えた時だ。父さんがテレビを消して、俺に話しかけてきた。
「凪、お前旅に出たいと言っていたが、具体的にどうするつもりなんだ?」
父さんは手を温めるように、お茶の入った湯飲みを握り締めている。
「バイトをして、お金を作って行くつもり。場所はまだ決めてないけどな」
「ん・・・そうか」
「やっぱりそうか」という言い方だった。
「その気持ちに、変わりはないんだな?」
「勿論」
父さんは小さく何度も頷くと、湯飲みをテーブルの端に寄せた。
「凪、これを受け取れ」
そう言うと、厚みのある封筒を俺に差し出した。
「何?」
「100万円入っている」
「はぁ?な、ど、何だよ?」
あまりにも突然すぎて、俺は大きく動揺した。
「その金で、行ける所まで行ってこい。色んな景色を見たり、場所を知ったり、様々な人と出逢えば、お前が思うようにいい経験になるだろう」
「お父さん、何てこと言うんですか」
いつもどおりの母さんの反応に、父さんはテーブルを強く叩いた。
「男同士の間に口を挟むな」
強い声が止むと、湯飲みがテーブルを転がる音だけが居間に響いた。
「母さんは黙って話を聞きなさい」
父さんはタバコに火を付けた。
「私は、何となくという気持ちで大学に入った。特に理由もなく、今の会社に入って、言われたとおりに仕事をこなしてきた。この前凪が言ったように、実のない人生と言えるのかもしれない。けどな、決して今が不幸だとは思っていない。母さんが言ったように、平凡な幸せがここにあるからだ」
そこまで言うと、父さんはタバコを吸い、煙を吐き出した。
「でもな、将来のことを真剣に考えているお前を見て、私は思ったんだ。「もっと違う生き方ができたのではないだろうか?」とな」
再びタバコを吸い、煙を吐き出した。
「そう考えたら、この年でワクワクしてしまったんだ」
父さんは、まだ半分以上残っているタバコを灰皿に押し付け、火を消した。
「けど、今ここにいるのは、45歳の男だ。人生を変えるのは難しい。だからと言うわけではないが、お前には自分の意思で、未来を創造してほしい。何年掛かってもいい、生きたいように生きてくれ。それが出来たら、どんなに苦しくて辛くても、幸福と思える人生になるはずだ」
母さんは下を向いて、じっと父さんの話を聞いている。泣くわけでも、否定するわけでも、賛成するわけでもない。ただじっと、思いを巡らせている。
「お金を渡すのはどうかと思ったが、私が今のお前にしてやれることは、これだけだったんだ」
俺は泣きながら封筒を手に取った。厚く、重い封筒には、父さんの想いが詰まっている。そう考えると、これは受け取るべきなんだろうな。
「大事に使わせてもらうよ。絶対に無駄にしない、約束する」
「そうしてくれ」
「・・・ありがとう、凄く嬉しいよ。俺の気持ちを汲んでくれて」
「俺も男だからな」
この時、俺は初めて父さんが「俺」と言ったのを聞いた。涙が滲んだ目を拭い、父さんを見ると、そこには45歳の大人ではなく、青年の顔をした父親がいた。
「母さん、自分の子供が、強い志を持って生きてくれる。これ以上の親孝行はないんじゃないか?」
母さんは何も言わなかった。突然のことだったから、もう少し時間が必要なんだと思う。
12月。
本格的に寒くなったとはいえ、まだ初雪は降っていない。俺はいつもどおり、自転車での登校を続けている。
教室の中は外の空気と同じように、静けさが漂っている。受験を控えた生徒を気遣っているからだろう。
口数の少ない昼休みの教室で、俺はずっと美夕を眺めていた。タイミングを探すためだ。言わなければいけないことがある。自分の、選んだ道についてだ。
「よう、なに探してんだ?」
相変わらず、オリンは勘がいい。
「話すタイミング」
「まだ話してないのかよ?何やってんだよ、ババッと話しゃいいだろうが」
「それが出来るならやってるって」
話しにくい理由があった。その理由は、俺が旅に出る場所だ。
「それより、オレの進路が決まったぜ」
「え?」
オリンは自衛隊の試験を受けられなかった。牧場からこの町に戻ってきた時には、試験の申し込みが締め切られていたからだ。
「試験は来年受けるとして、それまでの間にやることを探してたんだ」
「それで?」
「警備会社に就職したぜよ」
「へぇ、警備員か。似合うな」
「だろ?いずれは退職するわけだから、バイトの身分でいいって言ったんだけどよ、それが逆に気に入られちまったみたいでな、社員として採用になったんだ」
オリンがガードする場所は、世界一安全な気さえする。オリンをよく知る俺が思うのだから、間違いない。
「ねぇ、何話してるの?」
「オリンが警備会社に就職したんだってさ」
「へぇ、似合うじゃないの」
美夕も俺と同じように感じたようだ。
「みんなどんどん自分の道に入っていくね」
「そういう時期だからな。な、凪」
「・・・そうだな」
オリンから、サインを感じる。そうだよな、早く言わなきゃいけないよな。
「美夕、今週土曜は暇?」
「土曜って、明日?うん、時間はあるよ」
「じゃあ会おうよ」
「いいけど、何処行くの?」
「考えとくよ。明日、10時に神社の前で待ち合わせな」
「いいよ。オリンもどう?」
「オレはやめとく」
美夕に全てを伝えよう。きっと分かってくれる。
俺と美夕は当てもなく町中を彷徨っていた。どこに行っても、サンタの格好をした人が目に付く。
「もうすぐクリスマスなんだな」
「何それ。もしかして、忘れてた?」
「まさか、そんなわけないだろ」
俺は頭を下げ「すいません、忘れていました」と、心の中で呟いた。
「この店に入ってみよう」
適当な店に入っては、ウインドウショッピングに勤しむ。それを繰り返し、時間を潰していった。
「ところでさ、私に話しがあったんじゃないの?」
夕暮れ時の帰り道で、美夕は俺の心を見透かしたように言った。
「あ、うん」
話をするのが目的で今日は会ったんだ。勿論、俺はそれを忘れていない。
俺は歩きながら深呼吸をした。
「実は俺さ、旅に出ることにしたんだ」
「やっぱりね、そうすると思った」
美夕は分かっていたのが嬉しいのか、クスクスと笑った。
「私が怒ると思ってたの?」
「いや、そういうわけじゃないけどさ」
夕日を見上げると、あの夏の思い出が蘇った。あの時と同じように、俺の胸は高鳴っている。
俺はもう一度深呼吸をした。
「俺、外国に行くつもりなんだ」
「・・・え?」
小さく声を上げ、美夕は立ち止まった。
俺は後ろに振り返った。
「異国を見てみたいんだよ。国が変われば、文化も風習も人も変わる。それをこの身で感じたいんだ」
自分の真っ直ぐな気持ちを美夕に伝えた。
「本気で言ってるの?」
「ああ、本気だ」
少しずつ、美夕の顔が曇り始め、崩れていく。
「しばらく・・・連絡も出来なくなるね」
「そうなるかな」
「・・・どれ位?」
「1年か、2年か、それ以上かもしれない」
美夕の目が、何かを探すように、忙しなく動いている。
「パスポートは?」
「これから作るよ」
「言葉は?」
「今オリンに習ってる。足りない部分は情熱でカバーするよ」
「襲われたらどうするのよ?」
「オリンに護身術も習ってる」
「銃を持つことが許されている国もあるんだよ?死ぬかもしれないんだよ?」
「大丈夫、何とかなるよ」
「もう二度と会えなくなるかもしれないんだよ?それでも平気なの?」
「平気じゃないよ。けど・・・自分から目を逸らすのも平気じゃない。だから、」
「何よ」
「分かってほしいんだ」
「分かってるよ。分かってるけど、」
美夕は今にも泣き出しそうな顔をして、肩で息をしている。
「しばらく会えないのは我慢できるけど、わざわざ危険なことをするなんて・・・あんまりでしょ?」
「ちゃんと生きて帰ってくるよ。約束する」
「いい加減なこと言わないでよ」
美夕は俺を残して走り去っていった。
胸が痛い。告白した時の何倍も痛い。張り裂けそうで、息も出来ない。
「全部は選べない世の中だ」そう、オリンが言ってたっけな。
「俺はこの話をする前に、おみくじを引いたんだ。そしたら大吉だったんだ。それなのにこの結果だ。・・・おい聞いてるのか?」
「聞いてるって」
俺の愚痴を聞きながら、オリンはコタツでみかんの皮を剥いている。
「あの神社さ、大吉の量を水増ししてるらしいぜ。二回に一回は大吉が出るそうだ。凶を引いた方が、御利益があるって噂だ」
「だからか、あんな結果になったのは」
「そんなこと言ってると、バチが当たるぜ。それより、お前も神頼みするんだな」
「別に、景気付けだよ」
「だったら文句言うな」
「分かってるって」
俺もみかんを手に取り、皮を剥き始めた。
「しかしよ、美夕もいじらしいよな。お前と会えなくなるよりも、お前の身を案じるなんてよ。お前は幸せ者だぜ?」
「・・・そうなんだよな」
今日はやけに、みかんの汁が目にしみる日だ。
「で、諦めるのか?」
「まさか、もっと話し合うよ」
「その気持ちがあるなら、落ち込んでばっかいないで、もっとやることあるだろ?」
「・・・・・・」
俺はみかんを丸ごと口に入れた。
「・・・そうだよな」
俺は全部を選びたい。俺だって大事なものしか持ってないのだから。
「今日は湯豆腐なんだ、お前も食ってけよ。食い終わったら言葉教えてやるからよ」
結局、あれから美夕と話せない日が続いた。美夕は学校にいる時、わざとらしく、常に誰かと話をしていて「私に話しかけないで」という雰囲気を出している。目すら合わせてくれない。
そうこうしている内に、学校は冬休みとなった。
何度電話してもつながらない。かといって、家の前まで行くのは行き過ぎた行為と思える。結局のところ、完全に手詰まり状態だ。




