7
7
空を訪れるのは、午後2時になってからと決まった。もし墜落しても、漂流することなく無事に帰って来られるようにと、潮の流れを計算した結果だ。
午前中、俺とオリンは牧場の仕事を手伝った。作業中は、期待、不安、愉悦、夢への憧れなど、それぞれの様々な感情が入り混じり、口数が少なかった。そのせいか、牧場の仕事は思いのほか早く終わった。
時間は午前の11時。俺は落ち着かない気持ちに平穏を与えようと思い、ポーチに赴いた。
手摺りに両肘を乗せ、これから訪れる空を眺める。
相変わらず濁りのない空だ。薄い雲が綿毛のように漂っているだけで、雨の降る様子は全くない。風も、海も穏やかだ。
後ろから、ドアを開ける音が聞こえた。
「緊張してるの?」
後ろを振り向くと、美夕が玄関のドアから顔を覗かせていた。
「まあね。この場合、しない方が無理じゃないか?」
「そうかもね」
美夕はドアを閉め、コツコツと音を立てながら俺の隣へ移動した。
「オリンは?」
「仮眠するってさ。眠れなかったみたい」
「俺もだよ」
「実は、私も」
穏やかな風が止んだ。俺と美夕の言葉も止んだ。
言葉を捜しているわけでも、待っているわけでもない。ただ目を細め、静かに二人の時間を過ごしている。
心地いい時間だ。
「ねぇ、さっき「緊張してる」って言ったけど、それは本気だから?」
美夕は手摺りの上で、組んだ両腕に頬を乗せ、隣にいる俺を、少し見上げて言った。
「・・・そうだな」
平穏を与えられた心は、素直にそう答えた。
「本音を言うとさ、ここに来た頃はそんなに本気じゃなかったんだ」
俺は躊躇も濁りもなく言った。
「どうして本気になったの?」
まるで子供を問いただすような口調だ。
俺は空を見上げた。
「・・・どうしてだろうな。なった時は鮮明に覚えていたのに、今は言葉にできないよ」
いいかげんでも素直に答えた。それを聞いた美夕は、クスクスと笑った。
「よく分からないのは、その気持ちが、当たり前になったからじゃない?」
美夕は俺の視線を待っている。・・・ような気がする。
「そうだな。そうだといいな」
俺は答えながら、横目で盗み見るように美夕を見た。俺の微かな視線は、しっかりと美夕に捕らわれた。
「どうして、空に、行こうと思ったんだ?」
俺はドキドキを隠しながら言った。
「よく覚えてないよ、小さい頃の話だから。翼が欲しいと思ったのかもしれない」
美夕は空を見つめながら言った。俺も釣られ、空を見上げた。
「空を飛ぶ。それは夢物語なんだなって、年を重ねる度に強く思うようになって、次第にすれていったのはよく覚えてるよ」
「分かるよ、気持ちがすれていくことがどんなことか。現実に苛まれながら、ズルズル引きずり続ける」
「そうなんだよね」
生きていれば、誰にでも、そういうものがあるのかもしれない。
「でもね、中学になってからかな?グルグル回る洗濯機を見てて思ったんだ。「世界で初めて洗濯機を作った人は、手で洗うのが面倒で、洗濯機を作ろうって考えたんだ」って」
美夕の言いたいことが、何となく分かりそうで分からない。
「・・・それで?」
「思いや想いを形にすることが出来るのが、人の力。「それなら私にも出来るかもしれない。夢は夢って言ってないで、実現させてみよう」そう考えられるようになった」
「それで人力飛行機か」
「そういうこと」
美夕は空に届きそうな位、高く手を伸ばして思いっきり背伸びをした。
「さて、そろそろ昼食を作るかな。食べたら行くよ、憧れの空へ」
「じゃあ俺はオリンを蹴とばしてくるとしよう」
「頼んだよ」
何がきっかけで人生が変わるかなんて、誰にも分からない。仲間だったり、洗濯機だったり、色々だ。
大事なのは「ものの見方と考え方」なのかもしれない。
いよいよ、その時が来た。
俺たちは作った飛行機を運び出した。
高原を登る途中、俺は後ろを振り返った。なだらかな降り坂が広がっていて、その先には柵のない崖があり、その向こうには海と空と水平線が広がっている。
十分な高さまで登り、飛行機の車輪を固定した後、空に凪が訪れるのを待った。
「そういえばよ、この飛行機の名前、決めてなかったよな?」
腕を組んだオリンが、思い出したように言った。
「名前なら考えてあるよ」
美夕は風になびく髪を押さえながら、自信ありげな顔をしている。
「どんな名だ?」
美夕は胸を張り、
「ウインドベル」
と言った。
「風鈴か、悪くないな」
風鈴は確か「ウインドチャーム」だった気がするけどな。けど、
「しっくりくる名前だよな」
ベルの方が、響きがいい。
俺はいつの間に、理屈以外で物事を判断できるようになったんだろうな。
「ま、いつからでもいいか」
「何がだ?」
「何でもないよ」
風に遊ばれていた美夕の髪が、静かに止まった。
「よし、行こう」
手櫛で髪を整える美夕が、意気揚々とコックピットの先頭に乗り込んだ。
「今がその時」
俺は美夕に続いて乗り込んだ。
「準備はいいな?」
オリンは車輪を支えている木材を勢い良く蹴り飛ばした。そしてすかさず乗り込んだ。
ジェットコースターのように、飛行機が少しずつ降り始めた。俺の意思に反し、体が硬直し始めた。
「漕げ、凪」
すぐ後ろからオリンの激が聞こえた。ハッとしながらも、俺はペダルを漕ぎ始めた。
「オリン、力みすぎ。少し力を抜いて、プロペラの回転数を合わせて」
「了解だ」
徐々にスピードが上がってきた。体が強張ってくる。思考回路が混乱し始めた。
「こ、これ、本当に、飛ぶのか?」
もし垂直に落下したら・・・。
「誰が作ったと思ってんの?心配ないよ」
風切り音に混じって美夕の声が聞こえ、胸に響いた。体の硬直は解けなかったが、思考回路は正常に戻った。
徐々に崖が近づいてくる。
「閉じるな。目を閉じるな。見開け、そして、見ろ」
そう、自分にそう言い聞かせるように呟いた。
「行こう、空へ」
凄い勢いで吊り上げられるような感覚。一瞬の無重力感。全身が逆立っているような気さえする。頭の中が真っ白に染まり、フワフワと浮いている。
白く染まった頭の中が、徐々に青色に染まり始めた。
「・・・飛んでる、飛んでるよ。俺たち、空にいるよ」
「凪、しっかり漕げ。傾いてきたぜ」
俺は思い出したようにペダルを漕いだ。飛行機が水平を取り戻すのに、それほど時間は掛からなかった。
後ろをチラリと見ると、俺たちが過ごした牧場が小さく映った。
「後ろを見てみろよ、牧場が見えるよ」
俺は二人の声を待った。
「オレたちよ、少し前まであそこにいたんだよな。信じらんねぇよな」
怒鳴るような声のオリン。
「あの牧場で、全てが始まったんだよね?」
今にも泣き出しそうな声の美夕。
「私たちは今・・・空にいるんだよね?夢は夢じゃなくなったんだよね?」
「そうさ。俺たちは今、空にいる」
俺の声を合図に、オリンは雄叫びを上げた。美夕も大声で叫び始めた。俺も二人に続いた。穏やかな空に、みんなの歓喜の叫び声が響き続けた。
物凄い高揚感を感じる。何事にも屈しない無敵感も感じる。こんなに心が躍るのは初めてだ。どうかなってしまいそうだ。
「オレはここに誓うぜ。お前ら、よく聞いてくれ」
オリンはそう言うと、大きく息を吸い込んだ。その勢いは、俺の耳まで届くほどだ。
「オレはぁ、卒業したらぁ、自衛隊に入ってぇ、この国を守るぜぇ。それからぁ、親父に勝ぁつ。それがぁ、オレの選んだ道だぁ。悪ぃかよおおお」
オリンの言葉は、俺の心をビリビリと痺れさせ、体をゾクゾクさせた。
「じゃあ次は、私の番」
美夕は背中を仰け反らせて息を吸い込んだ。
「私はぁ、凪のことが大好きぃ。胸が痛い位、好きで、好きで、たまらない。それが、私の気持ち。悪いかよおおお」
美夕の胸の痛みが、俺に伝わってきた。俺の知っている痛み。同じ痛みだ。
もう分かっているだろ?自分の気持ち。答えなきゃいけない、伝えなきゃいけない。
今が、その時なんだから。
俺は大きく息を吸い込んだ。
「俺は、」
伝えようと身を乗り出したときだ。右翼から大きな音が発せられ、俺の言葉を遮った。音に気を取られ、右翼に視線を向けると、プロペラが外れ、海に向かって落ちていくのが見えた。
そして、機体が傾き始めた。




