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夕凪  作者: スピカ
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 空を訪れるのは、午後2時になってからと決まった。もし墜落しても、漂流することなく無事に帰って来られるようにと、潮の流れを計算した結果だ。

 午前中、俺とオリンは牧場の仕事を手伝った。作業中は、期待、不安、愉悦、夢への憧れなど、それぞれの様々な感情が入り混じり、口数が少なかった。そのせいか、牧場の仕事は思いのほか早く終わった。


 時間は午前の11時。俺は落ち着かない気持ちに平穏を与えようと思い、ポーチに赴いた。

 手摺りに両肘を乗せ、これから訪れる空を眺める。

相変わらず濁りのない空だ。薄い雲が綿毛のように漂っているだけで、雨の降る様子は全くない。風も、海も穏やかだ。

後ろから、ドアを開ける音が聞こえた。

「緊張してるの?」

 後ろを振り向くと、美夕が玄関のドアから顔を覗かせていた。

「まあね。この場合、しない方が無理じゃないか?」

「そうかもね」

 美夕はドアを閉め、コツコツと音を立てながら俺の隣へ移動した。

「オリンは?」

「仮眠するってさ。眠れなかったみたい」

「俺もだよ」

「実は、私も」

 穏やかな風が止んだ。俺と美夕の言葉も止んだ。

 言葉を捜しているわけでも、待っているわけでもない。ただ目を細め、静かに二人の時間を過ごしている。

 心地いい時間だ。



「ねぇ、さっき「緊張してる」って言ったけど、それは本気だから?」

 美夕は手摺りの上で、組んだ両腕に頬を乗せ、隣にいる俺を、少し見上げて言った。

「・・・そうだな」

 平穏を与えられた心は、素直にそう答えた。


「本音を言うとさ、ここに来た頃はそんなに本気じゃなかったんだ」

 俺は躊躇も濁りもなく言った。

「どうして本気になったの?」

 まるで子供を問いただすような口調だ。

俺は空を見上げた。

「・・・どうしてだろうな。なった時は鮮明に覚えていたのに、今は言葉にできないよ」

 いいかげんでも素直に答えた。それを聞いた美夕は、クスクスと笑った。

「よく分からないのは、その気持ちが、当たり前になったからじゃない?」

 美夕は俺の視線を待っている。・・・ような気がする。

「そうだな。そうだといいな」

 俺は答えながら、横目で盗み見るように美夕を見た。俺の微かな視線は、しっかりと美夕に捕らわれた。

「どうして、空に、行こうと思ったんだ?」

 俺はドキドキを隠しながら言った。

「よく覚えてないよ、小さい頃の話だから。翼が欲しいと思ったのかもしれない」

 美夕は空を見つめながら言った。俺も釣られ、空を見上げた。

「空を飛ぶ。それは夢物語なんだなって、年を重ねる度に強く思うようになって、次第にすれていったのはよく覚えてるよ」

「分かるよ、気持ちがすれていくことがどんなことか。現実に苛まれながら、ズルズル引きずり続ける」

「そうなんだよね」

 生きていれば、誰にでも、そういうものがあるのかもしれない。

「でもね、中学になってからかな?グルグル回る洗濯機を見てて思ったんだ。「世界で初めて洗濯機を作った人は、手で洗うのが面倒で、洗濯機を作ろうって考えたんだ」って」

 美夕の言いたいことが、何となく分かりそうで分からない。

「・・・それで?」

「思いや想いを形にすることが出来るのが、人の力。「それなら私にも出来るかもしれない。夢は夢って言ってないで、実現させてみよう」そう考えられるようになった」

「それで人力飛行機か」

「そういうこと」

 美夕は空に届きそうな位、高く手を伸ばして思いっきり背伸びをした。

「さて、そろそろ昼食を作るかな。食べたら行くよ、憧れの空へ」

「じゃあ俺はオリンを蹴とばしてくるとしよう」

「頼んだよ」

 何がきっかけで人生が変わるかなんて、誰にも分からない。仲間だったり、洗濯機だったり、色々だ。

 大事なのは「ものの見方と考え方」なのかもしれない。



 いよいよ、その時が来た。

 俺たちは作った飛行機を運び出した。

高原を登る途中、俺は後ろを振り返った。なだらかな降り坂が広がっていて、その先には柵のない崖があり、その向こうには海と空と水平線が広がっている。

 十分な高さまで登り、飛行機の車輪を固定した後、空に凪が訪れるのを待った。

「そういえばよ、この飛行機の名前、決めてなかったよな?」

 腕を組んだオリンが、思い出したように言った。

「名前なら考えてあるよ」

 美夕は風になびく髪を押さえながら、自信ありげな顔をしている。

「どんな名だ?」


 美夕は胸を張り、

「ウインドベル」

 と言った。


「風鈴か、悪くないな」

 風鈴は確か「ウインドチャーム」だった気がするけどな。けど、

「しっくりくる名前だよな」

 ベルの方が、響きがいい。

俺はいつの間に、理屈以外で物事を判断できるようになったんだろうな。

「ま、いつからでもいいか」

「何がだ?」

「何でもないよ」

 風に遊ばれていた美夕の髪が、静かに止まった。

「よし、行こう」

 手櫛で髪を整える美夕が、意気揚々とコックピットの先頭に乗り込んだ。

「今がその時」

 俺は美夕に続いて乗り込んだ。

「準備はいいな?」

 オリンは車輪を支えている木材を勢い良く蹴り飛ばした。そしてすかさず乗り込んだ。

 ジェットコースターのように、飛行機が少しずつ降り始めた。俺の意思に反し、体が硬直し始めた。

「漕げ、凪」

 すぐ後ろからオリンの激が聞こえた。ハッとしながらも、俺はペダルを漕ぎ始めた。

「オリン、力みすぎ。少し力を抜いて、プロペラの回転数を合わせて」

「了解だ」

 徐々にスピードが上がってきた。体が強張ってくる。思考回路が混乱し始めた。

「こ、これ、本当に、飛ぶのか?」

 もし垂直に落下したら・・・。

「誰が作ったと思ってんの?心配ないよ」

 風切り音に混じって美夕の声が聞こえ、胸に響いた。体の硬直は解けなかったが、思考回路は正常に戻った。

 徐々に崖が近づいてくる。

「閉じるな。目を閉じるな。見開け、そして、見ろ」

 そう、自分にそう言い聞かせるように呟いた。

「行こう、空へ」



 凄い勢いで吊り上げられるような感覚。一瞬の無重力感。全身が逆立っているような気さえする。頭の中が真っ白に染まり、フワフワと浮いている。

 白く染まった頭の中が、徐々に青色に染まり始めた。

「・・・飛んでる、飛んでるよ。俺たち、空にいるよ」

「凪、しっかり漕げ。傾いてきたぜ」

 俺は思い出したようにペダルを漕いだ。飛行機が水平を取り戻すのに、それほど時間は掛からなかった。

 後ろをチラリと見ると、俺たちが過ごした牧場が小さく映った。

「後ろを見てみろよ、牧場が見えるよ」

 俺は二人の声を待った。


「オレたちよ、少し前まであそこにいたんだよな。信じらんねぇよな」

 怒鳴るような声のオリン。

「あの牧場で、全てが始まったんだよね?」

 今にも泣き出しそうな声の美夕。

「私たちは今・・・空にいるんだよね?夢は夢じゃなくなったんだよね?」

「そうさ。俺たちは今、空にいる」

 俺の声を合図に、オリンは雄叫びを上げた。美夕も大声で叫び始めた。俺も二人に続いた。穏やかな空に、みんなの歓喜の叫び声が響き続けた。


 物凄い高揚感を感じる。何事にも屈しない無敵感も感じる。こんなに心が躍るのは初めてだ。どうかなってしまいそうだ。


「オレはここに誓うぜ。お前ら、よく聞いてくれ」

 オリンはそう言うと、大きく息を吸い込んだ。その勢いは、俺の耳まで届くほどだ。


「オレはぁ、卒業したらぁ、自衛隊に入ってぇ、この国を守るぜぇ。それからぁ、親父に勝ぁつ。それがぁ、オレの選んだ道だぁ。悪ぃかよおおお」

 オリンの言葉は、俺の心をビリビリと痺れさせ、体をゾクゾクさせた。


「じゃあ次は、私の番」

 美夕は背中を仰け反らせて息を吸い込んだ。


「私はぁ、凪のことが大好きぃ。胸が痛い位、好きで、好きで、たまらない。それが、私の気持ち。悪いかよおおお」

 美夕の胸の痛みが、俺に伝わってきた。俺の知っている痛み。同じ痛みだ。

 もう分かっているだろ?自分の気持ち。答えなきゃいけない、伝えなきゃいけない。


 今が、その時なんだから。


 俺は大きく息を吸い込んだ。

「俺は、」

 伝えようと身を乗り出したときだ。右翼から大きな音が発せられ、俺の言葉を遮った。音に気を取られ、右翼に視線を向けると、プロペラが外れ、海に向かって落ちていくのが見えた。

そして、機体が傾き始めた。




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