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壁に打ち付けられた釘に、ラジオがぶら下がっている。ラジオからは、洋楽のオールディーズが流れている。オリンは「懐かしい」と言っていたが、俺は聞いたことのない曲ばかりだ。オールディーズとは言うものの、俺にとっては真新しい音楽だ。
結論を言うと、悪くない。古い音源がこの場にはよく似合う。
俺とオリンは飛行機作りに没頭していた。俺たちが今担っている作業は、カッターナイフで木材を削り、プロペラの大まかな形を作ることだ。自分でも信じられない程、無心で挑んでいる。雑念が入ると、乱れた気持ちが指先に伝わり、ゆがんだプロペラになってしまう。まるで自分の精神が目に見えるようだ。
「どうだ?曲がってないか?」
「大丈夫じゃねぇか?」
オリンはゴーグル付きのヘルメットを被っていた。いつの間に?何処で見つけたんだ?
「オレのは?どうよ?」
オリンのプロペラは、複雑な曲面を鮮やかに表現していた。
「見事だな」
これは器用さよりも、精神力の差だな。
「うっし。磨こうぜ」
俺とオリンはサンドペーパーを手に取り、削ったプロペラを磨き始めた。
「オリン、前から気になってたんだけどさ」
「何だよ?」
俺はプロペラでコックピットを指した。
「この飛行機、3人乗りだよな?」
「そりゃそうだろ」
「美夕は2年前から作り始めたって言ってたよな?」
「あぁ、確かな」
「作り始めた頃から、3人で乗るつもりだったのかな?」
「多分そうだろ」
「作り始めた頃から、俺たちを誘うつもりだったのかな?」
「さぁな。本人に聞いてみろよ」
「ん・・・」
どうして俺たちだったんだろう?どんな理由が?何故2年経った今、誘われたんだろうか?
また思考の罠に掛かってしまった。しかし、以前ほどの煩わしさはない。むしろあれこれ想像できて、楽しささえ感じる。俺の中で何が変わったんだろう?
「凪、オレたちのボスが来たぜ」
「ボス?鬼軍曹の間違いだろ?」
「凪、今何て言った?」
聞こえてしまったらしい。・・・どうしよう。
「いやぁ・・・別に」
俺は助けを求めるようにオリンを見た。オリンは俺の眼差しには気が付かず、口元を緩めていた。楽しいのか?困っている俺を見ているのが?
「ま、どうでもいいけどね。それより、午後の作業は中止ね」
「何でだよ?せっかく気分が乗ってきたってのによ」
「実は、もう食料が無くなりそうなんだ。干し肉も野菜も残り少ない。だから、食材を確保しなきゃいけない」
食料の確保。という言葉に、俺は田舎に居るんだ。と、改めて認識した。
「ここでは自給自足が基本なんだろ?任せろ、オレの得意分野だ」
「森に入っちゃ駄目だからね」
「分かってるって。釣竿があったろ?オレは魚を確保するぜよ」
オリンの奴、また野生化しそうだな。
「じゃあ、お願い」
「餌はあんのか?」
「その辺ほじくればミミズが出てくるから、それ使って」
「餌も自給自足かよ」
「それがここの掟なの」
「俺は?何をすればいい?」
「私は町に行って買い物するから、それを手伝ってよ」
一緒に買い物。俺は少し考えた。
「オリン、お前が町に行けよ。釣りは俺がやるからさ」
「釣りは俺の得意分野だ。分相応なんだよ。お前が町に行け」
俺なりに気を遣ったつもりなんだけどな。
「お前がそう言うなら」
まぁ、オリンらしいと言えばオリンらしい。あまり気にしないことにしよう。
「逃がさないよ」
美夕は俺の肩を掴んで言った。やっぱり鬼軍曹だ。
バスで町まで行くと思っていたが、甘かった。美夕は何処からか自転車を引っ張り出してきた。
「さ、漕いで」
「・・・町までどれ位だ?」
「さぁ?1時間位かな」
二人乗りで1時間・・・。結構な運動量だ。
「まいっか。いい運動になるだろうし」
「そうそう。何事も前向きに、ね?」
美夕は俺の両肩をポンと叩いた。
「行くぞ」
俺は力いっぱいペダルを踏みつけた。呆気にとられる程に、自転車はスムーズに動き出した。
「あれ?」
「どうしたの?」
「いつもより軽いや。・・・痛で」
美夕は俺の横腹を抓った。
「私がオリンより重いと思ったの?」
俺は学校まで自転車で通っている。後ろにオリンを乗せてだ。そのことを、美夕は知っていたようだ。
「そうじゃないって」
学校に着くまでには坂道がある。オリンは坂道に差し掛かっても、意地悪をするように、自転車から降りようとはしなかった。最初の頃は登りきれなかったが、2年生になる頃にはそれが可能になった。継続は力なり。日々の鍛錬の賜物だ。
「へぇ、早いじゃない」
「脚力だけなら、オリンにも負けない自信がある」
俺は顎を上げ、少し後ろを向いて、大きな声で言った。横目に映った、髪を押さえている美夕は、学校で見る美夕とは違って見えた。
「おじさん、これ全部で300円にしてくれない?」
ザル一杯に野菜を乗せて美夕が言った。
「嬢ちゃん、そりゃ厳しいな」
「だって、キュウリは大きくなり過ぎてるし、トマトは普通のより小さいよ。ホウレン草だって夏物だから、栄養価は低いでしょ?」
「手厳しいなぁ」
息を弾ませている俺は、初めて見る値切り交渉に、少し恥ずかしさを感じていた。
「じゃあ、大根2本買うから、400円でどう?」
「分かったよ、好きにしな」
「交渉成立ね。これから、ここ以外で野菜は買わないよ」
「たまには他所に行ってくれよ」
八百屋のおじさんは、文字通りお手上げして言った。
「兄ちゃん、こんなに買ったんだ、ガツガツ食いなよ」
そう言って、野菜を詰め込んだ紙袋を俺に手渡した。
「あ、はい。どうもすみません」
「ほら、次行くよ」
「・・・おう」
次の犠牲者は誰だ?
「おばさん、豚バラ300gと、鳥の胸肉を200g、それからコロッケ3つサービスして」
「ふう、美夕ちゃんが相手じゃ敵わないね。ちょっと待ってな、今コロッケ揚げるから」
俺はキョロキョロと辺りを見回し、他人のふりをしようと少し離れた。
「ちょっと、何やってんのよ。こっち来なさいよ」
「・・・おう」
やっぱり鬼軍曹だ。
「美夕ちゃんの彼氏かい?」
おばさんは菜箸でコロッケを揚げながら言った。美味しそうな音と匂いが立ち込めてきた。
「そんないい物じゃないですよ」
「大変だね、尻に敷かれてるんだろ?」
「だから違うってば」
おばちゃんは、器用に箸でコロッケを裏返しながら、大きな声で豪快に笑っている。
俺はどう反応すればいいんだろう?
「そうだ、牛筋が余ってるんだよ。持ってきな」
「いいんですか?」
「そっちのお兄さんの苦労に免じてね」
再び、気持ちいい位の豪快な声が響き渡った。
「はいお待ち、また二人でおいで。サービスするよ」
「ありがと」
美夕は紙袋を受け取ると、すぐさま俺に手渡した。おばさんの笑い声が頭の中に響いた。
次はパン屋だ。美夕は自転車から降りると、背負っていたリュックから、数本の牛乳ビンを取り出した。
「おばあちゃん、牛乳持ってきたよ」
「いつも悪いねぇ」
「いいってば、お互い様でしょ?」
おばあさんは牛乳を受け取ると、店の奥に行った。
「ここのおばあちゃんはね、家の牛乳じゃないと駄目なんだ。だから週に一回は届けに来るんだよ」
「へぇ、宅配ってやつか」
「まあね」
美夕と話していると、おばあさんが店の奥から戻ってきた。手に3斤ほどの大きさのパンを持っている。
「はい、いつもの全粒粉のパンね」
「全粒粉?」
「玄米パンのこと。私だって栄養バランスを考えてるんだよ?」
「・・・そっか」
食事を作るのも楽じゃないようだ。色々考える必要がある。そう思うと、母さんの有難みが身に染みた。
「じゃあね、おばあちゃん。また来るね」
そう言うと、美夕は店の外へ出て行った。俺は慌てて後を追った。
「なぁ、お金は?パンの代金は?」
「パンは牛乳と物々交換なの」
「・・・物々交換」
都会では考えられないことだ。土地が変われば、人も習慣も変わるということだ。この町では「ただ通り過ぎるだけの人」は、いないのかもしれないな。
「じゃ、帰ろうか」
「あいよ」
俺は力いっぱいペダルを踏みしめた。
「なぁ、聞きたいことがあるんだけどさ」
俺は風を切る音に負けないように、大きな声で言った。
「なあに?」
美夕は、俺の背中に寄り添うようにし、耳元で言った。少し、ドキッとした。
俺はスピードを落とし、束の間の凪を作った。
「どうして俺とオリンを誘ったんだ?」
いつもの口調で、いつもの声の大きさで、今朝の疑問を問いかけた。
「高一の時にさ、授業サボって帰ったことあったでしょ?」
「ああ、あったな」
そんなの一度や二度じゃない。どの時を言っているのだろう?
「オリンと自転車を二人乗りして、颯爽と自転車を漕いでいる姿を、教室から眺めてて思ったんだ。「あ、この二人なら夢を叶えられるかも」ってね。それで、かな。あの時さ、追い駆けて来る教師をどんどん引き離してたよね。見てて気持ち良かったよ」
「それだけか?」
「ん、まぁ。あんたたち、一緒にいて退屈しなさそうだったし、体力持て余してそうだったしね」
「そっか。それで3人乗りに設計したのか。でもさ、どうして1年の時から誘ってくれなかったんだ?」
「ん・・・どうしてかなぁ…。よく分かんないよ。私だって、自分のこと、全部知ってるわけじゃないしね」
将来設計をしっかり出来ている美夕でも、自分のことを全部知っているわけじゃない。
何だか、また少し軽くなった気がする。
「誰だってそうでしょ?だから、迷うし、悩んだりもする。人間らしいって、そういうことでしょ?」
微かな勇気が、俺の胸の内に生まれた。
「よし、行くぞ。しっかり摑まってろよ」
俺はスピードを目一杯上げた。がむしゃらに、ひたすらに、ペダルを漕ぎ続けた。
道路から抜け出し、草原の中を疾走し続ける。あまりの気持ち良さに頭の中が白く染まっていく。後ろから美夕の笑い声が聞こえる。
「俺、ここに残って良かっ・・・」
俺が言いかけた時、無重力感が全身を駆け巡り、自転車が宙を舞った。
気が付くと、ぼんやりと空を眺めていた。少し離れた場所で、自転車の車輪がカラカラと音を立てている。段差に気が付かず、飛んでしまったようだ。
体に力が入らず、心臓の鼓動に合わせるように、全身に鳥肌が立っていった。自分の心音が、思わずウットリするほど心地いい。
「美夕、大丈夫か?怪我してないか?」
俺はハッと我に返り、首だけを起こして辺りを見回した。
すぐ隣に、美夕の姿があった。美夕は仰向けになって、前身を小刻みに震わせている。
「だ、大丈夫。どこも・・・何とも・・・ないよ」
美夕は声が出ないほどの高笑いをしていて、苦しそうに息継ぎをする合間に、そう言った。そんな美夕を見ていると、再び脱力感に襲われた。力なく首を草の上に落とし、目を閉じた。
「ねぇ。空、飛んだね」
美夕の声に反応して、俺は目を開けた。美夕は足を伸ばして座っていて、片手を草の上につけ、寝そべっている俺を見ていた。
「気持ち良かったねぇ」
俺は上半身を起こした。
「ああ、ゾクゾクしたよ。頭の中が全部吹っ飛んだ」
「私の夢、凪が叶えちゃったね」
ドキッとした。もう一度空を飛んだみたいだ。
「こ、こんなもんじゃないだろ?自分たちで作った飛行機で、空に行ったらさ」
俺は美夕から目を逸らし、散らばった野菜を見ながら言った。
「そうだね。きっとそうだね」
風が静かに止んだ。
「おおい。買い物は済んだのかぁ?」
遠くでオリンの声が聞こえた。上半身裸のオリンが、バケツと釣竿を持って歩み寄る姿が見えた。
「あいつ、やっぱり野生化したみたいだな」
俺はそう言いながら起き上がった。散らばった食材を拾い上げ、紙袋の中へ戻す。美夕も俺に続いた。
「転んだのかよ?」
「ああ、段差に気が付かなかったんだ」
「大丈夫かよ?」
「問題ない。それより、収穫は?」
オリンは無言でバケツを差し出した。中を覗くと、大きなタコがいた。それと、小さい蟹が沢山詰められていた。
「魚は?釣れなかったのか?」
「駄目だった。フグは釣れたんだけどよ、毒があるから海に帰した」
「もったいない。私フグを調理出来るのに」
「マジか?」
「マジ」
オリンは大きな溜め息をついた。
「でよ、岩場に蟹が沢山いたからよ、手当たり次第に捕まえたんだ。それから、海に潜ったらタコがいた」
「どうやって捕まえたんだ?」
「素手でだ。手強かったぜ、オレに絡み付いてきやがった。だが、オレは奴を陸に引きずり出した」
よく見ると、オリンの体にはタコの吸盤の跡が付いていた。まるで心電図の検査を受けた後のようだ。
「陸はオレのテリトリーだからな。負けるわけがねぇ」
「ご愁傷様」俺は心の中で、タコにそう呟いた。
「さすがに疲れた。帰って飯にしようぜ」
「そうね」
俺たちは食料を全て拾い、自転車のかごに詰め込んだ。そして、牧場へと歩き出した。
「頂きます」
手を合わせ、食材に感謝。安くしてくれたおじさんに感謝。コロッケをおまけしてくれたおばさんに感謝。牛乳をパンに交換してくれたおばあさんに感謝。そして、勇敢に挑んだタコに冥福を。
「美味い。やっぱ働いた後の飯は違うな」
一口食べたオリンがしみじみと言った。ちなみに、夕食のメニューは、食材を手当たり次第に入れたシチューだ。コロッケはいいが、器から不気味にはみ出ているタコの足はどうかと思う。
それともう一品。味噌汁だ。オリンが獲ってきたカニを茹で、すり潰し、裏ごしして作った物だ。
「どうした?早く食えよ」
「・・・おう」
シチューを一口食べてみると、見た目とは違い、見事な味をしていた。一日の苦労が報われていく。
「人はこうやって生きていくんだな」
俺は感慨深く言った。
「急にどうしたの?」
「いや、今まではさ、何もしなくても飯が出てきたからさ。食べることに苦労を感じたことなんか、一度もなかった。それが母さんのおかげだなんて、考えたこともなかった」
こんな当たり前のことを、俺は18歳になってやっと分かった。
「帰ったら母親孝行しろよ」
オリンは羨ましそうに言った。
「・・・そうするよ」
何をすれば一番の親孝行になる?俺が立派に生きることか?健やかに生きることか?きっと、どちらも欠けてはいけないのだろうな。
「こんな美味い飯が毎日食えるならよ、農家になるのもいいよな」
「農業はそんな簡単じゃないよ。家畜が病気になったり、作物が病気になることだってある。何かと天候に左右されるしね」
現実はそんなに甘くはないってことか。
「私は農業を楽しいと感じている。でもね、楽しいとだけ感じるのは、私に責任がないからよ。要するに、まだまだ子供ってこと。農業の全てを知って、それでも楽しいって思えるように、私はなりたい」
同じ18歳でも、俺とは随分違う。俺も見つけなきゃな、俺を熱くさせる何かを。
「もう何年も手伝っているけど、自立して農家をするのは私にはまだまだ無理」
「そうなのか?」
「そうよ。だから、大学に通って学ぶんでしょ?」
俺は熱弁を振るう美夕に感銘を受けた。全身がゾクゾクしている。
「凄いよ。カッコいいよ。尊敬するよ」
俺は椅子から立ち上がり、頭を過ぎる言葉を全て口に出した。
「お、大げさだってば」
「そんなことない。今のその気持ちは誇るべきだ」
「オレもそう思うぜ」
「は、早く、食べなよ」
美夕はバレバレの照れ隠しで言った。
俺は今まで、美夕の何を見てきたのだろうな。「気が強い人」としか思っていなかった自分が、恥ずかしく思えた。ものの見方や考え方を変えるだけで、人の違う一面が見えてくる。そのことにもっと早く気が付けば、学校生活がもっと楽しくなっていたのかもしれない。
「凪、醤油取ってくれ」
「・・・何にかけるんだよ?」
夜が深け、暑さが退いた。もうすぐ就寝時間なのだが、俺は外に出て、人力飛行機を作っている建物の方へと歩いた。その途中にある、洋風のトラックのドアを開け、中に入った。最近よくここに来る。何故だか自分でも分からないが、妙に落ち着くからだ。
ギアのレバーに左手を乗せ、右肘をドアの窓辺に乗せる。たったこれだけで、心に静けさが訪れる。
目を閉じて、ここに来てからのことを思い出した。始めてみる風景、いのししを捕まえたオリン。人力飛行機作りに、帰ろうとする俺。オリンの言葉と、美夕の言葉。買い物に行った時のこと、タコを獲ったオリン。
俺は何て面白い人たちと出逢えたんだろう。
二人と出逢えた。それだけで、意味のある人生だと思える。もちろん、これだけで終わらせるつもりはない。
車の中に、窓をノックする音が響いた。
「駐禁か?」
そう言った自分が好きだった。心に余裕がなければ言えない言葉だからだ。大して面白くはないけど。
ノックしたのはオリンだった。俺はドアにあるハンドルを回し、窓を開けた。
「お前、何でニヤニヤしてんだよ?」
「お前のせいだよ」
「あっそ。・・・ほれ」
オリンはステンレスでできたカップを差し出した。中にはコーヒーが入っている。
「お、気が利くな。隣に乗るか?」
「やめとくよ」
オリンは俺のカップに、自分のカップを軽く合わせた。
「そこよりも、こっちの方がいい」
オリンはそう言うと、わらが敷き詰められている荷台に飛び乗った。
「ここなら星がよく見える」
わらが擦れる音を立てた。車が少し揺れた。背中にオリンの気配を感じる。足を伸ばして寄りかかったようだ。
俺はコーヒーに映る星を見た後、カップを口に運んだ。
「・・・苦いな、酸味もある」
「人生の味だ」
「仄かな甘さが欲しいよ」
「それは分かる」
フロントガラスは砂埃を被っていて、ワイパーを動かした跡が、綺麗な曲線となって残っている。俺はガラス越しに、砂埃で濁った星空を眺めた。
「俺はいつも、ガラス越しでものを見ていたんだ」
「ガラス越し?」
後ろからオリンの声が届いた。
「そう。テレビを見ることで、この国の現状を聞いたり、異国の風景を見たりした。それで全てを知った気になっていたんだ。自分の目で、何一つ見たことないくせにさ」
「別に珍しくない。今の時代、そんな奴ばかりだ」
「本物の草原を自分の目で見た時、こんなに感動するとは思わなかったよ」
草原だけじゃない。牛やヤギを見たのも初めてだ。買い物しながら、お店の人と話をしたのも初めてだ。勿論、人力飛行機を作るのも初めての経験だ。
「俺はいつの間にか、生きることに現実味を感じなくなっていたんだ。だから、未来が見えなかった」
「成長したじゃねぇか。それで、どうするんだ?」
「まだ分からない。けど、もっと自分の目で、色んなものを見てみたい。もっと、色んな人と話をしてみたい。今はそう思っている」
車が揺れた。そして、土を踏む音が聞こえた。
荷台から飛び降りたオリンは、運転席の窓に、腕を組んで両肘を乗せた。
「お前のことだ、「もっと早くそう思っていれば」って考えているんじゃねぇか?」
俺は無言で頭を掻いた。
「遅すぎることなんて何もないぜ。やるか、やらないかだ」
オリンはそう言うと、コーヒーを一気に喉へ流し込んだ。
「人を羨んでばかりいるのは、もうやめた。俺も行動するよ。お前みたいに、家族と向き合う。美夕みたいに、やりたいこと見つけるよ」
「それでいいさ。遅す」
「遅すぎることなんて何もない。だろ?」
オリンは笑って両手を小さく掲げた。
「なぁ、美夕の奴、もしかして飛行機作っているんじゃねぇか?」
オリンの目線を追うと、いつも作業している建物から、明かりが漏れているのに気が付いた。
「そうかもな、もう寝る時間なのに」
「ちょっと見てくる」
そう言うと、オリンは俺にカップを差し出した。
「お前が洗えよ」
俺がカップを受け取ると、オリンはポケットに手を突っ込み、建物へ向かって歩き出した。
「・・・ありがとな」
俺は、次第に小さくなっていくオリンの背中に向かってそう言った。
俺は残っていたコーヒーを流し込んだ。冷めたコーヒーは、すんなりと喉を通っていった。
「卒業したら、旅に出てみようかな」
ふと、そんなことを考えた。
多くの人と出会い、学ぶ。それが俺にとって、大きな財産になるのではないだろうか?この広い世界を、俺はどこまで自分の足で歩くことが出来るのだろうか?
「・・・窓越しは卒業だな」
俺は窓を閉め、車から降りた。濁りのない空に向かって背伸びをすると、微かな勇気が生まれた。
「遅いな、オリンの奴」
建物からはまだ光が漏れている。オリンのことだ、ミイラ取りがミイラになった可能性は十二分にありえる。
「俺も手伝うかな」
俺は建物に向かって歩き出した。
もしかすると・・・二人がいい感じになっているのかもしれない。もしそうなら、俺が邪魔するわけにはいかない。
そう考えた俺は、少し開いている扉に忍び足で近寄り、眩しい光に目を細め、耳を扉に近づけた。
「私・・・どうしたらいいのか分からない」
「何が?」
微かに二人の声が聞こえた。虫の声がうるさくてよく聞こえない。俺は耳をドアに押し付けた。
「私ね、凪のこと、好きになっちゃったみたい。・・・どうしよう」
「どうしよう・・・って、言われてもよ」
・・・どうしよう。




