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風のように、雲のように、気ままに漂い流れたい。
ここで目覚めて、感じた素直な気持ち。聞こえはいいかもしれないが、実際はただの逃げ文句だ。それは分かってる。けど、もう少しだけ、開放させてほしい。崖越しの海を眺めながらそう自分に願った。
「凪、ここにいたのかよ。てっきり美夕に捕まったと思ったぜ」
オリンの声に振り返ると、信じられない光景が飛び込んできた。その光景に、俺は思わず仰け反った。
オリンは上半身裸だった。割れた腹筋に、盛り上がった胸筋、見事な体つきだった。しかし、驚いたのはそこじゃない。オリンはいのししを引き連れていたのだ。
「おおい何だよそれぇ」
「こいつか?オレの戦友だ」
オリンは親指でいのししを指差して言った。
「おいふざけんなよ、答えになってないぞ」
いのししに睨まれた俺は、退きながら言った。
「そんなにビビんなよ」
「無理だって」
それほど大きくはないが、野生の動物だ。本能で襲ってくるかもしれない。
「森の獣道に行ってきたんだ。そこで襲われたんだよ。格闘の末、オレはこいつの額に必殺パンチを叩き込むことが出来た。よく言うだろ?拳を交えると分かり合えるって。動物も例外じゃないぜ」
よく見ると、いのししの額の部分の毛並みが、ミステリーサークルのように螺旋を描いていた。コークスクリューで仕留めたのか?
「ほ、本当に大丈夫なんだろうな?」
「心配すんな、ちゃんと言って聞かせる」
「飼うつもりかよ?」
「まあな」
あっけらかんとした声を聞いた俺は、溜め息をつきながら顔に手を当てた。
「二人で何してんの?」
作業着を着た美夕が、何処からともなく現れた。
「いのししじゃない。何処から連れてきたのよ?」
「裏の森の獣道だ」
オリンは崖の反対側を指差した。
「あの森にはね、入っちゃいけないの」
「そうなのか?」
「そうなの。言わなかった私が悪いんだけど、もう行かないでよ」
「悪かった、もう行かない」
オリンは素直に反省した。こういう奴なんだよな。
「でも丁度良かった。食料を調べたら、野菜と果物とチーズしか残ってなかったんだ」
「お、おい美夕、何言ってんだ?食うつもりかよ?」
「そうよ、それが自然の掟だもん」
美夕は涼しい顔で言った。
「さぁ・・・いらっしゃい」
美夕はいのししの顎を撫でながらそう言った。そして家に向かって歩き始めた。いのししは美夕の顔を見上げながら、美夕の後を追った。
「何て・・・」
「おっかねぇ女だ・・・」
食卓には美夕の手料理が並んでいる。俺とオリンは、皿に盛られた肉料理を無言で見下ろしていた。
「さぁ食べましょう。いっぱい食べてよ」
「・・・ウリ坊」
オリンは肉料理を見ながら、悲しそうに呟いた。
「安心してよ、これは豚肉だから」
「本当か?ウリ坊はどうした?」
「森に帰したよ」
「そうかそうか。これで飯が食える」
オリンは箸を持ち、食事を始めた。
「二人ともよく聞いて」
美夕は箸を置いた。俺とオリンもそうした。
「野生の動物を、人の住処に連れてきてはいけないの。人に慣れたら、動物は森を出て穀物を荒らすようになるの。それがどれ程農家にとって大変なのか分かって」
「ごめん、悪かった。反省する」
オリンは深々と頭を下げた。
「人と動物の共存っていうのは、一緒に暮らすことだけじゃないの。互いの住処に踏み入らないことも一つの共存。私はそう思うよ」
自分の考えを持っている美夕が、とてもカッコ良く見えた。そんな美夕を見ていると、何も考えていない自分が情けなく思えてしまう。
「それから「捕まえたいのししを殺して食べる」そう聞くと残酷に思うでしょうけど、今食べている豚肉だって、誰かが育てて、誰かが殺したものなんだよ。それも分かって」
オレは今まで、鳥や豚や牛を当たり前のように食べてきた。でも、肉を食べるということは、そこに動物の死があるということ。俺はそれを考えたことがなかった。自分の手を汚していないからだ。
「美夕のおかげで気が付くことが出来たよ」
「オレもだ、ありがたく食べるよ」
俺とオリンは改めて「頂きます」と言った。
「食べ終わったらいい物見せてあげるから、楽しみにしてて」
「いい物って?」
「私の夢」
美夕はそれ以上言わなかった。「夢」という言葉に、俺の興味は強く惹きつけられた。
外へと繋がっているドアを開けると、夜の草原が虫の声を従えて迎えてくれた。ドアを通り抜け、白いペンキが剥がれかけている板の上を、ゴツゴツと音を立てて一歩二歩と踏み出した。
「草原に星の海、澄んだ空気と虫の声。悪くないな」
オリンは手摺りの上に両肘を乗せて感慨深く言った。
「何してんの、置いてくよ」
「今行くよ」
俺は小走りで美夕の後を追った。オリンは手摺りを飛び越え、俺と同じく美夕の後を追った。
美夕は家の裏の方へと歩いていく。後を追う俺は、一台の車に目を惹かれた。洋風の、荷台が長いトラックだ。砂埃をかぶっていて、草臥れた感じの哀愁が漂っている。荷台にはわらが敷き詰められていて、思わず飛び込みたくなる気を起こさせる。
俺は名残惜しい気持ちを抑え、美夕の後を追った。美夕の向かう先には大きな・・・納屋と言うか、小屋と言うか、ガレージと言うか、とにかく、二階建てアパート位の高さの建物が建っていた。
美夕はその建物の前に来ると、身を屈め、何やらガチャガチャと音を立て始めた。そっと覗き込むと、大きな南京錠を外しているのが分かった。
「よし、はずれた」
鍵をはずした美夕は、力いっぱいトタンでできた扉を引き始めた。錆びた鈍い音が夜の草原に木霊した。
「ちょっと、見てないで手伝ってよ」
「お、おう」
俺とオリンも加勢してドアを引き開けた。人が楽に通れる位にドアを開けると、中から何とも言えない不思議な匂いがしてきた。美夕が中に入ったので、俺とオリンも続いた。
窓から差し込む、僅かな月明かりだけでは中がよく見えない。目を凝らして辺りを見回すと、大きなシルエットが闇に溶け込んでいるのが分かった。
「今明かりを付けるから、驚いてよね」
美夕は嬉しそうに言った。
カチっとスイッチを切り替える音が聞こえると、天井にぶら下っている幾つもの裸電球が輝きだした。突然の明かりに目を細めながらも、俺はシルエットの正体を見極めた。
「おい、これってよ、飛行機、だよな?」
オリンは興奮を抑えながら言った。
「そう。正確には、人力飛行機」
建物の中は教室6個分位の広さで、見たこともない工具や資材が置いてあった。そして、作りかけの人力飛行機が眠っていた。
人力飛行機は、まだ骨組みの部分も多く、プロペラも付いていない。しかし、その様子こそが、心をくすぐる役目を担っている。
「これ、飛ぶのか?完成したら飛ぶのか?」
オリンはさっきよりも興奮した声で言った。
「もちろん。ちゃんと計算して作ってるよ」
「スゲェじゃんか。頭いいのは知ってたけどよ、こんな物作っちまうとはなぁ」
「まだ作り掛けだってば」
「いいや、俺には見えるぞ。完成したこいつが空を舞うシーンがな」
今のオリンは「未知なる物を目の当たりにした少年」のように見える。
「私の夢は、おじいちゃんの牧場を継ぐこと。でもそれだけじゃない。空を飛ぶことが、私のもう一つの夢。ここまで作るのに2年掛かったけど、後一息。どうしても高校を卒業するまでに空を飛びたい。それができたら、私はもう一つの夢に専念できる」
美夕は自分の将来を持っていた。それがたまらなく羨ましかった。焦らずにはいられない。
「ねぇ、空を飛ぶ夢、手伝ってくれない?」
「勿論だ。こっちから頼みたい位だぜ。是非やらせてくれよ。凪、お前もやるだろ?」
「・・・ああ」
俺はオリンほど乗り気ではなかった。自分の将来が見えていないのに、人の夢を手伝う気にはどうしてもなれない。だからと言って断れない。それが、今の正直な気持ちだ。
「ありがと。本当に助かるよ」
美夕の心の底からの感謝に、俺の胸は痛んだ。
「オレも一緒に夢見させてもらうぜ」
「作業は明日からにして、今日はゆっくり休みましょう」
美夕はスイッチを切り、電気を消した。飛行機はシルエットに変わり、再び闇に溶け込んだ。
「凪、起きてるか?」
床について2時間位だろうか、興奮して眠れない様子のオリンの声が耳に届いた。
「起きてるよ、どうした?」
「楽しみで眠れねぇ。こんな気持ちは久しぶりだ」
「俺も眠れないよ」
俺は思考の罠に掛かかって眠れない。悪い癖だ。逃げようにも逃げられない。振りほどこうにも振りほどけない。しっかりと捕まえられた俺に、なす術はない。
「美夕の奴、ちゃんと自分の道を見つけていたな」
「・・・そうだな」
「カッコいいよな」
「・・・そうだな」
俺は妬む気持ちを必死に抑えていた。これ以上、落ちぶれたくない。
「何かさ、変な気持ちだ」
オリンは寝返りを打ちながら言った。
「惚れたのか?」
気を紛らわせようと、俺は冗談でそう言った。
「そうなんだよ」
意外な答えに、俺は上半身を凄い勢いで起こした。
「・・・マジ?」
「マジだ。前から少し、気にはなっていたんだ。けど今日ハッキリ分かった。オレは美夕に惚れている」
俺は鼻で息を吐きながらゆっくりと上半身を寝かせた。
「だから全力で夢を叶えてやりてぇ」
オリンは再び寝返りを打った。
「オレも空を飛んでみたいしな」
オリンはそう付け加えると、静かに息を吐き出した。
最後の会話から1時間位たっただろうか。オリンから安息の吐息が聞こえてきた。オレに安息が訪れるのは、一体いつだ?
金属を叩く鋭い音が寝室に響いた。何度も何度も必要に鳴り続けている。あまりの驚きに身を小さくして耳を塞いだ。混乱する頭で想像できたのは、戦時の空襲だった。
「ほ~ら~起きなさ~い」
音は鋭さを増し、俺に突き刺さってきた。空襲だろうと何だろうと、起きなければ俺には死が忍び寄るだろう。
俺は勢いよく飛び起きた。ぼやけた視界に映ったのは、お玉で鍋を叩き続ける、エプロン姿の美夕だった。
「まだ続けようか?」
「起きた起きた、起きたってば」
寝室に静けさが戻った。俺はゆっくりと息を吐いた。生の実感が全身を駆け巡った。
「本当にこんな起こし方をする奴がいるとは思わなかったぞ」
俺は左手で顔を擦り、掠れた声で言った。
「一度やってみたかったんだ」
爽やかな声の美夕。心が満たされたからだろうか?
「俺で試すなよな・・・」
そう言いながら、壁掛け時計に目を向けた。時計の針は7時5分前を指している。
「まだ7時じゃないか」
「牧場の朝は早いの。7時でも寝坊なんだから」
俺は農家には向いていないようだ。それが分かっただけでも、来た意味はあるな。
「もう少しで朝ごはんできるから、顔洗っといでよ」
美夕の声は聞こえていたが、頭には入っていなかった。ボーっとしながら辺りを見回すと、オリンがいないのに気が付いた。
「・・・オリンは?」
俺の声はまだ掠れている。
「とっくに起きたよ。ランニングに行ってくるって出てったよ。毎日の日課なんだってさ。少しは見習いなよ」
「はいはい」
俺が頭を掻いていると、美夕は寝室を出て行った。美夕がいなくなると、ここぞとばかりに睡魔が手招きし始めた。優しく抱き留めてくれそうだ。だが、時計の秒針がガチガチと音を立て、それを阻止している。
「電池抜くぞ」
そう吐き捨てた後、俺は洗面所に向かった。
「頂きます」
俺もオリンも、昨日のことを忘れていない。そんな声だ。
「変わった味のする牛乳だな」
「牛乳じゃなくて、ヤギの乳。搾りたてよ」
どうりで温いわけだ。
「このチーズも自家製か?」
と言ってパンにチーズを塗るオリン。「どっちがパンだ?」と思うほどに厚みがある。
「そうだよ。他にも、ヨーグルトや牛乳豆腐も作ってるよ。」
「そりゃ凄い。いい仕事してるぜよ」
良くも悪くも、いつものオリンだった。自分の気持ちを知っても態度を変えていない。
「確かに美味いよ」
オリンを見ていると、不思議と素直になれた。
「でよ、今日から何をすればいいんだ?食ったらすぐに作業に掛かるんだろ?」
「そうしてくれると助かるよ。でも私は牧場の仕事をしなきゃいけないんだよね」
「その間にできることはねぇのか?」
「設計図と、作り方の詳細を書いた紙を渡すから、できる範囲でやっててよ。午後には私も参加するから」
「了解だ」
二人の本気さが痛いほどに伝わってきた。
俺は何故痛いと感じるんだ?俺が本気じゃないからか?まさか、場違いだとは思ってないだろうな?
俺は粘り気のあるヨーグルトを、スプーンで何度も上に伸ばしながら、自問自答を繰り返した。
「え・・・っと、まず、リブってやつを作らなきゃいけないようだ」
「リブって何だ?」
「翼の断面形状を維持するものらしい」
オリンが作り方の詳細を見ながら言った。
「どうやって作るんだ?」
「まずは、反りのない平らな板を準備する。そこにガイドレールを平行に貼り付ける。だそうだ」
「ガイドレールってどれだ?」
俺は沢山の資材と工具を見ながら言った。
「さぁな、とにかく見てみようぜ」
俺とオリンは当てもなく彷徨い始めた。そしてすぐに気が付いた。全ての工具と資材に、名前が書いてある紙が張られていることに。
「凪、あったぞ。ガイドレールって書いてあるぜ」
探し出すのは簡単だった。それ以外にも必要なものがあったが、全て探し出すのは容易なことだった。
「オリン、昨日この紙は張られていたか?」
「さあ、どうだったかな」
「もしかして美夕は、あれから全部の名前を書いて貼り付けたんじゃないか?」
「かもな」
「・・だとしたら」
俺は早朝の自分が憎くなった。
「それだけ本気ってことだ。なら、俺たちも本気で臨むのが筋ってもんだろう」
俺は・・・ここに居ていいのだろうか?居る資格があるのだろうか?
忍び寄る不安と葛藤。出口の見えない迷い。俺は・・・。
「凪、始めよう」
「・・・おう」
オリンは目を閉じ、精神を集中し始めた。徐々に整っていく呼吸。「嵐の前の静けさ」という言葉が頭を過ぎった。「格闘技は精神の鍛錬なんだぜ」と以前オリンが言っていたが、それを今、俺の目の前で証明した。オリンがゆっくりと目を開けると、静けさの中に独特の威圧感を感じた。青い瞳には断固たる決意が宿っている。吸い込まれそうな魅力があったが、俺は気圧された。同じ志を持っていない、俺の心のせいだ。
「よし、やるぞ」
オリンは十分に熱を帯びた熱線カッターを持ち、板をスライスし始めた。
「どうだ?」
「いいんじゃないか?見事なもんだよ」
俺はスライスされた板を手にとって言った。
「いい感じだけど、ちょっと切り口が粗いかな」
美夕が俺の肩から顔を覗かせて言った。突然の声に俺は驚いて、前方に大きく仰け反った。
「危ねぇ」
オリンは素早く熱線カッターを退けた。
「美夕、脅かすなよ」
「ごめんごめん」
美夕は手を合わせながら言った。
「脅かすつもりはなかったんだよ」
「集中しすぎて気配に気が付かなかったぜよ。それより、これは失敗か?」
オリンはスライスした板を指差して言った。
「失敗って程じゃないけど、もう少し滑らかな方がいいね」
「・・・そうか」
オリンは残念そうに言った。
「でもこれは熱線のせいね。道具にも気まぐれはあるからね」
「そうなのか?」
「勿論。さ、気にしないで続けよう」
「道具にも気まぐれはある」かぁ。社会に出たら、俺は機械のように、与えられた業務をこなすのだろう。深く考えず、ただ従い、忠実に動く。まるでロボットのようにだ。ずっとそう思っていた。けど、道具に気まぐれがあるのなら、俺にだって感情がある。そんな俺を、社会は受け入れてくれるのだろうか?
「凪、こっちを手伝ってくれ」
「・・・今行くよ」
また悪い癖に飲み込まれてしまった。俺は頭を振り、狭い思考の中から、浸かりかけた足を引き戻した。




