悠久の風
悠久の風
冷たい風を避ける為に訪れた店。
流行ってない異国のパブ(居酒屋)で、俺は風変わりな人と出逢った。
(・・・こんな所で)
ギターを弾き語る日本人。しかも、お構いなしに日本語の曲を弾き続けている。
(・・・知らない曲だな)
赤提灯に誘われたサラリーマン。ネクタイを緩めて、店に流れるラジオを聴きながら溜め息をつく。そんな感じだ。
曲が終わると、まばらな拍手が起こった。俺も合わせて拍手を贈る。
「彼」は拍手が鳴り止むと、すかさず次の曲を演奏し始めた。
「!」
それは、Cコードから始まる、ジャズの歴史的名曲。あまり聴かないジャンルだったが、この曲は知っていた。あの夏、ラジオから流れていたからだ。
「・・・、」
草原を吹き抜ける風の音。
作業場の柱から流れ続けていたラジオ。
ふと足を止め、聴き入るあの瞬間。
夏の足音と一緒に聴いた、思い出の音。
リズムに乗せた、美夕の鼻歌が聴こえる。
「・・・う」
俺を見て、口元を緩めるオリン。
「・・・うって」
その時・・・俺は胸が鳴っていた。
「ようって」
(!)
「あ・・・っと、」
「あんた、日本人だろ?」
「あ、」
言葉が出ない俺は、何度も頷いて答えた。
「俺より若そうだ、いくつだい?」
「t・・・、」
久しぶりに聞く日本語。答えが出て来ない。片言の英語が浮かんで来るだけで。
「・・・21、です」
「・・・大丈夫か?」
「、はい」
いつの間にか演奏は終わっていて、さっきまで弾き語っていた日本人が、今は俺の隣にいる。
「すいません。こんな所で、同じ国の人と会うとは思ってなくて」
「そうか?日本人なんて何処にでもいるぞ」
「そうですか?」
「あぁ、ここでは日本語しか出来なくてもここでは生きていける」
それは同感だった。単語を並べるだけでも何とかなる。現になっていた。
「それに、日本で買える物は大抵手に入るしな」
確かに。さっき豆腐見かけたし。探したらおにぎりもありそうだ。
「もっと注文しな、奢るよ」
彼はそう言って、メニューを差し出した。
「あ・・・すいません、読めなくて」
「適当に頼めばいいさ。これも出会いだ」
そう言って、彼はメニューを指差していくつか注文をした。そんな姿の彼に、俺には無い楽観さが見えた。
(・・・いいな。こういうの)
「なぁ、聞かせてくれないか?」
「・・・何を?」
「さっき、音楽を聴きながら思い出していたことをさ」
今まで、あの夏のことを誰にも話したことは無かった。何故なのか、自分でも分からないけど。
「いいですよ」
思い出させてくれたこの人に、話したいと思った。故郷の裏側で。
今、この場所で。
今までで、最も輝いていた記憶。誰にでもあるであろう、その瞬間、その一時。
思い出す度に空を見上げてしまうその記憶は、異国の空ですら、その瞬間の空に変えてしまう。風の匂いも、心の姿も。
「なるほどね。いい話じゃないか」
彼はそう言って、頼んだカクテルを飲み干した。
「それで?故郷が懐かしくないか?」
「・・・故郷」
不思議と、あの家が思い起こされた。赤い屋根の家。白いポーチがある家。軋む階段の音。砂埃をかぶった、古い車。
「ま、故郷が一つとは限らないさ」
彼は俺の思いを見透かして言った。
「・・・そのようです」
「順番、逆になったけど、名前は?」
「・・・凪。・・・あなたは?」
そう問い返すと、彼は天井を指差した。
「空。卯月、空」
二月の空。彼はそう答えた。
「君の仲間になれそうな名だろ?」
「、そうですね。不思議な縁を感じます」
「そうだな。異国の空の下で出逢ったしな」
・・・店の中だけど。
(思うだけにしておこう)
「空さんは、どうしてここに?」
「君と同じで、「その時」が来たからさ」
「聞かせて下さいよ」
「ん・・・まぁいいけど、」
空さんは壁に掛けられた時計に目を向けた。針は12時を指している。
「もう店じまいだ。場所を変えよう」
そう言って席を立ち、マスターと話し始めた。流暢な言葉で、俺の語学では聞き取れない。僅かな単語ですら、耳をすり抜けていく。
「行こうか」
「あの、会計は?」
「あぁ、1時間演奏するから、飯を振舞ってくれ。それが俺とこの店の契約だ」
「・・・なるほど」
培った技能で生きる。凄いことだけど、それ以上に契約の内容に驚いた。
俺は空さんの後に続いた。
外は冷たい風が吹いていた。ポケットに手を入れ、肩を上げて白い息を吐いた。息を吐く音が震えて揺れる。
「寒いな。酔いが覚めていくよ」
俺には分からない感覚だ。
「もう宿は取ったのか?」
「いえ・・・まだです」
「なら、俺が世話になっているホテルに来いよ。タダで泊まれるぞ」
頭に「契約」の言葉が浮かび上がった。
「何をすればいいんですか?」
「一日掛けてホテルを掃除すればいい。それだけだよ」
そんな方法、思い付かないよ。普通は。
「同じ部屋でいいから、って言えば何とかなるだろう」
彼がそう言うと、本当にそんな気がしてきた。
(ちょっと・・・羨ましいな)
そんな生き方が出来る彼を、俺は慕い始めていた。対極と思えるその性格に、引かれ始めていた。
(その時・・・か)
彼にどんな瞬間があったのか。それを知りたくて仕方なかった。それすらも・・・俺と対極なのだろうか。
(思えば・・・遠くへ来たもんだな)
考えてみれば、名前も知らない場所を歩き続けていた。初めて見るものばかりで・・・と言うか、そんな事ばかりに目が向いた。
気が付けるようになった。という言い方が正しいのかもしれないか。今だって、安いホテルに知り合ったばかりの人と一緒にいる。
(こうも驚くことが続くと・・・慣れてくるモンだな)
部屋に携帯の充電が完了したときの音が鳴り響いた。
手に取って開いてみるが、相変わらず電波がない。
(海外でも使えるかどうかなんて・・・契約の時に確認しないって)
と、思い返したところで電波は生まれない。
「・・・」
みんなとは、日本を出てから一度も連絡を取っていなかった。
(帰ったら殴られそうだな)
その代わり・・・と言うか、メールボックスには未送信の文章が山ほどある。
(届かない手紙・・・)
読み返してみると、自らの足跡が全て分かった。行った場所も、思ったことも・・・想ったことも。全て青い言葉で綴られていた。その言葉は全て、届けられずにここにある。
(・・・その時って、いつなんだろう)
そんな心の声に答えるように、空さんがシャワーから出てきた。
「バスタオル一枚しかないんだ。別に、いいよな?」
「えぇ、気にしません」
「君も入ったら?」
「朝にします。今入ったら・・・風邪引きそうですから」
ここは暖房の無い部屋。とは言え、タダで雨風を凌げるのなら文句は無い。
「それもそうか。病院に行く羽目になったらヤバイしな」
俺はそそくさと携帯を閉じ、ポケットに突っ込んだ。
「ところで、いつ国に帰るんだ?」
「・・・っと、まだ、分からないです」
動揺しながらそう答えた。
「まぁ、分からんでもないがね」
何が?と思ったけど、口にすることは出来なかった。
「ほら、コーヒー」
「あ、すいません」
「ルームサービスは無いけど、お湯はあるからな」
彼の入れたコーヒーは香りが良く、濃い味わいがした。
「もう3年になるって言っていたな」
「はい」
「色々と学んだろ?」
「・・・そう、ですね」
「じゃあ帰らない理由って何だ?まだ見たい、知りたいことがあるのか?」
「・・・っと」
答えられなかった。これと言えるのは無かったからだ。有りもしない理由を答えるのも嫌だった。
「国に帰って、彼女と農場をやっていくのが嫌なのか?」
「そんなこと、ない」
が・・・不安はあった。
「無いのは決意か?」
「・・・」
その通りだった。
自分でも分からない、言葉に出来ない気持ちがあった。その正体が分からず・・・ただ切ない気持ちが心を縛り付ける。
「済まない、こんなことを言うつもりじゃなかった。でも、何となく・・・昔の俺と似ている気がしてね。それでさ」
「いえ、」
「俺の話をするんだったな。俺の「その時」の話」
「聞かせてくれるなら」
「俺は山に囲まれた田舎で生まれた。いわゆる、盆地ってヤツだ。隣町に行くには国道を通るしかなくてな、車がたくさん走っているから自転車では通るなって学校から言われていた」
空さんは語りながらタバコに火を点けた。立ち昇る煙が寂しげに天井に届く。
そんな風に感じた。
「だから、あの田舎町が全世界だった。そんな暮らしだったな」
(・・・)
何となく・・・分かる気がした。他を知らない、あの頃の自分が脳裏を過ぎる。
「中学一年の時だ。ちょっと・・・気になる子がいてね。と言っても、恋愛感情かどうかは分からない。ただ・・・その子を見ていると、気持ちが向いてしまうんだ」
それも・・・ちょっと分かる。自分の気持ちが分からない、そんな心。
「夏休み最後の頃の朝に、その子を見かけたんだ。俺が声を掛けたら、「・・・帰りたくない」ってその子は言った。朝からそんなことを言うなんておかしいなって思ったけど、何も聞かなかった」
タバコの煙を吐く息が、溜め息に聞こえた。
「俺はその子を自転車の後ろに乗せて走った。行き先も考えずにただ走った。・・・そして、町外れの国道に行き着いた」
「俺は止まらず駆け抜けた。遠くへ行きたいなら、叶えてあげようと思ってな。緩やかな坂も、急なカーブも、構わずペダルを漕ぎ続けた」
俺は息を飲んだ。空さんに呼応するように。
「その子は・・・何も言わなかった。ずっと遠慮しながら俺の服を摘んでいたよ」
何もかもが・・・自分の記憶と繋がってしまう。そして祈ってしまう。ハッピーエンドであるように、と。
「夕方になる少し前くらいに、俺たちは河原に辿り着いた。ススキが一面に並ぶ大きな河原だ。その光景を見たその子は、小さく声を上げた。・・・そして、自転車を降りた」
空さんは根元まで辿り着いたタバコを灰皿に押し付けた。そして次のタバコをくわえ、ライターを手に取った。・・・でも、感情を抑えるように息を吸い込むと、彼は火を点けずに手の平でライターを握り締めた。
「ススキは・・・しゃがんだ俺たちと同じくらいの背丈でな、見えそうで見えない向こう岸を・・・二人でずっと眺めていたよ」
彼は鼻で笑うように、短い息を漏らした。
「そしてそこが家出の終点。俺たちは警察に補導されて、親を呼ばれた。彼女の親は「そこまで行けない」と答えてな、結局、俺の親父の車で送る事になった」
そこまで一気に吐き出し、タバコに火を点けた。
「・・・悔しかったよ。俺が必死に半日掛けて歩んだ道を・・・たった1時間で、大人は追い越してしまったからな。・・・でもそれ以上に・・・どこか諦めたような彼女の顔の方が・・・胸に刺さった」
もう・・・何も想えなかった。
「初めて・・・悔しさで拳を作ったっけな。親父は家に帰った後、そんな俺に何も聞かなかった。そして車に俺を残し、先に家に入った」
俺の親父も・・・そうしたかも。
彼は静かに煙を吐き出した。どう、声を掛けていいか分からない俺は、ただ沈黙を共に過ごした。
「その子は・・・その日に亡くなった。親に暴行されてな」
全身を冷たい風が駆け抜けた。荒れ狂う鼓動が激しく胸を叩いた。押さえ付けるようにシャツの胸元を掴んだが、鼓動が拳から漏れてくる。
「葬式の時・・・その子の親父に殴りかかったけどな・・・。子供の拳は、大人には届かなかった」
俺はこの拳を・・・誰に向ければいい?
「それが・・・「その時」?」
「その時・・・だったのかもしれないな。でも、青いガキは一人では何も出来なかった」
乾いた空気が喉に張り付く。俺は思い出したように、コーヒーを流し込んだ。
「あの子から死を学べなかった。理解も消化も出来ない複雑な心理だけが残った」
その痛みに耐えるように、俺はカップを強く握り締めた。
「それから10年以上後の話になるが、俺の親友が事故で亡くなった。それを境に、当時いつも一緒に遊んでいた仲間と会う回数が減って行った。仕事が忙しくなったりとか、出世したりとか、そんな理由もあってな」
大人の現実、なんだろうな。
「ある日、その親友の部屋から手紙が見つかったんだ。仲間に出そうとした手紙でね、中には写真が何枚か入っていた。それと、「捜してみろ」ってメッセージ。その写真の一枚に、あのススキの場所があった」
繋がった。
「その場所に仲間と車で行って・・・俺は初めて向き合った。子供の頃に生まれてしまった、複雑な心理と」
(・・・)
「そして今、ここにいる」
「どうして・・・国を出たんですか?」
「それは秘密だ」
と言って、空さんはカップを唇に当てた。
「それを知ったら、この物語を読む楽しみが減ってしまうからな」
(この・・・物語?)
誰かへのメッセージ。そんな気がした。
「まぁ、何の為に生きているのか分からないとか、死んだように生きているとか、そんな時だったからな、思う事や、学ぶ事は多かったよ」
それが・・・今へと導いたのだろう。後悔の無い彼の姿に、俺は自分が小さく見えた。
「誰だって将来は不安なもんさ。その不安を何もせずに持ち続けると、そんな生き方になってしまう。君も片足突っ込んでいるんじゃないか?」
・・・図星だった。
「思い当たるか?」
「・・・まぁ」
「俺たちは・・・人が創った物の上にいる。このホテルもそう、ギターもそう、紙もペンも、誰かが創った物だ。未来には何もかもが必要なのさ。農家だって人を育むには欠かせない存在だ」
(・・・育む)
(人はこうやって生きていくんだな)
あの夏・・・心から漏れた言葉。あの時、あの瞬間に学んだ事を・・・俺は忘れていやしないか?
「金の価値と、生きることは別だぞ?俺がその証明だ」
何もかも分かっているように、彼はそう言った。
「心に従え。命を学んだ者ならできる筈だ」
彼のその言葉で、今宵は幕を閉じた。
白々と夜が明ける頃、俺は静かに目覚め、ぬるいシャワーを浴びた。寒空とは違い、あの夏の記憶が心の中を飛び交っていた。
(釣りしたり、野菜を育てたり、家畜の世話をしたり、物々交換したり、コロッケをサービスして貰ったり・・・空を飛んだり、か)
単純に・・・戻りたかった。繰り返したかった。
始まりはそれでいいのかもしれない。不安な未来を想像したって・・・何も生まれはしない。
(道を知っている。ということと、実際に歩くというのは違う。・・・この旅で、最初に学んだことなんだけどな)
蛇口を捻ると、「ドン!」とウォーターポンプの音が鳴った。
「っるせ!」
「・・・よう、今何時だ?」
シャワーから出ると、寝ぼけた空さんがベッドの上でそう唸った。
「7時です」
「・・・もうそんな時間か」
「コーヒー、入れますよ」
「ん」
そう喉を鳴らした。そしてタバコに手を伸ばす。
「ホテルの仕事は何時からですか?」
「8時だな。8時から5時まで」
「その後はまた演奏に?」
「そう。その生活が結構気に入ってんだ、しばらくはそうする。宛てが無いなら君も一緒に歩むかい?」
「・・・いえ、宛てなら出来ました。たった今」
「・・・そうかい」
目を細めて煙を吐く空さん。
「エアメールの出し方、教えてくれませんか?」
「・・・おうよ」
今がその時、そう確信した。
(もう迷わないよ)




