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第9話:背中を預ける

 咆哮が消えないうちに、オークが動いた。


 棍棒が、横に薙がれた。

 ルカが後ろへ跳んだ。丸太の先が、さっきまでルカの胸があった場所を通り過ぎ、そのまま横の岩に叩きつけられる。


 岩が、割れた。

 拳ほどの破片がばらばらと飛び散り、カナメの足元まで転がってきた。


 ルカは着地と同時に踏み込んでいた。振り抜いた直後の、オークの右の前腕へ、剣を斜めに走らせる。

 刃は入った。


 入っただけだった。灰緑色の皮膚に赤い線が一本引かれ、じわりと血が滲む。木の皮を削ったような、浅い傷だった。


 オークは、自分の腕を見もしなかった。


 棍棒が、今度は真上から落ちてきた。ルカが横へ転がる。地面が鳴った。羊の骨が跳ね上がり、床の岩に蜘蛛の巣のような罅が走る。


 カナメは、息を止めてそれを見ていた。

 一発でももらったら、終わる。


 腕で受けるとか、腹で耐えるとか、そういう話じゃない。当たったところが、なくなる。

 喧嘩の相手じゃねえ、と思った。殴り合う距離に入っていい相手じゃない。


「下がれ! 入口まで下がれ!」

 ルカが叫んだ。ラデクがエリシュカの腕を引き、来た通路の口へ下がる。カナメも半歩下がりかけた。


 オークの頭が、そちらへ向いた。


 来る。


 巨体が、前に倒れ込むように踏み出した。一歩。二歩。三歩目で、もう通路の口とルカの間に割り込んでいた。


 速い。

 あの図体で、こんなに速いのか。


 ルカが横から斬りつけて、ようやくオークの足が止まった。棍棒が振り回され、ルカが転がって逃れる。


 背中を見せて走ったら、追いつかれる。四人まとめて、あの通路の中で。


 カナメは、オークの足を見た。


 踏み込みはでかい。速い。だが、まっすぐだ。振りも、全部大振りだ。止まって、振って、また止まる。


 避けるだけなら。

 避けるだけなら、たぶん、なんとかなる。


「俺が殿(しんがり)務める! お前ら先に行け!」

 声が出ていた。


「はあ!?」

 ルカが、肩で息をしながら振り返った。

「馬鹿言え!」


「避けるだけならいける! その間に――」


「置いてけるか!」

 ルカは、オークから目を離さずに怒鳴った。


 それから、一瞬だけ、エリシュカのほうを見た。


 ほんの一瞬だった。棍棒の届く距離を測り、オークの腕の傷を見て、それからまたエリシュカを見る。顎に力が入った。


「エリシュカ、奥の手だ! ラデク、援護を頼む! 俺とカナメで隙を作る!」


「……一回しか撃てないよ!」


「一回でいい!」


 エリシュカの返事はなかった。代わりに、松明が岩の割れ目に突き立てられる音がした。


 ラデクが手提げの灯りを足元に置き、エリシュカの前に出る。両手にナイフを抜いた。


 ルカが、カナメの隣に並んだ。

「聞いたな」


「おう」


「死ぬなよ。――左だ!」


    *


 この世界には魔術がある。

 魔術は、古代語の詠唱による奇跡の技だ。

 魔術は「律」と呼ばれる呪文の単位で区分されることが多い。

「律」が増えれば増えるほど、より複雑な、より高度な現象を引き起こす。


 戦闘で用いられる魔術は、三律までが一般的だ。冒険者にも三律魔術を習得している者は多い。

 四律は詠唱と魔力制御に高い集中力を要する。使い手は限られ、戦闘中に扱うことも容易ではない。しかし、その威力は戦闘の趨勢を左右する。


 そして五律。

 優秀な魔術師のみが修める大魔術。莫大な魔力と緻密な魔術制御が必要となるが、その威力は時に戦局すらも変える。


 そしてエリシュカは、五律魔術を扱える数少ない魔術師の一人だった。


 エリシュカは、杖を両手で握り、目を閉じた。


 騒がしい。

 オークの咆哮。岩の砕ける音。ルカの怒鳴り声。カナメの叫び声。足音。息遣い。全部、耳には届いている。届いたまま、遠ざけていく。


「ルクス・アストラ・コンヴェル・ヴェラ・クレイス」


 五つの律を、ひとつずつ置くように唱える。

 腹の奥で、魔力が動き出した。いつもの加護や、ライトスピアとは量が違う。体の芯から、ごっそりと汲み上げられていく感覚。


 思い浮かべるのは、一筋の光明。


 遠い昔、神が人に授けたという、魔を討つ剣。


 魔力が、光の粒へと変じていく。杖の先、そのさらに先の、一点に向かって集まっていく。


 集めれば集めるほど、粒は互いに弾き合おうとした。散ろうとする。逃げようとする。それを、魔力で押さえ込む。指の先まで張りつめた糸を、一本も切らさないように。


 まだだ。


 まだ、足りない。


    *


「右来るぞ!」


 カナメが叫んだ。


 オークの腰が、左に捻れていた。肩が下がる。右足に体重が乗る。振りかぶりが来る前に、そこまでは見えていた。


 ルカが、言葉より先に右へ跳んだ。棍棒が、ルカの残像を叩き潰す。


「カナメ、奴の左に回れ! 目をこっちに向けさせる!」


「任せろ!」


 ルカが正面で剣を振る。浅い。それでいい。オークの小さな目が、ルカに釘付けになる。


 カナメは、オークの左脇を抜けた。


 近い。

 すぐ横を、丸太のような脚が踏み下ろされる。地面が揺れて、足の裏が浮きそうになる。獣の脂と、血の匂いが鼻を突いた。


 膝の裏が見えた。


 思いきり蹴った。


 びくともしなかった。蹴った足のほうが痺れた。壁を蹴ったみてえだ。


 それでも、オークの頭がこっちを向いた。

 棍棒が、横殴りに来る。


 カナメは、しゃがんだ。


 頭の上を、風が通り過ぎた。髪が、何本か持っていかれた気がした。風圧で、体ごと横に押される。転がって、骨の山に突っ込んで、跳ね起きた。


 心臓が、喉までせり上がっていた。

 危ねえ。今のは、本当に危ねえ。


 オークが、カナメに向き直った。


 踏み込んでくる。


 まっすぐ。速い。


 カナメは、動かなかった。

 巨体が迫る。棍棒が上がる。オークの重心が、前に、前に乗っていく。


 今。


 横へ、跳んだ。


 ぎりぎりだった。肩を掠めた風で、体がくるりと回る。オークは、止まれなかった。カナメのいた場所を突き抜け、その向こうの岩壁に、肩から突っ込んだ。


 空洞が揺れた。天井から、砂と小石が降ってくる。


 オークが、頭を振った。


 ルカが、そこへ飛び込んでいた。踵の上、太い腱のあたりを狙って、剣を叩きつける。


 さっきより深い。それでも、断ち切るには至らない。


 オークが吼えて、振り向きざまに棍棒を振り回す。ルカが転がって避ける。


 ルカの背中が、壁際に近づいていた。

 あの位置はまずい。次に来たら、横に逃げる場所がない。


「そこ危ねぇぞ! 後ろ回れ!!」


 ルカは、一瞬もためらわなかった。オークの脇をすり抜けるように回り込み、壁際から抜け出す。直後、棍棒がルカのいた岩を砕いた。


「あっぶね!」


「世話焼かすなよ!?」


 怒鳴り合っていた。お互いに、声で居場所を確かめ合うように。


    *


 オークの棍棒が、また岩を叩いた。


 砕けた破片が、四方へ飛び散る。そのうちのひとつが、まっすぐ、通路の口のほうへ。


 エリシュカの顔めがけて。


 エリシュカは、目を開けなかった。


 杖の先に集めた光が、わずかに揺らぐ。それを押さえ込む。指の先の糸を、一本も切らさない。


 大丈夫。


 かん、と硬い音がした。


 ラデクのナイフが、破片を横から叩き落としていた。拳ほどの石が、エリシュカの足元で二つに割れて転がる。


 ラデクは振り返らなかった。もう、次の破片を目で追っていた。


 エリシュカも、目を開けなかった。


 光は、まだ一点に集まり続けている。


    *


「ルカ!」


 ラデクの声だった。


 通路の口から、丸めた縄が放り投げられた。ルカがそれを片手で受け取る。ラデクはそれ以上何も言わず、エリシュカの前に戻った。

 ルカが、手の中の縄を見た。


 それから、オークの足を見た。

 カナメには、ルカが何を考えたのか分かった気がした。さっき、オークは止まれずに壁に突っ込んだ。


「カナメ」


 ルカが、オークを睨んだまま、低く言った。

「縄を絡める。合図まで悟らせんなよ!!」


「わかってる!」


 ルカが縄の端をカナメへ放った。


「そっちの端、どこかに留めろ!」

 カナメは縄を受け取り、周りを見た。


 空洞の床から、岩がひとつ、腰の高さまで突き出している。根元は太い。


 あれだ。


 カナメは走り、岩の根元に縄を二重に回した。端を折り返し、輪をくぐらせ、引き絞る。指が勝手に動いた。トラックの荷台で、何百回もやった結び方だった。引けば引くほど締まって、外れない。


 縄が、岩から床を這って、ルカの手元まで伸びる。骨とがらくたの散らばる床の上で、縄は、ただの汚れた紐にしか見えなかった。


 ルカが、縄の端を握ったまま、じりじりと横へ動く。オークの視線を、自分に引きつけながら。


 ルカの目が、カナメを見た。


 カナメは頷いた。


 縄の向こう側へ回る。オークから見て、縄を挟んだ正面。床に転がっていた羊の骨を拾い上げた。


 オークの小さな目が、カナメに向いた。


 カナメは、骨を投げた。

 オークの鼻面に当たって、乾いた音を立てた。


「こっちだ、でかぶつ!」


 オークが吼えた。


 踏み込んでくる。まっすぐ。速い。カナメだけを見ている。足元なんか、見ていない。


 一歩。


 二歩。


 前の足が、縄を越える。


 後ろの足が、縄に、かかる。


「いまだ!」

 二つの声が、重なった。


 ルカが、縄を引いた。


 床を這っていた縄が、一瞬で脛の高さまで跳ね上がる。オークの後ろ足が、それに引っかかった。


 引き倒す力なんかない。人間の腕で、あの巨体は動かない。


 だが、オークは自分で走っていた。


 前に乗せた体重を、後ろの足が支えきれない。踏み出すはずの足が、縄に縫い止められて、前に出ない。


 巨体が、前のめりに傾いた。


 縄が、ぶつりと切れた。

 それでも、遅かった。オークは片膝を床に叩きつけ、両腕を前について、胴体をさらけ出したまま、一瞬、止まった。


    *


 見えた。


 エリシュカは、目を開けた。


 杖の先に、光が集まっていた。小さな、小さな一点。その中に、自分の中から汲み上げたすべてが押し込められている。


 その先に、オークの胸があった。


「天より授かりし光よ、一条に集いて、阻むものを貫き通せ!!」


 閃光が走った。


    *


 空洞が、白く塗り潰された。

 カナメは思わず腕で顔を覆った。それでも、瞼の裏まで白い。


 音は、なかった。

 いや、あったのかもしれない。耳の奥で、何かがきいんと鳴っていた。


 ほんの一瞬だった。一つ数えるか、数えないか。


 光が消えた。

 カナメは、腕を下ろした。


 オークは、片膝をついたままの姿勢で、止まっていた。


 その胸に、穴が開いていた。

 向こう側の岩壁が、穴を通して見えた。人の胴ほどの大きさの、丸い穴。縁が、焼け焦げて煙を上げている。


 オークの手から、棍棒が落ちた。


 巨体が、ゆっくりと横に傾き、そのまま地面に崩れ落ちた。


 空洞が、また揺れた。

 それきり、動かなかった。


    *


 誰も、すぐには口を開かなかった。


 カナメは、その場に座り込んでいた。座ろうと思ったわけではない。膝が勝手に折れた。


 心臓がうるさい。指先が震えている。息が、うまく吸えない。


 通路の口で、エリシュカが杖にすがるようにして膝をついていた。顔が真っ白だった。ラデクが片手でその肩を支えている。もう片方の手には、まだナイフが握られていた。


 ルカは、切れた縄の端を握ったまま、オークを見下ろして立っていた。


「……生きてるか」

 ルカが言った。誰に、とは言わなかった。


「生きてる」

 カナメが言った。


「……生きてる」

 エリシュカが、かすれた声で言った。


「全員だ」

 ラデクが言った。

 それから、エリシュカを壁にもたれさせ、ナイフを持ったまま空洞の奥へ歩いていく。オークが出てきた通路の口で立ち止まり、耳を澄ませた。灯りをかざして、中を覗き込む。


 しばらくして、戻ってきた。

「奥は行き止まりだ。他には、何もいない」


 ルカの肩から、ようやく力が抜けた。剣を下ろして、深く、長く、息を吐いた。

 それからカナメの前に立ち、手を差し出した。


「立てるか」


「おう」

 その手を掴むと、ぐいと引き起こされた。


「じゃあ帰るか。報告することが盛りだくさんだ」


「ゴブリン討伐で、オークか」

 ラデクが苦笑した。

「ギルドが、どんな顔するかな」

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