第8話:洞窟の仕事
村の朝は、鶏の声と、薪を割る音で始まった。
自警団の詰所だという小屋の前で、白髪交じりの男が地図を広げていた。村長の弟で、自警団をまとめているらしい。ラデクとルカが地図を覗き込み、エリシュカがその横で頷きながら話を聞いている。
カナメは、地図を見ても字が読めないので、聞いているだけで十分だった。
少し離れて、井戸の縁に腰かけて話を聞く。
どうも胸元が重い。気を抜くと背中が丸まる。まだこの身体には慣れないみたいだ。
「洞窟は、あの丘の中腹です。入口は一つ。中は……そ、その、奥へ行くほど上り坂に……」
男の言葉が、そこで詰まった。
視線が、ラデクの肩越しにカナメのほうへ流れて、そのまま止まっている。口が半開きになっていた。
「……上り坂に?」
ラデクが促した。
「あ、ああ、はい。上り坂に、なっておりまして……ええと、それで……」
また止まった。
カナメは自分の後ろを振り返った。鶏が一羽いるだけだった。
「なんだ、おっさん。具合でも悪いのか」
「い、いえ! 滅相もない!」
男は真っ赤になって地図に目を落とした。
エリシュカが、深々とため息をついた。
「……あなたのせいでしょ」
「は? 俺、何もしてねえぞ」
「してないのが問題なの」
意味が分からなかった。
ルカは何も言わずに、地図の上の丘を指で叩いた。
「入口のあたりで、最後に見たのは」
「お、一昨日の夕方です。柵の外の羊を、三匹」
「分かった。昼までには片をつける」
*
丘は、村の畑の端から歩いてすぐのところにあった。
中腹の岩場に、人の背丈ほどの裂け目が口を開けている。周りの草が踏み荒らされ、泥の上に小さな足跡がいくつも重なっていた。羊の毛が、茂みに引っかかって揺れている。
ラデクが入口の手前でしゃがみ込んだ。足跡を指でなぞり、泥をつまんで、指先で崩す。
「新しい。夜のうちにも出入りしてるな。数は……多い。三十はいかないと思うけど」
「中から音は」
ルカが聞いた。
ラデクは裂け目の縁に耳を寄せ、しばらく黙っていた。
「今は静かだ。寝てるか、奥にいる」
エリシュカが杖を握り直し、短く唱えた。
「ルクス・メンテ・ヴェラ・クストス――光よ、心を真実のままに守れ」
淡い光が、三人の頭にしみ込んでいく。昨日、ギルドの裏で見たのと同じやつだった。
唱え終わると、エリシュカはちらりとカナメを見た。
「それ、またやんのか。昨日もやってたよな」
「切れてきたから、かけ直したの」
「ゴブリン相手にも効くのか、それ」
「ゴブリン用じゃないもん」
そういうことか、とカナメは思った。
「俺、魔法とか使えねえぞ」
「念のため!」
まあ、そうだろう。別に怒る気にもならなかった。
ラデクが松明に火を移し、一本をエリシュカに渡した。ラデクは火をつけていないもう一本を腰の後ろに差し、小さな手提げの灯りを左手に下げる。ルカは剣を抜き、先頭に立った。
カナメには何も渡されなかった。手持ち無沙汰である。
「カナメ、お前は俺の後ろ。エリシュカの前だ。勝手に前に出るなよ」
「おう」
「ラデク、頼む」
「ああ」
四人は、裂け目に足を踏み入れた。
*
中は思ったより広かった。
岩肌がむき出しの通路が、緩やかに上りながら奥へ続いている。天井は、ルカが剣を振り上げても届かないくらいの高さ。湿った土と、獣の糞と、何かが腐ったような匂いがした。
ラデクは、先頭のルカよりさらに数歩先を歩いていた。灯りを低く構え、足元と壁の両方を照らしながら進む。時々止まって手を上げると、後ろの三人も止まる。耳を澄ます。手が下がると、また進む。誰も声を出さなかった。
最初の分かれ道で、ラデクは腰の袋から白い石を取り出し、右の壁に短い線を引いた。
「右に行く。左は狭くて、奥で行き止まりっぽい」
「なんで分かる」
カナメが小声で聞いた。
「風が来てない」
ラデクはそれだけ言って、指を舐め、右の通路の入口にかざしてみせた。それからまた歩き出した。
カナメは、壁に引かれた白い線を眺めた。
帰り道の目印か。引っ越しで、段ボールに部屋の番号を書いておくのと同じだ。書いておかないと、あとで全部ひっくり返すことになる。
これが冒険者か、大したもんだな、と思った。
*
最初のゴブリンは、二つ目の曲がり角の先にいた。
ラデクが灯りを下げ、指を三本立てた。それから、曲がり角の向こうを親指で示す。
ルカが頷き、ラデクと入れ替わるように前へ出た。
曲がり角を回った瞬間、甲高い声が上がった。
子供くらいの背丈の、灰色がかった緑色の生き物が三匹。手に棍棒と、錆びた鉈のようなものを持っている。目が灯りを跳ね返して、黄色く光った。
一匹目が、棍棒を振りかぶって突っ込んできた。
ルカは下がらなかった。半歩だけ右へずれ、振り下ろされた棍棒を剣の腹で外へ流す。流した剣が、そのまま返って、ゴブリンの首筋を斬った。
二匹目の鉈は、剣の鍔元で受けた。受けたと思ったら、もう蹴っていた。腹を蹴られて体勢を崩したゴブリンの胸に、切っ先が吸い込まれる。
速い。
カナメは、ルカの足を見ていた。一歩も無駄に動いていない。重心がいつも腰の真下にあって、どっちにでも出られる立ち方をしている。剣を振るたびに、ちゃんと元の位置に戻ってくる。
ギルドで柄を押さえたときには、こんな動きをするやつだとは思わなかった。いや、あのときは抜かせなかっただけか。
三匹目は、仲間二匹が倒れたのを見て、ぎゃっと鳴いた。
鉈を放り出し、奥の暗がりへ一目散に逃げていく。
「追うな」
ラデクが言った。
「どうせ奥で会う」
ルカは剣を振って血を払い、息ひとつ乱さずに頷いた。
「……逃げたね。いつもどおり」
エリシュカが、松明を掲げたまま言った。
「いつもどおり?」
「ゴブリンって、臆病なの。何匹かやられたら、だいたい逃げる」
「へえ」
カナメは、転がっている二匹を見下ろした。思ったより小さかった。
*
二度目は、通路が少し広くなったところだった。
今度は五匹。ラデクが先に気づいて、灯りを壁際に置き、ナイフを抜いた。
ルカが正面から三匹を相手にする。一匹目の棍棒を外し、二匹目を斬り、三匹目の突きを鍔で弾く。
そのとき、右の岩棚の上から、もう一匹が飛び降りてきた。
ルカの斜め後ろ。ルカは目の前の一匹に剣を向けたまま、まだ気づいていない。
カナメは動いた。
考えたわけではなかった。落ちてくるのが見えて、着地する位置が見えて、そこへ足が出ていた。
ゴブリンが地面に着地した、その瞬間に、軸足を払った。
小さな体が、着地の勢いのまま前につんのめり、顔から地面に突っ込んだ。手から棍棒が離れて転がる。起き上がろうとしたところへ、ラデクのナイフが首の後ろに落ちた。
ルカが、目の前のゴブリンを斬り捨ててから振り返った。
「……今の」
「横から来てたぞ」
「分かってるよ」
ルカはむっとした顔で言った。分かってなかっただろ、とカナメは思ったが、言わなかった。
残りの一匹は、やはり逃げた。
ラデクは、カナメが転がしたゴブリンを見下ろして、それからカナメを見た。何も言わなかった。ただ、少しだけ口元に笑みを浮かべた。
*
三度目、四度目も、似たようなものだった。
ルカが前で斬る。横や後ろから回り込もうとするやつがいれば、カナメが足を払うか、蹴り飛ばして別のやつにぶつける。倒れたのをラデクが仕留める。何匹かやられると、残りが逃げる。
ラデクは、だんだんナイフを抜く回数が減っていた。その分、灯りを高く掲げて、通路の先や天井の暗がりを見ている時間が長くなった。
ルカは、振り返る回数が減っていた。目の前の相手だけを見て、剣を振っている。
岩陰で小休止を取ったとき、ルカが水袋を仰ぎながら言った。
「順調だな、数回に分けて攻略が必要かと思ってたんだけど」
「ああ、装備消耗もほぼないし、魔術も使ってない。このままいけるだろう」
壁にもたれていたエリシュカは一人だけ不満そうだった。
「ねえ。私、今日まだ何もしてないんだけど」
「いいことだろ」
ルカが水袋を口から離して言った。
「分かってるけど! 加護かけて、松明持って、歩いてるだけ。これじゃ松明係じゃない」
「松明係も大事な仕事だぞ」
ラデクが真顔で言った。
「ラデクまで!」
「俺も似たようなもんだ」
カナメが言うと、エリシュカは呆れた顔でこちらを見た。
「あなたは蹴ってたでしょ。三回くらい」
「四回だ」
「数えてないわよ!」
ルカが小さく吹き出した。エリシュカがルカを睨む。ルカは慌てて水袋を口に戻した。
「魔力は残しとけ。帰りもあるし、奥に何がいるか分からない」
ラデクが言った。
「はーい」
エリシュカは口を尖らせたが、その目は、来た道の暗がりから離れていなかった。松明を持つ手も、少しも下がっていない。
軽口叩きつつもちゃんと仕事をしているのだろう。
*
通路は、少しずつ上っていた。
空気が変わったのは、白い線を五本引いたあとだった。
匂いが濃くなった。腐った肉と、獣の脂と、焦げたような匂い。床に、白いものがいくつも散らばっている。灯りを近づけると、羊の骨だった。
ラデクが、手のひらを下に向けて、ゆっくりと押し下げた。
姿勢を低く。音を立てるな。
通路の先が、急に開けていた。天井の高い、広い空洞だった。奥の壁に、さらに暗い通路の口がひとつ開いている。空洞の中には、骨と、毛皮の切れ端と、どこかから拾ってきたらしいがらくたが散らばっていた。
その中で、ゴブリンが七、八匹、うずくまっていた。
一匹が顔を上げた。
甲高い声が、空洞じゅうに反響した。
「来るぞ!」
ルカが前に出る。カナメはその左へ。ラデクはナイフを抜いて右へ回り、エリシュカは通路の口で松明を高く掲げた。
最初の二匹は、これまでと同じだった。ルカが棍棒を流して一匹を斬り、もう一匹の突きを外して、胴を薙ぐ。
左から回り込んできた一匹を、カナメが蹴った。蹴られたゴブリンが、後ろから来ていた仲間にぶつかって、二匹まとめて転がる。ラデクがそこへ飛び込んだ。
四匹が倒れた。
残りは、逃げなかった。
甲高い声を上げて、また向かってくる。棍棒を振り回して、ルカの剣にぶつかってくる。カナメの脚にしがみつこうとする。
カナメは、しがみついてきた一匹の手首を踏み、もう一匹の顔に膝を入れた。ルカがその横で、また一匹を斬る。ラデクが、倒れたやつを順番に仕留めていく。
最後の一匹は、仲間が全部倒れても、まだ棍棒を構えていた。
黄色い目が、ルカを見て、カナメを見て、それから一瞬だけ、空洞の奥の暗い通路のほうへ流れた。
そして、甲高く鳴きながら、ルカに飛びかかった。
ルカの剣が、それを斬り落とした。
空洞が、静かになり、ルカとカナメの荒い息遣いだけが残った。
*
カナメは息を吐いて、足元に転がるゴブリンを見下ろした。
片付いた。誰も怪我をしていない。順調だ。
「……おかしくない?」
エリシュカの声だった。
松明を掲げたまま、空洞の中を見回している。眉の間に、皺が寄っていた。
「何がだ?」
「こいつら、逃げなかった」
ルカが、剣を下ろしかけて止まった。
「さっきまでは、三匹か四匹やられたら逃げてたでしょ。最初のも、二度目のも。ゴブリンって、そういうものなの。怖がりで、数が減ったらすぐ散る」
「……確かに」
ルカが、ゆっくりと空洞を見回した。
「最後の一匹まで、向かってきたな」
「ここが巣だからじゃねえのか。家を守ってたとか」
「ゴブリンは、そんなことしない」
エリシュカは首を振った。
「巣を捨てて逃げるの、普通は」
ラデクは何も言わなかった。
しゃがみ込んで、最後に斬られたゴブリンの顔を見ていた。それから顔を上げて、空洞の奥の、暗い通路の口を見た。
カナメには、話がよく見えなかった。
逃げないゴブリンが、おかしい。それは分かった。だが、それが何なのか。
「つまり……どういうことだ?」
*
答えは、足の裏から来た。
ずん、と。
地面が、一度だけ鳴った。
音というより、揺れだった。靴の底から脛へ、膝へ、腹へと、重いものが上ってくる。
ずん。
天井から、細かい砂がぱらぱらと落ちてきた。松明の炎が、ひとりでに揺れた。
ずん。
カナメの背後だった。空洞の奥。暗い通路の、その向こう。
ラデクが、立ち上がっていた。灯りを持つ手を下げ、もう片方の手で、黙って全員に下がれと示している。ルカがエリシュカの前に半歩出た。エリシュカの松明が、小さく震えていた。
ずん。
ゴブリンの足音ではなかった。あんな小さな足が、こんな音を立てるはずがない。
カナメは、振り返った。
暗い通路の口に、何かがいた。
最初は、通路の闇が、そのまま膨らんだのかと思った。
身を屈めて、肩をすぼめて、それでも通路の天井を擦りながら、それはのそりと空洞に出てきた。
背を伸ばした。
でかい。
ルカの倍、とまでは言わないが、それに近い。灰色がかった緑の肌。丸太のような腕。下顎から、黄ばんだ牙が二本、上へ反り返って突き出している。片手に、木の幹をそのまま引き抜いたような棍棒をぶら下げていた。先には、乾いた血がこびりついている。
小さな目が、松明の光を跳ね返した。
鼻が鳴った。荒い息が、空洞の空気を揺らす。床に転がるゴブリンの死骸を一瞥し、それから、四人を見た。
「……オーク」
ラデクが、低く言った。
「ギルドの調査には、なかったぞ。こんなの」
「エリシュカ、下がれ」
ルカの声も、低かった。剣を握り直す音がした。
オークが、口を開けた。
空洞を震わせる咆哮が、四人を叩いた。




