第6話:パン半分の恩
町の中は、外から見たよりもずっと騒がしかった。
石畳の大通りには荷車がひっきりなしに行き交い、両脇には店がぎっしり並んでいる。焼いた肉の匂い、香辛料の匂い、馬の匂い。呼び込みの声と、値切る声と、車輪の音が混ざり合って、頭の上でわんわん響いていた。
カナメは腹をさすりながら、通りを見渡した。
金はない。一枚もない。ミレナも、そういうものはくれなかった。そもそも持っているのかどうかも知らない。
とはいえ、そこまで困ってもいなかった。
忙しそうなところに行って、飯の代わりに働かせてくれと頼めばいい。引っ越し屋のバイトだって、最初は社長に頭を下げて始めたのだ。荷運びでも皿洗いでも掃除でも、体を動かす仕事なら何でもやれる。
*
最初に目についたのは、倉庫の前で荷馬車から樽を下ろしている男たちだった。
「なあ、手伝わせてくれよ。飯一食分でいい」
声をかけると、髭面の親方が振り返った。カナメの頭のてっぺんから靴の先までを眺めて、それから大声で笑った。
「お嬢さん、冗談はよしてくれ。その腕じゃ樽の下敷きだ」
「やってみなきゃ分かんねえだろ」
カナメは足元の麻袋に手をかけた。
持ち上げようとして、ぴくりとも浮かないことに驚いた。
重い。
いや、この程度、前なら片手で担いでいた。そういえば、この体はやたらと細いのだった。
カナメは袋の口を少しずらして中身を片側に寄せ、角を膝に乗せてから、腰で起こすようにして持ち上げた。どうにか胸の高さまで来た。腕がぶるぶる震えていた。
「……ほら、持てた」
「持てたっていうか、潰れかけてるじゃねえか」
親方はカナメの手から袋を取り上げ、ひょいと肩に担いだ。
「危なっかしくて見てられねえよ。悪いことは言わねえ、よそ当たんな」
*
二軒目は、昼時で客がごった返している食堂だった。
厨房の奥では、恰幅のいい女将が鍋を三つ同時に振っている。皿は流しに山積みになっていた。
「皿洗いさせてくれ。飯一杯でいい」
女将は手を止めた。カナメの顔を見て、手を見て、それからまた顔を見た。
「あんた、どこの家の子だい」
「は?」
「その手。水仕事なんかしたことない手じゃないか。言葉遣いはまあ、あれだけど……立ち方だって、ちゃんとしたとこのお嬢さんの立ち方だよ」
「いや、俺は――」
「家出かい? 親御さんが心配してるよ。悪いこと言わないから、衛兵の詰所に行きな。ちゃんと家まで送ってもらえるから」
女将は本気で心配している顔だった。鍋を置いて、カナメを店の外まで連れていこうとする。
カナメは、その手から慌てて逃げ出した。
*
食堂の前の通りを歩いていると、横から声をかけられた。
「お嬢さん、ひとり?」
若い男だった。小綺麗な上着に、香油で撫でつけた髪。商家の手代か何かだろうか、愛想のいい笑顔を浮かべている。
「腹、減ってない? そこの店、焼いた鳥がうまいんだ。奢るよ」
「マジか!」
カナメは、思わず身を乗り出した。
なんだ。この町にも、いいやつがいるじゃねえか。
「いいのか? 俺、金ねえぞ」
「いいって。その代わり、ちょっと付き合ってくれれば」
男が、カナメの隣に並んだ。肩が触れるくらいの近さだった。手が、さりげなくカナメの腰のほうへ回ってくる。
「食べたらさ、この先にいい宿があるんだ。ゆっくりしていこうよ」
男の目が、カナメの顔から首筋へ、それから胸元へ、ゆっくり降りていった。
背筋を、冷たいものが這い上がった。
知っている目だ。前の世界で、駅前で女の子にしつこく絡んでいた連中と、同じ目。
それが今、自分に向いている。
腕に、ぞわりと鳥肌が立った。
「……いや、いいわ」
カナメは、腰に回りかけた男の手首をつまんで、ぽいと外した。
「え、なんで。奢るって」
「腹、いっぱいになった。今」
「いや、さっき減ってるって――」
「減ってねえ。じゃあな」
振り返らずに歩いた。自然と早足になった。角を二つ曲がるまで、背中のむず痒さが消えなかった。
焼いた鳥の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
もったいねえ、とは思った。思ったが、戻る気には少しもならなかった。
*
三軒目は、裏通りの宿屋だった。
戸口で掃き掃除をしていた中年の男に、掃除でも何でもやると申し出た。
男は顔を上げて、カナメを見た。
その顔から、すっと表情が消えた。
「……悪いが、他を当たってくれ」
「人手、足りてねえんじゃねえのか」
「足りてる」
それだけ言って、男は箒を抱えたまま中に引っ込み、戸を閉めた。閂を下ろす音まで聞こえた。
カナメは、閉まった戸の前でしばらく突っ立っていた。
「……なんなんだよ」
働くって言ってるのに、なんで駄目なんだ。
樽は、まあ分かる。この腕では無理だった。だが、皿洗いや掃除くらい、誰がやったって同じだろう。お嬢さんだの家出だの、意味が分からない。最後のやつに至っては、理由すら言わなかった。唯一、飯を食わせてやると言ってきたやつは、論外だ。
腹が、ぐう、と鳴った。
*
大通りから一本入った路地は、急に薄暗かった。
建物の間に洗濯物が渡され、地面は湿っていて、どこかから腐った野菜の匂いがする。カナメは空の木箱に腰を下ろして、壁にもたれた。
さすがに、少し腹が減りすぎてきた。昨日の昼から何も食っていない。この体は前より燃費がいいのか悪いのか、それもよく分からない。
さて困ったな。
「返せよ!」
子供の声がした。
路地の奥、角を曲がった先だった。カナメは木箱から立ち上がって、覗き込んだ。
子供が二人、壁際に追い詰められていた。
前に立っているのは、十歳くらいの女の子だった。痩せていて、継ぎ接ぎだらけの服を着て、両腕を広げて後ろの子をかばっている。後ろの男の子はもっと小さくて、汚れた布の包みを胸にぎゅっと抱えていた。
その前に、男が二人。どちらも二十歳そこそこで、だらしなく着崩した服に、酒焼けした顔をしている。
「いいから寄越せって。どうせ拾ったもんだろ」
「拾ったんじゃない! 洗い場の手伝いして、もらったの!」
「へえ。じゃあ、俺らにも分けてくれよ。仲良くしようぜ」
男の片方が、女の子の肩を押しのけようと手を伸ばした。
「おい」
カナメは角を曲がって、路地に入った。
男たちが振り返る。手前の男がにやりと笑いかけて、カナメの顔を見た。
笑いが、途中で止まった。
路地は狭い。男二人が並ぶと、それでほぼいっぱいになる。左の壁際には空の樽が二つ転がっている。奥の男は、手前のやつの陰になって動きにくい。
「ガキのもの取って楽しいか。やめとけよ」
カナメは男たちとの間合いを測りながら、一歩だけ近づいた。
手前の男が、カナメの顔から目を離さないまま、一歩下がった。
奥の男が、その肩を小突いた。
「おい、何びびって――」
手前の男が、奥の男の耳に何か囁いた。奥の男の顔色も変わった。二人はカナメの顔をもう一度見て、それから目を逸らした。
「……行くぞ」
「ちっ」
二人は子供たちから離れると、カナメの横を、壁に背中をこするようにして大回りにすり抜けていった。路地の入口で一度だけ振り返り、そのまま大通りの人混みに消えた。
「……なんだ、根性ねえな」
カナメは、少し拍子抜けした。睨んだだけだ。まだ何もしていない。
*
「怪我はねえか」
振り返ると、女の子はまだ両腕を広げたまま固まっていた。男の子は姉の背中にしがみついている。
「……ない、です」
「そっちのチビも」
「チビじゃない」
男の子がむっとして言い返した。元気そうだった。
「ならいい。じゃあな」
カナメは手をひらひら振って、路地を出ようとした。
「待って!」
呼び止められた。
振り返ると、女の子が男の子の手から布の包みを取り上げていた。包みを開くと、中から黒っぽい小さなパンが一つ出てきた。拳ほどの大きさで、ひどく硬そうだった。
女の子は両手でそのパンを掴み、力を込めて二つに割った。半分を、カナメに差し出した。
「これ、お礼」
「姉ちゃん!」
男の子が叫んだ。
「それ、俺たちの飯だろ! 今日それしかないんだぞ!」
「分かってる」
「じゃあなんで!」
「助けてもらったら、ちゃんとお礼しなきゃだめなの。父ちゃんと母ちゃんが、礼だけはちゃんとしろって言ってたでしょ」
「でも……」
「イヴァン」
女の子が名前を呼ぶと、男の子は唇を噛んで黙った。目にうっすら涙が溜まっていた。
カナメは、差し出されたパンを見た。
半分になったパンは、本当に小さかった。二人で分けても、腹の足しになるかどうか怪しい量だ。それをさらに半分にしたのだ。
「いや、お前らだって腹減ってんだろ」
「減ってる」
女の子は、あっさり認めた。それでも手を引っ込めなかった。
「でも、お礼だから」
まっすぐな目だった。痩せた腕が、少し震えていた。
カナメは、パンを受け取った。
「……そうか。ありがとな。もらっとくよ」
女の子の顔が、ほっとしたように緩んだ。
その場でかじった。
硬い。酸っぱい。ぼそぼそしていて、口の中の水分を全部持っていかれる。
それでも、この世界に来てから食ったもので、いちばんうまかった。
「うまいな、これ」
「洗い場のおかみさんが焼いたやつ」
「そうか」
カナメは、少しずつ噛んで食べた。急いで食べるのがもったいなかった。
「名前は」
「ヤナ。こっちは弟のイヴァン」
「カナメだ」
覚えた、とカナメは思った。ヤナ。イヴァン。
*
イヴァンは、自分たちの分のパンをさらに半分に割って、片方をヤナに押しつけていた。ヤナが大きいほうを返そうとして、イヴァンが嫌がって、少し揉めた。
「ねえ、カナメさんは、何してる人?」
結局小さいほうを食べながら、ヤナが聞いた。
「何もしてない人なんだ。仕事探してる。けど、どこも雇ってくれねえ」
「どこも?」
「樽運びは腕が細いって言われた。皿洗いは家出娘扱いされた。宿屋は理由も言わずに戸を閉められた」
カナメは、指を折りながら数えた。
「あと、変なやつに飯奢るって言われた。断ったけど」
ヤナはカナメの顔をじっと見て、少し首をかしげた。何か言いたそうだったが、言わなかった。
「じゃあ、冒険者ギルドは?」
「ギルド?」
どこかで聞いた言葉だった。そういえば、ミレナが言っていた。今ごろギルドに話が回ってる、とか何とか。
「なんだそれ」
「知らないの? 仕事をもらうところ。魔物を退治したり、薬草を採ってきたり、荷物を運んだりして、お金がもらえるの。冒険者には誰でもなれるんだって」
「誰でもか」
「うん。あたしも、大きくなったら冒険者になるの」
「姉ちゃんには無理だって」
「無理じゃない!」
「虫も殺せないくせに」
「殺せるもん!」
また揉めはじめた。
冒険者、とカナメは口の中で繰り返した。
ミレナを狩りに来た、あの三人も冒険者だった。何でも屋みたいなもんだと、ミレナは言っていた。
まあ、いいか。仕事があるなら、それでいい。
「行ってみるか。どこにあんだ」
「案内する!」
ヤナがぱっと立ち上がった。
*
ヤナとイヴァンは、大通りを少し戻って、広場の角まで連れていってくれた。
「あそこ。看板に剣と盾が描いてある、大きい建物」
「あたしたち、これから洗い場に戻らなきゃいけないから」
「そうか。気をつけろよ。さっきみたいなのに、また絡まれんな」
ヤナは大きく頷いた。イヴァンは何も言わずに、姉の手を引っぱった。
二人が人混みに紛れるまで見送ってから、カナメは広場を横切った。
*
重い木の扉を押すと、熱気と喧騒がどっと押し寄せてきた。
思っていたより広い。手前はほとんど酒場で、長い木の卓がいくつも並び、昼間から酒を飲んでいる連中がいる。奥には長い受付台があって、何人かの職員が帳面を広げていた。
壁の一面に大きな板が掛かっていて、紙が何十枚も鋲で留められている。その前で、剣を下げた男や、弓を背負った女が、腕を組んで紙を眺めていた。
革鎧の擦れる音。ジョッキのぶつかる音。誰かの笑い声。
役所と居酒屋をくっつけたみてえだな、とカナメは思った。
入口に立っていると、何人かがこちらを見た。見て、それから、もう一度見た。
カナメは気にせず、受付台のほうへ歩き出した。
酒場の卓のひとつで、椅子が床を擦る音がした。
短い金髪の若い男が、立ち上がっていた。
革の胸当て。腰に剣。手にしたジョッキが、口元の手前で止まっている。
目が合った。
あ、とカナメは思った。
あの時の、金髪だ。
「お。こないだの」
カナメは、片手を上げた。
男の顔から、さっと血の気が引いた。
ジョッキが卓に置かれた。空いた右手が、迷いなく剣の柄にかかった。




