第5話:独り立ち
洞窟に戻ったのは、夜もだいぶ更けてからだった。
カナメは苔の上に座り込むなり、そのまま後ろに倒れそうになった。背中の火傷が岩に触れて、慌てて身を起こす。
「いってえ……」
「ほら、じっとして。手、出して」
ミレナが、巻いたばかりの布をほどいた。血を吸って重くなった布の下から、穴の開いた掌が出てくる。焚き火に照らして見ると、思っていたよりひどかった。
ミレナはカナメの左手を両手で挟み、目を閉じた。
「メディ・レナ・フィール――命の息吹よ、傷つきし身を癒やせ」
森で小鳥を呼んだときとも、ミロシュの耳元でささやいたときとも違う、静かな声だった。
掌が、温かくなった。
さっきミレナの手から感じた、あの手の温かさとは違う。傷の内側から、何かがじわじわと湧いてくる感じだった。むず痒い。肉が、勝手に動いている。
ミレナが手を離した。
穴が、なくなっていた。
手のひらにも甲にも、薄い桃色の痕が残っているだけだった。握ってみる。開いてみる。ちゃんと最後まで曲がる。
「……は?」
「次、背中。向こう向いて」
「いや、待て。今の、何だ」
「治癒の魔術よ。そんなに難しいやつじゃないわ」
背中に、ミレナの手が当てられた。同じ言葉がもう一度聞こえて、火傷のひりつきが、水が引くように消えていった。
カナメは、自分の左手をしばらく眺めていた。
「すげえな……。便利すぎだろ、これ」
「でしょ?」
「医者いらねえじゃねえか。俺もこれ使えたらなあ」
「あなたは、まず魔力が分かるところからね」
ミレナはくすくす笑った。ぐうの音も出なかった。
*
焚き火に小枝をくべながら、ミレナが言った。
「ねえ。あんな戦い方、どこで覚えたの?」
「どこって」
カナメは少し考えた。どこで、と言われても困る。別に誰かに習ったわけではない。
「……たぶん前世? かな?」
「前世」
ミレナは目を丸くした。
「前世って……あなた、前は何だったの?」
「たぶん、人だった。人間」
「へえ。前世の記憶がある子って、たまにいるって聞いたことはあるけど。本当にいるのね」
「いるらしいな、ここに」
「ふうん」
それきりだった。ミレナは興味深そうにカナメの顔を眺めていたが、それ以上は何も聞かなかった。
カナメも、それ以上は話さなかった。
今まであまり考えないようにしていたが、口に出してみると、妙にすとんと腑に落ちた。
そうか。たぶん、生まれ変わったんだ、俺は。
あの時、高架の下で、死んだんだろう。シャツが真っ赤だったのを覚えている。あれで生きてるほうがおかしい。
茜は元気だろうか。手首の赤いのは、もう消えたか。航は、誰かに相談できているだろうか。社長は、また人手が足りねえって怒鳴ってるかもしれない。親は……あんまり気にしてないかもな。
いつか……帰る、なんてことはできるんだろうか。
焚き火を眺めながら少し考えて、すぐにやめた。考えたところで、分かるはずがない。分からないことを考えても腹は膨れない。
まずは、この体で生き残ることか。
焚き火がぱちりと爆ぜた。
「サキュバスは人を糧にするのよ。前世が人間だったのなら、私が恐ろしいかしら?」
ミレナの声は軽かったが、縦長の瞳は、まっすぐカナメを見ていた。
カナメは、小枝を一本火に放り込んだ。
「別に。そんなもんだろ」
「そんなもん?」
「そういう種族なんだろ? ミレナを怖いとは思わない」
自分もそういう種族になったのだ。怖がってどうなる。
男を「食う」気には相変わらずならないが。
「俺だって牛肉とか食ってたし。まあ、俺も牛から怖がられたかも……じゃあ怖がるべきかな」
ミレナは、ぱちぱちと瞬きをした。
それから、吹き出した。
「牛!」
「なんだよ」
「ううん。なんでもない」
ミレナは笑いながら、膝を抱えた。何か納得したような顔をしていた。
*
「でも、困ったわね」
ひとしきり笑ったあとで、ミレナはため息をついた。
「あの町には、もう戻れないわ。顔を知られているもの。冒険者にも、ミロシュのお父様にも。今ごろギルドに話が回ってると思う」
「冒険者っていうのか? なんなんだあいつら」
「何でも屋って感じ。人にとって危険な種族を討伐したり、森や洞窟を探索して資材を集めたり……。戦いを得意とするやつが多いから要注意ね」
「そんな奴らに目をつけられたってわけか」
「たぶんね。だから、新しい狩場を探さなきゃ」
ミロシュの顔が、ちらりと頭をよぎった。床に押し倒したときの、ぽかんとした顔。あいつ、大丈夫だったろうか。
「サキュバスってのも大変だな」
「何を他人事みたいに言ってるの」
ミレナが、カナメの鼻先に指を突きつけた。
「あなたもよ。あなたも、自分の狩場を探すの」
「は?」
「は、じゃないわよ。いい? カナメ」
ミレナは膝を抱えるのをやめて、カナメの正面に座り直した。
「あなた、冒険者三人を相手にして、殺されずに帰ってきたのよ。剣も魔術も対策も揃えた三人を。私なんか、何にもできなかったのに」
「たまたまだ。結構危なかった」
「たまたまで、あんなことできないわよ」
ミレナは首を振った。
「だからね、あなたなら一人でも何とかなるでしょ。でも、精気を吸わないと、サキュバスは強くなれないのよ。果物なんか食べてても、ずっとそのまま。あれだけ戦えるのに、もったいないじゃない」
「別に強くなんなくていいんだが」
「そういう問題じゃないの。せめて一度くらい、自分の狩場を探してみなさい。案外お気に入りがみつかるかもよ」
「……行くだけだ」
実際問題、腹は減るし、いつまでも果実、というわけにもいかない。
人里に下りて飯を探す必要はある。
「それでいいの!」
ミレナは、満足そうに頷いた。
*
「で、お前はどうすんだ」
「私も別の狩場を探すわ。あなたとは別の町でね」
「なんだ、一緒に行かないのか?」
「一緒なわけないじゃない」
ミレナは、何を当たり前のことを、という顔をした。
「同じところに二人もいたら、獲物の取り合いになるでしょ。あんまり同じ対象から精力を吸っているとすぐに衰弱しちゃうし、冒険者にばれる可能性もあがる。だからサキュバスは基本的に単独行動よ。自分で狩場を見つけて、自分で狩りの方法を見つけなさい」
「そういうもんか」
ミレナは焚き火を見ながら、少しだけ笑った。
「本当はね、生まれたのを見届けるだけのつもりだったのよ。あなたがあんまりにも危なっかしいから、ずいぶん世話焼いちゃったわ。だって、あなた、何にもできないんだもの。魔法は使えないし、狩りは嫌がるし、果物ばっかり食べてるし」
「むぅ……」
「でも、今日ので安心した。あなた、一人でも何とかなるわ」
「そっか、手間かけてたんだな。ありがとう」
ミレナはなにかにびっくりしたようにカナメの顔を見つめた。
「な……なんだよ」
「なんか……本当に変わってるわね、あなた」
カナメは何と言っていいのか分からなくて、黙って焚き火に小枝を放り込んだ。
*
翌朝、ミレナは森の外れまで送ってくれた。
街道が二手に分かれるところで、ミレナは右の道を指差した。
「あなたはこっち。川沿いに下っていくと、大きめの町があるわ。歩いて二日くらいかしら。人が多いから、狩場はいくらでもあるはずよ」
「お前は」
「私は左。もっと遠くに行く」
ミレナは、焦げた上着の代わりにと、自分の肩掛けをカナメに押しつけた。それから、カナメの髪を括っている紐を、勝手にきれいに結び直した。
「私は私で狩場を探すけど、一か月くらいしたら様子を見に来るから! うまくやんなさいよ!」
「おう」
「おう、じゃなくて!」
「分かった分かった」
ミレナは、ふん、と鼻を鳴らした。そして、くるりと背を向けると、手をひらひら振りながら左の道を歩いていった。一度も振り返らなかった。
カナメもしばらくその背中を見ていたが、やがて右の道を歩き出した。
*
二日後の昼過ぎ、川沿いの道の先に、町が見えた。
前の町よりずっと大きかった。石の壁がぐるりと囲んでいて、門の前には荷車と人の列ができている。壁の向こうから、煙と、喧騒と、何かを焼く匂いが流れてきた。
カナメは列の最後尾に並び、門を見上げた。
狩場を探せ、と言われた。
探す気はない。男を誘うなんて、考えただけで首の後ろが寒くなる。
ここからどうすっかな、と考えたところで、腹が鳴った。
そういえば、昨日の昼から何も食っていない。
「……とりあえず、飯だな」




