第4話:喧嘩上等
近い。
刃が、喉から指二本ぶん。手首は固い。肩は力んでいない。右足の爪先は、まっすぐこっちを向いている。
突いてくる気の足だった。
カナメは息を止めたまま、半歩だけ下がった。金髪の男が、同じだけ踏み込んでくる。切っ先は離れない。そのまま部屋の中へ押し込まれる形になった。
背後から、聞いたことのない音がした。
しゃあっ、と、空気の漏れるような音。
横目で見た。ミレナが長椅子の前で背を丸めていた。肩が上がり、指が鉤のように曲がっている。喉の奥から、ごろごろと低い唸りが続いていた。縦長の瞳孔が、針のように細くなっている。
猫だ、と思った。追い詰められた猫。
いや、猫なんて可愛いもんじゃない。唇がめくれ上がり、白い歯が剥き出しになっている。人の喉から出せる音ではなかった。ついさっきまでミロシュの肩に頭を預けて笑っていた女と、同じ生き物には見えなかった。
ミロシュはその隣で、カップの取っ手だけを指に引っかけたまま、ぽかんと座っていた。
「ラデク」
金髪が短く言った。
細身の男が、扉からするりと入ってきて、壁沿いに右へ回った。杖の女は扉口に残る。三人とも、目が真剣だった。喧嘩をしに来た顔ではない。仕事をしに来た顔だ。
ミレナが、より深く沈みこんだ。
縦の瞳が、三人を順に撫でた。声が変わった。甘く、低く、部屋じゅうに染み込むような声。
「ミラ・セレ・ヴェナ――私を見て。恐れを忘れ、その心を私に委ねなさい」
空気が、とろりと重くなった。
カナメには、それだけだった。部屋が急に蒸し暑くなったような気がしただけだ。
金髪の男の眉が、ぴくりと動いた。額に手をやりかけて、やめる。剣先は、少しも揺れなかった。
「……効かない」
ミレナの唸りが止まった。
「なんで……」
細身の男が、ミレナから目を離さずに言った。
「やっぱり、あっちが本命だ」
その手が、腰の後ろに回った。
*
抜いた。小さい。刃だけの、薄いナイフだ。
手首が返る。
狙いはミレナだ。カナメの左肩の横を抜けて、長椅子へ。
避けたら、ミレナに刺さる。
考えるより先に、左手が出ていた。
掌に、何かが打ち込まれた。
衝撃のほうが先に来て、痛みはそのあとだった。手の甲に、冷たい金属の先が突き出しているのが見えた。骨と骨の間を、きれいに抜けていた。
――っ。
声も出なかった。反射的に左手を引いた。刃が肉から抜けて、床に落ちて跳ねた。
掌から、血がぼたぼたと垂れた。指を握ろうとしたが、半分しか曲がらない。
痛ってえ。なんだこれ。シャレになってねえ。
金髪が、こちらへ踏み込んでくる。剣が、引かれる。
右手が、すぐ脇の卓のクロスの端をつかんでいた。
クロスを思いっきり引く。
茶器ごと、思いきり振り上げる。カップと受け皿とポットが宙を舞い、白い布が大きく広がって、金髪と細身の男の顔の前に覆いかぶさった。陶器が床で砕ける。熱い茶が飛び散る。
「ミレナ! 窓だ!」
ミレナが弾かれたように動いた。長椅子を回り、窓へ走る。
布の向こうで、金髪が吼えた。
来る。
布を払いもせず、肩で突き破るように突っ込んできた。剣は下段。逃がすつもりはない、という突進だった。
剣を振らせたらまずい。
卓の脇の椅子を、右手でつかんだ。背もたれを持って、脚を前に。突っ込んでくる男の脛の間へ、低く、斜めに差し込む。
男の足が、椅子の脚に絡まった。
勢いは止まらない。上半身だけが前に出て、足が置いていかれる。男は布をかぶったまま、つんのめって床に叩きつけられた。剣の柄が床板を打って、硬い音を立てた。
カナメは椅子を放した。
背中に、気配。
左の、後ろ。さっきの細いのだ。布を抜けて、回ってきた。手に、さっきより長い刃。
振り向いたら、間に合わない。
カナメは振り向かなかった。重心を後ろへ落として、自分から下がった。背中ごと、男の胸へぶつかりに行く。
ぶつかった。男の腕が、カナメの肩の上で空を切った。近すぎて、刃を振る場所がない。
――はずだった。
男が、押し返してきた。
重い。
細身の男だ。それが、壁に押しつけられたような力で前へ押してくる。足が床板の上を滑った。踏ん張ろうとして、この体の脚がやけに頼りないことを思い出した。
なんだこいつ。見た目と力が合ってねえ。
押し合ったら負ける。
なら、押させとけ。
踏ん張るのをやめた。押される方向へ、体を沈めながら半身に回る。右手で男の刃物を持った腕の袖をつかみ、左は手首から肘までを男の脇の下にあてがった。掌は使わない。使えない。
男の押す力が、前につんのめった。行き場をなくした体重が、カナメの背中に乗って、そのまま越えていく。
腰を跳ね上げた。
細い男の体が宙で半回転し、背中から床に落ちた。ちょうど、布を払って起き上がりかけた金髪の上に。
鈍い音と、二人分の呻き声。
カナメは一歩離れて、肩で息をした。左手が、心臓と一緒にどくどく脈打っていた。
危なかった。今のは。ちょっと危なかった。
*
エリシュカには、何が起きたのか分からなかった。
ルカが、転んだ。ルカが、だ。訓練場で年上の剣士を相手にしても、遅れを取られないルカが、椅子一脚で。
ラデクが、投げられた。身体強化をかけたラデクが、自分よりずっと小さな女に。
二人が、床で絡まっている。
サキュバスは魔法で人を惑わす。だから心を守れば、ただの細腕の女だ。その対策は正しかった。加護は効いた。ミレナと呼ばれた方の支配は、きちんと弾いた。
なのに。
黒髪の女が、こちらを見た。
血まみれの左手をだらりと下げて、息を荒くして、それでも立っている。
あれは、何だ。
喉がからからに乾いていた。杖を握る手に、汗が滲む。ルカとラデクが起き上がるまで、あれを止めなければ。あれを。
エリシュカは杖を構え、黒髪の女に向けて掌をかざした。
「ルクス・ハスタ・フィーロ――」
*
杖の女が、こっちに手を向けている。
何か唱えている。
何が来るのかは分からなかった。ただ、女の掌の先が白く光りはじめていた。
なんか飛んでくる。
どこに。俺にか。
俺の後ろに、何がある。
振り返った。
ミロシュが、まだ長椅子の前に立っていた。騒ぎにようやく腰を浮かせたところで、何が起きているのか分からないという顔で、割れたカップを見下ろしていた。
カナメと、杖の女と、ミロシュ。一本の線の上にいた。
カナメは床を蹴った。
「――光よ、槍を成し、空を翔けよ!」
ミロシュの胸に、右肩からぶつかった。そのまま抱えるようにして、床へ倒れ込む。
頭の上を、熱が通り過ぎた。
背中の右側、肩の後ろを、焼けた鉄でなぞられたような痛みが走った。服の焦げる匂いがした。
目の前が、一瞬真っ白になった。
轟音。
窓のすぐ横の壁が、内側から外へ向かって弾け飛んだ。漆喰と木片と石が雨のように降り、夜の冷たい風が一気に吹き込んでくる。
*
ミロシュは、仰向けに倒れていた。
背中が痛い。床が硬い。何が起きたのか、まだ分からなかった。さっきまで、ミレナと……。なにしようとしてたんだっけ……。
自分の上に、誰かが覆いかぶさっていた。
ミレナの妹だった。カナメ、と紹介された子。さっきまで、ろくに目も合わせなかった子。
その背後で、光が爆ぜていた。
まっすぐな白い光が、彼女の肩越しに壁へ吸い込まれていく。その眩しさで、彼女の顔は影になって見えなかった。長い黒髪の一本一本が、光の縁取りを受けて、白く燃えていた。細い肩の輪郭が、光の中に切り抜かれていた。
ミロシュは、息をするのを忘れた。
光が消えた。
影の中から、彼女の顔が現れた。
頬が上気して、赤く染まっていた。荒い息が、ミロシュの額にかかる。汗で濡れた黒髪が一筋、白い頬に張りついていた。痛むのか、眉をきつく寄せ、歯を食いしばっている。
そして、目。
まっすぐに、ミロシュを見下ろしていた。ミレナの瞳のような、覗き込むと底へ引き込まれていく甘さは、どこにもない。逃げも、媚びも、怯えもない。ただ強い光が、こちらを射抜くように灯っていた。
きれいだ、と思った。
なぜそう思ったのか、自分でも分からなかった。
「……生きてるな」
ぶっきらぼうな声だった。
ミロシュは、何も答えられなかった。もう、彼女の顔から、目を離せなかった。
*
窓の下で、ミレナが頭を抱えてうずくまっていた。掛け金と格闘していた窓の、すぐ横の壁がなくなっていた。ミレナは漆喰の粉を払って顔を上げ、ぽっかり開いた穴を見た。
「ミロシュ、さん……」
扉口で、杖の女が固まっていた。かざしたままの手が、震えていた。
「わ、私、今、ミロシュさんを……」
床の上の二人も、壁の穴と、カナメの下のミロシュを見て、動きを止めていた。動揺しているようだ。
ほんの一瞬だった。
「エリシュカ……だ、大丈夫。今は集中するんだ!」
金髪の男が、歯を食いしばって立ち上がった。
細い男も起きた。二人の目から、迷いはもう消えている。金髪は正面、細い男はその左。二手に分かれて、同時に来る。
まだやる気かよ。
カナメはミロシュの上から転がり出た。低いまま、床を這うように飛び出す。
左から来る細い男の足元に、さっきまで茶器が載っていた小さな卓があった。クロスを剥がされて、何も載っていない。
蹴った。
軽い卓は床板の上を滑り、細い男の脛にまともにぶつかって、その足をすくった。男は卓ごと前のめりに倒れ、長椅子の肘掛けに肩を打ちつけた。
金髪が、剣を振りかぶっていた。
上から、来る。
振り下ろされる前に、懐へ入った。右の拳を、男の脇腹の、胸当ての縁のすぐ下へ叩き込む。
男の息が、ぐっと詰まった。振りかぶった腕が、一瞬止まる。
そのまま右腕を男の腰に回した。肩で胸を押し、男の足の外側に自分の足を掛けて、刈る。
男が背中から倒れた。カナメも一緒に倒れ込み、膝で男の剣を持つ右腕を床に押さえつけた。右手は胸当ての上から胸を押さえる。左手は、浮かせたままにした。もう、何かをつかめる手ではなかった。
男が、下からカナメを見上げた。
息が詰まって、声も出ないようだった。それでも目は、まだカナメを睨んでいた。
顔を上げると、壁の穴の縁に、ミレナが足をかけていた。片手で崩れた柱をつかみ、こちらを振り返っている。
「カナメ!」
「先に行け!」
ミレナは一瞬だけ迷う顔をした。それから、穴の外へ身を躍らせた。下で、何かを踏みしだく音がした。
行ったな。
カナメは、組み伏せた男を見下ろした。
ふっと、肩の力が抜けた。いつもの癖で、口の端が少しだけ上がった。
「わりぃな。今回は見逃してくれよ」
膝をどけた。
男が咳き込む。その横を抜けて、穴へ走った。後ろで、細い男が長椅子に手をついて起き上がる気配がした。
振り返らずに、穴から外へ出た。
すぐ下に、一階の玄関の庇が張り出していた。瓦の上に飛び降りる。足が滑った。左手をつきそうになって、慌てて引っ込め、尻から瓦の上を滑り落ちた。
庇の縁で、体が宙に投げ出された。
植え込みの上に落ちた。枝がばきばきと折れて、背中の火傷に土と葉がこすれた。目の奥で火花が散った。
痛え。全部痛え。
「こっち!」
裏庭の木戸の前で、ミレナが手招きしていた。
カナメは跳ね起きて、走った。
*
ルカは、床に仰向けになったまま、穴から吹き込む夜風を感じていた。
息が戻ってくる。脇腹がずきずきと痛む。それだけだった。
剣は、まだ手の中にあった。
「ルカ」
ラデクが、穴の縁から外を覗き込んでいた。
「追うか」
ルカは答えられなかった。
あの女は、上にいた。剣は押さえられ、胸を押さえられ、息もできなかった。あの距離で、あの姿勢で、相手が魔物で――殺されていても、少しもおかしくなかった。
なのに、あの女は笑って、どいた。
部屋の奥で、エリシュカがミロシュのそばに膝をついていた。肩が震えている。ミロシュは、床に座り込んだまま、壁の穴をじっと見つめていた。
「……ミロシュさんの手当てが先だ」
ようやく、それだけ言えた。
*
町の灯が、木々の向こうで小さくなっていた。
森の入口の、大きな木の根元で、カナメはようやく足を止めた。膝に右手をついて、しばらく息を整えるだけで精一杯だった。
左手が、燃えるように熱い。
ミレナが、自分のドレスの裾を細く引き裂いた。カナメの左手を取り、掌と甲を覆うように、ぐるぐると巻いていく。巻くたびに、布に赤い染みが広がった。
「……痛い?」
「痛えに決まってんだろ」
「そうよね」
ミレナはそれきり黙って、布の端をきつく結んだ。
結び終わっても、手を離さなかった。
月明かりの中で、ミレナの縦長の瞳が、じっとカナメを見ていた。さっきの、猫みたいな目ではなかった。何か、分からないものを見るときの目だった。
「……カナメ、あなた、いったい何者なの?」
カナメは、巻かれた布を見下ろした。
剣を向けられた。ナイフで手を貫かれた。わけの分からない光で背中を焼かれた。二階から落ちた。どれも、二度とごめんだ。
「お前の妹なんだろ、俺は」
ミレナは、口を開けて、何か言いかけて、閉じた。




