第3話:出来損ない
枝の先に、赤い実がなっていた。
すももくらいの大きさで、皮が薄い。カナメは背伸びしてそれをもぎ、袖――と呼ぶには心許ない膜の端で軽く拭いて、かじった。
酸っぱい。
そのあとで、じわっと甘さが来る。歯触りはしゃりっとしていて、種がでかい。種を吐き出して、もう一口。
うまい、というほどでもない。だが、腹は減っていた。
この体でも腹は減るのだ、ということを、カナメは生まれた翌朝には知った。腹が鳴って、ひどく安心した。
どうも尋常じゃない存在になったようだが、腹が減る。減ったら食う。分かりやすいことは、ひとつでも多いほうがいい。
三つ目に手を伸ばしたところで、背中に声が飛んできた。
「まだそんなの食べてるの?」
ミレナが、苔むした木の根に腰かけて頬杖をついていた。朝の光の下で見ても、相変わらず美人すぎて、カナメは横目でしか見られない。
「食えるもんは食うだろ」
「そんなのじゃ強くならないって言ってるじゃない」
「腹が満たせりゃいいだろ」
「よくないわよ。いい加減、狩りに行きなさいって。サキュバスは精力さえ吸えれば、食べる必要ないのよ? あっちの丘を越えた村なら、若いのがいっぱいいるから楽勝よ。最初は誰だって緊張するけど――」
「絶対嫌だ」
即答した。
ミレナはぱちぱちと瞬きをして、それから、しょうがない子ねえ、という顔で笑った。
「もう。恥ずかしがり屋さんなんだから」
違う、と言いかけて、やめた。この三日で分かったことがある。ミレナにこの話を説明しても、通じない。言葉は通じるのに、話が通じない。
カナメは黙って、四つ目の実をもいだ。
*
昼前、ミレナがどこかへ出かけて、両腕に布の束を抱えて戻ってきた。
「着替えなさい! 行くよ!」
「……どこへだよ?」
「まあまあまあまあ!」
布の束が、顔に押しつけられた。
広げてみると、生成りの麻の服だった。上から被って腰を紐で縛る、くるぶしまである長いやつ。それに、薄茶色の上着と、革の靴。飾りらしい飾りもない、地味な服だ。リボンだのフリルだのついた服なんぞ、ごめん被る。それだけは助かった。
「ズボンは」
「ないわよ、そんなの」
「……だよなぁ……」
カナメはミレナに背を向けて、乾いてごわごわになった膜を剥がした。もう半分くらいひび割れていたので、未練はなかった。服を被り、紐を締め、上着を羽織る。腰まである髪が邪魔なので、余った紐で首の後ろにひとつに括った。
振り返ると、ミレナが手を叩いた。
「あら、似合うじゃない。髪はもうちょっとどうにかしたいけど」
「どうにもしなくていい。で、どこ行くんだ」
「まあまあ」
ミレナはカナメの手首をつかんで、ずんずん歩きだした。
カナメは、引かれるまま歩いた。
どこへ行くのかは、気にならないわけではない。だが、目が覚めてからこっち、この女はずっと面倒を見てくれている。食える実と食えない実を教えてくれたのも、夜に冷えると言って毛布を持ってきてくれたのもミレナだ。言うことは突飛だが、悪いやつではない。まあ悪いようにはしないだろう……たぶん。
それに、この洞窟と森の外がどうなっているのか、見てみたくはあった。
*
森の小道で、ミレナが急に足を止めた。
「ほら、見て」
指差した先、低い枝に、小鳥が一羽とまっていた。胸のあたりが黄色い。
ミレナは人差し指を立て、小鳥のほうへ差し出した。唇が小さく動く。何か短い言葉を、歌うように口にした。カナメの耳には、はっきり聞き取れなかった。
小鳥が首をかしげた。
それから、ちょん、と枝を蹴って、ミレナの指先に飛び移った。逃げる様子もなく、羽づくろいまで始める。
「……おお」
思わず声が出た。
「すげえな。それ、魔法か」
「そうよ。ちょっとだけ、こっちに来たら楽しいことがあるって思わせてあげたの。痛くも何ともないから安心して」
ミレナが指を軽く振ると、小鳥は我に返ったように羽ばたき、枝へ戻っていった。
「それ、俺もできんのか」
「当たり前じゃない。サキュバスなんだから」
ミレナは、むしろ嬉しそうだった。カナメの後ろに回り、両肩に手を置く。
「いい? お腹の奥に、あったかいのがあるでしょ。それをね、こう、ゆっくり指の先まで流してくるの。で、あの子にどうしてほしいか、ちゃんと思い浮かべて。来て、とか。そしたら言葉に乗せて、出す。それだけ」
「腹の奥の、あったかいの」
「そう。そして唱える『力ある言葉』は『セレ』。気持ちを上乗せする魅了の魔法」
カナメは目を閉じて、腹に意識を向けた。
何もなかった。
さっき食った実が、まだ少し残っている感じはする。それだけだ。あったかいも冷たいもない。
「……ないぞ、そんなの」
「あるわよ。ほら、もっとよく探して」
探した。腹に力を入れてみた。息を止めてみた。何も変わらない。
とりあえず、やるだけやってみることにした。人差し指を立てて、さっきの小鳥が戻った枝へ向ける。来い。こっち来い……!
「セレ!!」
小鳥はカナメを一瞥して、ぱっと飛び去った。
「…………」
「あはは! そんな大声出すからよ」
「ちゃんと言っただろ。何がだめなんだ」
「そりゃ魔力が流れてないもの。イメージも弱い」
もう一度集中してみる。お腹の中にある、あたたかい何か……。まったくわからん。
今度は木の幹を駆け上がっていく栗鼠に手を向ける。
ゆっくり落ち着いて。栗鼠がこちらに来る様を想像して。
「セレ」
栗鼠は止まりもしなかった。
三回目。四回目。手のひらを向けてみたり、両手でやってみたり、言葉を大声で言ってみたりした。
五回目のあたりで、ミレナの笑い声が止まった。
「ちょっと、手、貸して」
ミレナがカナメの右手を取り、自分の両手で包んだ。
「今、私の魔力を少しだけ流してるの。分かる?」
美人に手を握られて、カナメのほうが体温が上がりそうだ。真正面から見れない。
「……お前の手があったかいのは分かる」
「そうじゃなくて」
「じゃあ分かんない」
ミレナは、カナメの手を握ったまま黙った。
それから、首をかしげた。笑っているときとは違う、小さな皺が眉の間に寄っていた。
「息の仕方が分からない、って言われてるみたい」
ぽつりと、そう言った。
カナメには、何と返せばいいのか分からなかった。分からないものは分からない。
指を曲げろと言われれば曲げられる。腹の奥のあったかいのを流せと言われても、ないものは流せない。
ミレナはしばらくカナメの顔を見ていたが、やがて、ぱっと手を離した。
「ま、いっか! 鳥や栗鼠じゃ、やる気も出ないわよね。男の人を前にすれば、案外すぐよ」
「それは絶対やらねえってば」
カナメは、自分の右手を見下ろした。
ちぇ、と思った。使えたら、便利そうだったのに。
*
森を抜けると、夕暮れの丘の向こうに町が見えた。
石を積んだ低い塀。赤茶けた屋根。煙突から昇る煙。道には轍が刻まれ、荷車を引く男とすれ違った。男はミレナを見て帽子に手をやり、それからカナメを見て、もう一度帽子に手をやった。にこりと笑いかけてきた。心なしか胸元を見られたのがわかる。
カナメは、思わず下を向いた。
何だ今の。
ミレナは慣れた足取りで大通りを外れ、塀沿いの細い道に入った。大きな屋敷の裏手だった。木戸を押すと、鍵はかかっていなかった。手入れされた裏庭を横切り、母屋から少し離れた二階建ての離れへ向かう。
扉を叩く前に、内側から開いた。
「ミレナ!」
出てきたのは、二十歳くらいの若い男だった。
背はカナメ――以前のカナメ――と同じくらい。上等そうな白いシャツに、きちんと撫でつけた茶色の髪。顔立ちは優しげで、笑うと目尻が下がる。ただ、顔色が少し悪かった。目の下に、うっすらと隈がある。
「来てくれたんだね。今日は来ないかと思った」
「ごめんなさい、ミロシュ。ちょっと用事があって」
ミレナが男の頬に軽く触れると、ミロシュは照れくさそうに笑った。それから、ミレナの後ろに立っているカナメに気づいて、目を丸くした。
「そちらは?」
「妹のカナメ。この子、人見知りみたいでね。ちょっと連れてきてみた!」
「妹さん!」
ミロシュは姿勢を正し、カナメに向かって丁寧に頭を下げた。
「はじめまして、ミロシュです。ミレナにはいつもお世話になっています」
「……どうも」
それしか出てこなかった。
ミロシュは気を悪くした様子もなく、どうぞ、と二人を中へ招き入れた。
二階の部屋は広かった。大きな窓、本の詰まった棚、暖炉の前の長椅子。奥の扉の向こうは、寝室らしかった。
ミロシュが茶の支度をしに部屋の隅へ行った隙に、ミレナがカナメの耳元に口を寄せた。
「さ、実地訓練よ!」
「……は?」
「私がどうやってるか、見て覚えるの。今日は特別に見学させてあげる」
カナメの頭の中で、さっきから引っかかっていたものが、全部つながった。
行き先を言わなかった理由。男の住む家。奥の寝室。
カナメはミレナの手首をつかんで、窓際まで引っぱっていった。
「まじで勘弁してくれ。聞いてねえぞ」
「言ったら来なかったでしょ」
「当たり前だろうが」
「見てるだけでいいから。誰もあなたに何かしろなんて言ってないわよ」
「見るのも嫌だ!」
声を殺したつもりだったが、ミロシュがポットを持ったまま振り返った。
*
「あの……ミレナ」
ミロシュは、困ったように笑っていた。
「妹さんも、今夜はここに? いや、もちろん歓迎するよ。ただ、その……」
言葉を探している。当然だ、とカナメは思った。恋人が、いきなり妹を連れて、夜に部屋へ来たのだ。困らないほうがおかしい。
ミレナは、にっこりと笑った。
ミロシュの前まで歩いていき、その頬に両手を添えて、顔を覗き込んだ。
「いいのよ、ミロシュ。気にしないで」
声は、いつもより少しだけ低かった。
そしてミロシュの耳元に口を近づける。甘く、やさしく、言葉をささやく。
「ミラ・セレ――その瞳に平穏を。その心に安らぎを」
カナメは見ていた。
ミロシュの目が、一瞬、焦点を失った。水面に石を投げたあとのように、瞳の奥が揺れて、それからすっと凪いだ。眉間に寄っていた困惑の皺が、消えていた。
「……そうだね。うん。気にすることじゃないね」
ミロシュは穏やかに笑って、カップを三つ並べはじめた。
カナメの背中を、冷たいものが這い上がった。
さっきまで困っていた男の顔から、困っていたという事実だけが、きれいに抜き取られていた。
「おい」
カナメは小声で言った。
「今の、何した」
「ちょっと滑らかにしてあげただけ。いつもはこんなことしないわよ?」
ミレナは、何でもないことのように肩をすくめた。
「ミロシュはね、私のことが好きなの。魔法なんかなくてもよ。だって、私だもの」
それは、たぶん本当なのだろうとカナメは思った。ミレナを見るミロシュの目には、混じりけというものがなかった。
「普段、魔法を使うのは、もっと後。うんと幸せにしてあげるときに、ちょっとだけ上乗せするの。そのほうが、また会いたくなるでしょ」
「…………」
カナメは、何も言わなかった。
ただ、初めてミレナを少し怖いと思った。人の、心を歪めたというのに、その笑みには何の罪悪感もない。ミレナの瞳は楽しそうに輝いている。
よく見ると、ミレナの瞳孔は縦長で、まるで猫やワニのようだ。
人外の化け物。
そんな言葉がカナメの脳裏をかすめた。
ミロシュが茶を淹れて、長椅子の前の卓に置いた。手つきは丁寧だった。ただ、カップを置くとき、指先がかすかに震えていた。カチャっと小さく音が鳴る。
「ごめんね、最近ちょっと疲れやすくて。父さんがうるさいんだ。顔色が悪い、医者に診せろって。今日もなんだか、母屋の様子がばたばたしてて」
「あら、お父様、心配性なのね」
「昔からなんだよ」
ミロシュは笑った。気のいい笑い方だった。
こいつ、普通にいいやつだな、とカナメは思った。
だから、余計に居心地が悪かった。
ミレナが長椅子に腰を下ろし、ミロシュの隣にぴたりと寄り添った。肩に頭を預ける。ミロシュの耳が赤くなる。部屋の空気が、とろりと甘く、重くなっていく。
カナメは立ち上がった。
「俺、外にいる」
「ちょっと、カナメ! 見学は?」
「しねえっつってんだろ」
振り返らずに、廊下へ続く扉へ向かった。
取っ手に手をかけた、そのときだった。
*
離れの入り口でルカとエリシュカは、ラデクが中の様子を確かめるのを待っていた。
居室のある二階からはなにやら大声で話す声が聞こえる。もめごとだろうか?
ラデクが音もなく階段から降りてくる。
二本の指を立て、それから三本目を立てた。中に三人。男がひとり、女が二人、ということらしい。
女が二人、とルカは口の中で繰り返した。報告ではひとりだったはずだ。
「連れがいたのか」
「若いのがもうひとり。夕方、森のほうから一緒に来た」
ルカは頷いた。剣の柄を握り直す。
構わない。ミロシュさんの身柄の確保が先だ。
商会長は、母屋の奥でまだ待っている。息子が日に日に痩せていくのを、ずっと見ていることしかできなかった父親だが、泣きながら頭を下げてきた男の顔を、ルカは忘れていなかった。
冒険者ギルドから来た依頼である。
息子が日に日に衰弱している理由を突き止めて、解決してほしい、とのことだった。
この手の事件の場合、考えられる要因はそう多くない。ギルドの調査の結果、衰弱し始めた時期から出入りしている女性がいることが判明した。
サキュバスだ。間違いない。
ルカ・ラデク・エリシュカの三人パーティはまだ一年程度の実績だが、仕事は堅実と評判だ。
サキュバスは準備と対策さえしっかりすれば、怖い相手ではない。
二体いる、というのは想定外だが、若い個体のようだ。問題にもならない。
エリシュカが、ルカの額に指を当てた。
「ルクス・メンテ・ヴェラ・クストス――光よ、心を真実のままに守れ」
短い祈りの言葉。耳の奥に、冷たい水が染みていくような感覚があった。頭の中が、すうっと澄んでいく。
エリシュカはラデクにも同じ加護を施し、最後に自分の額へ触れた。
「これで、しばらくは目を合わせても大丈夫。でも、長くはもたないからね」
「分かってる」
サキュバスは魔法で人を惑わす。だが、惑わされないようにしてしまえば、ただの細腕の女だ。距離を詰めて、組み伏せる。それで終わる。
ルカが先頭となって階段を上る。
扉の前に立ち、ラデクとエリシュカを振り返った。
二人が頷いた。
ルカは扉を蹴り開けた。
*
取っ手に手をかけたままのカナメの目の前で、扉が内側へ跳ねた。
カナメはとっさに半歩引いた。扉の縁が、鼻先をかすめて壁に叩きつけられる。
「ミロシュさんから離れろ!」
若い男が立っていた。短い金髪。革の胸当て。抜き身の剣の切っ先が、まっすぐカナメの喉に向いていた。その後ろに、細身の男と、杖を持った女。
背後で、カップの割れる音がした。
振り向かなくても分かった。ミレナが立ち上がった音だった。
「……冒険者……!」
ミレナの声に、これまで聞いたことのない焦りの色が混じる。
カナメは、剣の切っ先を見た。
それから、それを握る男の手首と、肩と、前に出ている右足の爪先を見た。




