第2話:サキュバス
暗かった。
それに、狭い。背中も膝も頭も、ぬるい何かに押しつけられている。湿っていて、生温かくて、少しだけ脈を打っているような気がした。
どこだ、ここ。
さっきまで高架の下にいたはずだ。茜がいて、サイレンが鳴っていて、それで――それで、どうなった。
茜は。
身をよじると、周りの壁がぐにゃりとたわんだ。たわむくせに、破れない。手のひらで押すと、押した分だけ押し返してくる。分厚いゴムを何枚も重ねたような手応えだった。
病院、じゃねえよな。
拳を握って、思いきり突いた。
――入らない。
力が、腕の途中で抜けていく感じがした。肩から先がやけに軽い。殴ったつもりなのに、ぺち、と情けない音しかしなかった。
どういう状況だ?
落ち着け、と自分に言い聞かせる。面で押しても駄目なものは駄目だ。張ってるもんには必ず弱いところがある。継ぎ目か、薄いところか。
指先で壁をなぞった。頭の上のほうに、筋のように硬く盛り上がった場所がある。その脇が、ほんの少しだけ薄い。
爪を立てた。食い込んだ。
そこへ両手の指をねじ込み、膝を壁に当て、背中ごと反らした。腕じゃなく、体全部で引く。
みち、と何かが裂ける音がした。
隙間から冷たい空気が流れ込んでくる。もう一度。今度は頭から突っ込むようにして裂け目を広げ、肩をねじ込み、上半身を押し出した。
支えがなくなって、そのまま外へ転げ落ちた。
*
石の床だった。冷たくて、ざらざらしている。
四つん這いのまま顔を上げた。
洞窟、らしかった。ごつごつした岩の壁が奥へ続いていて、天井の割れ目から細い光が一本だけ差し込んでいる。湿った土と、苔の匂い。木の根が、天井から何本も垂れ下がっていた。
振り返ると、自分が出てきたものがあった。
でかい。
人がひとりうずくまって、まだ余るくらいの、白っぽい卵のようなもの。表面はぬめぬめと光り、裂け目から透明な汁が垂れている。
……なんで俺、こんなもんの中にいたんだ。
とりあえず立とうとして、床についた手が目に入った。
細い。
白くて、骨の浮いた、細い手首。指も長くて、爪の形まで違う。
要の手は、引っ越しの段ボールでささくれだらけになった、ごつい手だったはずだ。
握る。開く。ちゃんと自分の思ったとおりに動く。だから余計に気味が悪かった。
顔の横から、何かが垂れてきた。
黒い糸の束。払いのけようとして、それが頭から生えていることに気づいた。引っぱると、頭皮が痛い。髪だ。腰のあたりまである。
「なんだよ、これ……」
自分の口から出た声に、要は思わず周りを見回した。
誰だ、今の声……。
高くて、細い、女の声だった。
「おい、誰か――」
また同じ声がした。喉が震えているのが分かった。自分の喉が。
いや。
いやいや、待て。
恐る恐る、視線を下げた。
胸が、あった。
ふくらんでいた。そして何も着ていなかった。
「――はあっ!?」
洞窟じゅうに、甲高い悲鳴が響いた。
どうして。何が起きた。なんで。
とっさに左のこめかみに手をやった。最後に何かを食らったはずの場所だ。傷はない。腫れていたはずの左目も、普通に開いている。脇腹も痛くない。どこも痛くない。
それが、何よりわけが分からなかった。
壁際まで後ずさって、背中を岩にぶつけた。冷たさに飛び上がりそうになる。何も分からない。ここがどこかも、この体が誰のものかも、茜がどうなったのかも。
とにかく。
とにかく、裸はまずいよな。
要は卵の殻――殻と呼ぶには柔らかすぎるそれに駆け寄り、裂け目の縁をつかんで、剥がせるだけ剥がした。厚い膜が、べりべりと大きく剥がれた。ぬるぬるして気持ち悪いが、背に腹は代えられない。脇の下から胸まで巻きつけ、端と端を固く縛る。
余った膜をもう一枚、腰に巻く。
見下ろすと、半透明の白い膜をぐるぐると巻きつけた、細い体があった。
……どう見ても、ひどい格好だ。
「あはっ」
自分の声とは違う、女性の笑い声がした。
*
洞窟の入口側、光の差し込むあたりに、いつのまにか女が立っていた。まったく気づかなかった。
要は、文字どおり固まった。
深い葡萄色のドレスを着ていた。肩から腕にかけての線が、やたらときれいだった。肩くらいまでの髪が、光を受けて赤みがかって見える。顔は――顔は、美人すぎてまともに見られなかった。目が合った瞬間、喉の奥がひゅっと詰まって、視線のほうが勝手に逃げた。
女は口元に手を当てて、肩を震わせていた。
ケラケラ、と、子どものように笑っていた。
何か言った。聞いたことのない言葉だった。英語でもない。抑揚が歌うようで、どこで区切れるのかも分からない。
「だ、誰だよ、あんた」
女が首をかしげた。それから、楽しそうにまた何か言いながら、すたすたと近づいてくる。
「ちょっ――ちょっと、近づくな!」
無遠慮に顔をぐいっと近づけてきた。
要の周りをぐるりと一周し、膜の結び目を指でつついて、また吹き出した。
何かを言っている。たぶん、どうしたの、とか、何がそんなにおかしいの、とか、そういう調子だった。おかしいのは全部だ。
「触んなって! おい!」
女は全然聞いていなかった。というより、言葉が通じていなかった。
*
どれくらい、そうしていたのか分からない。
女は自分の胸に手を当てて、何度も同じ音を繰り返した。
「ミレナ」
それが名前らしい、と分かるまでにしばらくかかった。
「名前か? ミレナ?」
ぶんぶんぶんと、何度もうなずいて見せる。どうやら正解らしい。
続いて、要のほうを指さした。その指が要のほほに刺さっている理由はわからないが、要するにお前の名前はなんだ、ということだろう。
「……東郷。東郷要」
「トーゴー?」
「要。カナメ」
「カナメ」
女――ミレナは、満足そうにうなずいた。
それからミレナはよく喋った。洞窟の床に座り込み、要の向かいで、身振り手振りを交えて、飽きもせずに喋り続けた。要は膜の結び目を押さえたまま、ひたすらそれを聞いていた。ほかにすることがなかった。
最初は、ただの音の流れだった。
そのうち、同じ音が何度も出てくることに気づいた。ミレナが自分を指すときの音。要を指すときの音。天井の割れ目を指して言う音は、たぶん「外」か「光」だ。
音が、区切れはじめた。
区切れた音に、意味がくっつきはじめた。「いい」「だめ」「ここ」「お母様」「来た」。指差しと表情で、ひとつずつ埋まっていく。
天井から差す光が、少しずつ傾いていった。
そのうち、気づいた。
ミレナの言っていることが、分かる。
全部じゃない。それでも、短い文なら、引っかからずに頭へ入ってくる。それに、自分の口から出る言葉も、途中から日本語ではなくなっていた。いつからだったのか、思い出せなかった。
気味が悪い、と思った。思ったが、今さらひとつくらい気味の悪いことが増えても、どうということはなかった。
股の間に「もの」がないことにさっき気づいたのだ。それと比べれば、本当にどうということもない。
「――ね、分かるでしょう? もう分かるわよね?」
「……ああ。たぶん」
「よかった! ずっと独り言みたいで、さすがに疲れてきたところよ」
ミレナは立ち上がって、ドレスの裾を払った。
それから、芝居の幕でも開けるように両手を広げた。
「では、改めまして。おはよう、我が妹。ようこそ、サキュバスの人生へ!」
要は、ぽかんと口を開けた。
「……妹?」
どこにいる、と思って、思わず後ろを振り返った。岩の壁と、破れた繭しかない。
「あなたよ、あなた」
「は?」
「私はミレナ。あなたのお姉様。同じお母様から、一年早く生まれたの」
「お姉、さま」
「そう。お母様に、そろそろ生まれるんじゃないって言われてね。来てみたら、繭の外で妹が膜を巻いて叫んでるんだもの。あんなに笑ったの、久しぶり」
要は、自分の細い手を見た。膜を巻いた体を見た。腰まである黒い髪を見た。
それから、目の前の、まともに顔を見られないほどきれいな女を見た。
「……で、その、サキュバス、ってのは」
「何言ってるの?」と言いながら、ミレナと要を交互に指さす。
「わたしたちサキュバスじゃない! なんとなくわかるでしょ!」
「あー……たぶんさっき、生まれたんだか、『なった』んだかわからんが……ともかく新参者だもんで……」
「あららぁ! サキュバスの自覚薄いのね、たまにいるみたいねー」
ミレナはけたけたと笑うと、演技がかった大げさな仕草で、くるりと一回転して、ドレスの裾をふわりと広げる。
「男を誘い、男を惑わし、男を喰らう。快楽と魔性の化身。それが私たち、サキュバスよ!」
洞窟に、ミレナの声がよく響いた。
サキュバス。
聞いたことはある。漫画か、ゲームか、誰かの話か。男を誘惑する女の怪物。そのくらいの知識しかない。
男を誘惑する、女の怪物が。
男を、喰らう。
要の目は、自然とミレナの口元に行った。赤い唇の間から、白い歯がちらりとのぞいていた。
血の気が引いた。
あれで。人間を。
喰うのか?
そして自分も、どうやら、その「私たち」に入っているらしい。
「……いや、無理だろ」
「なにが?」
ミレナは、本当に分からないという顔で首をかしげた。
*
それから小一時間。
ミレナの話は脱線だらけで、半分は自慢で、もう半分は要の格好への笑いだったが、それでもいくつかのことは分かった。
サキュバス。
それは妖魔の一種であり、人間の女性に似た姿を持つ魔物である。男を誘い、幻を見せ、心を惑わす。魅了や幻惑、催眠などの魔法を得意とし、人間の男性から精気を吸収することで成長する。
若い個体は人里近くの洞窟や廃墟に潜むが、成長と経験を積んだ個体は人間社会へ入り込む。中には貴族の館に住まい、長年にわたって正体を隠し続けるものもいるらしい。
要が理解できたのは、だいたいそのくらいだった。
つまり、後で思えば当たり前のことだが、男を喰らうというのは、文字どおりの意味ではなかった。
「……なんだ、肝が冷えた」
要は、岩の壁にずるずるともたれかかった。
「実際に食うわけじゃねえのか……」
人を食う化け物にでもなったのかと焦った。それだけで、ずいぶん今の状況がましに見えた。体は相変わらず細いし、髪は鬱陶しいし、膜は乾いてきてごわごわするが、それでも。
「食べるわけないでしょ、野蛮ねえ。死んじゃったら二度と吸えないじゃない」
「吸う、ってのは、どうやって」
安心ついでに、何気なく聞いた。
ミレナは、何でもないことのように答えた。
「どうって。男と寝るのよ。それがいちばん効率がいいの」
「…………」
「もちろん、ただ寝るだけじゃないわよ? いい夢を見せて、うんと気持ちよくしてあげて、そのぶんたっぷりいただくの。お互い幸せでしょう?」
「……………………」
「あなたも、慣れればすぐよ。最初は誰でも緊張するものだから」
要は、ゆっくりと自分の体を見下ろした。
細い腕。膜に包まれた、ふくらんだ胸。
ゆっくりと顔を上げた。
ミレナが、慈愛に満ちた姉の顔で、にっこりと笑っていた。
男、と聞いて、なぜか、引っ越し屋の社長の、ひげ面が浮かんだ。慌てて頭から叩き出した。八百屋の若い店員の顔が浮かんだ。それも叩き出した。
誰の顔を思い浮かべても、まったくできる気がしなかった。
「……絶対無理だろ……」




