↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/15

第2話:サキュバス

 暗かった。


 それに、狭い。背中も膝も頭も、ぬるい何かに押しつけられている。湿っていて、生温かくて、少しだけ脈を打っているような気がした。


 どこだ、ここ。


 さっきまで高架の下にいたはずだ。茜がいて、サイレンが鳴っていて、それで――それで、どうなった。


 茜は。


 身をよじると、周りの壁がぐにゃりとたわんだ。たわむくせに、破れない。手のひらで押すと、押した分だけ押し返してくる。分厚いゴムを何枚も重ねたような手応えだった。


 病院、じゃねえよな。


 拳を握って、思いきり突いた。


 ――入らない。


 力が、腕の途中で抜けていく感じがした。肩から先がやけに軽い。殴ったつもりなのに、ぺち、と情けない音しかしなかった。


 どういう状況だ?


 落ち着け、と自分に言い聞かせる。面で押しても駄目なものは駄目だ。張ってるもんには必ず弱いところがある。継ぎ目か、薄いところか。


 指先で壁をなぞった。頭の上のほうに、筋のように硬く盛り上がった場所がある。その脇が、ほんの少しだけ薄い。


 爪を立てた。食い込んだ。

 そこへ両手の指をねじ込み、膝を壁に当て、背中ごと反らした。腕じゃなく、体全部で引く。

 みち、と何かが裂ける音がした。


 隙間から冷たい空気が流れ込んでくる。もう一度。今度は頭から突っ込むようにして裂け目を広げ、肩をねじ込み、上半身を押し出した。


 支えがなくなって、そのまま外へ転げ落ちた。


    *


 石の床だった。冷たくて、ざらざらしている。


 四つん這いのまま顔を上げた。


 洞窟、らしかった。ごつごつした岩の壁が奥へ続いていて、天井の割れ目から細い光が一本だけ差し込んでいる。湿った土と、苔の匂い。木の根が、天井から何本も垂れ下がっていた。


 振り返ると、自分が出てきたものがあった。


 でかい。

 人がひとりうずくまって、まだ余るくらいの、白っぽい卵のようなもの。表面はぬめぬめと光り、裂け目から透明な汁が垂れている。

 ……なんで俺、こんなもんの中にいたんだ。


 とりあえず立とうとして、床についた手が目に入った。


 細い。


 白くて、骨の浮いた、細い手首。指も長くて、爪の形まで違う。

 要の手は、引っ越しの段ボールでささくれだらけになった、ごつい手だったはずだ。


 握る。開く。ちゃんと自分の思ったとおりに動く。だから余計に気味が悪かった。


 顔の横から、何かが垂れてきた。

 黒い糸の束。払いのけようとして、それが頭から生えていることに気づいた。引っぱると、頭皮が痛い。髪だ。腰のあたりまである。


「なんだよ、これ……」

 自分の口から出た声に、要は思わず周りを見回した。


 誰だ、今の声……。

 高くて、細い、女の声だった。


「おい、誰か――」

 また同じ声がした。喉が震えているのが分かった。自分の喉が。


 いや。


 いやいや、待て。


 恐る恐る、視線を下げた。


 胸が、あった。

 ふくらんでいた。そして何も着ていなかった。


「――はあっ!?」


 洞窟じゅうに、甲高い悲鳴が響いた。


 どうして。何が起きた。なんで。


 とっさに左のこめかみに手をやった。最後に何かを食らったはずの場所だ。傷はない。腫れていたはずの左目も、普通に開いている。脇腹も痛くない。どこも痛くない。

 それが、何よりわけが分からなかった。


 壁際まで後ずさって、背中を岩にぶつけた。冷たさに飛び上がりそうになる。何も分からない。ここがどこかも、この体が誰のものかも、茜がどうなったのかも。


 とにかく。


 とにかく、裸はまずいよな。


 要は卵の殻――殻と呼ぶには柔らかすぎるそれに駆け寄り、裂け目の縁をつかんで、剥がせるだけ剥がした。厚い膜が、べりべりと大きく剥がれた。ぬるぬるして気持ち悪いが、背に腹は代えられない。脇の下から胸まで巻きつけ、端と端を固く縛る。

 余った膜をもう一枚、腰に巻く。


 見下ろすと、半透明の白い膜をぐるぐると巻きつけた、細い体があった。


 ……どう見ても、ひどい格好だ。


「あはっ」


 自分の声とは違う、女性の笑い声がした。


    *


 洞窟の入口側、光の差し込むあたりに、いつのまにか女が立っていた。まったく気づかなかった。


 要は、文字どおり固まった。


 深い葡萄色のドレスを着ていた。肩から腕にかけての線が、やたらときれいだった。肩くらいまでの髪が、光を受けて赤みがかって見える。顔は――顔は、美人すぎてまともに見られなかった。目が合った瞬間、喉の奥がひゅっと詰まって、視線のほうが勝手に逃げた。


 女は口元に手を当てて、肩を震わせていた。

 ケラケラ、と、子どものように笑っていた。


 何か言った。聞いたことのない言葉だった。英語でもない。抑揚が歌うようで、どこで区切れるのかも分からない。


「だ、誰だよ、あんた」


 女が首をかしげた。それから、楽しそうにまた何か言いながら、すたすたと近づいてくる。


「ちょっ――ちょっと、近づくな!」


 無遠慮に顔をぐいっと近づけてきた。


 要の周りをぐるりと一周し、膜の結び目を指でつついて、また吹き出した。

 何かを言っている。たぶん、どうしたの、とか、何がそんなにおかしいの、とか、そういう調子だった。おかしいのは全部だ。


「触んなって! おい!」


 女は全然聞いていなかった。というより、言葉が通じていなかった。


    *


 どれくらい、そうしていたのか分からない。


 女は自分の胸に手を当てて、何度も同じ音を繰り返した。


「ミレナ」


 それが名前らしい、と分かるまでにしばらくかかった。


「名前か? ミレナ?」


 ぶんぶんぶんと、何度もうなずいて見せる。どうやら正解らしい。

 続いて、要のほうを指さした。その指が要のほほに刺さっている理由はわからないが、要するにお前の名前はなんだ、ということだろう。


「……東郷。東郷要」


「トーゴー?」


「要。カナメ」


「カナメ」

 女――ミレナは、満足そうにうなずいた。


 それからミレナはよく喋った。洞窟の床に座り込み、要の向かいで、身振り手振りを交えて、飽きもせずに喋り続けた。要は膜の結び目を押さえたまま、ひたすらそれを聞いていた。ほかにすることがなかった。


 最初は、ただの音の流れだった。


 そのうち、同じ音が何度も出てくることに気づいた。ミレナが自分を指すときの音。要を指すときの音。天井の割れ目を指して言う音は、たぶん「外」か「光」だ。


 音が、区切れはじめた。


 区切れた音に、意味がくっつきはじめた。「いい」「だめ」「ここ」「お母様」「来た」。指差しと表情で、ひとつずつ埋まっていく。


 天井から差す光が、少しずつ傾いていった。


 そのうち、気づいた。


 ミレナの言っていることが、分かる。


 全部じゃない。それでも、短い文なら、引っかからずに頭へ入ってくる。それに、自分の口から出る言葉も、途中から日本語ではなくなっていた。いつからだったのか、思い出せなかった。


 気味が悪い、と思った。思ったが、今さらひとつくらい気味の悪いことが増えても、どうということはなかった。

 股の間に「もの」がないことにさっき気づいたのだ。それと比べれば、本当にどうということもない。


「――ね、分かるでしょう? もう分かるわよね?」


「……ああ。たぶん」


「よかった! ずっと独り言みたいで、さすがに疲れてきたところよ」

 ミレナは立ち上がって、ドレスの裾を払った。


 それから、芝居の幕でも開けるように両手を広げた。


「では、改めまして。おはよう、我が妹。ようこそ、サキュバスの人生へ!」


 要は、ぽかんと口を開けた。


「……妹?」


 どこにいる、と思って、思わず後ろを振り返った。岩の壁と、破れた繭しかない。


「あなたよ、あなた」


「は?」


「私はミレナ。あなたのお姉様。同じお母様から、一年早く生まれたの」


「お姉、さま」


「そう。お母様に、そろそろ生まれるんじゃないって言われてね。来てみたら、繭の外で妹が膜を巻いて叫んでるんだもの。あんなに笑ったの、久しぶり」


 要は、自分の細い手を見た。膜を巻いた体を見た。腰まである黒い髪を見た。


 それから、目の前の、まともに顔を見られないほどきれいな女を見た。


「……で、その、サキュバス、ってのは」


「何言ってるの?」と言いながら、ミレナと要を交互に指さす。

「わたしたちサキュバスじゃない! なんとなくわかるでしょ!」


「あー……たぶんさっき、生まれたんだか、『なった』んだかわからんが……ともかく新参者だもんで……」


「あららぁ! サキュバスの自覚薄いのね、たまにいるみたいねー」

 ミレナはけたけたと笑うと、演技がかった大げさな仕草で、くるりと一回転して、ドレスの裾をふわりと広げる。


「男を誘い、男を惑わし、男を喰らう。快楽と魔性の化身。それが私たち、サキュバスよ!」

 洞窟に、ミレナの声がよく響いた。


 サキュバス。


 聞いたことはある。漫画か、ゲームか、誰かの話か。男を誘惑する女の怪物。そのくらいの知識しかない。


 男を誘惑する、女の怪物が。


 男を、喰らう。


 要の目は、自然とミレナの口元に行った。赤い唇の間から、白い歯がちらりとのぞいていた。

 血の気が引いた。


 あれで。人間を。


 喰うのか?


 そして自分も、どうやら、その「私たち」に入っているらしい。


「……いや、無理だろ」


「なにが?」

 ミレナは、本当に分からないという顔で首をかしげた。


    *


 それから小一時間。


 ミレナの話は脱線だらけで、半分は自慢で、もう半分は要の格好への笑いだったが、それでもいくつかのことは分かった。


 サキュバス。


 それは妖魔の一種であり、人間の女性に似た姿を持つ魔物である。男を誘い、幻を見せ、心を惑わす。魅了や幻惑、催眠などの魔法を得意とし、人間の男性から精気を吸収することで成長する。

 若い個体は人里近くの洞窟や廃墟に潜むが、成長と経験を積んだ個体は人間社会へ入り込む。中には貴族の館に住まい、長年にわたって正体を隠し続けるものもいるらしい。


 要が理解できたのは、だいたいそのくらいだった。


 つまり、後で思えば当たり前のことだが、男を喰らうというのは、文字どおりの意味ではなかった。


「……なんだ、肝が冷えた」

 要は、岩の壁にずるずるともたれかかった。

「実際に食うわけじゃねえのか……」


 人を食う化け物にでもなったのかと焦った。それだけで、ずいぶん今の状況がましに見えた。体は相変わらず細いし、髪は鬱陶しいし、膜は乾いてきてごわごわするが、それでも。


「食べるわけないでしょ、野蛮ねえ。死んじゃったら二度と吸えないじゃない」


「吸う、ってのは、どうやって」

 安心ついでに、何気なく聞いた。


 ミレナは、何でもないことのように答えた。

「どうって。男と寝るのよ。それがいちばん効率がいいの」


「…………」


「もちろん、ただ寝るだけじゃないわよ? いい夢を見せて、うんと気持ちよくしてあげて、そのぶんたっぷりいただくの。お互い幸せでしょう?」


「……………………」


「あなたも、慣れればすぐよ。最初は誰でも緊張するものだから」


 要は、ゆっくりと自分の体を見下ろした。


 細い腕。膜に包まれた、ふくらんだ胸。


 ゆっくりと顔を上げた。


 ミレナが、慈愛に満ちた姉の顔で、にっこりと笑っていた。


 男、と聞いて、なぜか、引っ越し屋の社長の、ひげ面が浮かんだ。慌てて頭から叩き出した。八百屋の若い店員の顔が浮かんだ。それも叩き出した。

 誰の顔を思い浮かべても、まったくできる気がしなかった。


「……絶対無理だろ……」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。