第1話:喧嘩番長
金網に押しつけられた三浦航の頬に、ひし形の跡がついていた。
「だからさ、取ろうって言ってるんじゃないの。貸してって言ってるの」
沢渡は穏やかに言った。生徒会の書記として、職員室で使うのと同じ声だ。この声で話していれば、たいていの人間は自分のほうが聞き分けのない子どもなのだと思い込んでくれる。
部室棟の外壁とフェンスに挟まれた通路は、両腕を広げればふさがるほど狭い。出入り口は西の角と、東の自転車置き場側の二つだけ。この時間、ここを通る人間はいない。下調べは済んでいた。
堀が航の肩を押さえ、金子が航の鞄を逆さにして振った。教科書とペンケースと、文庫本が一冊落ちた。田代がその文庫本を靴の先で踏む。
「スマホ出して。暗証番号言って。それで終わり。簡単だろ」
航は唇を噛んだまま、首を横に振った。さっきから、それしかしない。
面倒だな、と沢渡は思った。顔は駄目だ。目立つ。腹なら制服で隠れる。
「三浦くんさ、長引かせると損するのそっちだよ」
「……僕だって、長引かせたくなかった」
航が初めて口を開いた。声は震えていたが、目は沢渡の肩越しに、西の角を見ていた。
先に振り返ったのは金子だった。その顔から、すっと色が抜けた。
「おい、沢渡。東郷だ」
西の角に、男子生徒がひとり立っていた。
背は高いほうだが、目を引くほどではない。外したネクタイをポケットに突っ込み、片手に引っ越し屋のロゴが入った軍手を握っている。走ってきたのか、少し息が上がっていた。
「おう、航。あんまり遅いから探したぞ」
「……ごめん」
「いいって」
東郷要はそれだけ言って、通路に入ってきた。
もちろん、沢渡はその名前を知っていた。駅前で隣町の中学生を何人も畳んだ。他校の三年と一人でやり合った。半グレ連中も一目置いている。
東雲の番長。
笑わせる、と沢渡は思う。昭和の漫画じゃあるまいし。噂の半分は嘘で、残りの半分は尾ひれだ。
実物は、ただの落第生だろうな。教師をなぐって謹慎になったり、入部を断られたりと悪い話しか聞かない。
「東郷くんさあ、関係ないよね」
「ある。航はダチだ」
「うわ、出た。そういうの、今どき流行らないよ。ちょっと痛い目見といたら?」
四対一。通路は狭い。二人並べば正面はふさがる。前で押しとどめている間に、一人を東の出口から出して、部室棟をぐるりと回らせればいい。挟めば終わりだ。
沢渡は目だけで田代に合図した。田代が静かに、東の出口へ下がっていった。
*
一人抜けたな、と要は思った。
裏を回ってくる気だ。その前に、前の二人を片づける。
右に堀、左に金子が並んだ。堀は縦にも横にもでかい。百キロ近いと聞いたことがある。
来る。
突っ込んできた堀の足元へ、転がっていた航の鞄を蹴り込んだ。堀の巨体が前にのめる。要はその襟首をつかんで、倒れる方へ引いてやった。
堀の体が、横の金子にまともにぶつかった。二人分の体重を受けた部室棟のトタン壁が、派手な音を立ててへこんだ。
金子が堀の下から這い出し、壁のデッキブラシをつかんだ。振り回された柄が、金網に引っかかって跳ね返る。要はその柄を踏みつけ、金子を突き飛ばした。金子は起き上がりかけた堀に足を取られ、二人まとめて転がった。
これで前は――
背後で、靴底が砂を噛んだ。
振り向くより先に、こめかみに拳が入った。
田代だ。思ったより早い。
視界の左半分が白く弾けた。口の中に鉄の味が広がる。
「痛ってえな、クソ!」
振り向きざまに、肩から田代にぶつかった。そのまま金網まで押し込み、跳ね上がってきた膝を腿で受けて、足を踏みつける。田代が裏返った声を上げて崩れた。
*
通路で立っているのは、東郷一人になっていた。
唇の端から血が垂れ、左目の横が赤く膨らみはじめている。なのに、少しも焦った顔をしていない。それどころか、その目には闘志が滾っている。
「……暴力は、よくないと思うな」
「お前が言い出しっぺだろ」
沢渡は両手を上げてみせた。
「悪かった、悪かったよ。ほんの冗談だったんだ」
東郷は沢渡の横を通り過ぎ、足元の文庫本を拾った。表紙についた靴跡を袖で拭い、航に放る。
「ほら。……お前らはもう行け」
角を曲がる前に、沢渡は一度だけ振り返った。東郷はもう、こちらを見ていなかった。
頬の内側を噛んだ。
今は負けでいい。今は。今日中に、ただの怪我人にしてやる。
*
「口。切れてるじゃないか」
航は文庫本の角をそろえながら言った。
「切れてんな」
「目の横も腫れてるよ。冷やしたほうがいい」
「バイトあんだよ。早く行かねえと」
「その顔で引っ越し?」
「トラックの奥で積むだけだ」
「そういう問題じゃないでしょ」
航は心底あきれた顔をして、それから言った。
「先生には、僕から言うから」
「は?」
「東郷くん、絶対説明しないでしょ。そしたらまた『東郷が殴った』で終わる」
「殴ったのは本当だろ」
「だから、その前のことを僕が言うんだよ」
航は鞄を肩にかけた。膝はまだ少し笑っていたが、声はもう震えていなかった。
こいつ、変なところで強情だよな、と要は思う。さっきだって、スマホを出せば済んだのだ。出さなかった。
「……あと、ありがとう。東雲の番長」
「やめろよそれ。誰が言い出したんだよ」
「わりと全校かな」
要は顔をしかめた。口の端が痛んで、もう一度しかめた。
*
校門の柱に、篠原茜が寄りかかっていた。
げ、と思ったときにはもう遅い。茜は要を見つけるなり、まっすぐ歩いてきた。
「三浦くんからLINE来た。顔見せて」
「大したことねえよ」
「見せて」
こうなると何を言っても無駄なのは、十年以上の付き合いで知っている。要は黙って顔を傾けた。
茜は眉を寄せ、ポーチから軟膏を出して、遠慮なく塗りたくった。指先が冷たくて、少しくすぐったい。じっとしていろと言われているわけでもないのに、なぜか動けなかった。
「今日もバイト? その顔で行っていいわけないでしょ」
茜は要のポケットからスマホを抜き取った。おい、と言う間もない。慣れた手つきで電話をかけ、相手はすぐに出た。
「あ、社長さんですか。篠原です。……はい、要がまた顔腫らしてて。……はい、今日はお休みさせてください」
電話の向こうで、太い声がげらげら笑っているのが漏れ聞こえた。
「顔治るまで来んな、治ったら来い、だって」
「俺には、そんくらいで休むなって怒鳴るくせに……。茜に甘すぎねえか、あのおっさん」
「要が信用ないだけでしょ」
反論が思いつかなかった。
商店街を抜ける。
肉屋の前を通りかかると、店先のおばさんが要の顔を見るなり「あらまあ!」と声を上げ、返事をする前に紙袋にコロッケを二つ放り込んで押しつけてきた。
「いや、払うって」
財布を出しかけた手を、ぺしんと叩かれた。
「いいの。こないだ、うちの冷蔵庫運んでくれたでしょ。茜ちゃんも食べな」
向かいの八百屋では、若い店員が段ボールを積みながら「東郷さん、またっすか」と笑った。
「うるせえ、仕事しろ」
商店街が切れると、道は線路の高架に沿って続く。片側には橋脚が等間隔に並び、反対側には白い仮囲いが長く延びていた。古いビルを取り壊している最中で、囲いの切れ目から、砕いたコンクリートの山がのぞいている。
茜はしばらく黙ってコロッケを食べていたが、半分ほどで手を止めた。
「なんで毎回そうなの」
「航が泣きついてきたんだよ」
「嘘。三浦くん、そういうこと言わないもん。要が勝手に首突っ込んだんでしょ」
「……まあ、そういう見方もある」
「要が悪く言われるの、私、嫌なんだけど」
「勝手に言わせとけよ」
「私が嫌なの」
何と返せばいいのか分からなかった。要はコロッケをかじった。熱くて、口の傷にしみた。
茜の足が止まった。
二歩先で気づいて振り返ると、茜は紙袋の口を、指で何度も折っていた。耳が赤い。夕方の光のせいではなかった。
「あのさ、要。ずっと、言おうと思ってたんだけど」
「なんだよ」
なんだろうか。
謹慎になったときは、やたらと怒られたが、それはもう済んだ話だ。進路の話か? ちゃんと考えろと何度も言われてたな?
あ、前に借りた百二十円の話かもしれない。たんこぶ冷やすのに自販機の水が必要だったのだ。確かにまだ返してなかった。
「前借りた百二十円か。悪かったな、今返すよ」
茜が一瞬目を丸くして、それから少し笑った。
「そんなの別にいいんだけど。そんなんじゃなくて!」
「じゃあなんだってんだよ」
「……あのね、私。たぶんきみのことが……」
原付のエンジン音が、高架の下で反響した。
*
前方から原付が二台。乗っているのは三人で、制服ではなかった。どれも高校生より少し年上に見える。中でもジャージの上下の男は、立ち方がほかと違った。
後ろからは足音。沢渡、堀、金子。それに、知らない顔がもうひとり。
七人。
早すぎる。帰り道を読まれていた。
「さっきはどうも」
沢渡が、校舎裏と同じ穏やかな声で言った。
要は茜の手首をつかみ、すぐ脇の橋脚まで下がった。
「茜。柱に背中つけてろ。警察に電話。場所言え」
茜は一瞬だけ要の顔を見て、それ以上は何も聞かずにスマホを耳に当てた。
要は茜の前に、斜めに立った。これで背中と、左右の片方は柱がふさぐ。残りは前の半円だけだ。
そのかわり、ここから動けないが。
「高架下です、三丁目の、工事してるとこの横で――」
茜の声に、ジャージの男が舌打ちした。それが合図になった。
そこから先は、数えていられなかった。
来たやつの膝を蹴る。組みついてくるやつを振りほどく。一歩出ては、すぐ柱の前へ戻る。
蹴る。放る。戻る。
倒しても、誰かが起き上がってくる。ジャージだけは嫌なやつだった。間合いの外から速い左を何度も打ってきて、腫れていた左目がとうとう塞がった。
茜の悲鳴。振り返ると、柱を回り込んだ男が茜の手首をつかんでいた。次の瞬間には、参考書の詰まった鞄で顔面を張り飛ばされていた。
やるじゃねえか、さすが茜だ。
その隙に脇腹へ二発もらった。息が止まる。膝が笑う。それでも男を茜から引き剥がして、柱の前へ戻った。
あと何分もつか、分からなかった。
遠くで、サイレンが鳴りはじめた。
原付のエンジンがかかった。年上の三人が来た方へ逃げていく。金子と沢渡の連れも走った。堀は後頭部を押さえ、ふらつきながらその後を追った。
要は、柱に片手をついた。
*
沢渡だけが残っていた。
七人もいたのだ。金を払って、年上の連中まで呼んだ。帰り道も調べた。
それなのに、東郷は最後まで、あの柱の前から動かなかった。
サイレンが近づいている。あの女が呼んだ。名前も言うかもしれない。生徒会の、推薦の決まりかけている、沢渡の名前を。
ちょっとからかっただけじゃないか。なんで、俺が。
足元に、仮囲いの切れ目からこぼれたコンクリートの塊が転がっていた。拳二つ分ほどの、角の尖った欠片。
拾い上げたとき、沢渡は自分が何をするつもりなのか、半分しか分かっていなかった。
東郷は柱の前で、女の腕を見ていた。左目は塞がっている。こちらは見えていない。
あの女さえ黙らせれば。
沢渡は走った。東郷ではなく、女の方へ。振り上げる。振り下ろす。
その先に、東郷の頭があった。
鈍い音がした。手首に、硬いものを殴った感触が返ってきた。
東郷は倒れなかった。
ゆっくりと、こちらを向いた。開いている右目が、まっすぐ沢渡を見た。
次の瞬間、沢渡の顔の真ん中に拳がめり込んでいた。背中から仮囲いの鋼板に叩きつけられ、ずるずると座り込んで、動かなくなった。
*
赤い光が、高架の裏側を回っていた。
誰かが走ってくる。「大丈夫か」と大人の声がしている。警察か。来たのか。早かったな。
「要! 要、ねえ!」
茜の声が近い。いつの間にか、要は橋脚に背中を預けて座り込んでいた。座った覚えはなかった。
「あ、茜……うっせえよ……聞こえてるさ」
「しゃべんないで」
「お前が話しかけてんだろ……、……怪我は……?」
「ないよ! ないから!」
右目だけで茜を見た。制服は乱れているが、破れてはいない。手首のあたりが、つかまれた形に少し赤くなっていた。
「そこ」
「こんなの怪我じゃない、ばか!」
「……そうか」
なら、いいか。
頭の左側が、妙に熱かった。痛いのかどうかも、よく分からない。耳の奥で、ずっと水の流れるような音がしている。
とりあえず立つか。
地面についた右手が、滑った。ぬるりとしていた。
手のひらを見た。赤かった。視線を下ろすと、白いシャツが胸から腹まで、べったりと同じ色に染まっていた。尻の下のアスファルトに、黒い水たまりが広がっている。
「……なんだこれ」
要は、少し間の抜けた声で言った。
「全部、俺の血か……?」
茜が何か叫んでいた。その声が、急に遠くなった。
そこで、東郷要の意識は途切れた。
サキュバス題材ですが、残念ながらエロ要素は一切出てこないと思います




