第15話:追跡者たち
弓の男が、腰から小さな単眼鏡を抜いて、片目に当てた。
カナメを見て、ミレナを見て、もう一度カナメを見た。
「二体とも、だ。間違いない」
「そうか」
鎧の男が、戦鎚を肩に担ぎ直した。兜の下の顔は、意外なほど人懐っこく笑っていた。
「見た目だけなら、見目麗しい美女二人だ。おとなしく捕縛されるなら、紳士的にエスコートするが?」
「あら、デートのお誘い?」
ミレナが、ドレスの裾をつまんで小首をかしげた。
「残念だけど、行きずりの男性にほいほいついていくほど安い女じゃなくてよ」
「そりゃ残念だ」
男は、笑ったまま言った。
「じゃ、手足の一、二本は諦めろよ」
空気が変わった。
誰も声をかけ合わなかった。剣士が半歩ずれて鎧の男の斜め後ろにつき、弓の男が積み荷の陰へ下がって矢を番え、女が杖の先を床へ下ろした。それだけで、入口から倉庫の中ほどまでが、四人の間合いになった。
「おいおい、待てよ」
カナメは、両手を軽く上げた。
「俺、ギルドに登録してるぞ。使い魔ってやつで。今日も普通に仕事してただけで――」
「知ってる」
鎧の男は、あっさり言った。
「そのギルドから、捕縛の任務が出てんだよ。話は後でいくらでも聞いてやる」
話が通じないのではない。通じたうえで、聞く気がないのだ。
カナメの隣で、ミレナが小さく息を吸った。
「ミラ・ネブラ・ヴェル」
低く、甘い声だった。倉庫の埃っぽい空気が、ふっと緩む。差し込む光の筋が、わずかに滲んだ。カナメの肌にも、目に見えない何かが四人のほうへ流れていくのが分かった。
杖の女が、動いた。
杖の先から、水が溢れた。床へ落ちずに、薄い膜になって四人の前に広がる。膜の表面が、ミレナの声に合わせて細かく震えた。
「アクア・レフ・セイル」
女が短く唱えると、震えが逆向きに走った。
ぱちん、と、何かが弾けた。
緩みかけていた空気が、元に戻っていた。滲んだ光の筋も、くっきりと戻っている。四人の誰一人、目つきが変わっていない。
「うそ……」
ミレナの顔から、血の気が引いた。
「今の、合わせてきた……?」
「お前、いつもそれ効かねえじゃねえか!」
「うるさいわね! 今のは向こうが上手いのよ!」
ミレナの反論を聞き流しながら、カナメはもう横を見ていた。
さっき揺すった棚。
上の段には麻袋がぎっしり詰まっていて、下の段はほとんど空。床が傾いているせいで、片側の脚の下に木の楔が噛ませてある。少し揺すっただけで、上の袋がずり落ちかけた棚だ。
カナメは、楔を横から蹴り飛ばした。
支えを失った脚が、床に落ちた。棚がぐらりと傾く。上の重さが、そのまま倒れる方向を決めた。カナメが肩で軽く押すと、棚は通路をふさぐように倒れ込み、麻袋が次々と破れて中身をぶちまけた。古い粉か何かが、白く舞い上がった。
四人の姿が、埃の向こうに消えた。
「回り込め。手筈どおり行くぞ」
埃の向こうで、鎧の男の声がした。少しも慌てていなかった。
「こっちだ!」
カナメは、ミレナの手首を掴んで、木箱の山の間へ飛び込んだ。
通路は狭く、曲がりくねっている。作業を始める前に、一度端から端まで歩いて見て回った。どこに何が積んであって、どこが行き止まりで、どこから奥へ抜けられるか、だいたい頭に入っている。
右へ曲がる。
その先の通路を、水が塞いでいた。
床から天井近くまで、透明な壁が立ち上がっている。表面が波打ち、向こう側が歪んで見える。触れたら、ただでは済まなさそうだった。
「くそっ」
左へ。木箱の山を回り込む。
角を曲がった瞬間、首筋がぞわりとした。
カナメは、ほとんど倒れるように身を沈めた。頭のあった場所を、何かが鋭く通り過ぎた。後ろの木箱に、矢が深々と突き立っていた。
顔を上げる。積み上がった木箱の天辺に、弓の男が片膝をついていた。もう次の矢を番えている。
いつの間に、あそこまで登ったのか。
「カナメ、前!」
ミレナの声で、前を向いた。
剣士が、通路の向こうから走ってきていた。
速い。
足音がほとんどしない。床を滑るように、間合いが消えていく。腰の剣が、鞘を走る音だけが聞こえた。
カナメは、足元に転がっていた鉄の棒を掴んだ。壊れた棚の補強材だ。横に構えて、刃の来る筋へ差し込む。
澄んだ音がした。
鉄の棒が、二つになっていた。
断面が、鏡のように光っている。刃は勢いを落とさず、そのまま斜めに流れてきた。カナメは、腰をひねって上体を逃がした。胸元を、冷たい風がかすめた。服の布が、一筋、裂けた。
手に残った半分を、剣士の顔へ投げつけた。
剣士は、首をわずかに傾けただけだった。鉄片は耳の横を抜けて、後ろの木箱に当たって落ちた。
時間稼ぎにもならない。
その剣士の肩越しに、鎧の男が見えた。大股で通路を詰めてくる。戦鎚が、頭の上に振りかぶられていた。
来る。
カナメは横へ転がった。
戦鎚が、さっきまでカナメのいた床に落ちた。床板が砕けて、木片が顔に飛んできた。転がった勢いで立ち上がる。だが、鎧の男はもう、次の一歩を踏み出していた。離れられない。
「ノクス・セク・ラーム」
ミレナの声と同時に、床から、黒いものが突き出した。
鎧の男の足元の、すぐ前。床板の隙間から、闇を固めたような刃が三本、斜めに伸び上がっていた。男は踏み込みかけた足を引いて、一歩下がった。
ミレナが、片手を床へ向けていた。
「おうおう、やるねぇ」
鎧の男が、闇の刃を見下ろして口笛を吹いた。
「それなりの個体だな」
褒めていた。怯んではいなかった。剣士はもう、刃の脇を回り込もうとしている。木箱の上では、弓の男の矢が、こちらを向いている。
カナメは、理解した。
こいつら、四人で一つだ。
どこへ逃げても、誰かが待っている。一人をかわせば、別の一人が来る。
「くっそ、駄目だこれ! 逃げるぞ、ミレナ!」
「わかってるわよ!!」
*
倉庫の奥には、荷車ごと入れる搬出口がある。
作業の前に倉庫を見て回ったとき、真っ先に確かめた。荷を出すなら、どこから出すか。表の扉より、裏のほうが荷車をつけやすい。引っ越しの現場で、何度もやったことだ。
仕切り扉を蹴り開けた。
奥の部屋で、ペトルたち三人が、木箱を抱えたまま固まっていた。
「な、なんだよ。今の音――」
「お前らも逃げろ! ここにいるな!」
「は? え、仕事は」
「いいから! 裏から出て、まっすぐ家帰れ!」
ペトルは、何か言い返そうとした。だが、カナメの後ろから聞こえてくる重い足音と、ミレナの青ざめた顔を見て、口を閉じた。大柄な少年が、抱えていた木箱を床に落とした。
「行くぞ、ペトル!」
三人が、搬出口へ駆け出した。
その瞬間、カナメは、壁の高い位置にある明かり取りの窓に気づいた。
窓の外に、弓の男がいた。
隣の建物の庇の上。倉庫の中から、先回りしていたのだ。矢は、もう引き絞られていた。鏃の先にいるのは、カナメだ。
だが、その射線の途中に、ペトルがいた。
ペトルが、カナメと窓の間を、ちょうど横切ろうとしていた。
考える前に、体が動いた。
カナメは手を伸ばし、ペトルの背中を突き飛ばした。
右手に、熱いものが走った。
矢は、伸ばしたカナメの掌の縁を裂いて抜け、後ろの柱に突き立って震えていた。
「っ……!」
ペトルが、床に手をついて振り返った。カナメの手から落ちる血を見て、目を見開いた。
「止まるな! 行け!」
怒鳴ると、ペトルは弾かれたように立ち上がり、ほかの二人と一緒に搬出口から飛び出していった。
カナメは、右手を握ろうとした。指が、半分しか曲がらなかった。
分かってて、撃ったのか。
少年が射線に入れば、カナメが庇う。庇えば、足が止まる。あの男は、それを読んで撃ったのだ。
「カナメ!」
ミレナが、カナメの手首を掴んだ。傷を見て、唇を噛んだ。
「言っとくけど、回復魔法、そんな簡単に使えないからね!」
「分かってるよ!!」
右手を胸に抱え込んで、カナメは搬出口へ走った。
*
倉庫街の通りは、まっすぐだった。
ベルノルフの下町は、通りが縦と横に、ほぼ等間隔に走っている。建物の間の路地に飛び込めば、いったんは姿を隠せる。だが、路地を抜けた先には、必ず次の通りがある。
そして、通りを渡るたびに、捕捉される。
最初の通りを渡ったとき、屋根の上から矢が飛んできた。荷車の陰に飛び込んでかわした。
次の路地を抜けようとしたら、出口が水の壁で塞がれていた。引き返して別の路地に入ると、その先で、剣士が待っていた。
前に転がった。
頭の上を刃が通り過ぎた。地面に手をついた瞬間、右手の傷が焼けるように痛んだ。転がったまま剣士の脇を抜けて、また走る。
次の角。
曲がった先の壁に、戦鎚が叩き込まれた。煉瓦が砕けて、破片が雨のように降ってきた。腕で顔を覆う。肩に、背中に、ばらばらと当たる。
走る。
また、屋根の上に、弓の男の影が見えた。
追われているのではない。追い込まれている。どの路地を選んでも、四人のうちの誰かがいる方向へ出てしまう。路地の陰を使っても、急に向きを変えても、一回は通じる。だが、その次の一手が、もう塞がれている。
息が上がってきた。脇腹が痛い。煉瓦の破片が当たった肩が、じんじんと疼いていた。
「ちくしょう、ジリ貧だ」
路地の壁に背中を預けて、カナメは荒い息を吐いた。
「もう何回も避けらんねぇ」
ミレナが、隣で止まった。
止まった、というのは少し違った。
ミレナの足元に、黒いものが溜まっていた。影が濃くなったような、とろりとした闇。それが波のようにうねって、ミレナの体を運んでいた。ドレスの裾は揺れているが、足は地面をほとんど蹴っていない。
息も、カナメほど上がっていない。
「……なんだよそれ」
カナメは、思わず言った。
「楽そうだな」
「走ってるあんたのほうが、サキュバスとしては変なのよ」
ミレナは、額の汗を拭った。顔色は、倉庫を出たときより悪くなっていた。
「楽じゃないわよ。ずっと使ってたら、こっちが先に干上がる」
カナメは、路地の入口を見た。まだ誰も来ていない。だが、時間の問題だ。
さっきの、床から生えた黒い刃のことを考えた。
「……他に何ができるんだ?」
「たぶん大して役に立たないわよ」
ミレナは悔しそうに顔を歪める。
「さっきの刃。地面とか床とか、ものがある場所から突き出せる。それと、闇を絡めて、ものを縛ったり留めたりできる。幻惑は――あの魔術師がいる限り、たぶんまた合わせられる。長いのを練れば別だけど、時間がかかる」
「縛るって、人もか」
「人も、物も。でも、あの連中に正面からぶつけたって、大して効かないわよ。刃は避けられるし、縛ってもすぐ解かれる」
カナメは、ミレナの言葉を聞きながら、路地の先を見ていた。
通りの向かいの建物に、木組みの足場が組まれている。壁の補修か何かの途中らしい。縦の柱と、横に渡した板と、それを斜めに支える木。屋根より少し低い高さまで、組み上がっていた。
その上に、さっき、弓の男の影が見えた。
通りの先には、露店が並んでいた。布の天幕が、細い柱と張り綱で立っている。
「……俺の言う通りやってくれ」
「何するの」
「とりあえず、弓のやつと魔法使うやつを引き離さないと駄目だ」
カナメは、右手を胸に抱えたまま言った。
「あの二人がいるから、どこ行っても先回りされる。前の二人だけなら、まだなんとかなる」
ミレナは、カナメの顔を見た。
何か言い返そうとして、やめた。
「……分かった。どこにやればいいの」
「それと、最後に、長いやつ。使えるか」
「さっき言った幻惑? 練るのに時間がかかるって言ったでしょ」
「時間は作る」
*
二人は、わざと通りへ出た。
足場の正面を、横切る。
屋根の上から、気配が動いた。弓の男が、隣の屋根から足場の上へ飛び移る。ちょうど、通りを真上から見下ろせる位置だ。
カナメは、走りながら足場の根元を見ていた。
縦の柱が四本。その間を、斜めの木が一本、地面近くから上の段へ向かって走っている。足場が横に揺れないのは、あの斜めの木があるからだ。その下の端が、地面の杭に、縄で縛りつけてある。
「あの斜めの木! 下の付け根、縄のとこ!」
「ノクス・セク・ラーム!」
ミレナが、片手を振った。
足場の根元の地面から、黒い刃が突き上がった。縄ごと、斜めの木の付け根を下から叩き割った。
支えを失った木が、跳ねるように外れた。
足場が、軋んだ。
縦の柱と横の板だけになった枠が、上の重みに押されて、ゆっくりと横へ傾いていく。四角い枠が、ひしゃげて菱形になる。板が一枚、また一枚と外れて落ちた。
弓の男が、足場の上で体勢を崩した。
落ちる直前、男は自分から跳んだ。隣の建物の庇に手をかけ、体を振って、通りに積まれた藁束の上へ転がり落ちた。足場は、その背後で轟音を立てて崩れた。
死んではいない。
だが、もう屋根の上にはいない。
「次!」
*
露店の通りは、もう空になっていた。騒ぎを聞いて、店主たちは早々に逃げ出したらしい。並んだ天幕だけが、風に揺れている。
背後から、水の音が近づいてきた。
杖の女だった。路面を走る水が、女の足元を先導している。女はひとりで、天幕の間の通りへ踏み込んできた。
カナメは、天幕を支える柱を見た。
どの天幕も、細い柱を地面に挿して、張り綱で隣の天幕の柱とつないである。風で倒れないように、互いに引っ張り合わせているのだ。
「あいつの足と、横の柱。一緒に縛れるか」
「縛っても、あの女ならすぐ解くわよ」
「解かせりゃいい」
ミレナは、一瞬だけ怪訝な顔をして、それから手を伸ばした。
「ノクス・リガ・セル」
女の足元の影から、黒い紐のようなものが伸び上がった。女の足首に絡みつき、同時に、すぐ横の天幕の柱にも巻きついた。
女は、驚かなかった。
杖を足元へ向ける。水が、黒い紐に沿って這い上がった。紐が、水の中でほどけかける。女は、絡みついた足を、力を込めて引き抜いた。
足と一緒に、紐に縛られた柱が引っ張られた。
柱が傾いた。張り綱でつながった隣の柱が、さらにその隣の柱が、引きずられるように倒れ込んでくる。布の天幕が、連なって崩れた。
女の上に、何枚もの天幕が重なって落ちた。
布の下で、水の音がした。天幕の一枚が内側から裂ける。だが、その上にまた別の布が覆いかぶさっていた。
すぐに出てくる。
だが、すぐ、の間に、二人はもう通りの角を曲がっていた。
*
「へえ、やるじゃねえの」
背後から、鎧の男の声がした。
振り返ると、男は通りの真ん中で足を止めていた。崩れた天幕と、その向こうの足場の残骸を、ちらりと見た。
「だが、逃がさねえ!」
男の体が、ひと回り膨らんだように見えた。
踏み込んだ足の下で、石畳が割れた。重い鎧ごと、男の体が浮いた。地面を蹴った勢いのまま、低い放物線を描いて、一気に間合いを詰めてくる。
速い。だが、跳んでいる。
足が、地面についていない。
カナメは、走るのをやめた。
振り返りざま、身を低く沈めた。落ちてくる男の真下へ、自分から潜り込む。男の腰の下に、自分の背中を差し入れた。
持ち上げるのではない。
男はもう、前へ、上へ飛んでいる。その勢いの、ほんの少しだけ下から押してやる。膝を伸ばし、背中を丸めて、男の腰を跳ね上げた。
男の体が、くるりと回った。
前へ飛ぶはずだった勢いが、上へ逸れた。鎧の重さが、男自身を振り回す。男は空中で半回転して、カナメの頭上を越え、背中から通りの脇の樽の山に突っ込んだ。
樽が崩れる音が、通りに響いた。
カナメも、無事ではなかった。
男の鎧の縁が、背中から肩にかけてを削っていった。服が裂けて、肌が熱い。膝が、がくりと抜けかけた。
二度目は、ない。
あいつが自分から跳んでくれたから、できただけだ。
「今のうちだ!」
カナメは、ミレナの背中を押して走り出した。
背後で、樽の転がる音がした。男が、もう起き上がっていた。
足音は、追ってこなかった。
代わりに、風を切る音がした。
カナメの目の前、走ろうとした先の石畳に、戦鎚が叩きつけられた。石が砕けて、破片が跳ねた。カナメは、足を止めて横へ跳ぶしかなかった。
ほんの一呼吸。
その一呼吸の間に、軽い足音が、背後から迫ってきた。
「なんだ、今の身体捌き……ちくしょう、あと頼む!」
鎧の男の声。
答える代わりに、剣士の足音が、さらに速くなった。
カナメは、横目でミレナを見た。
ミレナは、何も言わずに頷いた。
次の角で、ミレナの闇が、ふっと濃くなった。路地の暗がりへ溶け込むように、ミレナの姿が流れていった。
カナメは、一人で走った。
*
路地は、狭かった。
走る。走る。
脚が重い。右手の傷から、指先へ、血が伝って落ちていく。肩の擦り傷が、服に擦れるたびに痛む。息を吸っても、胸の奥まで空気が届かない。
剣士の足音が、近づいてくる。
カナメは、路地の脇に立てかけてあった板を蹴り倒した。剣士は、跳び越えた。
積んであった木箱を、肩で崩した。剣士は、崩れる前に脇をすり抜けた。
駄目だ。
この男は、物を倒せば止まる相手ではない。
路地が、少し広くなった。壁と壁の間の、小さな空き地。カナメは、そこで振り返った。
剣士は、三歩の距離で止まっていた。
息ひとつ乱していなかった。剣を下段に構えて、カナメの脚を見ていた。逃げる方向を、読んでいる目だった。
「手足で済ませてやる」
剣士が、初めて口を開いた。
「動くな」
「動くなって言われて、動かねえやつがいるかよ」
剣士が踏み込んだ。
刃が来る。避ける。もう一度来る。避ける。三度目で、背中が壁に当たった。
もう、横へ跳ぶだけの脚がない。
剣士の目が、ほんの一瞬だけ、カナメの肩越しに動いた。
路地の奥。カナメの後ろ。それから、空き地の左右。
何かを探している目だった。
一人足りないことに、気づいたのだ。
だが、剣士の切っ先は、カナメの喉元から離れなかった。目の前の獲物から、意識を外さない。
剣を握る手に、力がこもった。
横から、声がした。
「ミラ・ネブラ・ヴェル・オルタ」
低い、囁くような声だった。四つの律が、ひとつずつ、静かに結ばれていく。最後の一つが結ばれた瞬間、空き地の空気が、ぐにゃりと歪んだ。
剣士の目が、揺れた。
剣士は、すぐに頭を振った。何かを振り払おうとするように、一歩下がる。剣を構え直す。
その切っ先は、カナメのいる場所から、半歩ずれていた。
カナメは、壁から背中を剥がした。
剣士の脇を、すり抜ける。剣士の目は、カナメを追わなかった。誰もいない壁に向かって、剣を構えていた。
空き地の端の暗がりで、ミレナが、手を差し伸べていた。
カナメは、その手を左手で掴んだ。
*
ボリスが空き地に着いたとき、ヴァーツラフは、誰もいない壁に向かって剣を振り抜いたところだった。
刃が空を切る。ヴァーツラフは、そのまま二度、三度と頭を振った。それから、ようやく剣を下ろして、膝に手をついた。
「……くそ」
低い声だった。
「どこだ。今、目の前に……」
ボリスは、空き地を見回した。
壁。路地の出口。石畳に落ちた、点々と続く血の跡。それが、空き地の端の暗がりで途切れていた。
誰もいない。
背後から、足音が二つ、近づいてきた。
ダリボルが、片足を引きずっていた。ゾフィアは、外套から水を滴らせて、裂けた天幕の切れ端を肩から払い落としていた。二人とも、怪我は大したことがなさそうだった。
「逃げられたのか」
ダリボルが言った。
樽に叩き込まれた背中が、今さらのように痛んだ。
「おいおい、マジかよ……」
ボリスは、兜を脱いで、汗に濡れた頭を掻いた。
「俺たちから逃げるのか」
暗がりを見つめた。
「なんだ、あのサキュバスたち……いや」
血の跡が途切れた先を、もう一度見た。
赤髪のほうも強かった。多彩な魔術に、豊富な魔力量。だが、それだけなら対処できた。
「あの黒髪か……」




