第14話:不穏な報告
ギルド長の執務室は、二階のいちばん奥にある。
窓が大きく、午後の光が机の上の書類の山を白く照らしていた。壁際の棚には、背表紙の揃った記録簿が隙間なく並んでいる。部屋の隅の小さな机では、秘書が黙って羽根ペンを動かしていた。
「座りたまえ」
ギルド長のグレゴルは、書類から目を上げずに言った。
クラウスは、勧められた椅子に浅く腰かけた。
しばらく、ペンの音だけが続いた。ギルド長は、一枚の書類に署名を入れ、脇へよけ、次の一枚に目を通し、それも脇へよけた。それから、ようやく顔を上げた。
「最近、君のところでは妙なことが起きているらしいな」
「はて。何のことでしょう?」
クラウスは、いつもの人のいい顔で首をかしげた。
ギルド長は、手元の紙束を一枚めくった。
「防護柵の修繕。地下水路の泥さらい。外壁の補修。倉庫の整理。……塩漬けになっていた依頼が、急に片付いているそうじゃないか」
「ええ、おかげさまで」
「ここ一か月の処理件数は、支部の記録で過去最高だ」
「いいことですね」
「件数だけ見ればな」
ギルド長は、紙の上の一行を指で叩いた。
「その大半が、一つのパーティに集中している。まだ若手のパーティだ。あの人数で、ひと月にこの数をこなせると思うかね」
「若い人は、よく働きますから」
「現場を見た者からの報告がある」
ギルド長の声は、少しも大きくならなかった。
「作業をしているのは、正式な受注者ではない。下町の少年たちだ。それを、黒髪の娘が一人で仕切っているそうだな。受注したパーティは、ほとんど顔を出していない」
クラウスは、少しだけ眉を上げた。
「ああ……現場への同行や作業の分担について、指導が足りなかったかもしれませんね」
「指導の話をしているのではない」
「補助の人員を雇うのは、規定の範囲内ですよ」
「受注者が現場にいない補助、というのは聞いたことがないな」
「効率的な任務遂行を考えているのかもしれませんね。実際、問題は起きてない。それどころか依頼者の評判もいいですよ」
「代理受注……あるいは転売行為に見えなくもないが?」
「解釈によるところでしょうね」
クラウスは微笑んだ。
ギルド長は、次の紙をめくった。
「それから、君のところには魔物が出入りしているという報告まで上がっているぞ」
「魔物、ですか」
「サキュバスだ」
秘書のペンが、一瞬止まった。すぐにまた動き出した。
「ああ、それでしたら」
クラウスは、膝の上で指を組んだ。
「エリシュカくんの使い魔ですよ。鑑定も通しました」
「知っている。登録簿は見た」
ギルド長は、紙束を机の上に置いた。
「では聞くが、その使い魔とやらが、下町の少年を十人も引き連れて歩き回り、ギルドの依頼を次々に片付け、冒険者どもと同じ卓で酒盛りをしている。……これを、君はどう説明する」
「変わったサキュバスですよね」
「サキュバスだぞ」
「ええ」
ギルド長は、しばらくクラウスを見ていた。
「冒険者のパーティに取り入る。人間の少年を従える。ギルドの職員を丸め込む。……私には、手慣れた魔物のやり口に見えるがね」
「あるいは人望があるのかもしれませんね。関係者の精神状態は定期的に確認させてます」
ギルド長は、椅子の背にもたれた。
「君の管理能力を疑いたくはないんだがな?」
「ははぁ……」
クラウスは、困ったように頭を掻いた。
「報告書の記載が足りなかったかもしれません。すみません、確認しておきます」
ギルド長は、何も言わなかった。
窓の外で、鳥が一羽、鳴いて飛んでいった。
クラウスは、相変わらず人のいい顔をしていた。叱られた部下の顔だった。申し訳なさそうで、少し情けなくて、それでいて、言ったことを何一つ取り消していなかった。
「……もういい。下がりたまえ」
「はい。失礼します」
クラウスは立ち上がり、扉のところで一度振り返った。
「あ、そうそう。でも、任務消化率は過去最高ですよ。地方支部会で表彰されるかもしれませんね」
「……ふん」
扉が閉まった。
廊下を遠ざかっていく足音が、聞こえなくなるまで、ギルド長は扉を見ていた。
「……表彰、ね。そんなもの何になる」
ギルド長は、鼻で笑った。
「慌てる必要がないとでも思っているのか。なにもわかってない」
ギルド長は、机の上の報告書を指先で揃えた。
「つついてはいけない藪をつつきおって。一体、どこから嗅ぎつけたのか……」
秘書は、黙って続きを待った。
「……どうもギルド職員が精神汚染を受けている可能性がある。ギルドから特別任務を出すぞ」
秘書が、新しい紙を一枚、机に置いた。
*
古い倉庫は、町の東の、荷揚げ場の裏手にあった。
扉を開けた途端、埃の匂いが押し寄せてきた。高い天井の梁から、細い光が何本も斜めに差し込んでいる。その光の中を、細かな塵がゆっくりと漂っていた。
中は、物で埋まっていた。
木箱が、人の背丈よりも高く積み上がっている。その間を縫うように、古い棚が何列も並び、棚の上にも下にも、麻袋や壊れた樽や、何に使うのか分からない金具が押し込まれていた。棚と木箱の山が壁のように入り組んで、入口から奥が見通せない。
「うわ……」
ペトルが、入口で立ち止まった。
「これ全部やんのかよ」
「全部じゃねえよ。いるもんといらねえもん分けて、いらねえもんを外に出す。いるもんは、奥の棚に寄せる」
カナメは、一番手前の木箱の蓋を持ち上げて、中を覗いた。錆びた蝶番が、ぎい、と鳴った。
「よし。お前ら三人、奥の部屋から頼むわ。あっちのほうが重いのが多いだろ。俺はこっちで小物分けとく。出すやつは扉の横にまとめといてくれ。そしたら最後に荷車一回で済む」
「へいへい」
「重いのは無理すんなよ。二人で持て」
「お前に言われたくねえよ」
大柄な少年が笑って、ペトルたちを連れて、木箱の間の通路へ入っていった。三人の足音と話し声が、棚の向こうに遠ざかり、やがて奥の仕切り扉の閉まる音がした。
入口側に、カナメと、ミレナが残った。
ミレナは、比較的きれいな木箱の上に腰かけて、葡萄色のドレスの裾を払っていた。
「……手伝う気は」
「ないわよ。埃っぽいもの」
「だろうな」
カナメは、麻袋を一つ引きずり出して、口を開けた。古い布切れが詰まっていた。いらない。扉の横へ放る。
次の木箱。割れた陶器の皿。いらない。
次。縄の束。まだ使える。奥の棚行き。
次。何かの部品。分からない。とりあえず脇へ。
ミレナは、しばらく黙って、それを眺めていた。
「ねえ、あんた、これ、毎日やってるの?」
「毎日じゃない。依頼があるときだけ。昨日は水路だった」
「……そう」
ミレナは、膝の上で頬杖をついた。
「で、この一か月、ずっとこれ? 吸精は」
「してない」
「魔物は? 冒険者の真似事して、魔物も倒してるんでしょう?」
「たまにな。角の生えた兎とか、水路のでかい鼠とか。あと山賊」
「山賊は人間でしょ」
ミレナは、額を押さえた。
「……あのね、カナメ。マナが強さの源泉なのよ?」
カナメは、持ち上げかけた木箱を、いったん下ろした。
「それはルカたちにも聞いた。倒した相手のマナが、周りのやつに流れてくるんだろ。で、サキュバスはそれじゃあんまり伸びないらしいって、ラデクが言ってた」
ミレナは、少し意外そうに瞬きをした。
「……分かってるなら、話が早いわ。そうよ。サキュバスは、それがものすごく下手なの。兎を百匹倒したって、ほとんど何も変わらない。その代わり、男から吸えば何倍も効く。そういうふうにできてるのよ、私たちは」
「だから吸えって話だろ」
カナメは、木箱の縁に手をかけ直した。
「分かってるよ。お前が意地悪で言ってるんじゃないのも。……でもなぁ。どうにも出来る気がしない」
ミレナは、何か言いかけて、やめた。
別れる前にも、同じ話をした。そのときのカナメの顔を、ミレナは覚えている。
「……知ってるわよ」
少しだけ、声が柔らかくなった。それから、すぐに眉を吊り上げた。
「でもね、冒険者の真似事をしてたって、強くならないんだから!」
カナメは、木箱を持ち上げようとして、重さに顔をしかめた。結局、床の上を押して滑らせることにした。木箱は、ずず、と埃の上に跡を残して動いた。
「なんでそんな強さにこだわんだよ」
「なんでって……」
「普通に働いて暮らせてんだから、別にいいだろ」
木箱を棚の前まで押しやって、カナメは腰を伸ばした。
「仕事はある。飯も食える。ルカたちもいるし、あいつらもいる。強くならなきゃ食えねえってんなら考えるけどさ。今はそうじゃないだろ」
「食べられるかどうかの話じゃないの。身を守れるかどうかの話よ」
カナメは、手を止めた。
「守るって、何から」
「色々よ」
ミレナは、指を折りはじめた。
「まず、冒険者」
「それは……まあそうなんだろうな」
カナメは、すぐに言った。
「冒険者に見つかったら、最初のルカたちのときみたいになるのが普通ってことだろ」
「そうね。毎回、あの子たちみたいに話の分かる相手とは限らない」
ミレナは、二本目の指を折った。
「次。町の中には、人間のふりして暮らしてる魔物もいる。そういうのは、自分の縄張りに目立つのが入ってくるのを嫌がるの」
「目立ってるか、俺」
ミレナは、黙ってカナメを見た。
「……ギルドの食堂で、毎晩十人も男を集めて騒いでるサキュバスが、目立ってないと思う?」
「……別に毎回来なくていいって言ってるんだけどな」
カナメは、頭を掻いた。
「それから」
ミレナは、三本目の指を折った。
「同族」
カナメは、棚に押し込まれていた錆びた鉄の輪を引き抜こうとして、手を止めた。
「サキュバス同士でも戦うんか?」
「戦うわよ。狩場を取り合うこともあるし、どっちが上かで揉めることもある。同じ種族だからって、仲間とは限らないの」
「狩場ってのは、縄張りみたいなもんか」
「そう。一つの通りに一人とか、それくらいが普通」
「じゃあ、知らねえうちに誰かの縄張りに入ってたら、それだけで揉めんのか」
「相手によるけどね。黙って見てるのもいれば、追い出しに来るのもいる」
カナメは、なるほどな、と小さく頷いて、鉄の輪を引っ張った。抜けない。奥で何かに引っかかっている。棚ごと少し揺すってみると、上の段に載っていた麻袋が、ずり、と傾いた。慌てて手で押さえる。
「……ちょっと。気をつけなさいよ」
「おう。悪い悪い」
麻袋を押し戻して、鉄の輪は諦めた。
ミレナは、しばらく黙っていた。
倉庫の奥のほうから、少年たちの声がかすかに聞こえた。何か重いものを下ろす音。笑い声。言葉までは聞き取れない。
「……あんた、この町に来たとき、門で何かされた?」
ミレナが、ぽつりと言った。
「いや? 普通に入れたぞ」
答えてから、カナメは少し考えた。
「……前の町じゃ、なんかあったのか」
「あったわよ。門番が道具で一人ずつ覗いてて、町の中にも見回りがいて、聖堂があって。サキュバスがいるって分かってる町なら、どこだってあれくらいはする」
ミレナは、自分の膝の上で、指を組んだ。
「なのに、ここは何もない。そのくせ、町の人は、私みたいなのを見ると目を逸らすの。知ってるみたいに」
「……ああ」
カナメは、木箱の蓋に手を置いたまま、目を細めた。
「仕事探してたとき、顔見ただけで首振るやつ、結構いたな。あれ、そういうことか」
「たぶんね。それに、多いのよ。同族が」
「多い?」
「多すぎる」
ミレナは、梁の間から差し込む光を見上げた。
「あれだけいて、揉めてる様子もない。町は普通に回ってる。……普通は、そうはならないの。誰かが、上で押さえてでもいない限り」
「上って……親玉みたいなのがいるってことか」
ミレナは、すぐには答えなかった。
笑っていなかった。
「……この町にもいるわよ、たぶん。とびきり強力なのが」
カナメは、少し黙った。
「へえ。そりゃ怖えな」
軽い言い方だったが、手は止まっていた。
「どんなやつなんだ、それ」
「分からない。会ったこともないし、会いたくもない」
ミレナは、首を振った。
「ただ、あれだけの数を黙らせてるなら、あんたが今まで見たどの魔物よりも厄介よ」
「オークよりもか」
「比べものにならないわ」
カナメは、木箱の蓋を閉めた。
「じゃあ、こっちから首突っ込まなきゃいいだろ」
「……あのね」
「いや、真面目な話な」
カナメは、次の麻袋を引きずり出しながら言った。
「向こうに用がなきゃ、わざわざ俺みてえなのに構わねえだろ。俺は柵直して、泥さらって、倉庫片付けてるだけだ。喧嘩売る気もねえ」
「それで済めばいいけどね」
「済まなかったら、そんとき考える」
カナメは、麻袋の口の紐をほどいた。
「お前の言うことも分かるよ。けど、今から強くなれっつっても、吸えねえんだからどうしようもねえ。できることやるしかねえだろ」
ミレナは、大きなため息をついた。木箱の上で足を組み替えて、それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……ほんと、変な妹」
「心配してくれてんのは、分かってるって」
「分かってるなら、吸いなさいよ」
「…………無理かなぁ」
麻袋の口を開けた。中身は、乾いた豆だった。いつのものか分からない。いらない。
扉の横の山へ放ろうとして、カナメは顔を上げた。
入口のほうで、音がした。
蝶番の軋む音。扉が開く音だった。
「お、早いな。もう終わったのか?」
カナメは、少年たちが外から回ってきたのかと思って、木箱の陰から首を伸ばした。
ミレナが、木箱の上で、ゆっくりと身を起こした。
入口に立っていたのは、少年たちではなかった。
四人。
逆光で、最初は輪郭しか見えなかった。目が慣れるにつれて、その姿が浮かび上がった。
先頭の男は、大きかった。肩から胸にかけて、鈍く光る鉄の鎧。左腕に丸い盾、右手に短めの戦鎚を下げている。重い装備のはずなのに、立ち姿に揺れがない。
その斜め後ろに、細身の男。腰に反りのある剣を佩き、柄に手を添えている。抜いてはいない。抜く必要がないうちは抜かない、という手つきだった。
さらに後ろ、扉の脇の積み荷の陰に、弓を持った男が半身を隠している。矢はまだ番えていない。目だけが、倉庫の中を、棚から梁へ、梁から木箱の山へと順に撫でていた。
最後に、女。青みがかった外套を羽織り、杖を持っている。杖の先が、ごくわずかに、湿った光を帯びていた。
四人とも、口を開かなかった。
誰も笑わず、誰も急がない。入口を塞ぐように、それぞれが自分の位置に、ごく自然に立っている。ルカたちとは、立ち方が違った。
カナメは、手に持っていた豆の袋を、そっと床に下ろした。
「ほら、言わんこっちゃない」
ミレナが木箱から降りる。
弓の男の目が、カナメで止まった。それから、ミレナへ移った。
鎧の男が、一歩、前に出た。鉄の靴底が、埃の積もった床を踏んだ。
「見つけたぞ。サキュバスだ」




