第13話:いつの間にか
あの日のことは、ルカもよく覚えている。
昼過ぎの食堂で、ルカたちが遅い昼食をとっていたところへ、カナメがやってきた。後ろに、柄の悪い少年を六人も引き連れていた。
「頼む! こいつらの仕事、受けてくれ!」
卓に両手をついて、そう言った。
少年といっても、カナメとそう変わらない年頃だった。眉に古傷のある目つきの悪いやつが真ん中にいて、残りは大きいのや小さいのがばらばらに並んでいる。全員、どこかしら泥で汚れていた。その真ん中に、腰まである黒髪をひとつに括った少女が立っている。
妙な集団だった。
事情はすぐに分かった。直後にクラウスが顔を出して、「ルカくん、ちょっといいかな」と申し訳なさそうに言ったからだ。ギルドに溜まっている安い依頼を、ルカたちのパーティが受ける。少年たちは、その作業の補助として雇う。責任はルカたちが持つ。代わりに実績もルカたちにつく。
「どうせすぐ投げ出すんじゃない」
エリシュカは、最初から乗り気ではなかった。
「ああいう子たち、三日もたないよ。絶対」
「まあ、部長の頼みだしな」
ルカも、正直なところ、不安がないわけではなかった。
*
最初の仕事は、町の外壁沿いの防護柵の修理だった。
腐って傾いた杭が、壁に沿って延々と並んでいる。ところどころ、柵そのものが倒れて、草に埋もれていた。何か月も放っておかれた仕事だった。地味で、面倒で、報酬が安い。誰も受けたがらないのも分かる。
一応、柵には魔術的な防御効果もあるのだが……まあ普通に物理的な壁もあるし、あればよりよい、という感じだろう。
「こんな仕事、聞いてねえぞ」
「面倒くせえ」
「これでいくらになるんだよ」
現場に着くなり、少年たちは口々に文句を言いはじめた。
まあ、こんなもんだろう、とルカは思った。
「ほらね」
エリシュカが、ルカの横で小声で言った。
カナメは、文句を聞いていないようだった。
倒れた柵の端から端までを一度歩いて、腐った杭を足で蹴って確かめ、それから、積んであった新しい杭の山を見た。
「先に古いの全部抜いちまおう。で、新しいのは、打つ順番に並べて置いとけ。そしたら往復しなくて済む」
誰に言うともなくそう言って、自分で一本目の杭を抜きにかかった。
杭は抜けなかった。
カナメは足を踏ん張って、両手で杭を抱えて、引いた。顔が赤くなる。杭は、少し傾いただけだった。
大柄な少年が、ため息をついて前に出た。
「貸せよ。お前じゃ無理だろ」
「おう、助かる」
カナメは、あっさり杭を譲った。それから、抜いた跡の穴を広げにかかった。
大柄な少年が杭を抜く。
「お、さすがさすが。ありがとう」
言いながら、カナメが穴を整える。
小柄な少年――ペトルが、二人の間で何をすればいいのか分からずにうろうろしていると、カナメが「そこの新しいやつ、こっちに持ってきてくれ」と顎で示した。ペトルは文句を言いながら杭を運んだ。
一人が動けば、隣も手持ち無沙汰になる。
気がつくと、少年たちは全員、何かしら手を動かしていた。誰かが号令をかけたわけではなかった。カナメが普通に働いているので、いつまでも突っ立っているほうが居心地が悪くなったらしい。
ルカは、少しだけ意外に思った。
段取りがいい。杭を抜く者、穴を整える者、運ぶ者、打ち込む者。いつの間にか、それぞれの持ち場ができている。抜いた杭は一か所にまとめられ、新しい杭は打つ順に並べられていた。
「……あいつ、こういうの慣れてんのか」
「知らない」
エリシュカは、腕を組んだまま答えた。
*
昼を過ぎたころ、草むらががさりと揺れた。
額に角の生えた兎が、三匹。町の周りの草地によく出る、小さな魔物だ。一匹なら、大人の男が棒を持っていれば追い払える。
ルカは剣の柄に手をかけた。
その前に、マレクが動いていた。
手に持っていた杭を振り上げ、飛びかかってきた一匹の頭に、横から叩きつける。兎は地面に落ちて、動かなくなった。
残りの二匹は、カナメが一匹の鼻面を蹴り上げ、ルカがもう一匹を斬った。
マレクは、杭を肩に担ぎ直して、ふん、と鼻を鳴らした。
「こんなもん、路地のでかい鼠と変わんねえよ」
こいつ、案外やるな、とルカは思った。
*
日が傾くころ、柵は端から端まで、まっすぐ立っていた。
城門の前まで戻ってくると、見張りの兵士が、泥だらけの少年たちを見て目を丸くした。
「お、お疲れさん!」
少しだけ、声が裏返っていた。普段、路地裏でたむろしている顔ぶれを、知らないわけではないのだろう。
ギルドに戻って完了の報告を済ませ、ルカは報酬を分けた。
大した額ではない。ひとり分なら、食堂で一食と、少しのおまけが買える程度だ。
それを手渡していくと、少年たちが妙に静かになった。
ペトルは、掌の上の小銭を、何度も数え直していた。大柄な少年は、受け取った金をしばらく握ったまま、じっと見ていた。マレクは、何も言わずに硬貨を懐にしまい、それから一度だけ、懐の上から手で押さえた。
ルカは、その反応を少し不思議に思った。
確かめるようなその手つきが、何を確かめているのか、ルカにはよく分からなかった。
「よっしゃ!」
カナメが、両手を突き上げた。
「じゃ、祝杯といくか!! 今日は奢ってやるよ!」
「マジかよ!」
「お前、金あんのか!」
「あるよ! ルカたちと任務やってるからな!」
少年たちが、わっと沸いた。
そのままカナメは、全員を食堂へ引っ張っていった。ヘルガが「また増えたね」と呆れ、ニカが「いらっしゃーい!」と嬉しそうに耳を立てた。卓をいくつも寄せて、肉と芋と果汁が次々に運ばれてくる。誰かが杯をひっくり返し、誰かが笑い、誰かが芋を取り合った。
ルカたちも、気がつけば同じ卓に座らされていた。
「……三日もつんじゃないか?」
ルカが言うと、エリシュカは串焼きをくわえたまま、ぷいと横を向いた。
「一日目だもん。まだ分かんない」
*
二つ目の仕事は、地下水路の泥さらいだった。三つ目は、外壁のひびの補修。ルカたちはどちらにも同行したが、出てきたのは水路に棲みついた大きな鼠くらいで、それもカナメとマレクで片付いてしまった。
少年たちは、相変わらず文句を言った。言いながら、最後まで働いた。
四つ目の仕事の前の日、カナメが言った。
「もう俺たちだけで大丈夫だろ。ルカたちは自分らの仕事してこいよ!」
「いや、受けてんのは俺たちなんだけど」
「分かってるって。でも暇だろ? 何かあったら言うから。な?」
半ば強引に、追い出された。
制度の上では、依頼を受けているのはルカたちのパーティだ。カナメたちだけで仕事を進めるのは、正直、褒められたやり方ではない。だが、仕事はきちんと片付いて戻ってくる。苦情も来ない。怪我人も出ない。
ルカたちは、自分たちの依頼に戻った。
エリシュカだけは、登録の上ではカナメの管理者だから、と言って、時々現場の様子を見に行っていた。
三度目に見に行った日、帰ってきたエリシュカは、ひどく複雑な顔をしていた。
「どうした」
「……姉御って呼ばれた」
「は?」
「水路で! あの子たちに! 『姉御、お疲れっす!』って!」
エリシュカは、頭を抱えた。
「なによ、姉御って。まるで不良みたい……!」
それでも、次の日にはまた、傷薬の小瓶を鞄に入れて出かけていった。
依頼が一つ片付くたびに、食堂で祝杯が上がった。ギルドの冒険者たちが、「またあいつらか」と笑いながら眺めていくようになった。祝杯の卓は、いつの間にか一つ増え、二つ増えていた。少年たちの顔ぶれが、気づけば最初の六人より多くなっている。
「カナメさん!」
ヴェラの声が、食堂に響くのも、毎度のことになった。
「また勝手に依頼を進めましたね! 受注者はルカさんたちなんですよ!」
「おう、ちゃんと終わったぞ」
「終わったかどうかの話をしてるんじゃありません! しかも食堂で、こんなに堂々と騒がないでください!」
「ヴェラさんも食ってくか?」
「食べません!」
ヴェラが去っていくと、少年たちが一斉に「おっかねえ……」と首をすくめた。カナメは気にした様子もなく、芋を頬張っていた。
今やっていることは全く褒められたことではない。ないのだが。
隠す気が、まるでない。悪いことをしているつもりも、たぶんない。
そして、溜まっていた依頼は、確実に減っていった。
ある晩、ルカはギルドの掲示板の横で、自分たちのパーティの記録を見せてもらった。
しばらく、何も言えなかった。
「……ラデク」
「ああ」
「俺たち、先月だけで、十五件超えてる」
「うち十件は、俺たちは行ってない」
ラデクが、涼しい顔で言った。
「俺たちの任務達成数としては過去最高だな」
ルカは、記録の紙を見下ろしたまま、深々とため息をついた。
*
ミレナがカナメと別行動をして、そろそろひと月ほど経つ。
カナメと別れて、街道を左へ。三日歩いた先の町は、悪くなかった。人が多くて、酒場が多くて、男も多い。
ただ、門が厳しかった。
門番が、単眼鏡のようなものを目に当てて、入ってくる者を一人ずつ覗いていた。ミレナは門を避けて、夜のうちに川沿いから入った。
何度か、いい相手に巡り合えた。吸精もできた。
けれど、町の中にも同じような道具を持った巡回がいた。広場には聖堂があって、夜通し灯りがついていた。どこへ行っても、誰かに見られている気がした。
長くいる場所じゃない。
そう判断して、町を出た。別の狩場を探すつもりだった。その前に、約束のひと月も近い。
あの子の様子を、見に行こうかな、と思った。
*
カナメが訪れたはずの街の名はベルノルフ。その門は、拍子抜けするほど何もなかった。
門番は二人いたが、荷車の荷を形ばかり覗くだけで、ミレナには目もくれなかった。単眼鏡も、札も、呪文も、何もない。立ち止まることすらなく、ミレナは門をくぐってしまった。
……こんなものなの?
この前の町とは、まるで違う。
大通りを歩いた。
人が多い。賑やかだ。屋台が並び、呼び込みの声が飛び交っている。どこにでもある、ごく普通の町に見えた。
けれど、しばらく歩くうちに、ミレナは気づいた。
避けられている。
露骨にではない。すれ違う人の何人かが、ほんの少しだけ道を空ける。目が合いそうになると、すっと逸らす。荷車を引いていた男が、ミレナを見て、わざわざ通りの反対側へ渡っていった。
ただの美人を見る目ではなかった。
あれは、知っている目だ。こういう顔をした女に、近づくとろくなことがない、と知っている目。
ミレナは、首の後ろがちりちりするのを感じた。
町の人間は、警戒している。なのに、門には何もない。
どういうこと。
それから、もうひとつ。
大通りを抜けて、細い路地をいくつか過ぎるうちに、ミレナは何度も足を止めた。
いる。
同族の気配だった。右手の宿屋の二階。路地の向こうの、灯りの落ちた屋敷。通りを行く、日傘を差した女の後ろ姿。ひとつ、ふたつ……もっと。
多い。
ひとつの町に、サキュバスが二人や三人いるのは、珍しいことではない。だが、これは多すぎる。こんなに同族がいて、狩場の取り合いにもならず、町が普通に回っている。人間たちは警戒しているのに、誰も狩りに来ない。
ミレナは、日の傾きかけた空を見上げた。
何かがおかしい。
何がおかしいのかは、分からない。
分からないまま、ミレナは日傘の女とは反対の方角へ、足早に歩き出した。
*
同族の気配を避けて行き着いた先は貧民街だった。
たぶんだけど、カナメはあんなに同族の多い場所にいない気がしたのだ。いたら確実に問題を起こしている。
夜になって、酒場に入った。
カウンターの端に腰かけ、葡萄酒を一杯頼んでから、店主に聞いた。
「人を探してるの。黒い髪の、これくらいの女の子。言葉遣いが、ちょっと乱暴な」
「ああ、あの子か」
店主が、あっさり言った。
ミレナは、杯を持つ手を止めた。まさかこんなに早く見つかるとは思わなかった。
「カナメちゃんだろ? 最近よく見るよ」
「うちの裏の柵、直してもらったんだよ」
隣で飲んでいた男が、話に入ってきた。
「あの子と、下の若いのが何人かでな。助かってるんだよね、ああいうの」
「冒険者ギルドにいるんじゃないか? 夜はだいたい、あそこの食堂で騒いでるよ」
「……冒険者ギルド?」
ミレナは、思わず聞き返した。
冒険者ギルド。
サキュバスを狩る側の、本拠地。
ミレナは葡萄酒を一息で飲み干し、銅貨を置いて、酒場を出た。
*
ギルドの扉を、恐る恐る押した。さすがのミレナも冒険者ギルドには入ったことがない。
中は、騒がしかった。
奥の休憩所のあたりを、若い男たちがぎっしりと占拠していた。十人近くいる。長椅子に座り、床に座り、壁にもたれて、何やらわいわい喋っている。どれも、身なりのいい冒険者には見えなかった。
その真ん中に、見覚えのある黒髪があった。
「ここに集まらないでください! ほかの冒険者の邪魔になります!」
職員らしい女性が、腰に手を当てて怒っていた。
「ほかに行く場所ないんですよ」
「明日には出てきます!」
「明日って、明日もここに来るってことでしょう!」
若い男たちは、まるで意に介していないようだ。
真ん中の黒髪が、ふと顔を上げた。
目が合った。
「おー、ミレナ! 久しぶり!」
カナメが、長椅子の上から片手をぶんぶん振った。
十人近い若い男たちが、一斉にこちらを向いた。
ミレナは、扉の前で立ち尽くした。
*
食堂の隅の卓で、カナメは三皿目の芋を平らげていた。
「で、最初は全然仕事見つかんなくてさ。食堂の女将さんとか部長とかに頼んで、ようやく。今はあいつらと、町の外の柵とか水路とかやってる」
「……そう」
「ルカたちとも、たまに一緒に行くぞ。山賊捕まえたりとか」
「……ルカって、あの冒険者のことだっけ? 私たちを狩りに来た」
「おう。いいやつだぞ」
ミレナは、こめかみを押さえた。
「……あなた、ここ冒険者ギルドよ? 分かってる? サキュバスだって知られたら」
「知ってるぞ。ギルドの偉い人とか、ルカたちは」
「知ってるの!?」
「おう。使い魔ってことになってる」
「使い魔!?」
ミレナの声が裏返った。隣の卓の冒険者が、ちらりとこちらを見た。ミレナは慌てて声を潜めた。
「……誰の」
「エリシュカの」
「誰よ、それ」
「あの、光の槍撃ってきたやつ」
ミレナは、卓に肘をついて、両手で顔を覆った。
しばらく、そのまま動かなかった。
それから、指の隙間から、恐る恐るカナメを見た。
「……で」
「ん?」
「肝心のほうは、どうなの。狩場は見つかった? 吸精は」
「してねえよ」
「なに!?」
ミレナは、卓に両手をついて身を乗り出した。
「まだ吸ってないの!!??」
「だからできねぇって言ってるじゃんよ」
「どういうこと!? あれだけ男を囲ってるのに!? あれから一か月よ!?」
「あいつらはそんなんじゃねぇよ。友達だ」
「と……ともだち……。一か月、何食べてたのよ」
「芋」
カナメは、皿の上の最後の芋をつまみ上げてみせた。
「あと肉。パン。スープ。ここの飯、うまいんだよ」
ミレナは、何か言おうとして、口を開けて、閉じた。
それから、ゆっくりと、卓の上に崩れ落ちた。
額が、皿の横に、ごつんと当たった。
「……ミレナ? おい、大丈夫か」
「……大丈夫じゃない」
卓に突っ伏したまま、ミレナは呻いた。
町もなにかおかしい。けれど、それよりもずっと分かりやすく、目の前の妹がおかしい。
「ほら、芋食うか? 元気出るぞ」
「いらない……」
*
洗い場の朝は、今日も湯気でいっぱいだった。
ヤナが鍋を擦っていると、路地の入口から、聞き慣れた声がした。
「おう、ヤナ」
マレクだった。肩に、空の麻袋を担いでいる。これから仕事に行くのだろう。
「あとでカナメが遊びに来るってさ」
「ほんと?」
「また来んのかよ。暇人か」
水桶の横で、イヴァンが口を挟んだ。
マレクが、イヴァンの頭のてっぺんに、ぽすっと手刀を落とした。
「いてっ」
「口の利き方」
「マレクに言われたくねえよ!」
「うるせえ。じゃあな」
マレクは、片手を上げて行ってしまった。
ヤナは、その背中を見送った。
少し前まで、マレクたちは怖い人たちだった。路地の角でたむろしていて、目が合うと何か言われそうで、ヤナはいつも遠回りをしていた。
今は、朝になると、麻袋を担いで仕事に出ていく。
路地の角でたむろしている人は、前より少なくなった。洗い場のおかみさんも、「あの黒髪の子、よく働くねえ」と、この前褒めていた。前はヤナに、ほとんど口を利いてくれなかった人だ。
ヤナは、鍋を擦る手に少しだけ力を込めた。
嬉しかった。
*
昼前に、カナメが来た。
今日は、ひとりではなかった。隣に、見たことのない女の人がいた。
ヤナは、思わず手を止めた。
きれいな人だった。赤みがかった髪が、肩のところでふわりと揺れている。葡萄色のドレスは、洗い場の湯気の中で、そこだけ色が違って見えた。
「よお、こいつは俺の姉ちゃんのミレナだ」
カナメが、親指で女の人を指した。
「ここでよく勉強してるんだ、このヤナってのが物知りでさぁ」
次の瞬間、女の人の手刀が、カナメの頭に落ちた。
「いてっ」
「あんたねぇ、やることやらずに遊んでばっかじゃない!」
「遊んでねえよ! 働いてるっつってんだろ!」
「働いてるのは知ってるわよ! そうじゃなくて!」
ヤナは、首をかしげた。
カナメは、いつも働いている。ギルドの仕事もしているし、マレクたちと柵も直したし、水路の掃除もした。洗い場のおかみさんだって褒めていた。
「あの……」
ヤナは、おずおずと口を開いた。
「カナメさん、すごく働いてますよ?」
女の人が、ヤナを見下ろした。
それから、なんとも言えない顔をした。
「……そういうことじゃないのよ」
「じゃあ、何をやらなきゃいけないんですか?」
「それは……」
女の人は、口ごもった。カナメのほうを、ちらりと見た。カナメは、そっぽを向いていた。
「……まあ、色々よ。色々」
「色々」
「そう。色々」
ヤナには、さっぱり分からなかった。
けれど、いつもは頼りになるカナメが、姉に頭を叩かれて口を尖らせているのは、なんだか可笑しかった。
ヤナは、くすりと笑った。
*
イヴァンは、水桶の縁に腰かけて、三人を眺めていた。
姉ちゃんが笑っている。カナメも、カナメの姉ちゃんも、何か言い合いながら笑っている。
路地の向こうから、仕事帰りらしいマレクの仲間が二人、通りがかった。
「お、カナメじゃん」
「カナメの姉ちゃん……? うわ、美人」
「あんたたち、仕事は?」
「今日の分、もう終わったっす!」
二人の腰で、小銭の入った袋がちゃりちゃりと鳴った。
イヴァンは、その音を聞いていた。
カナメには、助けてもらった。パンももらった。ちゃんと分かっている。カナメは強くて、格好よくて、みんなに好かれていて、自分だってあんなふうになれたらいいと思う。
でも。
姉ちゃんは、カナメの話ばかりする。マレクたちは、だってそうだ。前は路地で威張っていただけなのに、今は働いて、金を稼いでいる。カナメが仕事を作ったと言っていた。
自分は、まだ水を運ぶことしかできないのに。
イヴァンは、足元の小石を、つま先で蹴った。小石は水たまりに落ちて、小さく跳ねた。
自分の手を見た。
小さかった。
「……俺だって」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
「もっと仕事ができれば……」




