第16話:甘い囁き
ギルドの建物が見えてきたころには、日が傾きはじめていた。
カナメの右手には、ミレナの肩掛けを裂いた布が巻いてある。逃げ切ったあと、路地裏で一度だけ治癒をかけてもらった。傷口は塞がりかけたが、布の内側には、まだじわじわと血が滲んでいた。指は、相変わらず半分しか曲がらない。肩と背中の擦り傷は、服が擦れるたびに熱を持った。
ミレナも、口数が少なかった。顔色が戻らない。歩くたびに、時々ふらりと体が傾いた。
「ああ、いたいた。こっちこっち」
ギルドの手前で、声をかけられた。
クラウスだった。いつもの猫背で、いつもの人のよさそうな顔で、建物の角から手招きしている。ただ、その目が、一度だけ通りの左右を確かめた。
「今は中に入らない方がいいよ」
クラウスは二人を、建物の裏手の、荷車置き場の陰へ連れていった。そこでようやく足を止め、カナメの右手の布と、ミレナの青い顔を、順番に眺めた。
「向こうの動きの方が早かったみたいだね……何したの、君ら」
「いや、俺が聞きてえ……」
カナメは、荷車の縁に腰を下ろした。
「倉庫片付けてたら、いきなり四人来て、ギルドの任務だって。捕縛だとさ。俺、ちゃんと登録してんのに」
「うん。登録はしてる。それは間違いない」
クラウスは頷いた。
「でも、上から特別任務が出ちゃったんだよね。君を名指しで」
「……あの四人、ギルドが出したの?」
ミレナが言った。
「ギルド長がね。普通じゃないよ」
クラウスは、困ったように頭を掻いた。
「とにかく、虎の尾を踏んだみたいだ。もう僕の裁量も超えちゃってる」
どこで尾を踏んだのか、カナメには見当もつかなかった。柵を直して、泥をさらって、倉庫を片付けていただけだ。
ただ、クラウスが冗談で言っているのではないことは分かった。
「……どうしたらいい?」
「早いとこ逃げたら? 今ならまだ間に合うんじゃない?」
あっさりした言い方だった。
カナメは、クラウスの顔を見た。いつもと同じ顔だった。困っていて、少し情けなくて、それでいて、言ったことを取り消すつもりはない顔。
この人ができるのは、ここまでってことか。
それを責める気には、ならなかった。この人がいなければ、使い魔の登録も、マレクたちの仕事も、最初からなかった。
「……今度ばかりは、僕が怒られて済む話じゃなさそうでね」
クラウスは、小さく肩をすくめた。
「分かった」
カナメは立ち上がりかけて、止まった。
「……待てよ。じゃあ、ルカたちは?」
クラウスの眉が、わずかに動いた。
「依頼を受けてたのは、あいつらだろ。俺はエリシュカの使い魔で」
「……そうだね」
クラウスは、少しだけ間を置いた。
「受注者はルカくんたちだ。無関係ってわけには、いかないだろうね」
「あいつら、今どこにいる」
「この時間なら、宿に戻ってるんじゃないかな。川沿いの、緑の扉の宿」
カナメは、もう歩き出していた。
「ちょっと、カナメ」
ミレナが、後ろから袖を掴んだ。
「あんた、その手で」
「知らせるだけだ。あいつら、何も知らねえんだぞ」
ミレナは、何か言いかけて、ため息に変えた。
「……私も行くわよ。どうせ置いてったって、ついてく」
クラウスは、二人の背中を見送ってから、誰にも聞こえない声で言った。
「……気をつけてね」
*
時間は少し遡り、その日の昼過ぎ。
貴族街の奥にある屋敷の談話室には、柔らかな午後の光が満ちていた。
磨き上げられた卓に、白い磁器の茶器が並んでいる。焼き菓子を盛った銀の皿。窓辺には季節の花。深い色の絨毯の上に、座り心地のよさそうな椅子がいくつも置かれ、そこに、美しい女たちが思い思いに腰かけていた。
六人ほど。年の頃も、髪の色も、装いもまちまちだ。
壁際に、給仕の若い男が控えていた。女の一人が空の杯を軽く持ち上げると、男は音もなく歩み寄って茶を注ぎ、また壁際へ戻った。その目は、どこも見ていなかった。
「そういえば、また荷が止まったんですって?」
扇を手にした女が、ふと思い出したように言った。
「あら、またぁ? この前は運び手がやられたばっかりなのに」
「まあ。今度はどこぉ?」
「水路。人が出入りしてたせいで使えないんだって」
「最近、本当に困るわねえ」
栗色の髪の女が、焼き菓子をつまみながら言った。
「おかげで、頼んでた香油が届かなかったの。私あれじゃないとだめなのよ」
「まだあんなの使ってたの? もう時代遅れじゃない?」
くすくすと、笑いが起きた。笑われたほうが「もぅ!」とむくれた。
「外の柵もでしょう。城壁沿いの。あれ、何年も放ってあったのに、急にまっすぐになってるんだもの。夜に出入りしてた子たちが、ずいぶん遠回りさせられてるって」
「あら、それも?」
「どれも同じ連中らしいわよ」
窓辺で日傘を畳んでいた女が言った。
「ギルドの若い冒険者が、あちこち片づけて回ってるとか」
「まあ、空気読めない子がいたものねえ」
けらけらと笑いが起きる。
「働き者のつもりかしら? バカよねぇ」
また、笑いが広がった。扇の女が、口元を隠して肩を揺らした。
「少しおとなしくしてもらったら?」
誰が言ったのか、はっきりしなかった。いつの間にか、そういう話になっていた。
「そうねえ。確か、ルークとかいう子たちだったかしら」
「どんな子なの?」
「若い男が二人と、女の子が一人ですって。まだ駆け出しに毛が生えたくらい」
「あらまあ。ちょっと煽てられて調子乗っちゃったのかしら」
数人からニヤニヤと笑みがあふれる。
「少し、おいたが過ぎるわねぇ」
栗色の髪の女が、指先についた砂糖を舐めた。
「どこがすみか?」
「川沿いよ。緑の扉の」
「じゃあ、やっちゃおっかな」
「私も行くわ。最近、退屈してたの」
「あなたはいつも退屈してるじゃない」
「だって、あの方のお屋敷に呼ばれないと、することがないんだもの」
扇の女が、ゆっくりと扇を閉じた。
「ラドミラ様もお喜びになるんじゃない? 片づけておいたら」
「それもそうねぇ。男二人をお土産にしましょうかぁ」
「あらぁかわいそうに」
それで、決まった。
誰も立ち上がらなかった。誰も念を押さなかった。話題は、すぐに新しく仕立てた外套の色に移った。
給仕の男が、また音もなく茶を注いで回った。
*
宿の二階の部屋には、ランプが一つ灯っていた。
ルカは、寝台の端に腰かけて、剣を磨いていた。布に油を含ませ、刃の根元から切っ先へ、ゆっくりと滑らせる。毎晩の習慣だった。
部屋の奥は、衝立で仕切ってある。その向こうの寝台で、エリシュカが仰向けに寝転がって、天井を眺めていた。
「ねえ、ルカ」
「ん」
「私、そんなに偉そうに見える?」
ルカは、手を止めずに答えた。
「なんだよ、急に」
「姉御、姉御って。みんなしてさあ」
エリシュカは、衝立の上から顔だけ出した。
「今日も水路の前通ったら、知らない子にまで言われたんだけど。『姉御、ちっす』って。誰よ、あれ」
「頼りにされてんだろ」
「頼りにされるのはいいけど、姉御はないでしょ、姉御は」
エリシュカは、衝立に顎を乗せた。
「それに、カナメまで、ご主人ご主人って。絶対からかってるでしょ、あれ」
「使い魔の建前としては、間違ってないだろ」
「建前とかの話じゃないの!」
「じゃあ何の話だよ」
「なんか、こう……」
エリシュカは言葉を探して、見つからなかったらしく、口を尖らせた。
「ルカは呼ばれないからいいわよね」
「俺は、別に」
「リーダーなのに。誰からも、何とも呼ばれないの」
「……おい」
エリシュカが笑った。
ルカは、刃に目を落としたまま、口の端を少しだけ上げた。それから、布を持つ手が、さっきから同じところばかり往復していることに気づいて、慌てて切っ先のほうへ滑らせた。
扉の外で、足音がした。
鍵が回って、ラデクが入ってきた。外套の肩が、夜気で湿っていた。
「遅かったな」
「倉庫街のほうを回ってきた」
ラデクは外套を壁にかけて、扉の内側の鍵を閉めた。
「昼過ぎに、ひと騒ぎあったらしい」
「騒ぎ?」
「足場が一つ崩れた。露店の天幕が、まとめて倒れた。誰かが誰かを、町中追いかけ回してたって話だ」
「物騒だな」
「怪我人は」
エリシュカが、衝立の上から聞いた。
「町の人間には、出てないらしい」
ラデクは、椅子に腰を下ろした。
「ただ、追いかけてた側は、ギルドの人間だったって言うやつがいる」
ルカは、剣を磨く手を止めた。
「ギルドが、町中で?」
「見間違いかもしれん」
ラデクは、自分の指を組んだ。
「明日、ヴェラさんにでも聞いてみる」
「ギルドの人が追いかけるって、何を?」
「さあな」
ランプの火が、小さく揺れた。
エリシュカは、衝立から顔を引っ込めて、また天井を見上げた。
「……カナメ、今日は倉庫だって言ってなかったっけ」
「東のほうの、な」
ルカは、剣を鞘に戻しかけた。
「あいつのことだ。どうせまた、食堂で騒いでるだろ」
*
扉が、開いた。
鍵はかかっていたはずだった。扉の向こうの廊下に、宿の主人が立っていた。鍵を開けたのは、宿屋の主人だ。手には合鍵の鍵束がある。主人は、ぼんやりと宙を見たまま、一歩脇へ退いた。
女たちが、入ってきた。
四人。
扇を持った女。栗色の髪の女。日傘を畳んで手に提げた女。それから、一番後ろに、まだ少女のような顔をした女。
誰も、急いでいなかった。夜会の招待客のように、ゆっくりと部屋の中を見回した。
ラデクが、椅子を蹴って立ち上がった。
「ルカ」
名前を呼ばれる前に、ルカはもう、鞘から剣を半分抜いていた。
「サキュバス……!」
扇の女が、ふわりと笑った。
「ミラ・セレ・ヴェナ」
挨拶でもするような口調だった。身構えもしない。杖も、指先の印もない。扇を軽く揺らしながら、天気の話でもするように、その言葉を口にした。
声は、大きくなかった。
それなのに、すぐ耳元で聞こえた。
*
剣を、抜かなければならない。
ルカは、そう思っていた。目の前にいるのは、サキュバスだ。宿の主人を操って、合鍵で扉を開けさせて、部屋に踏み込んできた魔物だ。ここで剣を抜かなかったら、何のために冒険者をやっている。
手が、止まっていた。
剣の柄を握っている。刃は半分、鞘から出ている。あとは引き抜くだけだ。
なのに。
「そんな怖い顔をしないで」
囁きが、耳の奥に落ちてきた。
夜、誰かと二人きりで話しているときの声だった。灯りを落とした部屋で、寝台の向こうから、眠る前に交わすような声。責めるでもなく、急かすでもなく、ただ、ここにいていいのだと言ってくれる声。
「疲れているんでしょう。いいのよ、もう」
女が、一歩近づいた。
剣を向けるべきだ。分かっている。分かっているのに、その女に刃を向けるということが、急にひどく不自然なことに思えた。何も悪いことをしていない相手に、いきなり斬りかかるような。礼儀を知らない子供のような。
違う。
こいつは、敵だ。
ルカは歯を食いしばった。剣を、抜けない。抜く気持ちが、指の先から抜けていく。
だったら。
ルカは、半分抜いた刃を、自分の太腿に押し当てた。
引いた。
熱い痛みが、脚を走った。ズボンの布が裂けて、血が滲んだ。
頭の中の靄が、一瞬だけ晴れた。
女の顔が、はっきり見えた。笑っている。優しげな顔の奥で、目だけが、虫の羽をむしる子供のように、こちらを眺めていた。
これだ。こいつだ。
剣を――
「痛かったでしょう」
囁きが、また耳元に戻ってきた。
「かわいそうに。そんなことしなくていいのよ」
痛みは、まだあった。太腿は、焼けるように熱かった。
それなのに、剣を握る理由のほうが、また遠くなっていった。
*
「ミラ・セレ・ヴェナ」
すぅっと、その言葉が耳の奥に届いた。思考が鈍るのを感じた。
ラデクは、自分に何が起きているのかを、正確に理解していた。
精神干渉だ。
理解していた。
理解していることと、抗えることは、まるで別のことだった。
栗色の髪の女が、すぐ隣に立っていた。
いつ、ここまで近づかれたのか。距離を取るべきだった。半歩下がって、腰の投げナイフに手をかけるべきだった。ラデクの頭は、その手順を正確に組み立てていた。
体が、それを選ばなかった。
女の指が、ラデクの腕に触れた。袖の上から、肘のあたりを、そっと撫でた。
「……あなた、賢そうね」
囁きが、耳元で聞こえた。
「全部分かっているのね。分かっていて、疲れちゃったのね」
振り払え。
ラデクは、自分にそう命じた。振り払うための筋肉の動かし方も、分かっていた。
腕は、動かなかった。動かしたくない、と思っている自分がいた。
その「思っている」ということが、何より恐ろしかった。
ラデクは、下唇を強く噛んだ。
鉄の味が、口の中に広がった。
痛い。痛みは、自分のものだ。この痛みだけは、まだ自分のものだ。
だが、次が続かなかった。
離れなければならない。ここにいてはいけない。そこまで分かっているのに、足が、女から離れる一歩を選ばない。女の手が、腕から肩へ、ゆっくりと上ってくる。
拒まなければ、と思う。
拒む、という選択肢が、どこか遠くの棚の上に置かれていて、手が届かない。
*
甘い囁きは、エリシュカには向いていなかった。
女たちの目は、ルカとラデクに向いていた。お喋りのような詠唱も、すべて二人に注がれていた。エリシュカの頭は、冷たいままだった。
だから、見えた。
ルカが、自分の脚を斬った。それでも、剣を抜かなかった。
ラデクが、唇から血を流している。それでも、女の手を払わなかった。
あのラデクが。
「……っ」
防護だ。
光の防護をかければ、二人の心を守れる。前にも、やったことがある。サキュバスの魅了を防いだことがある。
エリシュカは、寝台から跳ね起きて、杖を掴んだ。
「ルクス・メンテ――」
言葉は出た。
でも、イデアが結べない。
光で、心を、真実のままに守る。その形を思い描かなければならない。ルカの心と、ラデクの心と、それを包む光の形を。
いつもなら、目を閉じれば浮かぶ。何度も練習した。考えなくても、手が覚えている。
目の前で、ルカの太腿から血が流れている。ラデクの肩に、女の指が這っている。
早く。
早くしないと。
焦れば焦るほど、思い描きかけた光の形が、ばらばらに崩れた。
ルカが。ラデクが。私が。私がやらなきゃ。
「――ヴェラ、ク……」
そのとき、一番後ろにいた若い女が、こちらを見た。
初めて、エリシュカと目が合った。
女は、小さく首をかしげて微笑んだ。
「ミラ・ネブラ・ヴェル」
友達に話しかけるような声だった。
部屋の輪郭が、少し、ぼやけた。
ランプの光が滲む。壁が、遠くなる。さっきまで手を伸ばせば届いた衝立が、廊下の端ほども離れて見えた。
「――ェリシュカ!」
誰かの声がした。
ルカの声だった、と思う。でも、水の中から聞こえるように、くぐもって、遠かった。どっちから聞こえたのか、分からなかった。
顔を上げた。
ルカがいたはずの寝台の端に、誰もいなかった。
違う。いるはずだ。さっきまで、そこで剣を磨いていた。
目を凝らした。白いものが、視界の端から滲んできた。霧だ。部屋の中に、霧が出るはずがない。それなのに、白い霧が、床から、壁から、ゆっくりと湧き上がってくる。
杖を握りしめた。
防護を。防護をかけないと。
何に?
誰に、かけるんだっけ。
光の形を、思い描こうとした。何を守る光だったか、思い出せなかった。言葉は、喉の奥に残っている。ルクス。メンテ。知っている。分かっている。なのに、それが何に向かうための言葉だったのかが、霧の中に溶けていく。
自分がどこにいて、何をしようとしていたのかが、分からない。
「ルカ……?」
自分の声さえ、遠かった。
白い霧の向こうで、誰かが、くすりと笑った。
*
宿の裏手は、狭い中庭になっていた。
二階の窓の一つに、灯りがついている。窓の下には、物置の低い屋根が張り出していた。
カナメは、中庭の暗がりで、その窓を見上げた。
表から入ろうとして、帳場に誰もいないことに気づいた。宿の主人の姿がない。階段の上から、物音一つしない。夜の宿にしては、静かすぎた。
ミレナが、隣で目を細めた。
「……いる」
低い声だった。
「同族。一人じゃない」
カナメは、物置の樽を踏み台にして、屋根の縁に左手をかけた。
体を引き上げる。右手を使えない分、肘と膝で屋根を這い上がるしかなかった。布の下で、右手の傷が脈打った。肩の擦り傷が、瓦に擦れて引きつれた。
歯を食いしばって、屋根の上に体を乗せた。
窓まで、あと一歩。
窓の向こうが、見えた。
ルカが、寝台の脇に膝をついていた。剣を半分抜いたまま、太腿から血を流して、目の前の女を見上げていた。その顔に、敵を見る色がなかった。
ラデクの肩に、知らない女がしなだれかかっていた。ラデクの唇の端から、血が垂れていた。それなのに、ラデクは突っ立ったまま、女を振り払おうとしていなかった。
エリシュカは、杖を抱えて、部屋の真ん中に立ち尽くしていた。どこも見ていない目で、誰もいない壁のほうを向いていた。
部屋の中に、女が四人。
笑っていた。
「やべぇ、もう始まってる!」
カナメは、屋根を蹴った。
左肩から、窓に飛び込んだ。木の格子が折れて、硝子が砕けた。破片と一緒に部屋の床へ転がり込み、跳ね起きる。右手の布が、赤く染まっていた。
四人の女が、一斉にこちらを向いた。
カナメは、部屋の真ん中に立って、叫んだ。
「何やってんだお前ら!!」
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第一章は書ききっており、第一章完結までは毎日投稿の予定です。
第二章以降は検討中ですーよかったら、感想いただければ第二章に反映していきます!
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